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日出づる処のニゥス
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太平洋の満月

 パラオ。ミクロネシアに浮かぶ300以上の島々で構成されるこの国は、ダイバーなら知らない物は居ないほどのスキューバ天国。とにかく海が綺麗です。海洋性熱帯気候で日中の平均気温は30℃を超えます。
 飛行機だとグアムから南東に2時間。首都を擁するコロール島が明石市と同じ東経135度にあるため日本との時差はありません。  砂浜、ヤシの木、トロピカルフルーツ・・南の島はいいですね。思い浮かべるだけでワクワクしてきます。まるで別世界のようです。  でもこの美しい国と日本は、実は分かちがたい間柄にあるのです。

 この国の国旗をご存知でしょうか。
     パラオ国旗 http://www.flag.or.jp/nf/pw.html

 この旗は、青い海と満月をデザインしていて、1981年憲法を作り自治政府を発足した際、一般公募により選ばれた物です。お気付きの通り、日本の国旗に良く似ています。そう!この旗のモデルは日の丸そのものなのです。  月と海は愛、平和、静穏、豊穣を表現するとともに「月は太陽があってこそ輝く。我々パラオは月のように日本から命を受けて光っている」という意味が込められているそうです。満月が少しだけ左に寄ってるのは、真ん中ではあまりに似すぎて日本に失礼との配慮からです。  パラオは大の親日国なのです。  日本とパラオは戦争により出会いました。二国の関係は朝鮮半島でのそれと同じように日本による占領・統治だったのです。それなのに何故、パラオの人々は日本を愛してくれるのでしょう?

パラオの写真はこちらに WOOD LAND

南洋庁

  パラオの歴史は占領・支配の歴史でした。  1543年スペインがこの島々を発見したことから植民地時代が始まり、1899年に統治権はスペインからドイツに売却されます。その後 1914年、第一次世界大戦の勝利により日本軍がこの国を含むミクロネシアの島々を支配するようになりました。パラオのコロール島には南洋庁本庁が置かれ、南洋統治の重要な拠点とされました。日本からの移民もさかんとなり、一時は2万5千人近くの日本人がこの国に暮らしていたと言います。

 日本政府は、パラオの発展に努めました。パラオの町に電気をともし、市場経済を根づかせ、それまで氏族(資料によっては士族と表記)の独占していた財産の所有権も個人に分配されました。道路を整備するとともに島と島をつなぐ橋も数多く建設しています。  教育においては現地の子供たちのための公学校が設置されて日本語、算数、理科などが教えられました。  缶詰工場やビール工場も作られ、日本から渡った熟練者が現地の人々の指導に当たりました。サトウキビの栽培、真珠の養殖なども日本時代にこの地に定着した産業だそうです。日本から医師が渡り、薬のある医療施設が設けられたことも大きな功績といえるでしょう。
 パラオ共和国の代表的な土産物のひとつに「ストーリーボード」という土地の歴史や風俗を描いた木製ののレリーフがありますが、これは当時美術教師として現地に赴任していた日本のゴーギャン、土方久巧が創始者だと言われています。  この頃パラオに移住していた日本人には、小説「山月記」の中島敦もいます。中島氏は南洋庁国語編纂書記として渡航していて、帰国後に発表された「南洋譚」「環礁」などの作品に当時のパラオの様子を見ることができます。

 パラオの人々は日本から勤勉の尊さを教わったと語ります。  それまでの搾取するだけだった白人支配者と違い、先頭を切って畑を耕し、汗を流して土木や建築作業にあたる日本人、生真面目に仕事にあたり、パラオの発展に尽力する日本人の姿に、純朴なパラオの人々はわだかまりを解き、やがて心が通い合うようになったのです。


パラオ人の創氏改名!?

 パラオには「日系人?」と勘違いしてしまうような日本風の名前の人が大勢います。  なにか「ええ!また小難しく差別とか歴史の検証しなきゃいけないの?」と思ってしまいそうですが、ご安心を。これは現地の人が尊敬する日本人の名をとって自らの名字や子供の名前にした物です。日本人に頼んでつけてもらったというケースもあるようです。
 国会議員に「スティーブ・ウメタロウ」という人が居ますが、この人もその一例です。「ウメタロウ」が名字です。彼の祖先がウメタロウさんという日本人と何か縁があったのでしょう。  残念ながらウメタロウ氏について具体的な資料は見つかりませんでした。何か発見できたら改めてここに紹介したいと考えていますが、これでいいのかもしれません。ウメタロウ氏は、後に名を残したくてパラオに厚情を注いだのではないのですから。
 名前のほかにもパラオには「センキョ」「デンワ」「ゴミステバ」「キンロウホーシ」「ダイクサン」「ツカレテ(疲れた)」や、もう日本では使われなくなった「チチバンド」など日本統治時代の名残を感じさせる言葉がたくさん残っています。

 日本にも、パラオにちなんだ地名があります。宮城県蔵王町の北原尾(キタハラオ)という町がそうです。
 終戦により南洋から引き上げてきた人々の受け入れ地となっていたこの土地は、当初はまったくの荒地だったのだそうです。引き上げ者たちは「パラオ時代の夢を忘れず、パラオのように実り豊かな土地にしよう」との思いからこの地を北のパラオと名づけ、わずか34戸の集落ながら開拓に励みました。そのかいあって現在の北原尾は緑豊かな酪農地です。

 2001年には、パラオ共和国の大統領がゆかり深い北原尾を訪問しました。

北原尾の写真はこちらに Kiyo's Page

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