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日本永代蔵巻二ノ三心理学考2 〜新六への対処〜
安澤出海 H14.11/24
 大黒屋の惣領・新六は、父親が隠居の支度をしていた時、「俄に金銀を費し、算用なしの色あそび」を始めた。そして半年も経たぬうちに帳簿が合わなくなり、「手代ひとつに心をあはせ、買置の有物に勘定仕立、七月前を漸々に済し」た。つまり、店の者が一丸となって粉飾決算をしたのである。
 新六がなぜ急に色遊びに走ったのかはわからない。ひょっとしたら、父親への反抗心が、父親の隠居に伴う自らへの権力移譲(それだけ自由に動かせる金が増えたという事)を契機として噴出したのかもしれないし(※1)、家督を継ぐというプレッシャーが、色遊びという現実逃避へと走らせたのかもしれない。
 しかしその事については、ここでは論じない。ここでは、「手代ひとつに心をあはせ」て粉飾決算をした事について論じてみる。

1.集団主義
 経済学者がこの事に注目したならば、これは日本的経営に顕著な特徴とされる集団主義によるものであると見るかもしれない。
 集団主義とは、欧米の個人主義との対比の上でよく使われる概念で、戦後の我が国の驚異的成長を経済学的・社会学的に説明する「日本的経営慣行の根底にある価値観」(※2)としてよく取り上げられ、時には称揚すらされていた。しかしバブル崩壊後は一転して、「神話に過ぎなかった」(※3)と否定的に評価されている。
 ここで小高邦雄の「集団主義」の定義を借りて説明を試みる。
 集団主義とは、ひとつの集団や組織体(したがってこのばあいでは企業)を自分たちの「運命共同体としてとらえ」、それの「全体的秩序の存続繁栄」とそこでの共同生活の「全体的な安寧幸福」を、それの「成員個々人の能力発揮や個人的欲求の充足に先んじて重要視する」ひとつの「価値志向」であるということになる。(※4)
 わかり易く言うならば、集団主義は、集団(会社や組織)の構成員(会社員や従業員)による、「仲間意識による相互扶助のもたれあい」(※5)や、所属する集団への滅私奉公という考え・行動様式であり、そこには欧米の言う「個人」というものがない。
 滅私奉公というのは、仕事の為に余暇や帰宅時間を犠牲にして残業したり休日出勤したりゴルフ接待をする、などといった例に典型的にあらわれている。
 また、相互扶助については、欧米の例と対比させてみると分かりやすいかもしれない。
 そこでは、欧米の個人主義的人間関係の色彩はきわめて希薄である。欧米の職場では、たとえ同僚でも、相手の仕事がおくれているからといって、それを手伝ってやる(それによって報酬がふえるなら別であるが)ことはほとんどない。そればかりか、同僚の仕事がおそいことで、自分が迷惑するばあいには、経営者にたいして積極的にその人間の入れかえを要求する。しかし、わが国の職場では、このように迷惑を感じるばあいですら、かげでいろいろな不平はいっても、表面上は、とくに他の職場との関係では、なんとか相手をかばおうとする。(※6)
 この引用文の表現を改めると、次のようになるだろう。
 日本の集団主義経営では、だれかが困難にぶつかると、同僚はそれについて暗にぐちをこぼすことはあるが、外部との関係ではその同僚をなんとかカバーしようと努力する。(※7)
 大黒屋の手代たちが行なったのは、こうした事だったのではなかっただろうか。
 つまり、大黒屋という集団の成員である手代たちは、日本的経営の特徴である集団主義に基いて、同じ集団に属する(即ちミウチの)新六の不祥事を外部に見せないこと(粉飾決算)にした、と見ることができるのである。

2.場の倫理
 もし、ユング派の心理学者・河合隼雄がこの事象に注目したならば、「場の倫理」で説明するかもしれない。又、その後の父親による勘当との対比の上で、「母性社会」の概念で説明するかもしれない。以下、河合隼雄の日本人・日本社会論の著書として有名な『母性社会日本の病理』(※8)を引用しながら述べてみることにする。
 「場の倫理」とは、「与えられた『場』の平衡状態にもっとも高い倫理性を与えるもの」(※9)であり、又、「場に属するか否かが倫理的判断の基礎になっている」(※10)。わかり易く言うならば、その「場」に属する人たちにとって、その「場」を維持安定させる事が善であり、変化崩壊を悪とみなす考えなのである。
 又、「場の内においては、妥協以前の一体感が成立しており、言語化しがたい感情的結合によって、すべてのことがあいまいに一様になってくる」(※11)という。言いかえるならば、「場」の中では全てが一体化して白黒はっきりしない状態となるのだろう。
 手代たちの粉飾決算は、「場の倫理」に従って為された、と見ることができる。
 即ち、大黒屋という「場」があって、それは新兵衛、新六や手代番頭などによって構成されている。この「場」に所属し且つその中で重要な地位(後継者)を占めている新六を処断すれば、この「場」の維持安定ができなくなる。「場の倫理」に従えば、このような事態は悪であり、避けねばならない。
 ここでそれを避ける手段として、粉飾決算が行なわれるのである。粉飾決算によって新六の出した損失を揉み消してしまえば、新六は咎目を受けずに済み、その「場」は安定が保たれるのである。
 粉飾決算は傍目から見れば不正としか思われないかもしれないが、これも「場の倫理」に従えば、大黒屋という「場」の維持安定に一役買っている為、正当化され得るか、もしくは必要悪とみなされるのである。もし不正が発覚した後で、手代たちにインタビューしたとすれば、「組織防衛の為にやむなく行なった」と言うかもしれない。
 尤も、粉飾決算を続ければ、いずれは大黒屋の屋台骨が瓦解してしまい、そうなるとそもそもの守るべき「場」は雲散霧消する。その為、長い目で見れば悪となるわけであり、手代たちが「向後、奢を止たまへ」と諌めたのは「場の倫理」からしても当然といえる。
 また、「手代ひとつに心をあはせ」ることができたのは、「妥協以前の一体感が成立し」ていたからであり、ここに「感情的結合」があったからである、と見ることができる。また、彼らの取った行動は、新六の損失を店全体の損失へと転換する事であり、これは個々人の功罪を無くして、「すべてのことがあいまいに一様になってくる」ものであると言えよう。又、新六の方も、責任の所在が「あいまいに」なってしまった。尤も、その次はそうは行かなかったが。
 ちなみに、その次、というのは、父親による勘当という処置だが、この対処法は、手代たちが取ったものとは明らかに違う。これには「場の倫理」が適用されないのだろうか。
 ひょっとしたら、新兵衛は手代たちとは違って、「個の倫理」を持っていたのではないかと見ることができる。「場の倫理」が場の維持安定を最優先にして、個々の成員の信賞必罰をうやむやにするのに対し、「個の倫理」とは個人の功績を評価し過失を罰する事を最優先に据える考え方である。この場合で言うなら、新六が取った行動(算用なしの色あそび)は店に損失を与えた。従ってこれは罪である。罪である以上、たとえ新六が後継者であろうとも、処断されなければならない、ということになろうか。
 あるいは、巨視的な「場の倫理」が適用されたのかもしれない、と見ることもできる。新六は色遊びをやめる気配がなく、このままでは大黒屋がつぶれてしまう。そうなれば「場」の維持など全く不可能である。だから、そうなる前に処置を施す(この場合は勘当)。たとえそれによって「場」に激震(後継者の変更)が走ったとしても、長い目で見れば、「場」を存続する為にはやむをえない、と新兵衛は考えたかもしれない。これは長い間トップにあって巨視的に眺める事ができたであろう新兵衛なればこそできるわざなのかもしれない。
 さて、新兵衛は「個の倫理」を用いたのか、あるいは「巨視的な場の倫理」を用いたのか、はたまたそのどちらでもないのか、それについてはよくわからないので、とりあえずここで断を下さない事にする。

3.母性社会
 次に、「母性社会」の視点から捉えてみると、どうであろうか。
 河合隼雄の功績によって今ではすっかり、日本は母性社会だとの認識が一般に広まっているが、誤解も多いかと思われるので、念のためにここで説明を試みる。
 母性社会とは、母性原理に基いた、あるいは、母性原理の強い社会のことで、河合隼雄によると「日本は母性原理の強い国である」(※12)という。
 では、母性原理とは何か。
 母性の原理は「包含する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこでは絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係のないことである。(※13)
 この他にも、ある本が示す所(※14)によると、母性原理の特徴は、「場の形成とその均衡状態の維持」「非言語的」「場依存的」「円環的」などが挙げられる。
 「絶対的な平等性を持つ」というのは、個性や能力、あるいは素行の良し悪しによって子どもを峻別せず、平等に母(なるもの)の懐に包み込むということである。この場合で言うならば、新六は色遊びを続ける「悪い子」である。そんな悪い子を母性社会では処罰・排斥したりせずに他の「子どもたち」と「平等」に包み込んでしまうのだ。実際、新六は店に損失を与えても、父親が登場するまでは、大黒屋から追い出されなかったし、惣領の地位も保っていたのである。
 次に、「場の形成とその均衡状態の維持」に関しては、「場の倫理」について述べた箇所と重複するので避ける。ただ、補足すると、「場依存的」ということに関して言えば、手代も新六も大黒屋という「場」に依存していた事は確かである。手代たちは大黒屋の手代という、帳簿を操作できる立場にあったから粉飾決算ができたし、新六が「算用なしの色あそび」ができたのは大黒屋の惣領であったからこそ可能であったのである。
 次に、「非言語的」とはどうか。
 「異見さまさまに申せし」ことはあったにせよ、「手代ひとつに心をあはせ」ることができたのは、大黒屋の手代たちの間で以心伝心ともいうべき非言語的な協調関係が成立していたからであり、もし手代たちの行動が言語的であったならば、対処法を巡って手代たちの間で衆議が一席設けられたかもしれない。そうなると、粉飾決算をする前に「律儀なる親仁」に発覚してしまうおそれがあったであろう。
 「円環的」というのは、全てを円く収めるということであり、この点について言えば、粉飾決算という手段で、少なくとも手代たちと新六に限っては(一時的にせよ)円く収まった、と見ることができる。ただ、「円環的」という語には循環する、繰り返すという意味も含まれており、この点について言えば新六が色遊びを繰り返した事と、手代たちも再び粉飾決算をしようとした(※15)所にあらわれていると見ることができる。即ち、二重の意味で「円環的」である。
 このように、手代たちが取った行動は、母性社会日本における母性原理に基いたものということができる。では、親仁の新兵衛はどうであろうか。そもそもの問題からは少し脱線するが、補則の意味合いも兼ねて述べることにする。
 河合は、「日本は母性原理の強い国である」(※16)と述べているが、では日本は母性一辺倒かというとそうではなくて、「日本の傾向は母性的な面を優勢とする」(※17)のであって、日本は「不思議に父性原理を持ってい」(※18)るという。
 日本に父性があるという論証は安渓真一・矢吹省司著『日本的父性の発見』(※19)へ譲るとして、父性について少し説明しておく。
 父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、(略)子どもをその能力や個性に応じて類別する。(※20)
 父性は「良い子だけがわが子」という規範によって、子どもを鍛えようとするのである。父性原理は、このようにして強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊に至る面と、両面をそなえている。(※21)
 以上に挙げた父性の原理・働きが、新兵衛の行動にあらわれていたのではないだろうか。言い換えるならば、新兵衛が取った行動のうちに父性原理が介在していたのではないだろうか。
 新六は色遊びに走って店に損害を与えた(※22)。親から見れば新六は「悪い子」である。父性においては「わが子」を善悪上下などに分類し、「良い子だけがわが子」である為、「悪い子」の新六は「わが子」ではない。
 従って、新兵衛は新六を「わが子」ではなくした。即ち、「旧里を切て、子をひとり捨」たのである。先述の、父性の「切断する」という特徴は、ここにおいて親子の縁を切る事で象徴的に表われていると言ってよい。
 又、父性の建設的な面は本文には書かれていないが、新兵衛が勘当という厳然とした処分を示したことは、奉公人や他の子供たちに対して少なくとも気を引き締めさせたことは間違いない。即ち、綱紀粛正の効果があったはずなのである。
 又、父性の否定的な面は「切断の力が強すぎて破壊に至る」ことであるが、新六と新兵衛との親子関係の「切断」によって、新兵衛は結果として後継者を一人失うことになったし、新六は惣領の地位も生活の糧も何もかもを失ってしまったのである。
 ちなみに、本文中に「されは親の身として、是程まてうとまるゝ事、大かたならぬ悪心なり。」とあるが、これは母性社会のぬるま湯に浸っていた者が父性の厳しさに触れた時の戸惑いを表現しているのかもしれない。

4.私の見解
 最後にこれらの諸解釈に対する私の見解を述べるとしよう。
 今までに挙げたいずれの解釈は、どれも似たり寄ったりの感が強く、相互に関連付けて述べることが出来そうなほどである。しかしながら、「集団主義」「場の倫理」「母性社会」のいずれも、そもそもは日本人・日本社会を説明する為に用いられてきた概念である。つまり、料理すべき素材(日本人・日本社会)は同じなのだ。特に「場の倫理」と「母性社会」の場合はその上に、同一人物(河合隼雄)が同一の書物(※23)で論じている為、類似は避けがたいであろう。
 ただ、手代たちが取った行動と、新兵衛とのそれとを対称的なものとして把握するならば、父性と母性という同じく対称的な概念を持ち出した母性社会の説明に一日の長があるように思える。
 ちなみに、ついでながらここで留意したいのは、これらが日本人・日本社会を説明する概念であり、これらのいずれにおいても手代たちの行動を説明できたことである。
 だとすれば、手代たちの行動は、複数の日本論を持ち出せるほどに「日本的」と言えるだろう。寧ろ逆に、日本人・日本社会を説明する例として、この手代たちの行動を挙げてもよいかもしれない。

※1.フロイトならエディプス・コンプレックスの診断を下すかもしれない。
※2.小高邦雄『小高邦雄選集 第四巻 日本的経営』夢窓庵 1995.4.1 P17〜18
※3.編・駒井洋『日本的社会知の死と再生―集団主義神話の解体―』ミネルヴァ書房 2000.6.1 P@「はじめに」(駒井洋)
※4.※2に同じ。P20
※5.村山元英(もとふさ)『日本経営学――集団魔力の論理』白桃書房 S48.7.10 P154
※6.間宏『日本的経営の系譜』文眞堂 1963.5.31 P289
※7.※5に同じ。P154
※8.河合隼雄『母性社会日本の病理』講談社 1997.9.20
※9.※8に同じ。P24
※10.※8に同じ。P26
※11.※8に同じ。P26〜27
※12.※8に同じ。P40
※13.※8に同じ。P19
※14.安渓真一・矢吹省司 『日本的父性の発見』所収、安渓真一「『自己』実現に果たす父性の役割」有斐閣 1989.5.30 P43
※15.本文中に「内證に尾が見えて」とあり、新六の不祥事を隠そうとした形跡がうかがえる。
※16.※12に同じ。
※17.※8に同じ。P21
※18.河合隼雄・小此木啓吾『フロイトとユング』第三文明社 1989.8.31 P216河合の発言
※19.※14に同じ。
※20.※8に同じ。P20
※21.※8に同じ。P21
※22.最初は「百七拾貫目」、次に「弐百三十貫目」。合計四百貫目。
※23.※8に同じ。

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