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ningyo’s BOOK COLUMN


ハヤ号セイ川をゆく
フィリパ・ピアス著
足沢良子訳
講談社

トムは真夜中の庭で
フィリパ・ピアス著
高杉一郎訳
岩波少年文庫

  フィリパ・ピアスといえば、読んだら忘れられない本をいくつも発表しているが、「ハヤ号」は彼女の処女作。「トムは〜」のほうは、図書館のお勧め本にも必ず入ってくる傑作。

 この夏はあるきっかけから、いわゆる「児童文学」に分類されているものを読み漁った。アーサー・ランサム、エーリヒ・ケストナー、ロアルド・ダール、カニグズバーグ、アラン・ガーナー、ローズマリー・サトクリフ、エリナー・ファージョン、ライナー・チムニク、天沢退二朗… 書いているだけで気持ちが浮き立つ。初めて読んだ時代に連れていってくれる本もあれば、子どもといえない年齢になってから読んで感動したものもあり、なぜ児童書コーナーにしか置いていないのかいぶかしい本もあり、それぞれ。

 はじめは手に取って、その楽しさがよみがえって次々に手を伸ばしていったのだが、読んでいるうちに考えずにはいられないことに突き当たってしまった。「大人がちゃんと大人をやっていなくては、子どもは子どもでいられない」

 「ハヤ号」は、没落した家で叔母と、ちょっとぼけてしまった祖父と暮らす少年と、しっかりした中流家庭の少年の2人の出会いと、先祖の宝を発見する小さな冒険のひと夏。

 「トムは〜」のほうは、弟の病気の為に他所へ預けられ、友達も無く退屈しきっていたトムが、真夜中に不思議な庭で昔の時代の少女とめぐりあう。その少女も、親類で養われているという恵まれない、孤独を感じている身だった。

 フィリパ・ピアスは読んだ人なら誰でも感じると思うが、思春期入り口の少年の心を驚くほど生き生きと描いている。この時期の少年の孤独というのは、ただ疎外される状況におかれたからそうなる、というのではなく、世界と自分との関係を築きなおすために乗り越えなくてはいけない必要な壁なのかもしれない。それでもそこには道連れが必要だ。それは単に一緒にいるのではなく、お互いへの理解を持っている。響きあうものを持っている事が大事。どちらの物語でも、少年たちは自分の帰るべき場所に(それをはっきり自覚して)帰っていく。人が生きていくことへの洞察も獲得して。

 「ハヤ号」では、見つかった宝が一度無くなり、それを無事に取戻すために発揮されるのは大人の知恵。そして「危ないことはしてはいけない」という母も、子どもが自分の大事な道具を勝手に持ち出したり、大事にしないと悲しそうなお父さんも、きちんと大人の分別を持って、要所要所であたたかく子どもに接している。ちょっとぼけたおじいさんだって、それなりに子どもに対する大人としての役割を果たしているのだ。

 トムが預けられているところでも、彼に本当の満足を与えることは出来ないけれど、子どもが何をして、何をしなくてもよいか、をきちんとわきまえてトムを見守っている。そして彼が最後に出会うのが、同じような感情を分かち合った同年代の友でもあり、幸福も不幸も何もかも経験した先輩でもある大人の友人。

 たとえばカニグズバーグの小説など、生半可な理解を振りかざして子どもに変な枠をはめたり、大人の踏み込んではいけない領域に無遠慮に入っていくような大人も登場する。

 子どもは本当の子ども時代を経験してこそ、きちんと大人になれるだろう。やはり大人を通して子どもは世界を、世間を学習していくのだから、大人は大人でなくてはいけない。子どもに重すぎるものを背負わせても、よりどころが見えないような場所に子どもを放り出してもいけないのだ。

 巻末のピアスの言葉のなかに「私たちはみんな、自分のなかに子どもをもっているのだ」とあります。子どもの目だけで見えるものもあるけれど、自分のなかの子どもの目で、自分自身の大人のあり方を見るのも必要なことか、と思うのです。

2004.8.31

  

      

 

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