作:◆7Xmruv2jXQ
数歩歩くたびに立ち止まっては肩で息をする。
弱々しい足取りが幾度も木の根に絡めとられる。
肋骨と火傷の痛み。
うるさい心臓の音。
体を湿らせる汗。
死体の発する腐臭。
そういった現実が、胸中の面影を歪ませる。
例えば、赤い髪の女が頭から血を流している光景。
例えば、赤い髪の女がナイフに貫かれている光景。
例えば、赤い髪の女が紅蓮の炎に焼かれている光景。
例えば、例えば、例えば、例えば、例えば、例えば、例えば、例えば、例えば、例えば。
頭に反響する無数の絶望。
涙腺を滲ませ、その一つ一つを破壊しながら、少女は森を進んでいく。
嗅ぎ取った死の臭い、それが何から生じているのか確かめるために。
「大丈夫。あの人は無事だから。あたしは、そう信じてるから」
熱に浮かされたように呟きながら、少女は自身の矛盾に気づかない。
信じるとはどういうことか。
もし信じているというのなら、それは確かめる必要すらない。
もし確かめるというのなら、それは信じていないのと同義である。
悪寒と痛み。
心と体の苦しみに耐え切れず、突き動かされるように少女は歩く。
ミズー・ビアンカ。
少女自身、気づかぬままに縋る最後の偶像。
その存在一つで支えられるほど――――この島は、フリウ・ハリスコーに優しくはない。
もう幾度目かも覚えていない。
爪先に硬い木の根の感触、そして前のめりに転倒する。
近づいてくる地面を人事のように眺めていると、そのまま地面にぶつかった。
土が軟らかいせいだろうか。
どこか間の抜けた激突音に次いで、わき腹の辺りに灼けるような熱が奔った。
思考は依然として空白に近い。
それでも無意識に筋肉が収縮して痛みにこらえるよう体を丸める。
ちらつく面影に縋りながら、フリウは右目と眼帯のない左眼の両方をきつく閉じた。
時間は痛みを和らげてくれる。
しかし、痛みに耐えるという行為自体がすでにひどい苦痛になっていた。
痛みは怖い。
痛みに耐えることは苦しい。
いっそ感覚すべてを剥ぎ取りたい衝動に駆られながら、フリウは必死に苦痛をやり過ごした。
極端に体力を消耗しているのを自覚する。
手足に力が入らず、反応も鈍い。
五時間近くも座り込んでいたのだから無理もないのだが、時間間隔が麻痺しているフリウにとって
はこれほど体力を消耗しているのは予想外のことだった。
倒れたまま、思う。
(もう、何も残ってない。あたしは何もできない?)
もともとフリウに戦う力はなかった。
彼女にあったのはただ一方的に壊す力だけだ。
あらゆる物質を、区別なく、苛烈に破壊する力。
一線を越えた今――――人を壊すのではなく、殺した今、自分は戦う力を持つのだろうか?
(そんなの、ないよね)
腕力はない。
足が速くもない。
武器も使えない。
体力も敵わない。
この島では、戦えないのなら死ぬしかない。
フリウは静かに笑った。
どれほどそうしていたのだろう。
長い時間が経ったような気もするし、一瞬のことだった気もする。
(立たなきゃ。確かめに、いかないと……)
倒れたまま、フリウは奥歯を噛み締めた。
歯を食いしばって乾いた土に手をつき、立ち上がる。
節々がひどく痛んだ。
全身が埃っぽく、冷えた汗が不快だった。
着替えたいという強い欲求が生まれると同時、そんな悠長なことをしている余裕は、時間的も物質的に
もないと思い出す。
強張った笑みを浮かべながら、両手の土を叩いて払った。
歩き出そうと足に力を込めて――――そこで気づいた。
自分の体をおずおずと見回す。
体の右側。
肩から肘にかけては真っ黒だし、ズボンは擦った跡が残っている。
頬にも土が剥がれる感触がある。
なのに、左側はきれいなものだ。
袖口は多少黒ずんでいるし所々汚れてはいる。
それでも胸から上、特に顔は一切汚れていない――――くっきりとついた靴跡を除いて、だが。
その事実が示すことは……
「……かばったんだ。左側」
顔の左側。
視力のない白い眼球を意識する。
それは養父の――――ベスポルドの最初の教えだった。
……水晶眼に傷が入れば、精霊は莫大なエネルギーとともに開放される。
……その威力は一つの山を消し飛ばして余りある。
……だから、転んではいけない。
実際には教えられてからもフリウはたまに転んだ。
何回か転ぶそのうちに、転び方がうまくなった。
右側から落ちて、左側をかばう。
年を重ねるにつれて転ぶ回数も減って、わざわざかばう必要もなくなった。
すっかり忘れていた、それでも体は覚えていた、どうということもない習慣。
フリウは眼帯のない左眼の上に、静かに手をおいた。
深く息を吐く。
熱のこもった空気を、森の冷めた空気に入れ替える。
「戦う力じゃなくても……あたしにも、まだ、残ってるものがある」
それだけ呟くと、フリウは重い体を引きずって再び歩き出した。
ほんの少しだけ、胸の奥から、力が湧いた気がした。
左の腕がない。右の足がない。そして、首と胴体が分離している。
圧倒的な外力を持って破壊された人体だった。
一欠片の尊厳も認めず。
一切の慈悲も容認せず。
この島にふさわしい、殺人ゲームの象徴のごとき、死体。
赤黒く乾いた水に横たわり、濃厚な屍臭を発しながら。
――――それでも、その死体は笑っていた。
第三の目を思わせる銃痕を持ったその顔は、最後まで唇を吊り上げたままだった。
死の瞬間であろうとも、恐怖を跳ねのけ現れる歓喜。
それは、狂気と呼ばれるものだ。
凄惨な死体の様子と暗い狂気を前に、フリウは静かに佇んでいた。
不思議と心は落ち着いていた。
死体がミズーのものでないことに小さく安堵しながら、思う。
(この人はどういう気持ちだったのかな)
怖いとか悔しいとか。
悲しいとか寂しいとか。
そんな気持ちがあったのだろうか。
答えのでない問いではあった。
他人の心がわかるほど、人は万能ではない。
ましてや死者の言葉を聞く術などどこにも存在しない。
(そんなことはわかってるけど……やっぱり、あたしは知りたいと思う。言葉があれば、死んじゃった後でも
人は生きていられるんだから)
首のない死体。
それはあの髭を生やした偉丈夫と容易に結びついた。
自分が殺した男。
彼にもまた、抱いた言葉があったはずだ。
フリウは震えを押さえ込むように、自分で自分の体を抱いた。
眼球の裏側が熱かった。
頭が沸騰したように思考がぐちゃぐちゃになる。
泣きそうになるのを堪えようとして、失敗する。
フリウは泣きながら、枝を使って地面に穴を掘り始めた。
体のすべてを埋めることは出来なくても、頭ぐらいは埋められるはずだ。
重くのしかかる疲労。
意識を包む倦怠感。
そういったものに耐えて、手を動かす。
視界が涙で滲むたびに、服の左袖で目を拭う。
「お墓をつくって、少し休んだら、あの人を探しに行こう。あたしがしたことは取り返せない、償うことすらできない。
それだけは前と変わらない。 ……だからって、ずっと泣いてていいわけじゃない」
ミズー・ビアンカ。
少女自身、気づかぬままに縋る最後の偶像。
その存在一つで支えられるほど、この島は、フリウ・ハリスコーに優しくはない。
それでも。
そこにあと一つ何かが加われば、涙を止めることくらいは出来るはずだ。
「戦う力じゃなくても……あたしにも、まだ、残ってるものがある。
――――父さんや、爺ちゃんや、サリオンたちがくれた言葉がある」
だから、まだがんばれる。
そう胸中で呟いて、フリウは手を動かし続けた。
【A-5/森の中/11:55】
【フリウ・ハリスコー】
[状態]: 精神・肉体共に消耗。右腕に火傷。顔に泥の靴跡。肋骨骨折。
[装備]: 水晶眼(ウルトプライド)
[道具]: デイパック(支給品一式)
[思考]: 墓をつくる。休息後ミズー捜索へ。
[備考]:眼帯なし。第一回の放送を一切聞いていません。茉理達の放送も聞いていません。
ベリアルが死亡したと思っています。ウルトプライドの力が制限されていることをまだ知覚していません。
2005/05/31 改行調整、文章一部修正