2003.9.26
心臓を貫かれて
マイケル・ギルモア著
村上春樹訳
文芸春秋社
運命の殺人者ゲイリー・ギルモアとその家族 1976年、ユタ州酒とドラッグに酩酊し、二人のまったく縁もゆかりもない男を殺したゲイリー・ギルモアは自ら死刑それも銃殺を望んだ。それまでしばらく死刑が行われていなかったアメリカで、このことは国中の話題となり、10代からその40年に満たない生涯の半分を少年院と刑務所で過ごしてきた重犯罪者ギルモアはアメリカ一有名な犯罪者となった。死刑が犯罪者を罰することでなく、犯罪者を救済することになるというジレンマは、人々を憤激させた。
ゲイリーは知性も、特に絵の才能もあり、ハンサムで大胆で行動力があり、人目を集めるものを持っていた。その資質も、他者も巻き込んでどうしようもなく破滅へと突き進む彼を引き止めることが出来なかった。
彼はあるものにとってはヒーローとなり、あるいはワルのスタイリッシュな、またある人にとっては良識への挑戦のシンボルとなった。そして彼は処刑された。
これは、その死後20年近くを経て、ゲイリーの末弟によって書かれた彼を中心とした家族の…彼を生み出してしまった家族の記録である。
ともかく重い本だった。
私は速読は得意な方だと思うのだが、この本は読み飛ばしを許さない。著者の筆の運びが、時として澱むようで、読んでいる私に溜息をつかせ、ページを繰る手を止めさせる。
これを読むと、「血の宿命」などという、ホラー小説のテーマのようなものが確かに実在するのかと考えざるをえない。この家族史の記述はゲイリーの両親からに止まらず、数代前からはじまる。それは規律・抑圧・嘘・秘密に彩られた、読んでいて息苦しいほどに重いものである。美化も潤色もなくと感じられるのは、原作だけでなくやはり訳者の村上春樹氏の功績であろうか。それぞれが自己の問題を抱えたまま罵りあう両親―フランクとベッシイ夫妻―は、その子ども達から徐々に自尊心やプライドを、今風に言えば「生きる力」を剥ぎ取っていく。自分を封印しなければ生きていけないところに追い込んでゆく。ちょっとしたことで、あるいは理由もなく徹底的に打ちすえられる子どもたち。また一般的な家庭であると思われるような、戒律の厳しいモルモン教徒の家庭でさえ日常に振るわれる暴力。少年院で横行する人間性への陵辱とまた暴力。その描写には戦慄するばかりで、これもまた自分の想像力の及ばないところだと思うしかない。
その中で育った兄弟は、長兄フランクは自分の尊厳を信じることを奪い取られたようになり、次男ゲイリーはあらゆるものに攻撃し、三男ゲイレンは不可思議で自滅的な死をとげる。そして著者マイケルは音楽ライターとなり、この本を書いた。マイケルだけが父に殴られない子だった。そしておそらく家族でただ一人父に愛されていた。
たった一度、マイケルが父に叩かれた時の記述がある。
(叩いた後)父は微笑を浮かべて僕を見ていた。その微笑みは僕に向かってこう語りかけていた。俺は今自分がやったことを誇らしく思っているし、そこにある権力と効力を楽しんでいるのだ、と。僕は彼をにらみ返して、こう言った。「大嫌いだ」(195〜196ページ)
もし僕が彼らと同じくらい、とくにゲイリーと同じくらい手ひどく折檻されていたら(彼の感じた苦痛と恐怖とがいっそう残忍な鞭打ちをもたらしたわけだが)、僕だってかなりの確率で、いつか銃の引き金を引くだけのために生涯を送るように育ったんじゃないかと思う。僕の兄たちが子供時代に、あるいは思春期に、ほとんど毎週のように味わわされたもののことを思うと、彼らがまだ子供のうちに殺人を犯したりしなかったことが、不思議に思えるくらいだ。(196ページ)
マイケルは一人殴られずに育ち、そのことに罪悪感を抱いている。
早く父を失い、家族でただ一人まっとうな社会人として生きられた彼は、年月をかけてそのことを覆い隠すのでなく、徹底的に白日にさらし、そのことと向き合うことを選んだ。ゲイリーの破滅への滑降と同じく、深いところから湧き上がる激しさに突き動かされたように私には思える。
マイケルは家族としての一体感をその家族に感じることなく育ち、社会生活を送る上においてその命を救われた。しかし一方で同時に家族との一体感とは無縁に育ったことで、その魂において決して消えることのない傷を負っている。そしておそらく一生、彼の家族のゴーストから逃れることが出来ないことも感じられる。
母ベッシイ・ギルモアについては― その記述に触れるだけでもどこか皮膚が剥がされるような感覚がある。時代やその育ちといった要因を考えても同姓として嫌悪をこらえることが出来ない。不公平とも思うが、嫌悪感は父フランクより、ベッシイに強い。その結婚にしがみついたゆえに。(やっぱり不公平だと思うのだが)
そして子どもたちを、特にフランク・ジュニアをベッシイの家庭に縛り付けたゆえに。
村上春樹の訳はあとがきまで含めて素晴らしいと思う。
『ある種の精神の傷は、一定のポイントを越えてしまえば、人間にとって治癒不可能なものになる。それはもはや傷として完結するしかないのだ』ということを、僕は理解できたような気がする。頭によってではなく、皮膚によって。理論としてではなく、ひとつの深いリアルな実感として。(訳者あとがき 598ページ)
歴史的に見てアメリカそのものが、激しい暴力によって勝ち取られ、簒奪された国家であることを思えば、その呪いが今ある人々を激しく規定することも、また理の当然であるといっていいかもしれない。アメリカの建国にあたって人々が光として高くかかげた、理性と整合性への愛は、結果的に暴力によって報いられることになった。そしてもたらされるのは、圧倒的なまでの荒廃だ。(訳者あとがき 610〜611ページ)
あとがきにあるように、この本の読後には誰しもが自分自身の持っている、覆い隠してしまいたいもの、忘れてしまいたいものに対面することを(程度の差こそあれ)余儀なくされるだろう。
力を示すことによって自己の存在が確認されるといったフランクの姿に、どうしてもアメリカというものが二重写しになってしまう。
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