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万葉集から・4

額田王

1000年以上経っても話題の人

2003.5.28

 

 万葉集を語りたいなら、避けては通れないのが柿本人麻呂とこの方、額田王。ともにその歌の素晴らしさとその生涯を包む謎の霧に万葉好き、古代史好きの血を騒がせています。

 あまりにも小説だの漫画だのに登場しているがゆえに混乱することもあるので、万葉集の歌から感じることだけで行ってみたいと思います。
 史実としてわかっていることは、額田は天武天皇に召されて十市皇女を産み、素晴らしい歌を長歌・和歌あわせて12万葉集に残した。その中には天智天皇を思う歌とその死をいたむ歌があり、最後の歌は持統朝のものである。そして十市皇女は天智の皇子大友に嫁し、子を成したが壬申の乱によって夫を父に殺される事になる。

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 私は万葉集との出会いの時からドラマチックな巻二あたりより、巻五以降の歌が性にあっていたようで、額田様の歌は好きと言うより「ふ〜ん、すごいな」でした。
 額田の歌は神に呼びかける霊力を持った歌だと思います。例えば山部赤人の歌は、人、彼自身が自然の中の点景となる、自然に抱かれる詩人の魂を感じさせてくれる歌ですが、額田はあくまで人の側からその地の霊に直截語りかける言葉を歌うことの出来た、きっとその当時でもずば抜けた力をもち、周囲からもその力を認められた女性だったのでしょう。巻一の歌が土地を通るに際しての地霊への挨拶だったり、別れる土地への鎮めの歌だったり、天皇が詠んでしかるべき歌である、つまり天皇の力の代行をすることが許されたわけですから。
 天皇といったら祭事=まつりごと=政治の親玉。その発言を代行することを許されるなんてすごいひとだったんですね。名前に「王」がつくぐらいだから、皇族の血統の人でしょうか。

 しかし彼女がエキセントリックなタイプの巫女だったとは思えない。彼女のプライベートな歌はかなり当時の普通感覚だと思う。当時の通常の妻問い婚のとおりに、親の家で夫を迎えたようにも考えられず(日本書紀にも「召して」と書かれている)かなり特殊な地位にいたようでも、やはり天皇家に仕える女性としては並に扱われていたんではないでしょうか?
 彼女の歌に対し、姉とも言われ、共に天智の夫人であった鏡王女(かがみのおおきみのむすめ)が和した歌を見ても、一夫多妻制度の中で、彼女たちが持っていた関係 ‐ライバルであり またある種の連帯感を共有するものでもある(映画「冬のライオン」でキャサリン・ヘプバーンとジェーン・マロウがやってました)‐ を普通に持っていたような気がするのです。

 というわけで、かの有名な「あかねさす」の歌ですが、今の説では天武天皇の歌も含めて、遊猟の宴のみなの前で和したものといわれております。 実際、この歌から感じられるものは切迫した悲痛な恋心よりも、お互いの共有する過去の秘密の未だに消しやらぬ燻りと大人の余裕、といわれたほうが納得できます。でも消し得ぬくすぶりがあるからこその、歌の艶なんでしょうね。

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皇極天皇の御代の作
秋の野のみ草刈り葺(ふ)き、宿れりし 宇治の京(みやこ)の仮いほし思ほゆ
 (巻一)

 

斉明天皇の御代の作
熟田津に船乗りせむと 月待てば、潮も適ひぬ。 今は漕ぎ出でな
 (巻一)

 

近江の国に下った時に作った歌
あをによし 奈良の山の
山の際(ま)に い隠るまで
  道の隈 い積もるまでに、
つばらにも みつつ行かむを。
  しばしばも 見放(みさ)けむ山を。
情(こころ)なく 雲の
  隠さふべしや。
 

 反歌
三輪山を、しかも隠すか。雲だにも 心あらなも、隠さふべしや (巻一)

 

天智天皇が近江国の蒲生野に遊猟したとき作った歌
あかねさす紫野行き、標野行き、野守は見ずや。 君が袖振る  (巻一)

  大海人皇子の答えた歌 紫のにほへる妹を。憎くあらば、人妻ゆゑに 吾恋ひめやも

 

額田王、近江天皇を思(しの)ひてよめる歌 
君待つと 我が恋ひ居れば、我が屋戸の 簾(すだれ)動かし、秋の風吹く   
 (巻四)  

   鏡王女の和した歌 風をだに恋ふるは羨(とも)し。風をだに来むとし待たば、何か嘆かむ

 

 壬申の乱以降、額田の歌はぱったりと消える。彼女が歌を詠まなくなったのではなく、宮廷から消えたと考えるのが普通でしょうね。やはり彼女は近江朝廷、敗者の側の人間だったのだ。
 そして十市皇女もなくなり、しかし彼女はその後かなり長い年月を生きる。
 持統朝になってから天武天皇のゆかりの地から、天武の第六皇子・弓削皇子が彼女に送った歌と、それに和した歌が残されている。二人が懐かしんだものとは なんだったのでしょう。

吉野宮に 行幸の時、弓削皇子が大和の京にある額田王に送った歌
古(いにしえ)に恋ふる鳥かも。 ゆずるはの御井(みゐ)の上より、鳴き渡り行く  

大和の京にあって、吉野の弓削皇子に和(こた)えた歌
古に恋ふらむ鳥は 霍公鳥(ほととぎす)。 けだしや鳴きし。我が恋ふるごと  
 (巻二)

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 で、私が額田王に関して常々疑問だったこと。

1 「普通と違うお母さん」であったとの設定の小説や漫画が多いような気がしますが

 子どもと早く別れた、とか 当時にしては異常にも自分で子どもを育てた、とか。当時の通常の親子関係ではいけないのか?鎌倉時代の「問はず語り」では主人公の二条が、秘密に子を産んで「乳母もつけられないで、自分の乳を飲ませるなんて、かわいそうな子だ。私はだらしない親だ」なんちゃって嘆きますが、昔の上流階級では、親は「慈母」でなく「立派な大人」としてしっかり子ども見てるようです。これくらいの身分の人がたった一人で子育てはありえないでしょう。万葉の他の歌から見ても、お母さんは監督者として相当怖い存在みたいですね。
 たしかに歌に子持ちらしい生活感はありませんが、それは当然。大伴坂之上郎女さんだって家の祭事やって、旧家を切盛りして、サロンの女王もやって、白髪がある年齢でもきちんと恋もして、しかも子どもの身の振り方に采配ふるって、娘の相聞歌の代作(傑作)までやって、その恋歌に生活感なんてありません。
 天智、天武両者の間では娘は持ち駒としてやったりとったりされてるし(ひどい話)、持統女帝だって十代になるやならずで姉と一緒に天武の許にいたわけでしょう?十市皇女が幼いころから天智側に行って、お母さんが後見として一緒だっておかしくはないと思うけど。ましてや天武の夫人としてのライバルは山ほどいたし。それで天智様が弟に「譲っておくれ」・・・という展開でも変なことはないと思いますが・・・そういうストーリー誰か知りません?

2 なんで奔放で恋に生きた女性扱いされるのか?

 たった、という言い方をしてはなんだが、恋の遍歴って言ったって二人ですよ!
 万葉にでてくるほかの恋の手練れを見よ!(石川郎女、とか) その相手二人が超ビッグネームには違いないが、これで奔放とか言われたら たまらんですねえ。
 だいたい「召され」たんでしょう? 立場的にはおことわりは相当難しいですぞ!
 歌が上手なのがいけなかったのでしょうか?

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歌の表記については  講談社 山本健吉編 日本詩歌集  から

 

 

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