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万葉集から・2

美しい恋歌と
家刀自、厳姫(いつひめ)の実力

大伴坂上郎女

2002.2.25

 

 このサイトのタイトルをいただいている歌の詠み人、大伴坂之上郎女です。この人もまた大伴家持の母親代わり、一族の要の女性として彼をめぐる女性の一人です。そして万葉集に最も多くの歌を採られている女性歌人であり、歌からその魅力が溢れてくるような女性です。

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 万葉集入門は教科書でした。古典の教科書で巻二の有馬皇子や大津皇子などドラマチックで悲劇的な背景を持った歌、柿本人麻呂の当時はあまりおもしろく思わなかった歌、わかりやすい防人の歌、山部赤人の富士山などなどを読みました。それから文庫で万葉集を買い、はじめと、終わりのほうをまず読み、それからぼつぼつ読み進めていって・・・ 巻六あたりで「ここらへんおもしろい、すごくわかる」と思い始め、そしてある歌のところで手も、目も止まってしまいました。

 夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものそ

 大伴坂上郎女をはっきり意識したはじめです。この百合のイメージは風にも耐えぬ風情ではなく、あでやかで、清楚で、野辺に咲く強さを持ったみずみずしく美しい花です。今の真っ白で大きくて香りのきつい百合ではもちろんなくて、大和の野に咲く薄紅色を置いた両掌ほどの花です。

 坂上郎女の歌は言葉の響きの心地よさにうっとりします。

 千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波、止む時もなし。わが恋ふらくは

 来むと言ふも、来ぬ時あるを、来じと言ふを、来むとは待たじ。来じと言ふものを

 佐保川の岸のつかさの柴な刈りそね ありつつも 春し来らば、 立ち隠るがね

 出でて去(い)なむ 時しはあらむを。 故(ことさら)に、妻恋ひしつつ立ちて去ぬべしや

 怨恨(うらみ)の長歌の反歌
 初めより 長く言ひつつ恃(たの)めずは、かかる思いに逢はましものを 
 
 
  (いつまでもと、あなたがわたしを頼らせなければこんな思いは
                           ・・・笠郎女と比べちゃいますねえ)

 我のみそ君には恋ふる。 わが背子が恋ふと言ふことは 言の慰種(なぐそ)そ

 思へども、 験(しるし)もなしと知るものを。なにか幾許(ここだく)我が恋ひ渡る

 汝(な)をと我(わ)を 人ぞ離(さ)くなる。 
     いで我君(わぎみ)。 人の中言(なかごと)聞きこすな。ゆめ

 

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 大伴坂上郎女がどんな女性であったかを知ると「女傑だ」と思うしかないのだけれど、その恋歌のきらめきはたおやかでやさしく、それでいて奔放、まさに野の百合の吐息のよう。こんな歌を贈られたご本人の男性はどんな思いがするのだろう。万葉集の恋歌の多くはサロンでの応酬で歌われた虚構性、儀礼性の強いものだという。でもそれだけとは思えない。いくつも恋をして、でもいつも主体的な恋で「彼女が彼を今好き」ということがキーワード。そしてきっと男性がこの女性と愛し合うことを幸いと思うような、とてつもない魅力的な、しかし男性の意思だけでは手許にとどめてはおけない女性だということがわかるような、そんなひとだったのだろうと思っています。

 家持の若い時期の歌に
 振仰(ふりさ)けて若月見れば一目見し人の眉引(まゆびき)おもほゆるかも

 という、ほのかに見た人のひたいと眉の美しい面影といった歌がある。三日月というテーマで坂上郎女に答えて読んだ歌だそうだ。この歌の麗人のイメージに私は坂上郎女の面影が重なってしょうがない。
 私の坂上郎女のイメージはきれいな額と眉、そしてやさしげではあるが意志の力をうかがわせるくっきりした唇。黒髪 白い腕・・・絵になんかなりません。本当にイメージだけ。

 坂上郎女の最初の結婚は、親子ほどに年の違う穂積皇子。こんな彼女なら若い日に但馬皇女の死に悲しみ、「恋の奴が掴みかかって来るぞ」と酔っては歌う洒脱な中年皇子にも十分渡り合ったかな・・・

 大伴坂上郎女の歌には、母も、巫女としても、恋も人生の一部、十分に、存分に生きた人の生きる喜びを肯定する響きを感じます。ああ、めげてちゃダメだな、なんて感じることもあるのです。家持と同じく、彼女の見た人生もやはり苦しいものは山ほどあったはずなのですから。
 

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 大伴坂上郎女 

 講談社 山本健吉編「日本の詩歌」では大伴坂上郎女について

 安麻呂の娘で、旅人の異母妹。家持の叔母。娘の坂上家大嬢は家持の妻。生駒郡坂上(いま、サカネという)に住んだ。初め穂積皇子に嫁し、後、藤原麻呂が妻問うた。更に大伴宿奈麻呂の妻となった。旅人の妻の死後、大伴家の家刀自として大宰府に行き、天平二年(730)帰郷して、佐保の宅などに在り若い家持を後見した。天平勝宝二年(750)の歌を最後とする。

と記されている。

 山本健吉氏の本を読んでいると、特に「大伴家持」など、結局私の頭にあるのはこういう碩学の方々の受け売りでしかないんだなあ、とちょっと悲しくなってしまうところもある。自分で考えたと思ったこともあまりに的確に書いてあるので、その文章を読んだのと、自分で考えたのとどちらが先だったかわからなくなってしまう。

 ともあれ、大伴坂上郎女の大伴家における地位については、山本氏の「大伴家持」での厳媛(いつひめ)との解釈が一番ぴったりくる。
 「厳媛」とは山本氏の造語であるが、大伴氏のような古代からの大貴族の、一族の最高巫女として祭祀の仕事を掌握する、神と氏上(うぢのかみ)の間に介在して、真意を聴き、氏上に伝達する存在である。釈迢空の小説「死者の書」においても「斎姫(いつきひめ)」という語で登場する。こちらは釈迢空の造語であり、山本氏はそれを踏まえて厳媛という言葉でその存在を呼んでいる。
 そして家刀自としての役割。太宰の帥・一族の長者の家を切盛りし、宴席を管掌し(饗宴もまた神事)、その場を華やぐように取り仕切り、当意即妙の歌の応酬の才なんてものは当たり前に身に付けていなくてはならない。片付け技だの、節約だのの主婦雑誌レベルの話ではない(いえ、それもできないといかんでしょうけど)。近代で出来そうな人を探すと与謝野晶子さんくらいしか思い当たらない。
 ここからは本当に山本健吉氏の坂上郎女論の引き写しになります。
 彼女が現われてからの大宰府の雰囲気は一変した様子がうかがえる。
 旅人(家持の父)が詩人として目ざめたのは彼女の誘掖によるところが大きい。彼女の作り出す華やかなサロンは大宰府という外交の衝にあたる土地柄もあって、外来の新しい思想文学がもてはやされ、その雰囲気のなかで新知識人 山上憶良の才華も尊重された。
 また彼女は十代はじめで父を亡くし、大伴家の惣領となった少年家持の後見として大伴の一族の氏上代行をも務めたであろうと山本氏は推測している。

 家持にとってはこのように親しく、彼自身の母親代わりであり、妻の母であり、成長時の環境にもっとも大きな影響を与えた一人であることは異論がないだろう。

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 私の万葉集の読み方は、山本健吉氏に負うところかなり大です。今度本を数冊読み直してみてあらためて確認しました。最近読んだ白川静氏の「初期万葉論」では、大伴旅人と、山上憶良の異質性までで坂上郎女については詳しくふれられていません。「後期万葉論」その他を読んでまた考えて、加筆する事になるかもしれません。(2002.2.25)

 

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参考   筑摩書房 山本健吉著 大友家持    
歌の表記については  講談社 山本健吉編 日本詩歌集  

 

 

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