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万葉集から・1

笠郎女と大友家持の相聞歌

がんばれヤカモチ君

2002.2.6

 

 このサイトのタイトルをいただいている以上、「万葉集をいかに好きか」は必然的話題ではあるのですが、何しろ膨大な数の歌をどのようにしたら・・・など考えておりました。別に考えても私の力量でどうなる問題でもないので、今回は万葉集選者ともされている大伴家持を巡る女性たちのうち、笠郎女との相聞をメインに全然学問的でない「私は万葉集こんなふうに読んで来ました」を少し。

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 万葉集の笠郎女の歌はすべて大伴家持との贈答歌です。
 巻三では「こんなに深ーく好き、人に知られてしまった」という歌。巻四で冷たくなったらしい家持に対して「あなたが私を好きでなくても、私はあなたが好き、こんなに好き、どうしようもないほど好き」という激しい歌がずらり。それにヤカモチ君が答える歌は「気分重いです」 な感じ。
 「故郷に帰ります」という歌があるから、カサノちゃんはそうしたのでしょうか。失恋の痛手をいやすのはやっぱり故郷の山河なの?

 

 笠郎女 大伴家持に送った歌

巻三

 奥山の 磐本菅(いはもとすげ)を 根深めて 結びしこころ忘れかねつも

巻四

 君に恋ひ いたもすべなみ 平山(ならやま)の小松が下に 立ち嘆くかも

 わが命の全けむかぎり 忘れめや いや日にけには 思い溢(ま)すとも

 恋にもぞ 人は死(しに)する 水無瀬河 下ゆわれ痩す 月に日にけに

 相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後方(しりへ)に 額づくが如し

 情(こころ)ゆも われは思はざりき また更に わが故郷(ふるさと)に 還り来むとは

 

 大伴家持 笠郎女に和(こた)えた歌

巻四

 今更に 妹に逢はめやと 思へかも 幾許(ここだま)わが胸 鬱悒(いぶ)せかるらむ 

 

 

 大伴家持の姿は多くの文学作品の中にも登場します。釈迢空の「死者の書」ではいかにも誇り高く颯爽とした青年貴族です。万葉集には若き日の相聞歌として坂上郎女の長女・坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)、この笠女郎(かさのいらつめ)、年上の麗人紀女郎(きのいらつめ)とのものなどが有名です。

 大伴家持が坂上大嬢に送った歌はほのぼのして、いかにも大切に思いあう若い二人を髣髴させます。また紀郎女へはせっせと歌を送っているようなのに、笠郎女への歌は少なく、すごく気分重そう。固まってしまったのでしょうか?

 そして笠女郎の巻四の怒涛の15連打! 彼女の情熱にビビりまくるヤカモチ君!感受性の豊かな人だからそれほど冷たい人とも思われないのに、この腰の引けよう。相性悪かったのね〜。笠ちゃんは歌は上手だからそこに惹かれたけど、付き合ってみたら、「いつもこっち見ててくれないといや」「私だけ愛してくれないといや」みたいなタイプだったのかな。でも、これ女の子ならフツーに考えていそう。表現がストレートすぎた?でも彼女は相手が自分を思ってはくれないことをはっきり認識した上で「それでも私の思いは・・・」と必死に叫んでいる。一度はお互い愛し合ったという状況だものね。万葉集にこれだけまとめて一挙掲載されてるってことは、やっぱりみんなの共感呼んじゃったんだよね、きっと。笠ちゃんが失恋から立ち直って、故郷で「君こそわが命」な恋人を見つけてくれてたらいいんだけれど。

 厳しい生涯を送った大伴家持です。中年以降の沈んだ呟きのような歌、一族に向けて古い一族の誇りを鼓舞するような歌、そしておそらく重苦しい状況の中での祈りのような絶唱。

 新(あらた)しき年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け 寿詞(よごと)

 この一生で歌い続けた歌を通して、恋愛につまずいたりしていた青年だった彼を知ることができます。そして私は彼が「歴史上の人物」というより、「奈良時代に生きていた人」であると、さまざまな面も含めてトータルに「生きていた人」であると感じられて好きなのです。
 

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 大伴家持プロフィール 

 716?〜785 
 「万葉集」第四期を代表し、その編纂者の一員とされる。父・旅人や、叔母の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)も万葉集を代表する歌人である。少年時代から大宰府(だざいふ)で山上憶良を知ったとされるなど、多くの歌人とも交流があった。青春時代は華やかな恋愛を重ね、多くの女性と歌をよみかわした。
 「万葉集」には歌人の中でも、最大数がおさめられ、巻17〜20は家持集とも言うべきもの。歌風は、自然を歌いながらも自己の内部の孤独を深く見つめるなど、次代の先取りとも言われる。
 また武人の由緒ある家系・大伴氏のリーダーでもあった。聖武から桓武朝まで6代の天皇につかえ、内舎人(うどねり)をへて越中・因幡(いなば)・薩摩などの国守を歴任した。
 782年(延暦元)に陸奥按察使(むつあぜち)鎮守将軍となり、翌年中納言に昇進し、さらに翌年持節征東将軍に任官されたが、情勢は不穏で、政権をめぐって謀反・暗殺事件の横行する時代であった。彼もまた生涯に何度か連座の憂き目をみ、死後もなお藤原種継(たねつぐ)暗殺事件首謀のかどで遺骸が配流されている。これは、皇位継承を廃された桓武皇太子早良(さわら)親王の世話係を兼任した来歴によるもの。その後、この処分は取り消され、彼の位などは回復されたが、遅い出世、任地を転々とし、自分、家族、一族の者たちが謀反に連座して捕われるなど自分の家の没落を否応なく目の当たりにした生涯だった。

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参考  講談社歳時記   平凡社国民百科事典  筑摩書房 山本健吉著 大友家持
歌の表記については  講談社 山本健吉編 日本詩歌集  から 

 

 

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