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『日本永代蔵』巻二ノ一心理学考〜藤市の娘〜
安澤出海 H14.10/12
 藤市の娘は、「親の世智なる事を見習ひ、八才より墨に袂を汚さず。節句の雛遊びをやめ、盆に踊らず。毎日、髪かしらも自梳きて、丸曲(まるわげ)に結て、身の取廻し人手にかゝらす(ママ)。引ならひの真綿も、着丈堅横を出かしぬ。」
 つまり、親(藤市)の倹約を見習って子供のうちから自らも倹約に精を出すのである。
 この藤市の娘の心理状態をフロイト理論で読み解いてみる。ただし、私個人の意見は、第二章で別に述べる。
 尚、藤市の娘については、『永代蔵』以外にも『古今犬著聞集』(※1)巻五の十七「藤屋市兵衛か事」にもあるが、『古今犬著聞集』がどのくらい真実を伝えているか(※2)、あるいは『永代蔵』がどのくらい脚色しているのかよく分からない。従って、ここでは実際の藤市の娘像を追い求めることはせず、『永代蔵』の中の像のみを用いる事にする。

1.フロイト的解釈
 藤市の娘が藤市に倣って倹約生活を送るようになるのは、エレクトラ・コンプレックス(Electra Complex)の概念で説明できる。
 エレクトラ・コンプレックスとは、フロイト心理学の基本概念であり、男の子に限定されていたエディプス・コンプレックス(Oedipus Complex)を女の子にも適用した概念であるが、広義にはどちらもエディプス・コンプレックスと呼ぶ場合もある。
 エディプス・コンプレックスとは、ギリシャ悲劇「オイディプス王」(※3)に由来するもので、無意識内に存在する、子供(男児)の、親に対する近親相姦的な葛藤のことである。
 エディプス・コンプレックスの時期になると、男の子も女の子も相手の性器の違いに気付く。(略)女の子は自分にはオチンチンがない、これはひどく損をしたと感じ、しばしば「自分もあんなのが欲しい」と思い、遂にはペニス羨望に陥る。(※4)
 ペニス羨望(penis envy)とは、女性が男性性の象徴でもある男根を持っていないことを知った時に抱く、男性への羨望、ひいては嫉妬や憎悪の感情で、これが母親に向かう場合、母親は男根を持たない存在として、女の子の心の中での「母親の価値は下がり、敵意や競争心を容易に向けることが可能になる」(※5)。藤市の娘が母を見習ったとの記述がないのはこれによるものだろうか。一方、父親に向かう場合、「父親のペニスが欲しいという願望」(※6)、即ち父娘近親相姦的な願望になる。
 さすがに近親相姦になることは稀であるが、フロイトによれば、エディプス・コンプレックス(エレクトラ・コンプレックス)は普遍的なものであるから、藤市の娘もこういった願望を持っていることになるのだ。
 娘の場合には、父は最初の異姓として、その愛を勝ちとりたい存在であり、またそのために娘は父の気に入るような女性になろうとする。いわば父の理想とする女性像が娘の人格形成に大きな影響を与えると言うことができる。(※7)
 そこで藤市の娘は、この願望を充足させるために、父親(藤市)の求める人物像になることによって「父のお気に入りの娘」となって心理的に結びつこうとしたと考えられるのである。
 尚、藤市が求めた人物像とは、例えば多田の銀山を描いた嫁入り屏風を拵えて、「洛中尽を見たらば、見ぬ所を歩行(ありき)たがるべし。源氏・伊勢物語は、心のいたづらになりぬべき物なり」と言っていることからも、徹底した浪費排除、実益志向を反映したものであっただろう。

2.私なりの解釈
 私は第1章で述べたフロイト的解釈を真っ向から否定するつもりはない。そうするだけの判断材料を持たないからだ。
 ただ、なにも近親相姦的な願望やペニス羨望を持ち出さずとも、ピグマリオン効果で説明が可能なのではないだろうか。
 アメリカでローゼンタールという人が、次のような実験をした。
 まず、小学生に何の変哲もないふつうの知能テストをしてもらう。その後で、担任の先生に、「このテストは将来の学力の伸びを確実に予測できるものです。ただ、まだ研究中なので結果を公表することができません。先生にだけ、将来伸びる子の名前を教えましょう。」という。
 それから一年ほどした後で、再び知能テストをしたところ、先生から伸びると教えられた子の知能指数は、そうでない子に比べて明らかに上がっていた。(略)
 ちなみに、彼が選んだ子というのは、実際には五人に一人の割合でランダムに拾い出しただけのことだった。(略)
 このように、そうなるはずだと可能性を心から信じて期待していると相手もその期待に応えるようになる、という現象をこのギリシャ神話(※8)にちなんでピグマリオン効果と呼んでいる。(※10)
 ピグマリオンの神話にもある通り、この効果は教師と生徒の間だけに限られた物ではないが、ここで提示された教師と生徒の関係と効果が、同様に藤市の家庭の中において起こったのではないだろうか。
 藤市は娘に、「いろは哥を作りて誦せ、女寺へも遣ずして、筆の道を教」えていた。また、この物語の最後に出てくる「近所の男子」への「長者に成やうの指南」を、同様に娘にも与えていたかもしれないし、それ以外にも藤市の諸々の始末の理念を伝授していたかもしれない。また、藤市が能動的に働きかけずとも、「子は親の背中を見て育つ」との諺通り、「親の世智なる事を見習」っていた。
 そうなると、娘にとって藤市は父親であると同時に、教師でもあるのである。尤も、藤市父娘の場合に限らずとも、子供にとって親は、(たとえ反面教師であったとしても)人生の師という面がある。
 つまり、藤市が娘に対してプラスの期待を抱いた。父親との関係が良好だった娘はそれに応えようとして藤市の理想とする方向へ突き進んだのである。ただし、藤市の娘が大人としての判断力を備えるようになれば(物語ではそこまでの成長は描いていないし、そもそもそのように成長するとは限らない)、親から与えられた価値観と他の価値観とを比較して、取捨選択を行うようになる。その時は必ずしもその限りではなくなる。
 藤市の店はソビエトのコルホーズではない。商家であるし、情報の集積地でもあったため、人の出入りが激しかったであろう。出入りする人々は情報ばかりでなく価値観も持っているため、藤市の娘もそうした多くの価値観に触れる機会も多かったであろう。
 尤も、先ほどは価値観の取捨選択と言ったが、それは個の確立という近代的な考えに基くもので、親の稼業を継ぐのが当然とされた近世では無理であるか、可能だとしても今以上に多大の労力を必要とするかもしれない。

3.「遊ばすまじき物」か
 本文中に、「いづれ女の子は、遊ばすまじき物なり。」とあるが、これは西鶴の思想だろうか、藤市の考えだろうか。おそらくはその両方だろう。なぜなら藤市の教育方針に沿ったものであるし、西鶴は、遊ばない藤市の娘を「京のかしこ娘」と評価しているからである。
 フェミニズムの観点に立てば、「それでは男の子は遊ばせてもいいのか」と反駁できるかもしれない。しかし私はフェミニストではないので、このような論点には立たない。
 しかしいずれにせよ、「遊ばすまじき物なり」という考えは、否定すべきものであると思っている。なぜならば、遊びは大きな意味を持つからである。オランダの歴史学者・ホイジンガの言葉を借りれば、遊びとは、「生活の中で大きな意味を持っていること、それがある必然的な使命を負っていること、少なくとも何か有益な務めを果たしていること、この点はどのような科学的な研究や考察の立場からも、その出発点として、一般に異議なく受け入れられている」(※11)のである。
 ホイジンガは「遊び本来の意義を堂々と主張した」(※12)のだが、それは脇へ置くとして(※13)、今は子供にとっての、遊びのもたらす効果について述べたい。
 「科学的な研究」の結果、子供の発達という観点から、遊びには以下のような役割があることがわかっている。(※14)

 1.身体的成長と運動能力の促進: 成長に伴って遊びへの欲求が高まると同時に、遊びの中に含まれるさまざまな反復的な動作は運動能力を高め、成長をさらに促す。
 2.情緒の安定化: 活動欲求や好奇心、集団参加への欲求は、遊びによって満たされる。さらに、遊びに熱中することによって、他の場面で体験した欲求不満や精神的緊張を解消し、情緒を安定させる。
 3.社会性の発達: 仲間との遊びは、他者の感情や意図を読みとり、自分の意志を相手に伝えるといった社会的交渉の技術を学ばせる。また、お互いの欲求の衝突から、けんかに発展することもあるが、けんかは、他者の存在を意識させ、お互いの欲求を調整する必要性を認識させる機会でもある。けんかは社会性の発達の過程で必然的に起こってくる現象なのである。
 4.自発性や自主性の形成: 勉強やお手伝いは大人から義務的に与えられることが多いが、遊びは自分で考え、判断し、決定しなければならない。遊びは自主的な活動をする喜びや楽しみを体験させてくれる。
 5.知的能力の発達: 遊ぶために、子どもたちは、用いる素材や遊具をよく認識し、記憶し、遊び方を工夫したり、ルールをつくって運用せねばならない。そこには、想像力、思考力、判断力、推理力、さらには創造力や言語能力まで総動員され、それらの能力の発達が促される。
 6.人格形成や性的役割の獲得: 親や教師からうけるさまざまな影響を、子どもたちは遊びの中で再現し、認識してゆく。また、遊びの中で、自分と他者との能力の差、性格の差などに気づかされる。それらの体験は、自己概念の形成を促進し、自信や劣等感を生み出してゆく。(※15)

 1に関して言えば、他のものでも代用できる。極端な例を挙げれば、パレスチナ少年兵が軍事訓練を行なっても、「運動能力を高め、成長をさらに促す」のである。ただ、武家の娘なら薙刀などの武術の修練を積む事はあるだろうが、商家の娘なら、体を動かすものといえば家事手伝いくらいのもので、あまり期待はできない。
 2に関して言えば、これは大人にも当てはまる。大人はレジャーやパチンコ、赤提灯、カラオケなどの遊びによって「欲求不満や精神的緊張を解消し情緒を安定させる」のである。もしこの事に疑問をお持ちの方がいたら、試しに遊びの一切を止めてみることをお勧めする。遅かれ早かれストレスが蓄積してイライラし、情緒不安定になってしまうはずである。尤も、子供で試してみることは人道的見地からしてお勧めできないが、やはり同様の効果があるだろう。
 又、こんな事を言う者がいるかもしれない。「遊び以外でも解消する方法はあるはずだ」と。確かに按摩や座禅でリラックスして欲求不満や精神的緊張を解消することは出来る。しかし、子供に按摩や座禅は無いだろうし、日常の家事手伝いや勉強で解消するとは思えない。となると、遊びしかなくなってくるのである。
 3の社会性に関しては、こんな事を言う者がいるかもしれない。「藤市の娘の社会性は、藤市のみせという社会の中で培われる」と。しかし、藤市の店は大人の社会であって、子供の社会ではない。子供の時代を経てから大人になるという発達のセオリーに照らし合わせてみれば、子供としての(未熟な)社会性を身につける前に大人としての(成熟した)社会性を身につけることに無理があるのではないか。
 4に関しては、こんな事を言う者がいるかもしれない。「藤市の娘は自発的に遊びをやめて倹約をしている。だから自発性・自主性は発達している」と。しかし、自発性・自主性とは、自らが自分の価値観に基き、主体的に判断して主体的に行動した場合に言うのであって、まだ親離れをせず、父親の意向をそのまま受け入れたものを自発性・自主性があるとは言わないのである。
 5に関して、「遊び」を「倹約」に置き換えて、こんな事を言う者がいるかもしれない。「倹約をするために、藤市の娘は、用いる素材や道具をよく認識し、記憶し、倹約の方法を工夫したり、ルールをつくって運用せねばならない。そこには、想像力、思考力、判断力、推理力、さらには創造力や言語能力まで総動員され、それらの能力の発達が促される」と。しかし、大人から求められてそれに従ってやる場合と、大人の制止を振り切ってでも自分から求めてやる場合とでは、おのずから効果が違ってくるのである。
 6についての一例を挙げてみる。「男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしく」といったような事を親や教師(江戸時代の場合、教師とは寺子屋や学問所の先生、といったところか。ただし、藤市の娘の場合は、先述した通り、親が教師の役割をも兼務している。)から言われ、例えばままごとをやる場合に男の子は父親役、女の子は母親役を演じる、というふうにである。
 「自分と他者との能力の差、性格の差などに気づかされる」事、「自己概念の形成」と「自信や劣等感を生み出」す事は、私個人の経験から言わせてもらえば、遊び以外のもの、例えば勉強や仕事を通してでも出来あがる。仕事や勉強のやり方から性格差が、成績から能力差が分かってくるし、そこから自信と劣等感が形成され、それらの認識の混合体から自己概念(自分とは何者なのか)が導き出されるのである。但しそれが遊びと同程度の効果があるかどうかはわからない。

 以上見てきた通り、遊びというものは、子供にとって重要なのであり(大人にとっても程度の差こそあれ重要だが)、藤市の娘は遊びの諸効能を充全に享受したとは言い難いのである。尤も、遊びの重要性がわかったのは近現代以降であり、しかも一般的にはその事がまだ充分に認識されていない。無論、西鶴の時代には、遊びの科学的研究はなされておらず、又、ホイジンガもいない。そういう時代に生きた西鶴や藤市が、遊びを低く見ていたとしても不思議はあるまい。

【注釈】
※1.編・朝倉治彦、大久保順子『仮名草子集成 第二十八巻』所収、椋梨一雪『古今犬著聞集』 東京堂出版 2000.9.15 P20
※2.書名に「著聞集」とある通り、人伝てに聞いたような種々雑多な話が収められている。例えば巻五の三「娘を竜宮に送し事」は昔話、巻五の五「亡者智微和尚、受弔事」と巻五の六「病中に魄、寺に参事」は怪談、巻五の六「四子を産事」はオカルト雑誌が好みそうなゴシップである。
 当時、このような話が囁かれていた事は確かだが、それらの話がどこまで真実か、一概に判断できない。
※3.オイディプス王 オイディプスが知らず知らずのうちに父を殺し、母と結婚する悲劇である。フロイトは、この物語が人々の心を打つのは、このような願望があるからだと考え、エディプス・コンプレックスの概念を導き出した。
※4.小此木啓吾・馬場謙一等『フロイト精神分析入門』有斐閣 1977.1.30 P145
※5.※4に同じ。P146
※6.※4に同じ。P147
※7.林道義『父性の復権』中央公論社1996.5.25 P41
※8.ギリシャ神話のピグマリオン 『ギリシャ神話<付北欧神話>』(※9)によると、キプロス島の若き王・ピグマリオンが、自分が彫刻した女性像をまるで人間のように愛していると、やがてその彫像は本物の人間の女性になったという話。
※9.山室静『ギリシャ神話<付北欧神話>』社会思想社1962.7.30 P180-P184
※10.渋谷昌三『心理雑学事典』日本実業出版社1985.10.25 P150〜151
※11.著ヨハン・ホイジンガ、訳・高橋英夫『ホモ・ルーデンス<人類分化と起源>』中央公論社 S38.11.15 P12
※12.河合隼雄『青春の夢と遊び――内なる青春の構造』講談社 1998.5.20 P183
※13.ホイジンガの主張する遊びには、大人がする遊びも含まれている。ホイジンガは寧ろそちらの方に重点を置いているようである。
※14.尤も、子供たちはこのような事を踏まえた上で遊んでいるのではない。遊びたくて遊んでいるだけなのだ。又、遊びの効果はここに挙げたもの以外にもあるかもしれない。
※15.編・大羽しげる(草冠に「泰」)、奥野茂夫『児童心理学』ナカニシヤ出版1984.4.20 P134

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