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前後期制時代のパ・リーグ
1973年から82年までの10年間、パ・リーグは2シーズン制とプレーオフ制度を施行していた。 1年を65試合ずつの前期・後期に分け、それぞれの優勝チームがプレーオフで年度優勝を争うという形式である。 いわばJリーグの第1、第2ステージ、チャンピオンシップのようなものだ。 この導入はパ・リーグの不人気打開のため打ち出された。 前期と後期の2度の山場、そしてプレーオフと、1年に3度の優勝争いをファンに提供することで、 少しでも観客動員を増やそうという、苦肉の策である。しかも 前後期制導入の前年、72年オフといえば、パ・リーグにとって存亡の危機を迎えた年だった。 かつて日本シリーズ三連覇した西鉄ライオンズが太平洋クラブをスポンサーに福岡野球株式会社に転身、 更に年明けには東映フライーヤズが日拓ホームに身売りされるという、かつてない激震に見舞われていた。 それもあって、一部の反対を押し切って前後期とプレーオフ制度実施に踏み切ったのである。では、 前後期制の10年とはどのようなものだったのか。具体的な戦績は「パリーグ前後期成績1973-82」 を参照いただくとして、ここでは各年度毎の動向を、順に振り返ってみよう。

■1973年 南海の「死んだふり優勝」
太平洋のド派手な赤いユニホームと日拓の伝説のあのレインボー・ユニホーム(後期のみ)が顰蹙を買ったこの年、 2シーズン制初年度の王者となったのは、古豪・南海ホークスだった。 66年以来優勝から遠ざかっていた南海は、野村克也選手兼任監督が率いて4年目のこの年、まず 前期を制した。その原動力になったのは巨人から富田勲との交換トレードで獲得した山内新一と松原明夫の2投手、 特に山内だった。前年0勝の山内が、前期だけで何と14勝。 のちに「野村再生工場」と言われたが、山内の制球の良さを活かした、キャッチャー野村のリードの賜物だった。
一方、後期は、2連覇中の西本幸雄監督の阪急ブレーブスが実力通りの優勝を果す。
と、ここまでは良いのだが、問題は後期の南海の戦い振りである。 後期が3位(通算でも3位)だったのはいいとして、優勝した阪急には12敗1分と、ひとつも勝てない一方的な展開だった。 ここから疑惑が持ち上がる。つまりプレーオフの相手を阪急に絞り、手を抜いたのではないかと噂されたのだ。 野村がその質問ににやにやと笑って否定もしなかったことも疑いに拍車をかけた。 当時野村、38才。昔からタヌキだったようである。
そして注目のプレーオフ…と言いたいところだが、同時期、セ・リーグでは、 V9を狙う巨人と、9年振り優勝を目指す阪神とが激烈な争いを行っている最中であり、野球ファンの目はそっちに釘付け。 折角のパ・リーグ最初のプレーオフもやや気の抜けた雰囲気の中で行われた。
結果は、3勝2敗で南海の優勝。日本シリーズでも5連敗の西本阪急は「短期決戦に弱い」との汚名をまたも覆すことができなかった。 しかも2勝2敗で迎えた最終戦、公式戦5本塁打のスミスと0本塁打の広瀬叔功の連続本塁打で試合が決まるという 意外な結末だった。こうして南海が10度目の、そして結果的には最後となったリーグ優勝を果した。
しかし日本シリーズでは、巨人に1勝4敗。V9巨人の壁を破ることはできなかった。

■1974年 「カネやんダンス」でロッテ日本一
日拓はたった9ヶ月でフライヤーズを日本ハムに身売り、この年からファイターズとなった。 その前期は、この年近鉄に去った西本監督から37才の上田利治監督に代った阪急が、前年後期に続く、"連覇"。
後期は、前年の前期から3季連続2位だったロッテ・オリオンズが優勝を果す。ロッテの監督は、就任2年目のカネやんこと不滅の400勝投手・金田正一。 2シーズン制では、投手力が最重要ポイントだが、この時のロッテも弱い打線を金田監督の実弟・留広、村田兆治ら投手力でカバーしての勝利だった。 ちなみにロッテには、何と投手コーチがおらず金田監督自ら管理し、おまけにバッティングにも口を出すという、 文字通り金田正一のワンマン・チームだった。 「ラッキー・エイト」と称して、8回になると金田監督がコーチャース・ボックスに立ち、 「カネやんダンス」と言われた屈伸運動を行うことが名物となったり、 太平洋との乱闘・遺恨試合を繰り広げたりと、何かとお騒がせの優勝でもあった。
そしてプレーオフではロッテが3連勝と圧倒、年間通算でも1位と、文句なしの優勝を遂げた。
しかし、またしてもパには注目が集まらない。
セでは、巨人がV10に失敗、そして「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄が引退を表明していたのだ。 東京スタジアムを失った"ジプシー球団"のロッテは、長嶋引退試合の3日後から同じ後楽園球場を借りて 始まった日本シリーズで中日を相手に4勝2敗で勝利を収め、 オリオンズ24年振り、パとしても10年振りの日本一を果す。 しかしカネやんに言わせれば、長嶋引退に気を取られていたファンの関心はサッパリだったとのことである。

■1975年 阪急、「師弟対決」を制す
セでは長嶋新監督の巨人が泥沼の最下位に沈み広島カープが赤ヘルで初優勝したこの年、指名打者(DH)制が採用されたパでも変化の波が押し寄せていた。 前期は例によって阪急が優勝したものの、後期は球団創設25年間で最下位14回だった近鉄バファローズが 独走で優勝を決めたのである。 阪急から移って就任2年目の闘将・西本監督が主砲・土井正博を切ってまで若手を鍛えた成果が現れた。 この結果プレーオフは「師弟対決」となったが、上田阪急が3勝1敗と「恩返し」の優勝。 2年間、プレーオフで敗れ続けて来た阪急が漸く勝利し、逆にまたしても西本監督は短期決戦に泣かされた。 前年のドラフトで近鉄は1番くじを引きながら、この年の社会人ナンバーワンの山口高志の指名を回避し、 山口は阪急が獲得した。 その山口はリリーフエースとして活躍、このプレーオフでも近鉄をぴしゃりと抑えた。 近鉄にとっては痛恨の結果となった。 ただ阪急は後期は最下位で、年間通算でも1位は近鉄、2位が阪急だったので、 一昨年度の南海に続き前後期制の矛盾が現れた形になった。
阪急は日本シリーズでも広島を4勝2分と圧倒し、初の日本一達成。

■1976年 阪急、悲願の「打倒・巨人」達成
赤でもまだ目立ち足りないと思ったのか、太平洋はこの年、ワインレッドを基調に巨大な胸番号を入れた新ユニホームで登場して 野球ファンの度肝を抜いた。しかしユニホームで勝てるほど甘くはない。 阪急が前後期とも制する完全優勝を果したので、この年は初めてプレーオフが行われなかった。「強い阪急」に、そろそろ2シーズン制廃止論、プレーオフ不要論が出始めた頃である。 エース山田久志が26勝。以後、セパでこれを越える数字は生まれていない。
巨人との日本シリーズで阪急は3連勝から3連敗を喫してまたしても巨人に敗れるのかと思われたが、 最終戦ではベテラン足立光宏が足を痛めながらも好投、伏兵・長髪に口ヒゲとサングラスの森本潔の逆転2ランが飛び出し、 2年連続日本一。6度目の挑戦で遂に悲願の打倒・巨人を果した。

■1977年 阪急の「黄金時代」到来
ライオンズが太平洋からクラウンライターにスポンサーをスイッチ。そして前期はまたも阪急が優勝。これで「半期3連覇」である。しかし後期は、金田ロッテが6シーズン振りの優 勝。この年入団したレロン・リーが本塁打と打点のニ冠と活躍、また「ミスター・ロッテ」の有藤道世も 初の首位打者を獲得した。そしてプレーオフでもロッテが「王手」をかけたが、連敗して逆転負け。阪急が3連覇を達成した。
勢いに乗る阪急は日本シリーズで再び巨人を4勝1敗で倒し、シリーズでもV3。ここに阪急の黄金時代が到来した。
なお、オフのドラフトでクラウンライターが江川卓(法政大学)を指名したものの江川は「九州は遠い」と称して拒否、 野球浪人した。これが翌年のあの「空白の1日」騒動に繋がっていく。

■1978年 無敵・阪急に訪れた「落日」の時
前期優勝の阪急が後期も追いすがる2位近鉄を「藤井寺決戦」で突き放して、2度目の完全優勝。 25勝全て完投した近鉄のエース鈴木啓示も最後は力尽きた。 無敵の勇者は当時の横綱・北の湖と並び「憎らしいほど強い」と称されたが、 日本シリーズでは、大杉勝男のホームランを巡る上田監督の1時間19分の猛抗議も実らず ヤクルトに惜敗してV4を逃した。上田監督は辞任し、阪急黄金時代に落日の兆しが訪れた。

■1979年 「マニエルおじさんの遺産」で近鉄、初優勝
ライオンズが西武となって九州を去ったが弱さは相変わらずで、開幕12連敗。その前期、近鉄が「赤鬼」マニエルの活躍で一時は独走状態となった。 5月29日現在で30勝9敗、勝率.769。早くも「マジック18」が点灯する凄まじさ。 ところが、厳しい内角攻めに合っていたマニエルがロッテの八木沢荘六からアゴに死球を受け骨折、そして欠場。 そこからガタガタになってしまい大失速、 阪急の猛追撃を受けた挙句、最終戦の引き分けで漸く優勝に滑り込む冷汗ものの展開となった。 優勝インタビューで西本監督は「マニエルおじさんの遺産を道楽息子たちが食い潰したような優勝」とコメントしたものだ。
後期は実力者の阪急が制し、プレーオフは2度目の「師弟対決」となった。しかし今度は近鉄がストレート勝ちで雪辱。 12球団最後の初優勝を遂げるとともに、西本監督も「短期決戦に弱い」という汚名を返上した。
しかし広島との日本シリーズでは最終戦、あの「江夏の21球」の前に惜敗し、 西本監督は7度目の日本シリーズでまたしても敗れた。

■1980年 悲運・近鉄西本、8度目の「苦杯」
前期はロッテが近鉄を振り切って優勝、しかし後期は近鉄が首位日本ハムとの 「後楽園決戦」を制し、最終西武2連戦も連勝して逆転優勝。22勝した驚異のルーキー、日本ハムの木田勇も最後は息切れ。
プレーオフは、かつて大毎オリオンズで監督と主砲として優勝を分かち合ったこともある、 西本監督の近鉄と山内一弘監督のロッテの対決となった。近鉄は2年連続の3連勝で制覇、 そして西本監督8度目の日本シリーズに、「七転び八起き」を誓って挑んだ。 しかし再び広島に3勝4敗で敗れてしまう。西本監督は翌81年で引退、遂に日本一の美酒を味わえなかった。

■1981年 日本ハム、死闘5時間17分
ロッテが、この年初の首位打者獲得の落合博満の台頭などで前期V2を果す。 後期は、広島からリリーフエース江夏豊を獲得した日本ハムが前年の悔しさを晴らして優勝。 特筆すべきは間柴茂有。15勝0敗、つまり勝率10割だった。
プレーオフでは、第2戦で延長5時間17分引き分けという記録的試合も経て 日本ハムが制した。ロッテはプレーオフ通算4度出場で3度敗退。 ロッテはこれを最後に優勝争いから遠ざかっているので、もし勝っていれば その後の歴史も違ったかもしれない。 
日本シリーズは巨人との「後楽園シリーズ」に日本ハムが敗れた。これでパは4年連続敗退。

■1982年 「玄米、豆乳」の西武が管理野球で勝利
広岡達朗監督が就任した西武は「肉食偏重禁止」「玄米、豆乳推奨」などで話題を蒔きながら前期を優勝、 後期は、その西武に対して「山羊さんチームに負けるものか」と舌戦を繰り広げた大沢親分の、 親会社が食肉製販業の日本ハムが後期V2。因縁のプレーオフとなった。 そのプレーオフ、 最多勝投手・工藤幹夫が小指骨折で出場不能と言われていたのに第1戦先発という 「奇襲」を日本ハムが仕掛けたが、あえなく撃沈して敗れた。 また西武が、腹の突き出た日本ハムの江夏をプッシュバントで左右に揺さぶった作戦も 注目された。 西武は日本シリーズでも中日を破り、日本一。ここから西武黄金時代が幕開けした。

■1983〜85 不発の変則プレーオフ
1983年、10年を節目に1シーズンに戻り、その代り「2位と5ゲーム差以内ならプレーオフ実施」という変則形式になった。 しかし83年、84年、85年と、いずれも西武、阪急、西武が5ゲーム差以上で独走優勝したのでプレーオフは不発。 結局、86年からはこれも廃止され、通常のペントレース方式に戻った。 ところが皮肉にもこの86年は最後まで西武と近鉄が争い、2.5ゲーム差。まあ、歴史とは、こんなものなのだろう。

以上、途中やや駆け足になったが、前後期制の時代を回顧してみた。 この10年の間に、近鉄が初優勝したのをはじめ、6球団全てが優勝を経験している。 その意味では前後期制は成功だったと言える。また、V9時代の巨人に負けつづけた日本シリーズはセと5勝5敗のタイになった。 もっともこれは、プレーオフ制とは別に関係はないかもしれないが。
ただ観る者からすると、公式戦の年間通算1位と年度優勝とが食い違ってしまう結果への違和感はどうしても拭いされなかったような気がする。 また、現場サイドからは日程に対する不満が続いた。 前期が終了するのがだいたい6月下旬。それから少し間を置いて後期が始まるのだが、 1か月も経たぬうちオールスター戦となってしまうため、中途半端な間が2度もできてしまうのである。 これは営業上も問題があった。前期を早く終らせるため試合スケジュールがきつくなり、 それでも消化できなかった前期の残り試合が日本シリーズの時期である10月末に組まれ、 誰も見ていないところで「裏日本シリーズ」として行われるという事態が度々生じたのである。 また、最も期待された観客動員も、徐々に頭打ちとなり、結局、不評ばかりが募って、廃止に至ったのである。
今年から導入される新しいプレーオフ制度は、こうした過去のプレーオフの問題点をどこまで踏まえて、 リーグ発展に結び付けていくことができるだろうか。
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