島民たちはこの時、日本兵とともに戦う決心をしていたそうです。しかし日本軍がこれを押しとどめ、宵闇に紛れて住民をパラオ本島へ避難させました。戦いが長引く中、島民は食料の不足にひどく苦しんだという報告も残っています。
ようやく戦闘が終わったペリリューへ戻った島民たちは、恐るべき光景を目の当たりにすることになります。
米軍の激しい絨毯爆撃により、珊瑚の島はその形を変えていました。そしてそこに転がる夥しい数の日本兵の遺体。
島の人々はこれを見て涙を流し、この地に日本兵の墓地を作ったのです。戦争に巻き込まれ、食料難にあえぎながらも、日本軍の誠意を理解してくれたパラオの人々には、感謝の思いを禁じ得ません。
現在でもこの墓地は島民の手によっていつでも綺麗に掃き清められ、訪れる日本人は驚嘆とともに深い感動に襲われるそうです。
憲法が発布された1981年、国旗と共にペリリュー兵士の歌も作られました。
「ペ島の桜を讃える歌」です。
兵士を桜になぞらえるなど、とても日本的なセンスの歌詞ですが、作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏の二人で、ともにパラオの方です。
一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
|
ニ
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
|
三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫びつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
|
四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
|
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
|
六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
|
七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる
|
八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
|
ペリリュー島の戦闘は、はじめから勝ち目のない負け戦だったでしょう。
「負けると知りながら何故命を落とすのか」と考えてしまう人もいるでしょう。
しかし彼らの死は決して無駄ではありませんでした。戦った日本兵は今もなお、こうしてパラオの人々に慕われています。彼らはその死によって私達とパラオを強く強く結び付けたのです。
島に立つ墓標は「誇りを持って生きよ」と現代の日本人に語り掛けているように、私は感じます。
また1982年には、日本とパラオの心を結ぶ会と日本の青年神職が集まった「清流会」によりペリリュー神社が建立され、天照大神とともにペリリュー戦死者が英霊として祀られました。
ここも墓地と同様、島民によって清浄に管理され、習慣的にこの神社を訪れ戦没者に手を合わせる住民も多いそうです。
境内にはニミッツ提督の言葉を刻んだ詩碑も建てられています。碑文は次のとおりです。
諸国から訪れる旅人達よ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
戦いの後、かつての敵をこうして称えるニミッツ提督。
この島には、憎しみを溶してしまう不思議な力が宿っているのかも知れません。
|