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日本永代蔵巻二ノ二心理学考 〜神鳴の意味するもの〜
安澤出海
 物語の最後において、神鳴が喜平次一家を襲い、鍋釜を破壊したのはどういうわけか。この神鳴はどんな意味を持つのか。又、挿絵の雷神は何なのか。
 フロイト心理学とユング心理学で読み解いてみる。又、場合によってはどちらにも共通乃至はどちらにも属さない考察をしてみることもある。

1.フロイト的解釈
 フロイト的解釈によれば、神鳴は男根の象徴であり、鍋釜は女性器の象徴である。こう書くと驚かれるかもしれないが、根拠はある。
 神鳴は別名、稲妻という。雷が鳴ると、稲が妊娠して穂をつけると考えられていた事から、稲の夫(つま)、即ち稲妻と呼ぶのである。この場合、稲は孕まされる存在で女性器的で、雷は孕ませる存在で男性器的である。従って、雷から男根を連想しても、抵抗(※1)を起こさない限り、差し支えないのである。又、挿絵の雷神も実に男性的である。
 又、鍋釜の形状は子宮のそれと類似している。ちなみに、台湾の神話によれば、釜から人間が生まれた(※3)とあり、この釜が母体としての役割を果たしている事はいうまでもない。こういったことから、鍋釜から女性器を連想しても、これまた抵抗を起こさない限り、差し支えないのである。
 それならば、雷が鍋釜を破壊するというのは、どういう意味があるのだろうか。
 フロイト的解釈を続けるならば、男根の象徴と女性器の象徴がぶつかり合うことであるからこれは性交の象徴に他ならない。だとすれば、なぜここで性交が出てくるのであろうか。
 そもそも西鶴は、好色物の諸作品に見られるように、性的表現を得意技の一つにしていた。しかし『日本永代蔵』は経済小説である為、性的表現を用いるのに相応しくない。
 その為、西鶴は意識的に性的表現を控えざるをえず、又そうすることによって自己の内にあるリビドー(※5)を性的表現に昇華させることなく、無意識へと抑圧し、それが抑圧されつづける事によって強力になり、表に浮かび上がろうとした。即ち、西鶴が自分の心の中で押さえつけていた、性的表現を取るという性的な願望が頭をもたげて出てこようとしたのである。しかしそれでも西鶴は無意識的に検閲(※8)をはたらかせて、直接的な表現を取らずに、雷と鍋釜が交わるといった、間接的な表現となって出てきたのだ考える事ができる。
 尚、鍋釜が破壊されるという凄まじさを呈するのは、それだけ西鶴の抑圧された性欲が強固であることを物語っている。

2.フロイト的解釈2
 1章では作品論及び作家論の立場からフロイト的解釈を施してみたが、今度は作中人物たちのレベルから解釈を試みる。
 雷というものは、今ではそのメカニズムが解明され、専門の研究所(※9)ではごく限られた範囲にせよ人工的に作り出すことが出来る。だから、現代に生き、現代の科学知識の恩恵を受ける我々は、近くに雷が落ちる、もしくは直撃したとしても、お臍を取られるという心配はしないし、「くわばらくわばら」と唱えることに、心理的にはともかく物理的に効果があるとは思わない。
 しかし、この当時は平賀源内のエレキテルやフランクリンの避雷針(※10)さえなく、雷とは訳のわからぬ自然の脅威であった。このような自然の脅威に遭った時、人はどのように対処・対抗するのか、フロイトの著作から引用してみる。
 第一の手段は、自然を擬人化することであり、これだけでもうるところはきわめて大きい。非人格的な力や運命は、永遠に未知なものであって、これに近づくことはできない。けれども、もし、四大(※12)のなかにも、われわれの心と同じような熱情が躍動しているものとするならば、または、死ということも、自然界のできごとではなくて、何か悪い意志の暴力行為なのだとすれば、さらに、もし、自然のなかのいたるところで、おなじ社会に属する、なじみ深い生命体にとりまかれているものとするならば、そうしたばあいには、われわれは、ほっと息をついて、不気味なもののうちに親しみを感じ、なくもがなの不安に対して気持ちのうえでとりなしをすることもできるであろう。こんなことでは、防備ができたものとはいえないかもしれないが、すくなくとも、反応を示すすべを心得ているのであるから、もはや、頼るすべがなくて手も足も出ないというわけではないのだ。それどころか、防備はできているといっていいのだ。(※13)
 「自然を擬人化すること」は、挿絵を見れば一目瞭然だろう。挿絵の中央よりやや左寄りに、黒雲に乗って撥を揮っている者、即ち雷神と呼ばれるものであり、これは雷を擬人化したものに他ならない。
 冬に雷が落ちて鍋釜を破壊してしまうような、「當所のかならす違ふ」世の中にいることは不安な事であるが、ここで「暴力をふるう架空の超人」(※14)を作り出すことで、喜平次一家は「心の重荷を軽く」(※15)しているのである。こうして「なくもがなの不安に対して気持ちのうえでとりなし」、新しい鍋釜の金策に走り回る為の精神的な糧を手に入れたのではないだろうか。
 ちなみに、このような防備が更に進めば、「事態の支配に一歩を進める道につなが」(※16)る。即ち、「暴力をふるう架空の超人」(※17)に対し、「泣きおとしたり、なだめすかしたり、買収したりすること」(※18)である。喜平次一家はそこまでは行かなかった(あるいは、師走で忙しくて行けなかったのかもしれない)が、雷に対処した例としては、菅公(※19)が挙げられ、更には少師部の栖軽(ちひさこべのすがる※20)のように雷神を捕獲してしまう、といったようなものまである。
3.ユング的解釈
 まずは喜平次の最後の科白に注目したい。
 「是をおもふに、當所のかならす違ふものは世の中。我も、神鳴の落ぬまでは、世にこはき物はなかりしに」
 項目を立てて整理すると、次のようになる。
1.世の中は「當所のかならす違ふもの」と思い知った。
2.自分も雷が落ちるまでは、世の中に怖いものなどなかった。
 1に関して言えば、喜平次が思い知った内容(世の中は思う通りにならない)というものは、世の中の不確定要素を考慮すれば当然の事であろう。しかるに喜平次は落雷によってこの一種の真理ともいうべきものを体得した、といえるのかもしれない。
 次に、2に関して。「我も」と言ったのは、喜平次が「醤油賣まはるさきさきにて見聞、」「宿にかへりて」妻子に語って聞かせた、「世にこはき物はなかりし」人々をふまえてのことであろう。
 その人々というのは、「御伊勢を賣て、此十二、三年も、同し偽にて世を過る女」、「京への縁組」に奔走する「池の川の針屋」や「仲人かゝ」などであろう。あるいはそれに加えて、「ものもうの聲絶」える前の森山玄好や「大商人なりし」頃の坂本屋仁兵衛も含まれるかもしれない。
 人間を超越したもの(※21)が存在する以上、怖いもの知らずというのは、一種の無知に他ならないが、喜平次は怖いものがあるとは知らなかった。いや、知らなかったのではない。「一仕合は分別の他ぞかし」と述べているからである。「然れ共」、彼の関心は「其身袒ずして、銭が一文天から降ず地から涌ず。正直にかまへた分にも、埒は明ず。身に應じたる商賣をおろそかにせじ」という方向ヘ行っている。又、「分別の他」と言っても、「分別の他」である対象(即ち、人間の力ではどうしようもないもの)は「世は愁喜貧福のわかち有」とあるように、実はあくまで人間社会の域を出ておらず、人間社会の外、例えば神鳴などはそれこそ「分別の他」であったのだ。
 その神鳴が落ち、喜平次が「世にこはき物」を認識する契機となったのだが、そもそも冬に雷が落ちるのは稀であるし、更にそれが喜平次の家に落ちるのはもっと稀であり、鍋釜を破壊するとなると確率は更に低くなる。こうなると落雷はただの偶然とは思えなくなり、寧ろ喜平次が「世にこはき物」を認識する為に落雷が起きたのだとさえ思えてくる。もしそうだとすれば、落雷と喜平次の因果関係を科学的に証明する事は出来ないが、ここに何らかの関係性があるのではないか。ユングはこのような状態を捉えて、同時性(シンクロニシティ)と呼ぶ。
 「意味のある偶然の一致」(meaningful concidence)を、ユングは重視して、これを因果律によらぬ一種の規律と考え、非因果的な原則として、同時性(synchronicity)の原理なるものを考えた。つまり、自然現象には因果律によって把握できるものと、因果律によっては解明できないが、意味のある現象が同時に生じるような場合とがあり、後者を把握するものとして、同時性ということを考えたのである。(※22)
 確かにあの落雷は、「因果律によっては解明できないが」、喜平次に新たな認識をもたらしたという点において「意味のある現象」と言えよう。

4.自分なりの解釈
 第1章におけるフロイト的解釈はあまりにセックスに傾倒しており、私は賛成できない。確かに西鶴は好色物などの書作品において性的な表現を用いており、そこからその方面への関心があったことが伺える。しかし、その表現がないからといって、その関心(性欲)が別の形で出てきている、と言えるだろうか。
 第二章のフロイト的解釈については、作品の内容をよりふまえているという点において、前段の解釈よりは優れている。そして、ここがフロイトの真骨頂なのだが、(神秘主義、オカルティズムを排したという点において)実に科学的なのである。挿絵の如く雷神(雷を擬人化したもの)を持ち出す事によって自然の猛威に対する心理的負担を軽減するというメカニズムは、科学的に正しいように思える。
 しかしながら、この解釈にも欠点がある。なぜその時その場所に落雷したのか、これがわからない。尤も、「非人格的な力や運命は、永遠に未知なもの」(※23)だからわかるはずがないと言ってしまえばそれまでであるが。
 その疑問点に対する回答の一つとして、第三章のユング的解釈が存在する。
続く

【注釈】
※1.抵抗(resistance) 「精神分析の治療中に、被分析者(患者)の無意識への到達を、被分析者自身がほとんど意識せずに妨げているようなすべての行動を抵抗と呼ぶ。」(※2)
 ここでは、私が性的色彩の濃いフロイト的解釈を提示するのに対して、読者が率直に受け容れない事を言う。
※2.大山正、吉田正昭、藤永保・編『心理学小辞典』有斐閣 1978.5.30 P190
※3.「古昔『ラモガナ』といふ所に一つの瓢箪と一つの土釜があった。瓢の中から一人の男が生まれ出で土釜の中から女が現れた。この二人が人類の祖なのである。」(※4)
※4.佐山融吉・大西吉壽『生蕃傳説集』杉田重蔵書店 T12.11.17 P25
※5.リビドー(libido) 「フロイトのいうリビドーとは、自我がその性衝動の対象に向けるエネルギー備給のこと、つまり性生活の原動力という意味である。」(※6)
「なお、C.G.ユングらのリビドーの概念は、性的衝動のエネルギーに限定しない。」(※7)
※6.小此木啓吾・馬場謙一等『フロイト精神分析入門』有斐閣 1977.1.30 P132
※7.※2に同じ。P278
※8.検閲 フロイトの夢分析では、性的な願望が歪んだ形で顕在夢に現れる。即ち、省略やアクセントの移動、又は象徴的表現を取ることによって、直接表現しない事である。ここでは、西鶴の性的な願望が歪んだ形で作品の中にあらわれる事。
※9.(http://criepi.denken.or.jp/jpn/PR/Event/ippankokai/ippan2001/kako-koukai-akagi-2001.html)によると、2002年10月14日(日)に、赤城試験センターで研究所の一般公開が行われ、そこで人工落雷のデモンストレーションが行われたということである。
※10.『永代蔵』は1688年刊行。『広辞苑』(※11)によると、ベンジャミン・フランクリンは1706年生まれ、平賀源内は1728年生まれ。
※11.編・新村出『広辞苑 第四版』岩波書店1995.5.25
※12.四大とは、あらゆるものを構成しているとされた四つの元素で、地・風・火・水のこと。ここでは、森羅万象、といったような意味。
※13.土井正徳・吉田正己訳『フロイド選集 第八巻「幻想の未来」』日本教文社 S29.6.25 P21〜22
※14.※13に同じ。P22
※15.※13に同じ。P22
※16.※13に同じ。P22
※17.※14に同じ。
※18.※13に同じ。P22
※19.菅公とは菅原道真のこと。菅原道真が雷神となって大暴れした後、朝廷は彼の官位を復し、北野天神として祀った。即ち、地位を与えて買収を試みたのである。
※20.校注・小泉道(おさむ)『新潮日本古典集成(第六十七回) 日本霊異記』「電を捉ふる縁」P26〜28 新潮社 S59.12.1
※21.人間の力ではどうにもならないもの。又、人間の思惑とは無関係に働くもの。例として神々や大自然、宇宙などが挙げられる。
※22.河合隼雄『ユング心理学入門』培風館 1967.10.30 P241
※23.※13に同じ。P21

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