作:◆7Xmruv2jXQ
「BB、火乃香……」
この島の中で頼れる数少ない名前を唱えながら、しずくは湖岸を駆ける。
地下墓地での一幕から二十分ほど。
放送にはオドーの名前と祥子の名前があった。
その事実に思考が停止しかけるのを、しずくは必死で耐えた。
ほんの少しの間とはいえ、一緒にいた人に、もう会えない。
死という現実に触れる痛みを知ってはいた。それが耐え難いものであることも、また。
それでも、ここで泣いているわけにはいかないのだ。
(今かなめさんたちを助けられるのは、私しかいない)
その事実がしずくの背中に確かな重みとなって存在していた。
幸いにも、元の世界での知り合いたちは無事のようだった。
ならばなんとしてでも合流して――――いや、彼らでなくてもいい。
とにかく誰かに、自分が見た情報を伝え、助けを求めなければならない。
しずくは滲む涙を袖口でぬぐいながら、それでも前を見据えて走り続ける。
外見は人と変わらなくともしずくは機械知性体だ、その運動能力は生身の人間よりも高い。
リスクを度外視してでも島を駆け回る覚悟はできていた。
なにせ、タイムリミットは日没までだ。
残された時間は決して多くないし、それに日没まで待たなくても宗介がその手を汚してしまう。
千鳥かなめ。相良宗介。
二人ともいい人だった。こんな島の中ででも、出会えてよかったと思えるほどに。
だからこそ、しずくは二人を助けたいと思う。
かなめを救い出したいと思うし、宗介に手を汚して欲しくないと思うのだ。
再び溢れてきた涙を拭った時、視覚センサーが人影を捉えた。
幸運としかいいようがない。
こんなに速く誰かと接触できるのは予想外だった。
しずくは速度を緩めて歩み寄ると、その人影――――皮のジャケットをまとった男に声をかけた。
「あ、あの!」
声をかけられても、男は無反応だった。
俯いているため顔は見えない。
癖の悪い黒髪と、握り締めた両のこぶしが妙にしずくの印象に残った。
「いきなりすいません! でも、すごい困ってるんです。力を貸して――――」
「悪いな」
いきなり割り込まれ、しずくは思わず言葉を止めた。
え? と呟いた後、男の言葉が拒否を表すものだと思い至る。
そしてそれが誤解だと気づくのに、一秒とかからなかった。
思わず歩み寄ろうとしたしずくを遮るように、男が右手を突き出し、握る。
「憂さ晴らしだ――――付き合えよ」
しずくが何かを言うよりも男のほうが速かった。
その眼光が紅く尖る。
そして、頭上に巨大な影が出現した。
ナイフのような背びれが空気を切り、筋肉に鎧われた巨体が宙を泳ぐ。
その動きは見る者が優雅さを感じるほどに滑らかだ。
大きく裂けた口。
びっしりと並ぶ牙の群れ。
赤い眼球。
縦に長い瞳孔。
いくつかの点で相違はあるが。
男の頭上を旋回するそれに近い生物は、しずくの知識の中に確かに存在する。
(これって……)
半ば愕然としながら、しずくは認めた。
彼女の世界では支配種ザ・サード以外は知りえないだろう生物。
それは三メートルを超える、巨大な鮫だった。
甲斐氷太は暗い眼差しで少女を見た。
久しぶりにカプセルを飲んだ高揚感も、悪魔を呼び出した興奮もない。
体の芯にねっとりとした闇が巣食う感覚。
血液という血液が死んだように冷たい。
それもこれも、あの放送のせいだった。
ありえない。許されない。
あのウィザードが、物部景が――――……
そこから先は言葉にせず、現実感が希薄なまま動く手足を確認して、甲斐は黒鮫に命令を下した。
目の前の少女は細く、脆い。
餌というのもおこがましい、惰弱な存在だ。
言葉通り、ただの憂さ晴らしに過ぎない。
子供がおもちゃを壊すように、あっけなく、容赦なく。
――――喰い千切れ。
猛烈な勢いで黒鮫が迫った。
鼻先で突き殺そうとするかのような突進。
切り裂かれた大気が悲鳴を上げ、巻き上げられた風にバランスを崩しかける。
しずくがその一撃をかわせたのは奇跡に近い。
横っ飛びに転がった数センチ横を、黒鮫が一瞬で通過していった。
風に髪が叩かれる感触は、機械であろうとも背筋が寒くなるものがある。
デイバックから支給品を取り出しながら叫ぶ。
「は、話を聞いてください!」
しずくの叫びを甲斐は黙殺。
その時点でしずくは己の失敗に泣きそうになった。
完全にゲームに乗った人間に声をかけてしまったらしい。
それも理屈はわからないが巨大な鮫を操る、とんでもない危険人物に。
嘆く時間すら、相手は与えれくれない。
小さな弧を描いて鮫が反転、再びこちらに鼻先を向ける。
顎が開き、びっしりと並んだ牙が光を弾いた。
陽光を塗りつぶすように、甲斐の両目が紅蓮に瞬く。
セカンド・アタック。
コマ落としにすら感じる突進。
唸りをあげる大気を従えて、鮫が黒い砲弾と化す。
しかし一度目よりはわずかに遅い。
こちらが横に逃げても追撃可能な速度――――つまり今度は横に飛んでも回避できない。
理解すると同時に、いや、それより速く体は動き始めている。
ザ・サードのデータベースに接続してから吸収した情報は莫大な量だ。
その中には高度な知識を必要とする先端技術もあれば、辺境の遊びなども含まれている。
たとえば、バットの振り方。
凶悪な棘つきバットであるそれを振りかぶり、思いっきりスイングする。
タイミングを計る必要はなかった。もとより、最速でも分の悪い賭けなのだから。
激突は刹那のこと。
黒鮫の顔の側面にバットが当たる。
一瞬で足が浮き、鮫とバットの接触点を軸に独楽のように弾き飛ばされる。
瞬間的に手首に甚大な負荷――――破損した。バットを手放す。
だがそれと引き換えに、しずくの体は宙を飛んだ。
黒鮫の上をまたぐ形で、ほんのわずかな時間、飛翔する。
青い空が視界に広がった。
しずくの故郷とすらいえる、空。
そこにわずかに見とれながらも、次にくる衝撃に備えて体を丸める。
――――激突。
衝撃は予想よりもひどいものではなかった。
足の短い草たちが、多少は衝撃を和らげてくれたらしい。
それでも、行動に障害がでるレベルのダメージだ。
駆動系の一部に異常。ただでさえ感度の落ちているセンサー類がさらにダウン。
「あ……」
思わず声が漏れた。
気がつけば後ろは湖だった。
水まであと一メートルといったところ。
あれだけ勢いがついていて落ちなかったのは運がいいといえば運がいいが、次がかわせなければ意味がない。
前髪がちりちりと焼ける気がする。
三度、黒い鮫と正面から対峙する。
エスカリボルグは棘が肉に食い込み、鮫の顔面にそのままぶら下がっている。
手元にもう武器はない。
体もダメージが残っている。
どう足掻いても、かわせそうにない。
サード・アタック。
鮫の姿が近づいてくる。
センサーの異常だろうか。
なぜかゆっくりと見えるその光景を、しずくは自ら閉ざした。
倒れたままきつく瞼を閉じて、最後を覚悟する。
脳裏に浮かぶのは火乃香であり、浄眼機であり、オドーであり、祥子であり、
(ごめんなさい。かなめさん、宗介さん……さようなら、BB)
いっそう強く眼を瞑り、しずくはその瞬間を待った。
一秒、二秒、三秒……。
何もおこらない。
恐る恐る瞼を上げると、目の前に足が見えた。
「え?」
呟きをかき消すように、背後で轟音が鳴る。
そして。
「きゃ!」
降り注いだ無数の雫を浴びて、しずくは悲鳴をあげた。
陽光は弾きながら、雨のように水が降り注ぐ。
視覚センサーを手でかばいながら上空を見れば、まずはびしょ濡れの男が、そのさらに上に黒鮫が見えた。
どうやら、鮫を湖に突っ込ませたらしい。
この水滴は鮫の背中に乗った湖水が落ちてきたものだ。
わけがわからず、しずくは目の前の男を見た。
男――――甲斐氷太はあいもかわらず不機嫌そうに、赤い瞳でこちらを見ている。
何を言ってくる様子もなく、このままでは埒が明かない。
しずくは口を開いた。
「あの……」
少女がそこまでつぶやいて、再び黙る。
こちらの顔が険悪になったのを見たからだろう。
甲斐は胸中にわだかまる憎悪を意識した。
ウィザード――――最高の好敵手を失った、憎悪。
そう簡単にヘマをする奴ではなかったが、この異常な島ではいつも通りに立ち回れなかったのか。
それとも他の理由があるのか。
例えば、連れの女に寝首をかかれた、というような理由が。
甲斐はぎりっと奥歯を噛み締めた。
一人、回想する。
初めて会った公園での対峙、地下街での戦い。
長い探索を経て、倉庫で再戦を果たす。
その後はなし崩し的に同盟を組んでセルネットと決戦。
繁華街で無理やり悪魔戦を繰り広げたこともあった。
王国では自分だけ犬の姿という理不尽な扱いを受けたが、まあそれはいい。
塔での戦いでは少し助けてやっただけで、直接は顔を合わせていない。
そして、この島で、果たされなかった決着をつける……はずだった。
「あの野郎。勝手にくたばってんじゃ……ねえ……よ!」
こぶしを思いっきり振り下ろした。
鈍い音が響く。
亜麻色の髪を数本巻き込み、甲斐のこぶしが少女の頬――――そのすぐ横にぶつかる。
少女が眼を白黒させているのを見下ろしながら、こぶしを引く。
濡れた髪から滴る水滴を払い、ぶっきらぼうに言う。
「悪かったな。もう行け」
少女は余計に目を白黒させるが、甲斐は構うことなく背を向けた。
なんの造作もなしに悪魔を消すと、背に残っていた水が激しく地面を叩く。
不安定な精神状態にありながら、甲斐はすでに悟っていた。
悪魔を使うには、いくつかの枷がある。
一つ目――――恐ろしく燃費が悪い。
今回甲斐が使用したカプセルは二錠。
二錠まとめて口に放り込んだのだが、それらが甲斐にもたらした魔力は微々たるものだった。
カプセルが粗悪品なのか、悪魔のせいなのかはわからない。
二つ目――――悪魔との同調が鈍い。
かつては手足のごとく操った悪魔が、どうにも言うことを聞かない。
悪魔戦のエキスパートである甲斐氷太ですら、完全に制御しきれないのだ。
シンクロしようとすればするほど、自分から悪魔が遠ざかっていく。
そして、三つ目。
「……しっかりと見えてやがるな」
呟きは空気を動かさないほどに小さく、それゆえに強い毒を含んでいた。
本来、悪魔はカプセルを飲んでいない人間には見えないはずだ。
しかし、目の前の少女は不可視のはずの攻撃を二度防いだ。
ヘビーユーザーならカプセルなしでも視認できるが、この少女はその類ではないだろう。
過去にそういった事例がなかったわけではない。
甲斐が繁華街で景を追い回したときは、明らかに一般人に悪魔が見えていた。
これもあの時と同じ現象なのだろうか。
ならば、ここは王国の亜種のようなものなのだろうか?
緋崎正介ならなにか知っているかもしれないが、現時点でその推論を確かめる術はない。
とりあえず、悪魔を使うのなら注意が必要だ。
それだけを頭の中に留めて、甲斐はびしょ濡れの少女を捉えた。
その威圧感が緩んだことに、本人だけが気づかない。
……どうにも勝手が違ったのは確かだ。
突撃させるだけという素人以下の操作だったのも認めよう。
それでも、目の前の線の細い少女はよくがんばった方だと、甲斐は素直に思った。
悪魔と渡り合う一般人など姫木梓だけだと思っていたが、なかなかにやる。
ほんの少しだが、楽しめたのは事実だ。
だが、だからこそ、甲斐は許せないのだ。
こんな素人相手でなく、もしも相手がウィザードなら。
互いに死力を尽くし、生命を燃やし、ぎりぎりの戦いを行えたのなら。
それは、最高の時間だったはずだ。
もはや二度と手に入らない至高の瞬間。
一度あきらめ、再び鼻先に吊るされた餌が、また寸前で取り上げられてしまった。
「俺が望んだのはこんな遊びじゃねえ。ウィザード、お前との――――」
身を起こしながら、しずくはぼんやりと男を見上げた。
わけもわからず襲われて、わけもわからず見逃された。
随分身勝手な人間だとは思うのだが……
(……泣いてるんでしょうか、この人は)
しずくには、ずぶ濡れで空を見上げるその男が、やけに小さく見えた。
【D-7/湖岸/12:20】
【しずく】
[状態]:右手首破損。身体機能低下。センサーさらに感度低下。濡れ鼠。
[装備]:
[道具]:荷物一式。
[思考]:かなめたちの救出のため協力者を探す
【甲斐氷太】
[状態]:左肩に切り傷(軽傷。処置済み)。ちょい欝気味。濡れ鼠。
[装備]:カプセル(ポケットに数錠)
[道具]:煙草(残り14本)、カプセル(大量)、支給品一式
[思考]:1.ウィザードの馬鹿野郎 2.ベリアルと戦いたい。海野をどうするべきか。
※『物語』を聞いています。 ※悪魔の制限に気づきました
※エスカリボルグはその辺に落ちてます。二人が別れるかは次の書き手に任せます。
2005/05/31 改行調整、文章一部修正