パラオが念願の独立を果たした現在、日本とパラオの関係はどのようになっているのでしょう?世界中からうらやまれるほどの友好国になっていてもおかしくはないのですが・・まずは残念なお話をしなければなりません。
以下に転載するのは、パラオ銀行の創設者、増田俊男氏のホームページ『増田俊男の時事直言』No.22の一節です。
「村山内閣が誕生した1995年の10月1日、パラオでは独立1周年を祝う式典がくりひろげられた。各国の元首から祝電が届き、米国海兵隊のパレ−ドやチャ−タ−機で乗り付けた台湾の歓迎団、アジア諸国の民族ダンス等が式典場のアサヒグランドを埋めつくした。
(中略)
この日各国の代表が振る色とりどりの国旗の中に日の丸の旗は無かった。そして全パラオ人が待ち望んだ日本政府からの祝電を読む声は遂に聞くことが出来なかった。私より何百倍もナカムラ大統領は悲しんだ。
私に同伴して式典に出席した江尻真理子氏と私は金持ちになった日本人ではなくパラオのペリリュ−島の激戦で戦死した日本兵1万2千名の精霊を代表して日本政府の無礼を大統領に深く陳謝した。
悲しみと、怒りに大統領の指がわずかに震えていた」
パラオは独立以前、世界で唯一非核憲法を掲げた国として注目されたことがありました。日本でもこの憲法を熱烈に支持した左派勢力が、パラオへの非核ツアーを組んだほどでした。
しかしパラオは、アメリカからの独立と言う悲願達成のため、この非核条項を住民投票によって修正したのです。
この決定までには、全8回の住民投票が実施され、要した年月は10年、その間ふたりの大統領が謎の死をとげるという多大な産みの苦しみがあるのですが、闇雲に非核憲法を支持したグループは、この経緯には目もくれず、まるでアメリカとの有利な取り引きのため非核の理想を捨てたとでもいうような評価を下したのです。
社会党(当時)の村山氏がこの憲法改正に対してどのような見解を持っていたか・・いえいえ、憶測は控えましょう。
まさか、こんな小学生のような理由で独立式典を無視したのではないですよね?村山さん。
パラオを独立という遠大な理想に目覚めさせたのは日本だったでしょう。パラオの独立は日本の夢でもあったはずです。でも日本は戦争に負けてしまいました。
本国自体がどうなるかも分からないようになり、経済的に立ち直って以降も、アメリカの統治下にあるパラオに、手を貸すことすらはばかられる立場に陥った日本は、
南洋を忘れてしまったかのような態度を取ってきました。
しかしパラオの人々は違ったのです。揺れ動く国際情勢の中、遠く離れた日本への愛着を変わることなく抱きつづけていたのです。
もしも日本政府がこんな対応を続けるなら、いずれこのかけがえのない友情まで失う事となるでしょう。
気の早い話ながら2004年は独立10周年です。二度とこのような失態のないよう切に望みます。
でも、明るいニュースもたくさんあります。
パラオでは首都コロールと東京都が姉妹都市となる事を求めていて、石原都知事も乗り気の姿勢を見せています。すでに三重県とパラオ共和国は、クニオ・ナカムラ前大統領の実父が三重県伊勢市の出身である縁で、1996年に姉妹都市となっていて活発な交流がなされています。
東京とコロールも姉妹都市となれば、もっと直接にパラオの人々と接する機会が出来ます。是非、実現していただきたいものです。
三重県とパラオの交流の様子はこちらで見られます。
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