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日出づる処のニゥス
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アメリカ信託統治時代
 日本の敗戦によりパラオは、1947年からアメリカの信託統治領となりました。アメリカ人は現地に想像以上の日本文化が根づいていることに驚き、日本的なものをすべて破壊しました。
 みんなで耕した畑は掘り返され、道路もはがされたそうです。南洋神社が取り壊されたのを悲しみ、日本神道にちなんだイシドウロウという名前を子供につけた人もいました。南洋神社は、毎朝村人が集まり、日本海軍岡田中将から「この美しいパラオを一日も早く自分たちの手で治めるようにせよと」と訓示を受けた思い出の場所だったのです。  後に南洋神社は現地人と清流会によって再建されています。
 信託統治というのは国連で定められた制度で、その国を独立へと導くために援助、指導するものなのですが、どうもアメリカは、軍事に於いて重要な位置にあるミクロネシアを出来るだけ長く統治下に置き、いずれはアメリカに併合しようと考えていたようです。60年代初頭に作られたソロモン・レポートには、いかにしてミクロネシアを併合するかについての綿密なプランが書かれています。
 アメリカ政府では「ソロモン・レポートは結局採用されなかった」と話していますが、どうでしょう。本当にこの国を独立させようとするならば、日本が築いた物と同等かそれ以上の産業・教育システムを整備しているはずです。
 ところがアメリカの政策は単純な財政援助ばかり。さらに注目すべきは、他の信託統治国が次々に独立をはじめると、ますます援助の額が増大している点です。  ミクロネシアは援助づけとなり、アフリカ等に比べて大幅に独立が遅れました。
 発展性のない社会の中、金銭だけは援助されるという状況では、人々の勤労意欲も低下しがちです。日本時代の勤勉さ、治安の良さはあっという間に失われ、社会に違法ドラッグが忍び込んで来るのにもそれほど時間はかかりませんでした。
 パラオの長老方に「日本時代が一番良かった」と話す人が多いのには、こういった事も原因しているようです。

国際連合憲章

パラオの歴史教科書

 アメリカの統治が終わったのは1994年。パラオはついに独立し、世界で最も新しい国家となりました。
 独立後「歴史を奪われたままでは真の独立国とは言えない」という声がパラオ国民の間にあがり、1997年、パラオ初の国定パラオ史教科書が作られました。  日本がこの国を立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり、しばらくの間は、アメリカ人教師による目に余る反日教育が行われていたようです。
 歴史の授業ではアメリカで作られた教科書が使われ、ごく一部ながら、日本人による「パラオ人虐殺事件」などの掲載された反日的歴史教科書もあったのです。ところがパラオの年長者が「そんな話はない」とにべもなく否定したため、この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。

 国定教科書では全462ページのうち36ページが日本統治時代にあてられ、章には「日の丸の旗のもとに」とタイトルがつけられています。 日本がパラオを支配するようになった経緯だけでなく、日本の行った学校教育、産業・経済活動等についても詳しく述べられています。 学校教育については、当時の日本式の教育方針がそのまま持ち込まれていて、「日本人は体罰を使って非常に厳格なしつけを行った」としながらも、「一年生ですらかけ算の九九を暗記することができた」等、教育水準の高さも語られています。
 さらに「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたくて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席し、子供がなしとげた誇りを分かち合った」と、身分を問わず努力次第で公平に認められる社会を構築した成果についても書かれていて、日本教育を経験した人の「学校の厳しいしつけが人生に役立った」というコメントも載っています。
 産業に関する記述にも同じスタンスがうかがえます。 「労働はきつく給料は安かった」とあり、「労働時間は午前6時から午後5時までで、1時間半の昼食休憩があり、週6日間働いた」と言いますから、暑い土地での肉体労働であったことも考え合わせると、確かに重労働です。
 しかし、「1年半働くと、7日間の一時帰休と永久就職の保証が与えられた。15歳以下の者は雇用されなかった」と、現代で言う福利厚生、労働基準のようなもの定められていた事実も続けて記されていて、同時に「日本統治のもとで、パラオの島々の経済発展は産業の強化をもたらした」と農業、漁業、鉱山業の発展について公平に評価がなされています。
 日本統治時代について賛美でも糾弾でもなく、実に冷静な視点で事実が教えられている。と言うのがこの教科書の特徴です。 「当たり前でしょう」と言う声も聞こえてきそうですが、これがそう簡単ではないことは日本の教科書問題が証明しています。

日本語訳転載元
『呪縛の近現代史 歴史と教育をめぐる闘い』藤岡信勝著 徳間書店

 パラオでは日本の教科書問題に非常に協力的で、国会の議題にあがることすらあります。前出のスティーブ・ウメタロウ議員らが中心となって日本に真の歴史を。と働きかけてくれているのです。
 またパラオ共和国を独立へと導いたクニオ・ナカムラ前大統領は、「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同する署名もしていて、大統領専用の便箋に記された署名文書には、心に迫るコメントが添えられています。

<<日本国民と日本人が「どの民族も例外なく持っている自国の正史を回復すべく」努力している活動を支持する。 この活動が実を結ぶことは、日本の未来の世代をして、偉大なる自国の歴史、伝統、文化に目を見開かせることに積極的な貢献をなすだろう>>

 他国の人々がこんなにも心配してくれる日本の歴史を、日本文部省はどうするつもりなのでしょう?
「諸国に配慮ある記述を」と言いながら、配慮の対象は東アジアの一部の国だけ。南の国の真心は、踏みにじっていいものでしょうか?


南の島の友人

パラオが念願の独立を果たした現在、日本とパラオの関係はどのようになっているのでしょう?世界中からうらやまれるほどの友好国になっていてもおかしくはないのですが・・まずは残念なお話をしなければなりません。 以下に転載するのは、パラオ銀行の創設者、増田俊男氏のホームページ『増田俊男の時事直言』No.22の一節です。

 「村山内閣が誕生した1995年の10月1日、パラオでは独立1周年を祝う式典がくりひろげられた。各国の元首から祝電が届き、米国海兵隊のパレ−ドやチャ−タ−機で乗り付けた台湾の歓迎団、アジア諸国の民族ダンス等が式典場のアサヒグランドを埋めつくした。
(中略)
 この日各国の代表が振る色とりどりの国旗の中に日の丸の旗は無かった。そして全パラオ人が待ち望んだ日本政府からの祝電を読む声は遂に聞くことが出来なかった。私より何百倍もナカムラ大統領は悲しんだ。
 私に同伴して式典に出席した江尻真理子氏と私は金持ちになった日本人ではなくパラオのペリリュ−島の激戦で戦死した日本兵1万2千名の精霊を代表して日本政府の無礼を大統領に深く陳謝した。
 悲しみと、怒りに大統領の指がわずかに震えていた」

パラオは独立以前、世界で唯一非核憲法を掲げた国として注目されたことがありました。日本でもこの憲法を熱烈に支持した左派勢力が、パラオへの非核ツアーを組んだほどでした。
 しかしパラオは、アメリカからの独立と言う悲願達成のため、この非核条項を住民投票によって修正したのです。
 この決定までには、全8回の住民投票が実施され、要した年月は10年、その間ふたりの大統領が謎の死をとげるという多大な産みの苦しみがあるのですが、闇雲に非核憲法を支持したグループは、この経緯には目もくれず、まるでアメリカとの有利な取り引きのため非核の理想を捨てたとでもいうような評価を下したのです。
 社会党(当時)の村山氏がこの憲法改正に対してどのような見解を持っていたか・・いえいえ、憶測は控えましょう。 まさか、こんな小学生のような理由で独立式典を無視したのではないですよね?村山さん。

パラオを独立という遠大な理想に目覚めさせたのは日本だったでしょう。パラオの独立は日本の夢でもあったはずです。でも日本は戦争に負けてしまいました。
 本国自体がどうなるかも分からないようになり、経済的に立ち直って以降も、アメリカの統治下にあるパラオに、手を貸すことすらはばかられる立場に陥った日本は、 南洋を忘れてしまったかのような態度を取ってきました。
 しかしパラオの人々は違ったのです。揺れ動く国際情勢の中、遠く離れた日本への愛着を変わることなく抱きつづけていたのです。 もしも日本政府がこんな対応を続けるなら、いずれこのかけがえのない友情まで失う事となるでしょう。 気の早い話ながら2004年は独立10周年です。二度とこのような失態のないよう切に望みます。

 でも、明るいニュースもたくさんあります。
 パラオでは首都コロールと東京都が姉妹都市となる事を求めていて、石原都知事も乗り気の姿勢を見せています。すでに三重県とパラオ共和国は、クニオ・ナカムラ前大統領の実父が三重県伊勢市の出身である縁で、1996年に姉妹都市となっていて活発な交流がなされています。
 東京とコロールも姉妹都市となれば、もっと直接にパラオの人々と接する機会が出来ます。是非、実現していただきたいものです。
 三重県とパラオの交流の様子はこちらで見られます。

三重県国際チーム

 また、産業分野でもさまざまな協力関係が築かれつつあります。 そのひとつにパラオのオーガニック農業があります。
 これは、パラオが独立したその日、パラオ大統領が直々に「国起こしのアイディアはないだろうか」と盛田と言う会社に相談を持ち掛けたのがきっかけで始まった一大プロジェクトです。
 国家の産業作りを目指すパラオと、盛田の有機農法の夢が合致し、パラオはオーガニックの国として、新たなセールスポイントを獲得する事が出来るかもしれません。 将来的には、パラオで収穫された有機野菜をその日のうちに日本に空輸することも可能だそうです。
詳しくはこちらの本家サイトをご覧になってください。

http://www.pof.co.jp/

 パラオは観光収入で支えられている国でもあります。南のリゾートへの旅行を考えている方は是非パラオへ! どこの国に出かける場合にも同じですが、遊びに行くのですから、多いに楽しんで来てください。でも、マナーのない行動は慎んでいただきたいものです。特に美しい海とビーチは、パラオの生命線です。決して砂浜にごみや吸い殻を捨てたりしないで下さい。
 もっとも、珊瑚礁に「K・Y」なんて落書きするダイバーはまさかいませんよね。 「なんの話だ?」と思った人はここを見てくださいね。
http://gomushi.tripod.co.jp/antijp/mass/002.html#sango
http://isweb44.infoseek.co.jp/art/asahilog/

 珊瑚礁と言えば、今、全世界でサンゴの白色化が進んでいます。
地球の温暖化が主な原因です。サンゴの生育できる水温は30℃が上限で、これを超えると白色化が起こり、死んでしまうのだそうです。 地球温暖化は海面上昇という事態もまねきます。ミクロネシアのような島嶼国はまず真っ先に危機にさらされます。現実に「無人島が消えた」「海岸付近の農作物に被害が出始めている」という恐るべき報告がされています。
 地球温暖化。なんと強大な敵でしょう。これは日本も含む地球全体の問題であり「ミクロネシアのため」というのはおこがましい限りですが、温暖化の原因となる二酸化炭素の排出量は先進国が圧倒的に高いのです。行政の早急な対応を期待するとともに、私達も個人で出来る事を実行しましょう。普段から言われている「地球に優しい」行動を心がけるだけでいいのです。
 ペットボトルはリサイクルへ。アイドリングは控える。etc・・ 面倒だな。と思ったら、少しだけこの南の島の友人を思い出してみて下さい。
温暖化に関するページ
http://www.ecology.or.jp/9705/earth.html
http://www.ersdac.or.jp/TechnicalTopics/aster_J/topic10.html
http://www.asahi-net.or.jp/~pr4h-wtb/zatu9.htm

心をつなぐKBブリッジ

 パラオ本島とコロール島の間に約200メートルの橋が架かっています。これがKBブリッジです。実はこの橋は1996年に一度崩落しているのです。

 KBブリッジは、「Koror-Babeldaob Bridge」 の名前のとおり首都コロール島と空港のあるバベルドアブ島を繋ぐ橋で、島国パラオの交通の要衝として1977年に開通しました。
 建設するにあたり日本の鹿島建設も見積りを出したのですが、韓国の下請け会社が日本の半額で落札し、工事を行いました。ところがこれがひどい手抜き工事だったようです。コンクリートの固め方でさえでたらめだった。と言いますから恐ろしい限りです。その様子をつぶさに見ていた現地住民は当初からこの橋に不安を抱いていたようで、車で橋を渡るときは、もし海に落ちてもすぐ逃げられるようにと必ず窓を開けていたそうです。
 また、竣工直後から橋の中央部がたわみはじめ、15tだった通過制限重量がすぐに10tにまで減らされました。このたわみはやがて、通過する時おかしな揺れを体感できるほどに大きくなり、崩落事故の起きる頃には、徐行運転で渡るほかないという状態に陥っていたのです。

崩落前のKBブリッジの写真

そして1996年9月28日、悪夢は現実となります。
KBブリッジは突如真っ二つに折れ海に突き刺さりました。
崩落したKBブリッジの写真1.2.3

たまたま通行車両の少ない時間帯だったのですが、1名死者も出てしまいました。
 橋の内部には電線、水道、電話線が通されていたため、パラオのライフラインは分断され首都機能は麻痺。一時は国家非常事態宣言も出されました。この時、パラオと姉妹都市の三重県からはコンテナ空輸で飲料水が運ばれています。

 パラオ政府は、すぐに橋を造った韓国の業者に賠償請求しようとしたのですが、この時すでにこの会社は解散していて、手がかりすらなかったそうです。 これは一体どういうことなのでしょう?この建設会社は1994年にソウルで崩落した橋を施工した業者でもあったというのです。
 ともかく途方に暮れるばかりのパラオ政府だったのですが、日本ではまず仮設橋の建設を援助し、日本のODA政府開発援助により約30億円の新たな橋を無償で架ける事になりました。施工にあたったのは因縁の鹿島建設です。工事中、現地の人達は「カシマ」という言葉を覚え、日本人を見掛けると「ありがとうカジマ」と声をかける子供もいたそうです。

 実に5年の年月をかけ、橋は完成しました。 2002年1月11日、開通式典が開かれ、橋の新しい正式名称が発表されました。
その名も「Japan−Palau friendship bridge」
 太平洋上を走るこの橋は、3000kmの距離を越えてパラオと日本に新たな時代の友情を結ぶ、「友好の橋」なのです。

完成した新しいKBブリッジの写真1.2

参考文献・ホームページ

『日本人の足跡 世紀を超えた「絆」求めて1』
        産経新聞「日本人の足跡」取材班
『南洋通信』中島敦
『呪縛の近現代史 歴史と教育をめぐる闘い』藤岡信勝
『アメリカ極秘文書と信託統治の終焉』小林泉

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20010503.html
http://www1.ocn.ne.jp/~knippon/parao.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1210091.htm
http://www.pauline.or.jp/asia/asia06.html
http://www.tomisho.co.jp/sport/localinfo/palau/generalinfo.html
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe059/19990812tk.htm
http://www06.u-page.so-net.ne.jp/fa2/redfield/0506.htm
http://www2.justnet.ne.jp/~masayoshi_fuse/nagoshi/nagoshi.htm http://www.luvnet.com/~sunraworld2/index.html



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