川ばたの九介(助)の人物像について、少し考えてみる事にする。
九介は「角屋作りの浅ましく住なし」ていたという。角屋は、主に農家の二、三男坊が住んでいたというから、九介もおそらくその程度の身分であったのだろう。
だとすれば、土地を相続できるわけもなく(当時、農民の相続は通常、長男のみに限られていた。財産の細分化を防ぐためである。)、九介が小百姓(小作農)であったのもうなずける。
又、子供との年の差がかけ離れている(子供の九之介が三十四で頓死する「八、九年」まえ、即ち二十五、六で、九介は八十八で死んでおり、その差は六十二、三歳。)のは、通常の感覚からすると奇異に映るだろうが、晩年に九介が大百姓になったときに、家庭を持つ余裕が出来たので、若い(出産可能な)嫁を貰ったとすれば、なんとか辻褄が合う。
しかし、これはどうであろう。
煎豆に花が咲いたといふ。これは如(いか)にも不思議である。五十余歳まで同じ貌(かお)で年を越して来たといふ小百姓が、此の煎豆に花の奇蹟以後、「次第に家栄え、田畠を買求め、程なく大百姓となれり」といふのも亦不思議である。「諸事の物つもれば大願も成就する也」と言ふのみの説明では、自分には此の不思議は解けない。或は豆灯篭の功徳によって授った幸福といふものであらうか。豊作に於て「人より徳を取ること是天性にはあらず。朝暮油断なく鋤鍬の禿(ちび)る程はやらく故ぞかし」といふ。それなら、五十余歳相も変わらず続けてきた小百姓生活は、どうしたわけであったか。「萬に工夫の深き男」であったことは、ここにあげたいろいろ農具の発明で知られるのみならず、次には更に唐弓(とうゆみ)物まで作り出してゐる程である。この工夫者、才覚男に、五十余歳まで何等の発展をさせなかった作者の心が呑み込めない。(『日本永代蔵評釈』佐藤鶴吉)
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又、別の資料でも、これと似たような疑問を呈示している。
九助が、五十過ぎまで碌々と小作人生活を続けて来たのに、その後たてつづけに新農具を発明するというのも、この種の工夫が若い頭脳を必要とする事実から見て、素直には受け取れないことである。(『西鶴の研究』重友毅)
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私も同様の疑問を抱き、各種文献を当たってみると、次のものに出くわした。
西鶴の場合、「分限は才覚に仕合手伝では成がたし(『日本永代蔵』巻三、第四話「高野山借銭塚の施主」)と、金銀を得て分限者となるためには、その人の努力や才覚だけが、その要素ではない事を述べている。
このことは、西鶴が、人間社会の出来事に多分の偶然性を認めていたことを示している。(『井原西鶴の世界』市川通雄)
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川ばたの九介が金持ちになれたのは、いつ起こるともわからない、いつ起こってもおかしくない偶然(例えば煎り豆に花が咲くなど)が努力や才覚に加わったからだとも考えられなくもない。
しかしこれでは説得力に欠けると言わざるを得ない。
次に、このようなものに出くわした。
一たいこの二つの作品(巻二の四と巻5の三)の舞台である漁村と農村は、封建領主の権力下にあったために、資本主義化することがほとんど不可能な状態にあった生産部門である。さういふ世界においては、道具や方法の改良発明による生産部門の増進こそ、唯一の致富道でありうるといふ社会的真実を西鶴は語ってゐるのであるが、そのために彼は、時間的にも空間的にも人的にも、それぞれ異なる条件の下に発明改良された道具や方法を、一人物の上に凝集するといふ集約的方法を試みてゐるのである。(『西鶴 評論と研究 下』暉峻康隆)
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複数の人物、功績が一人の人間に凝集されて出来たのが、天狗源内や川ばたの九介なのであるとすれば、「萬に工夫の深き男」が「鋤鍬の禿るほど働」いているのに、「五十余迄同じ顔」(五十余歳まで同じ貧乏生活)をしているという、一種の不合理さが生じても不思議ではないのではないか。
つまり、作者(西鶴)が複数の人物像を一つに統合する過程で、各人格の特性をそれぞれ残そうとして、無理矛盾が生じたのではないか。
では、複数の人物像とはなにか。それについては次節に譲るとしよう。
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