2004.1.18 ドレスデンの抵抗作家 ケストナーの生涯 人生処方詩集 「人生処方詩集」は私がよく開く詩集の一つ。「怠けたい時」「貧乏が辛い時」などの諸症状にあわせた処方箋付きの詩集。寺山修二もこの本に触発されて彼自身の「人生処方詩集」を出している。(実は私のAnthologyも私版の「心の痛み・疲れ対策の言葉集」を整理したいためのものだったりする。構成に苦しんでますが・・・余談) 私もトリヤーの挿絵入りのケストナーの全集を小学生の時に読んで夢中になった一人で、岩波少年文庫に入っているケストナーの本はまだ家にある。子どもたちへの彼の信頼感と責任感は不思議なほどに強烈である。大人たちへ「子どもたちのために戦争を止めろ」と動物たちが迫る「動物会議」を読んだ時には、子どもの一人として、「ここに、これだけ、私たちを心配してくれている人がいるんだ」と、世界に対する信頼感のようなものを感じたと思う。今考えても、こういう感覚を持つことはすごく重要なことではないかと思う。「他者へのもう少しの優しさを、関心を」呼び起こすものは、こういう感覚を持つことで育まれる気がする。 ケストナーは、1899年いわゆるインテリ階級でない父母のもとに生まれた。裕福でない家の子の進学手段、師範学校に入る。その後徴兵され、そこで苛め抜かれて心臓病になり、除隊後大学進学。詩作・演劇評論を認められるようになる。当時は第1次大戦後の大インフレ期、そしてナチスの台頭期であった。1927年から「エーミールと探偵たち」「点子ちゃんとアントン」など子どもの本でも有名になるが、1933年焚書事件で本を焼かれ、大人の本を書くことも禁止される。戦争末期は、ヒトラーはナチスの反対者を狂ったように処刑し、終戦前の半年で約8000人が殺された。もちろんケストナーもその名簿に入っていた。きわどいところでベルリンを脱出し、命をつないだ部分はかなりページを割かれ、レニ・リーフェンシュタールの名前もちらりと出てくる。ケストナーがゲシュタポから逃れるために共に行動していた映画ロケ隊の監督を頼ってきた、と書かれている。この本では彼女の名が出てくるのはそこだけである。ケストナーの彼女とその仕事についてのコメントは何もない。 この本を読むと、リーフェンシュタールの「意思の勝利」「オリンピア」の映像の素晴らしさが反ナチス活動にとってどのように作用したかがわかるようだ。ドイツでもナチスに対する抵抗はあった。有名なショル兄妹の「白ばら」、またケストナーのような言論人もファシズム化の流れを食い止めようと必死の努力をしていた。しかし、ヴェルサイユ条約の重圧にひしがれ、不況と失業脱出の夢をナチスに見るもの、また共産主義を恐れた資本家たちがナチスに肩入れするなど悪いほうに傾くばかりだった。外国の指導者にもヒトラーをドイツを立て直す指導者として認めるものも多かった。 「ドイツ国民は責められなければならない。しかし多数のドイツ人が血みどろになって、ナチスに抵抗していた時に、多くの国がヒトラーの政治的な示威運動だったベルリン・オリンピックに協力したではないか、と彼は歯ぎしりせずにはいられなかったであろう。」(159〜160ページ) モラリスト、理想主義者、いろいろな言い方が出来るケストナーだが、暴力的な時代の嵐の中に理性を持って踏みとどまり、決して人間に対する希望を捨てなかった。彼の詩や文章の温かさ、楽しさ、また人間をわらってのける冷酷さ、辛辣さは共に自分を含めた人間を写す鏡。たいした人である。 そこここで引用され、いろいろな訳を知っている「人生処方詩集」の中の有名な、たった2行の詩。 善というものはない。 善を行うこと以外に 実行しなければ 3種類の訳を記したが、原詩の簡潔さ、言い切る力強さは訳でも伝わっていると思う。
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