remove
powerd by nog twitter

戦略SLGのもたらす誇大妄想と
その実現可能性について
著・泉獺(H17.8/12)
第1章 世が世なら俺が天下統一(世界征服)してやるのに
 「信長の野望」「三国志」「大戦略」「提督の野望」など、今の世の中には戦略SLGと呼ばれるテレビゲーム・パソコンゲームが数多く売られており、これらをプレイする者も多い(※1)。
 これらの人間の中にはSLGオタクという者がいて、彼らは以下のような空想を膨らませる。
「もし世が世なら(自分がその時代に生まれて指揮を執ったなら)俺が天下統一(世界征服)するのに…」
 このとき彼の頭の中には、数々の智略で華々しい軍功をあげ、栄光に包まれた生涯を送る自分の姿がある。(※2)

 では、このような空想は実際には実現するのだろうか? あるいは他愛もない誇大妄想に過ぎないのだろうか? 第2章ではその点について検証してみることにする。

第2章 実現可能性についての検証
 単刀直入に言おう。その可能性はない。その理由は大きく分けて3つある。
(1)我々はタイムスリップできない。
(2)我々に指揮権は与えられない。
(3)ゲームと現実の違いがありすぎる。
 それでは個々の項目について詳しく述べるとしよう。

(1)我々はタイムスリップできない
 現在の科学技術では、残念ながら時間旅行(※3)はできない。ましてや、偶然にもタイムスリップしてしまった、ということさえない(※4)。
 だから、現代に生きる我々が、現代の叡智を引っさげて、戦国時代や他の動乱の時代に赴くことは不可能なのである。

(2)我々に指揮権は与えられない
 仮にもし、タイムマシンが発明され、あなたがそれに乗って好きな時代へ行けるとしよう。
 しかしそれでもあなたの大望を実現するには大きな障壁がある。タイムスリップした時点でのあなたは、そこでは何の権力も持っていない、ヨソモノなのだ。
 兵を動かすには指揮権が必要だし、国政を総攬したければ宰相か君主の地位に就いていなければならない。しかして多くの場合、それらは当時の人間たちによって既に占められており、無造作に転がっているわけではないし、ましてやゲーム機を起動してゲームを開始すれば自動的に与えられるわけでもない。
 従って、タイムスリップしたらまず天下統一・世界征服に必要とされる権限を獲得しなければならない。尤も、これは未来の武器や未来の知識、その他文明の利器などを用いれば可能かもしれない。例えば、火を噴く棒(銃)で未開の土人を服従させるように、マシンガンで黄巾賊を討伐して配下に置く。あるいはファラオの予知夢を解いた(=未来を予見した)ヨセフが宰相に任命されたように、これから起こることを予言したり、不思議な術(高度な科学は、もはや魔法である)を用いて国王の信任を得る。
 ところが、ここにもう一つ、大きな障壁が横たわっている。言葉の壁である。
 例えばあなたは三国志の大地に降り立ったとしよう。だが、あなたは古代中国語を話せるだろうか? 中世ヨーロッパならラテン語が必要だろう。これでは命令を伝えたくても伝えられないし、国王に何事か献策を奏上したくてもできるものでもない。(尚、舞台が戦国時代の日本なら、中世日本語と現代日本語だから通じることは通じる。)

(3)ゲームと現実の違いがありすぎる
 これら上記の障害を克服しても猶、数々の障害が幾重にも取り囲んでいる。それらを一言で言うならば、それは「ゲームと現実は違う」ということである。
 カタギの衆なら「なんだそんな当たり前のことを」と思うかもしれないし、多くのゲーマーもそれに同意するかもしれない(※5)。しかし重度の妄想状態に陥ると、そんな自明の理に対して盲目になってしまうかもしれない。そこで3つの相違点を指摘しておきたい(※6)。

相違点1:将兵は数値化された駒ではない
 兵数や将数は数値として表わすことができる。だが、能力となるとそうもいかない。
 ゲームの場合、自軍の配下の者の能力が数値化されたものを見ることができる。○○の武力は73、××の知力は85、といったように。
 だが、これらの数値はゲームの作り手が彼らの過去の実績を参考に、推定で導き出したものに過ぎないのだ。中には現実より過小評価されている者もいようし、逆に過大評価されている者もいる(※7)。又、脚光を浴びることなく埋もれていった逸材もいた(※8)。
 またもし仮に能力テストのツール(※9)を持ち込んで配下の者たちの能力を計測したとしよう。しかし、その「能力値」は体調や年齢などの諸条件によって変わってくるため、ゲームと同様にいつも同じ能力を発揮するとは考えてはならない。
 次は兵について。兵は訓練によって命令通りに動く、文字通りの駒となることは可能である。しかしグランドキャニオンの谷底へ飛び込めと命令しても、聞き入れはすまい(彼らだって生きようと欲しているのだ!)。ところがゲームでは、そこが移動可能な個所であるならば、文句も言わずに死地へと赴く。

相違点2:時間と環境
 ちょっと歴史の年表図を見てみよう。我が国では西暦1560年に桶狭間の戦いが起こっている。これをスタート地点として、秀吉の天下統一(1590年)を終着点とすると、その間30年という長さになる。人生の半分といってよい。
 だが、これをゲームで再現してみると、100時間程度で済んでしまうことがある。30年は262980時間だから(※10)、単純に考えてみても時間の流れる速さがゲームと現実とでは2600倍も違うということになる。ゲームによってはもっと時間のかかるものもあるが(※11)、それでも数分で一日が経過する事もあるのでやはり時間の流れが大きく異なると言える。
 ゲームなら暇な時間、気の向いた時にやれる。だが、1回の会戦は1ヶ月に渡り、1回の戦役は年単位に及ぶ。その長い期間、あなたは指揮を執り続けなければならない。
 場合によっては、ハンニバル将軍のローマ遠征やナポレオン皇帝のロシア遠征(※12)のように過酷な環境下で戦わなければならない。又、敵は寒さだけではなく、アレクサンドロス大王を死に至らしめた疫病や、古今東西の将軍が頭を痛めた食糧難・水不足とも戦わねばならない。
 家に引きこもりがちで肌が白く、ブヨブヨと太ったゲーマーにとって、この長時間に渡る苛酷な環境に耐えることはできるのであろうか?
 私の場合、ブヨブヨと太っていないし散歩もするのでそこそこ日焼けしているのだが、いかんせん体が弱いので(※13)、戦場に出るや一週間もしないうちに体を壊してしまうだろう。下手すると戦う前に野垂れ死にしちゃう!
 そしてもう一つ、忘れてはならないことがある。ナマの戦争ではナマの人殺しを目の当たりにするということである。戦争はとどのつまり殺し合いだから当然といえば当然なのだが、その衝撃度は、エロ画像目当てでネットサーフィンしていて死体画像という精神的ブラクラを踏んだときの比ではない。視覚のみならず、血生臭い嗅覚、阿鼻叫喚の聴覚にも訴えかけてくるし、流れ矢や流れ弾、あるいは地位の高い者ならば暗殺などで命を落とす危険性が付きまとう。
 パソコンやテレビの前で采配を振るっていればそんなことはない。ゲームでは残虐な描写はカットもしくは記号化されているし、何より殺される心配がない。
 このように異なる環境下で同じ判断力を持ち、同じ指揮を取れるだろうか? それについてはちょっと難解だがクラウゼヴィッツの『戦争論』より引用したい。
 危険と苦痛の痛ましいばかりの有様を目にするとき、ややもすれば感情が知力にもとづく確信に打ち勝ってしまう。あらゆる現象が混沌たる姿を示しているなかでは、深い、明瞭な洞察はきわめて困難であって、その変更はやむをえないことであり、許さるべきことでもある。そこでは、いっさいの行動が暗中模索によって行われなければならぬ。そういうわけで、戦争ほど意見の相違のはなはだしい活動舞台はなく、たえずさまざまの印象が流れてきて、最初の確信をくつがえそうとする。最大の粘液質をそなえた知力もこれに抗しえないほどである。というのは、これらの印象はあまりに強烈で、あまりになまなましく、しかもそれが一束となって感情に向かっておしよせてくるからである。(クラウゼヴィッツ『戦争論』P86)
 ゲームなら感情に流されることなく冷静に対処できるだろう。だが、現実の戦争においてそのような態度を取り続けることは極めて困難なのである。

相違点3:ゲームにはない要素
 ゲームの製作者はゲームを作るに際して、現実に起こったこまごましたエピソードをそぎ落とし、大きなことを抽象化・記号化してゲームに仕立て上げなければならない。
 そうなると家臣間の派閥争いや内ゲバは省略されがちになるし、前近代において特徴的な地縁的結びつきも無視される。
 これらを一々ゲームに取り込んでいたら、データの容量が膨大になるし、製作コストも製作期間も飛躍的に増大する。ゲーム会社は採算が取れないとして、決してやらない。
 では、具体例を2、3挙げてみよう。(※14)
 三国志の劉備元徳は各地を放浪していたため、徐州時代に家臣になった者、荊州時代に家臣になった者、入蜀後に家臣になった者などてんでばらばらであり、諸葛孔明は彼らをまとめるために北伐をせざるを得なかった、という事情がある。一方、ゲームなら蜀に引きこもって内政に専念することができる。
 あるいは日露戦争の旅順攻略で、大将は乃木希典、参謀長は伊地知幸介だったが、乃木は長州出身、伊地知は薩摩出身であり、この配置に薩摩閥と長州閥の政治力学が働いていた。こうでもしなければ角が立つからだ。
 しかるにゲームなら将校の出身という要素が省略されることが多く、その場合ゲーム内でこのような政治力学が作用することはまずない。

第3章 空想の自由
 これまでSLGマニアの夢想が実現不可能であることを長々と論証してきたが、私は別に「夢を捨てて現実にかえれ」などと言っているわけではない。
 我々は夢を抱く権利がある。その権利を否定するなら、そこはディストピア(※15)、もしくは絶望の地獄である。しかし我々の社会は少なくともそこまでは行っていない(※16)。それはどちらかといえば良いことなのだ。
 あるいはこんなことも言えるのではないか。歴史に思いを馳せ、歴史家が嫌がる「歴史のイフ」(※17)に挑戦する。これも一つのロマンである、と。
(おわり)

※1.実はかく言う筆者も「三国志」のファンであり、かつてはコーエー版の三国志で幾度か天下統一を成し遂げたことがある。
※2.軍神と畏怖される将軍や提督、あるいは天下の覇者、世界征服の大魔王など様々である。
※3.過去へ行ったり未来へ行ったりすること。
※4.少なくとも立証はされていない。尚、浦島効果はタイムスリップとは呼べないので除外する。
※5.例えばシューティングゲームだと、たった1機で敵の大群に突っ込んで、しかも弾が無限に出る。RPGではスライムのように明らかにお金とは縁のないモンスターを倒してもお金が手に入る。ギャルゲーでは好感度が数値化されている。…挙げていったらキリがない!
※6.尚、今回指摘するのはSLG一般に限ったものにする。他のジャンルについて言及すると膨大な量になってしまうからだ。※5を参照。
※7.具体的に誰がどうだとかは言わない。その議論は歴史マニアに任せる。
※8.例えば三国志の「馬家の五兄弟」。5人とも優秀だという話なのに馬良と馬稷しか出てこず、他の3人はどこへ行ったのやら。
※9.現代の一般常識テストは役に立たない。当時と現代の常識は異なるからだ。使うとすれば知能テストだろう。
※10.閏年も計算に入れると、30(年)×365.25(日)×24(時)=262980時間
※11.近代の戦争では特にそうだろう。
※12.ハンニバルはアルプス越えで、ナポレオンは冬将軍(シベリア寒気団)によって多くの将兵を失った。
※13.1年の内、3回以上は風邪を引く。体格はいいのだが…。
※14.このような例は枚挙にいとまがなく、紙数の制限から大幅に省略せざるを得ない。
※15.ユートピアの逆概念。具体的にどんなものか知りたかったら、ジョージ・オーウェル『1984年』を読むことをお勧めする。
※16.そのうちなるかもしれないし、ならないかもしれない。いつそうなるかわからないし、人類絶滅まで起こらないかもしれない。特定の予言書に未来予想を従わせない限り、未来の想像図は不確定なものとなる。
※17.「歴史にイフ(if)はない」とよく言われるが、私が思うに、そんなことを考えていたらキリがないので、その考える作業をやめるのを正当化するためにその文句が用いられているのだろう。

(追録)
539 感想 鷹雪 - 2005/09/06 02:21 -
戦略SLGのもたらす誇大妄想とその実現可能性について
興味深く拝見しました。
しかし、仮にタイムスリップできたとしても、現代人が過去の
歴史の中で活躍することなど、到底不可能でしょうね。
衛生・医学が決定的要因だと思います。
南米やアフリカなどを旅行する際の注意として「水は必ずミネラルウォーターを買って飲め。生水は厳禁」とか言われます。
現代の他地域においてもこれだけ抵抗力が無い人間が、3世紀の中国や16世紀の日本の衛生環境でまともに生活できるわけがない。さらにそれで体調を崩してしまった時にフォローされる医学もない。
おそらく現代人がそんな時代へ行ったとしたら、采配を振るうどころか、すぐに床に伏せ、そのまま永眠でしょうね。
【戻る】