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日出づる処のニゥス
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青い海の名「オレンジ・ビーチ」
 パラオにはペリリュー島という20平方キロほどの珊瑚礁の島があります。
 太平洋戦争時、日本軍はフィリピン防衛のためペリリュー島に東洋最大規模の飛行場を作っていました。フィリピン攻略を目指すアメリカ軍は戦況を有利に運ぶためにこの島に進軍し、1944年9月ついに島は戦場となります。
 敵の300艘の戦艦に対して日本軍は1万2千名の兵士があるばかり。もとより乏しい武器・弾薬・食料を補給する術すらない文字どおりの玉砕戦でした。ところが日本軍はこれを持久戦に持ち込み、73日間この島を守ったのです。

 11月24日、生き残る日本兵は60人足らずになっていました。
いずれも負傷していて、もはや玉砕以外ありえない状況を悟り、中川大佐、村井少将、飯田中佐は切腹します。これを見届けた兵士達は決死隊となって米軍へ最後の突撃をしかけました。満身創痍ながら激しく戦う日本兵でしたが、劣勢がくつがえるはずもなく、27日までの間にほぼ全員が戦死したそうです。
24日16時に、パラオ本部に中川大佐から1本の電文が届いています。
 「サクラ・サクラ」
軍旗・機密書類をすべて焼き払ったことを伝えるものでした。

 後にアメリカの太平洋艦隊司令官ニミッツ提督はこの戦いについて
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」
と、その著書『太平洋海戦史』で語っています。
 日本軍が仕掛けた魚雷で米軍戦艦が爆破されるたび、青い海はアメリカ兵の血で真っ赤に染まったと言い伝えられています。これを見ていたアメリカ兵が、誰からともなくこの浜を「オレンジ・ビーチ」と呼ぶようになり、現在では「オレンジ・ビーチ」は正式名称になっています。


「ペ島の桜を讃える歌」

島民たちはこの時、日本兵とともに戦う決心をしていたそうです。しかし日本軍がこれを押しとどめ、宵闇に紛れて住民をパラオ本島へ避難させました。戦いが長引く中、島民は食料の不足にひどく苦しんだという報告も残っています。
 ようやく戦闘が終わったペリリューへ戻った島民たちは、恐るべき光景を目の当たりにすることになります。  米軍の激しい絨毯爆撃により、珊瑚の島はその形を変えていました。そしてそこに転がる夥しい数の日本兵の遺体。  島の人々はこれを見て涙を流し、この地に日本兵の墓地を作ったのです。戦争に巻き込まれ、食料難にあえぎながらも、日本軍の誠意を理解してくれたパラオの人々には、感謝の思いを禁じ得ません。
現在でもこの墓地は島民の手によっていつでも綺麗に掃き清められ、訪れる日本人は驚嘆とともに深い感動に襲われるそうです。

 憲法が発布された1981年、国旗と共にペリリュー兵士の歌も作られました。
 「ペ島の桜を讃える歌」です。
 兵士を桜になぞらえるなど、とても日本的なセンスの歌詞ですが、作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏の二人で、ともにパラオの方です。

  一
  激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  強兵(つわもの)たちはみな散って 
  ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
  ニ
  小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち 
  弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
  三
  将兵(ヘいし)は”桜”を叫びつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し
  四
  日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日(あす)は散る
  ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
  玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
  五
  今守備勇士(もののふ)の姿なく
  残りし洞窟(じんち)の夢の跡
  古いペ島(じま)の習慣で
  我等勇士の霊魂(たま)守る 
  六
  平和と自由の尊さを
  身を鴻(こな)にしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る
  七
  どうぞ再びペリリューヘ
  時なし桜花(さくら)の花びらは
  椰子の木陰で待ち佗(わび)し
  あつい涙がこみあげる    
  八
  戦友遺族の皆さまに
  永遠(いついつ)までもかわりなく
  必ず我等は待ち望む
  桜とともに皆さまを

ペリリュー島の戦闘は、はじめから勝ち目のない負け戦だったでしょう。 「負けると知りながら何故命を落とすのか」と考えてしまう人もいるでしょう。 しかし彼らの死は決して無駄ではありませんでした。戦った日本兵は今もなお、こうしてパラオの人々に慕われています。彼らはその死によって私達とパラオを強く強く結び付けたのです。

島に立つ墓標は「誇りを持って生きよ」と現代の日本人に語り掛けているように、私は感じます。

また1982年には、日本とパラオの心を結ぶ会と日本の青年神職が集まった「清流会」によりペリリュー神社が建立され、天照大神とともにペリリュー戦死者が英霊として祀られました。
 ここも墓地と同様、島民によって清浄に管理され、習慣的にこの神社を訪れ戦没者に手を合わせる住民も多いそうです。  境内にはニミッツ提督の言葉を刻んだ詩碑も建てられています。碑文は次のとおりです。

  諸国から訪れる旅人達よ
  この島を守るために日本軍人が
  いかに勇敢な愛国心をもって戦い
  そして玉砕したかを伝えられよ

戦いの後、かつての敵をこうして称えるニミッツ提督。
この島には、憎しみを溶してしまう不思議な力が宿っているのかも知れません。

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