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ユニホームを着替えた監督たち

昨年まで西武監督だった伊原春樹監督が今年からオリックス監督に就任した。間を置かずに他球団の監督に横滑りした例としてはこれで2リーグ分立後のべ13人目、 そして、同一リーグ内では7人目に当る。
中でも、1人で3回横滑した三原脩が目立っており、この他にも1951年に巨人総監督から西鉄監督、そして73年にヤクルト監督を退いた直後には 日本ハムの球団社長に就任と、必ず次の「就職先」を確保してから辞めており、従って、1度も野球評論家という立場になったことはない(ただし戦後、巨人復帰前に一時、 野球記者を務めたことはある)。
また、三原は他球団に横滑りする際は「セ→パ→セ」…という具合に決まって別リーグに移動している。このあたりには三原の、新天地で一からやり直して見せるという意欲が感じられる。
事実、西鉄では前年7球団中5位だったのを1年目2位に、やがて黄金時代へ導き、大洋に移った1年目は、6年連続最下位からいきなり日本一、そして近鉄でも、4年連続最下位のチ一ムを4位、2位と引き上げている。
ただし三原マジックも最後のヤクルトでは通じなかったようで、6位、4位、4位とBクラスを抜け出せないまま監督業から退いた。
この三原の3回を含め、過去12回の横滑りで、移籍前に指揮を取っていた球団より順位を上げたのは5回、 一方、移籍した球団の順位を前年より上げたのは6回。前球団を退任後すぐ間髪を入れず他球団から声がかかるのはそれだけ手腕を買われていたということだろうが、 その割にはイマイチという結果かもしれない。果して伊原監督の場合はどうなるか。

監督名移籍前移籍先
球団名順位球団名順位前年
1954浜崎 真二阪急2位高橋6位
1957藤本 定義大映※7位阪急4位3位
1960三原  脩西鉄4位大洋1位6位
1961水原  茂巨人3位東映2位5位
1961宇野 光雄国鉄6位大毎4位1位
1968三原  脩大洋※4位近鉄4位6位
1971三原  脩近鉄3位ヤクルト6位6位
1973別当  薫大洋※5位広島6位6位
1974西本 幸雄阪急2位近鉄5位6位
1979ブレイザー阪神※5位南海5位6位
1999野村 克也ヤクルト4位阪神6位6位
2002星野 仙一中日5位阪神4位6位
2004伊原 春樹西武2位オリックス6位6位
青字は同一リーグ内での横滑り
※印は途中辞任または休養
順位はその年の最終順位
高橋は新設球団のため前年順位はなし


阪急ブレーブスの「9年連続優勝」

1965年から73年までの巨人V9、つまり9連覇は不滅の記録だ。しかもこの記録がすごいのは、リーグのみならず日本シリーズも9連覇と完勝だったことである。おそらく今後もこの記録は破られないだろう。
あまり知られていないが、実は巨人以外にも9年連続して優勝を遂げたチームがある。阪急ブレーブスである。
1971年から、

1971 リーグ優勝
1972 リーグ優勝
1973 後期優勝
1974 前期優勝
1975 リーグ優勝(日本一)
1976 リーグ優勝(日本一)
1977 リーグ優勝(日本一)
1978 リーグ優勝
1979 後期優勝

と、これで「9年連続優勝」。変則だが、9年間、毎年続けて優勝したことには違いない。
阪急というと、日本シリーズで巨人に負け続けたり、ヤクルトとの日本シリーズでの試合中断事件があったりして印象を弱めているが、これほど長期に渡って黄金時代を築いたのだから紛れもなく強豪チームだったといってよい。
西武ライオンズの「V10」を阻止した男

ところで、巨人がV10を逃した1974年は、優勝した中日とは勝率たった1厘差で、ゲーム差はゼロだった(中日70勝49敗11分.588、巨人71勝50敗9分.587)。
惜しいという点では、西武ライオンズも僅かな差でリーグV10をし損なっている。
1985年から88年までリーグ4連覇、1年置いて90年から再びリーグ5連覇、そして優勝を逃した89年も近鉄との最終ゲーム差は0.5だったのだ(近鉄71勝54敗5分.568 西武69勝53敗8分.566)。 しかもこの年、10月12日に残り3試合で近鉄とのダブルヘッダー2連戦の前まで首位に立っており優勝は目前だったのだが、近鉄がブライアントの怒涛の4連続打数ホーマーでそれを粉砕、結局、前年「10.19」の悔しさを晴らす大逆転優勝を遂げてしまったのである。 もしこれがなれば史上空前の西武V10が実現していたかもしれないわけで…、まさに球史を変えたブライアントの活躍だった。
監督の最年長・最年少

ちょっと前まで球界は還暦過ぎの老監督が半数近くを占めていた。
例えば1998年は、阪神・吉田義男64才、ヤクルト・野村克也63才、オリックス・仰木彬63才、巨人・長嶋茂雄62才、日本ハム・上田利治60才に加えて、シーズン中には横浜の権藤博とロッテの近藤昭仁が60才になり、何と7人。 98年オフに吉田と近藤が辞め、99年に上田が辞めたら、今度はダイエー・王貞治が60才になり、そして権藤が辞めても次の森祗晶が63才…と言った具合。しかしここ2、3年は長嶋、野村、仰木、森がばたばたと相次いで辞めたので、今は王1人になった。
そもそも、監督というものは、いくつぐらいまでやれるものなのか…。かつて森祗晶は年齢のことを問われて、「頭脳回路が健在なら、トシは関係ない」と反論した。他の老監督たちも同じことをいう。おそらくそれは正しいだろう。だが西武で名将と称えられた森も、 60を越して復帰した横浜では惨敗し、野村も阪神で3連続最下位、また、水原、三原など歴代の名監督たちも還暦過ぎての成績は悪い。思うに、たとえ知力はまだ充実していても、気力、体力は衰えているし、そして何より選手とのジェネレーション・ギャップが大き過ぎる。 20代の選手からは親より年上、新人からはまさに「おじいちゃん」である。阪神の吉田は3度目の監督を辞める時、「選手とは通訳が必要だった」と嘆いている。フランスで身振り手振りで野球を教えて来たムッシュでも、年齢差による考え方の違いの壁は如何ともし難かったのである。
過去、最年長監督は、ダイエーの根本陸夫が94年の退任時で67才11ヶ月(※2004年10月仰木彬がオリックス・近鉄の統合球団監督に69才5ヵ月で就任して記録更新、さらに05年12月には野村克也が70才5ヶ月で楽天監督に就任して再更新。)。逆に最年少は、戦前は別として2リーグ分立後は1961年の西鉄・中西太の就任時28才6か月。 また、日本シリーズでの最年長監督同士の対決は、2000年の巨人・長嶋64才8か月とダイエー・王60才5か月が平均62才で最も高く、この他にシリーズ出場両チーム監督が60代だった例として、95年の仰木対野村がともに60才、96年の仰木61才対長嶋60才がある。一方、日本シリーズ最年少監督対決は、1963年巨人・川上哲治43才7か月対西鉄・中西30才6か月が平均すれば37才となり最も低いが、これは選手兼任の中西が若過ぎなのでやや例外と考えれば、 1975年の阪急・上田が38才9か月、広島・古葉竹識が39才6か月だった。シリーズ出場の両チーム監督が30代だったのはこの時だけになっている。
ちなみに、1975年のオフ、太平洋ライオンズがメジャーの名将レオ・ドローチャーを招聘したが、ドローチャーは開幕直前になって健康問題を理由に来日を断わって来た。この時ドローチャーは70才。もし実現していれば史上最高齢の記録になるところだった。
近藤昭仁の珍記録

当り前の話だが、得点が失点よりも多ければ試合に勝つことができる。 これが年間の総得点と総失点ということになると、そう話は単純ではないが、 総得点の方が総失点よりも多ければ、最低でも5割ぐらいは勝って、Aクラス入りするのが普通だろう。
ところが2リーグ制史上、失点より得点の方が多いのに最下位になったチームの例が2度ある。 しかもその2例とも監督をしていたのは同一人物だったのだから、単なる偶然とは言えないだろう。
1度目は1994年の横浜で、総得点543に対して総失点538と、得点が上回っているのに借金8で、 首位と9ゲーム差の最下位。この時の監督が近藤昭仁。
4年後の98年、今度はロッテが総得点581で総失点563を上回りながらも、借金10で9.5ゲームの最下位。 史上2度目、そしてまたしても監督は近藤昭仁だった。
大差をつけられての最下位ではないにしろ、2度が2度とも近藤が監督ともなると、 原因は彼の無能にあったのではないかと疑いたくなる。
この時のロッテは、あの泥沼の18連敗の年である。 先発・ジョニー黒木が9回裏2死から同点ホームランを浴び結局連敗新記録を作った試合に象徴されるように、 抑え投手不在で逆転負けが多かった。そういうチーム事情はあったにせよ、 抑えがいないならいないで前もって手を打つべきだし、また泥縄で急遽ストッパーに回した黒木が 再三リリーフに失敗しても次善の策を講じず負け続けたのは、采配ミスと思われてもしかたがあるまい。 しかも18連敗から後は38勝28敗2分と勝ち越しているのだから、一体何だったのかということになる。 ちなみにチーム打率はリーグ1位、防御率も2位なのに最下位というのも珍記録だった。
近藤はこの年限りでロッテの監督をクビになったが、退任の際、「もっと強いチームでやりたかった」と捨て台詞を吐いて マリーンズファンの顰蹙を買った。だが厄病神は、果してどっちだったものやら。


張本勲に三冠王の可能性はあったか?

張本勲と言えば、言わずと知れた通算3085本安打、首位打者7回の「安打製造機」だが、同時に504本塁打は歴代6位、そして1676打点も4位に入っている。 本塁打、打点の通算ランキングを見渡すと、無冠の清原を別にすれば、両タイトルとも縁がなくてベスト10入りしているのはこの張本だけだ。
また、張本は通算盗塁でも20位(319個)に食い込んでいる。打撃3部門と盗塁と4つでベスト20入りしているのは張本しかおらず、 従って単純に数字の上から見れば張本こそバランスの取れた最高の打者だったと言える(守備には目を瞑るとして)。
さてそこで少し気になるのは、張本には三冠王、そして更に言えば三冠プラス盗塁の四冠王の可能性はなかったのかということだ。
三冠王ということを考えた場合、ホームラン打者にとっては打率が難関である。過去、セパで打撃二冠獲得というケースは65回もあるのだが(こちら参照)、うち実に51回までは本塁打、打点の二冠の パターン。本塁打と打点はセットで取りやすいが、首位打者は全く手が届かないという傾向である。特にそれは外国人に顕著で、1974年のジョーンズ(近鉄)、87年のランス(広島)に至っては打率最下位の本塁打王という 有り様だった。
逆にアベレージヒッターが本塁打、打点をクリアするのは至難の業である。1995年のイチローが首位打者と打点王、そして盗塁王の「三冠」は獲得したが、 本塁打だけ3本足りなくて快挙を逃した事例がある。この時は、打点王は80、本塁打王は28という、かなり低いレベルでの争いだったことが幸いした形だった。
では、張本はどうだったのか。
首位打者をとった7度の年の、他の3タイトル獲得者と、張本の成績を見てみよう。

 本塁打王打点王盗塁王
1961中田・野村29本
張本  勲24本
山内 和弘112点
張本  勲95点
広瀬 叔功42個
張本  勲18個
1967 野村 克也35本
張本  勲28本
野村 克也100点
張本  勲88点
西田 孝之32個
張本  勲18個
1968 野村 克也38本
張本  勲24本
アルトマン100点
張本  勲65点
安井 智規54個
張本  勲13個
1969 長池 徳二41本
張本  勲20本
長池 徳二101点
張本  勲67点
阪本 敏三47個
張本  勲20個
1970 大杉 勝男44本
張本  勲34本
大杉 勝男129点
張本  勲100点
福本  豊75個
張本  勲16個
1972 長池 徳二41本
張本  勲31本
野村・大杉101点
張本  勲89点
福本  豊106個
張本  勲10個
1974 ジョーンズ38本
張本  勲14本
長池 徳二96点
張本  勲62点
福本  豊94個
張本  勲14個

こうして見ると、まず盗塁は論外という形である。張本が最も盗塁王の可能性があったのは1963年で、張本41、広瀬叔功(南海)が45だった。 しかしこの年の張本は打率.280で、ブルーム(近鉄) .335 には遠く及ばなかったし、本塁打33、打点96はそれぞれリーグ2位だが、野村克也(南海)が 52本、135打点も打っていたので、四冠王など話にもならない。 張本が30盗塁以上したのはこれ以外には64年(31個)の計2度だけなので、通算盗塁は多いと言っても個別の年は10個台が多くて、盗塁王のチャンスは全くない。
では打撃三冠はどうかというと、61年の本塁打5本差・打点17点差、67年の7本差・12点差が最も近かった年ということになるが、それでもかなり差が開いている。
また、首位打者をとれなかった年で見ると、

 打率本塁打打点
1962年.333(ブルーム.374)31本(野村 克也44本)99点(野村 克也104点)
1966年.330(榎本 喜八.351)28本(野村 克也34本)90点(野村 克也97点)
1973年.324(加藤 秀司.337)33本(長池 徳二43本)93点(長池 徳二109点)

…あたりが三部門ともに最も首位に近かった年である。
結論を言えば、個別のタイトルとして打点王が惜しかった年がないでもないが、三冠王という点では、現実問題としては可能性がなかったと言っていい。
張本本人は、首位打者以外のタイトル、そして三冠王を意識したことはあるのだろうか.


背番号あれこれ

最近では、イチロー51番、松井55番のように有名選手が大きい数字の背番号をつけている例も珍しくはない。だが、一般には、小さい背番号が一流のステータスと思われているので、最初は大きい番号を背負っていても、スータダームにのしあがると出世魚のように小さい数字に変える傾向がある。広島の永久欠番といえば衣笠祥雄の「3」と山本浩二の「8」だが、古い野球ファンならその前は衣笠が「28」、浩二が「27」だったことを記憶しているだろう。赤ヘルで初優勝した1975年からそれぞれ変えたのである。
また、「51」を背負った有名選手はイチローが初めてではなく、東映フライヤーズ時代の大杉勝男がやはり51番だった。当時は、「大杉の背番号は多過ぎだ」などと野次が飛んだという。更に、投手の「47」といえば巨人の工藤公康が有名だが、その前にはテスト生あがりの小山正明もずっと47番だった。
「41」をつけた中日の谷沢健一の場合ちょっと風変わりである。入団した時の背番号は「14」。だがなかなか3割の壁が破れず、気分転換に変えた。それも「14」は「イイヨ」と読めるというので(「もういいよ」ってことか)、逆の「41」にしたのだ。「41」、つまり「ヨイ」というわけだ。そんなことで成績が上がるなら誰も苦労しないが、何と谷沢、その年3割どころか首位打者を獲得してしまった。
「背番号3」というとまず長嶋茂雄を連想する。しかし、この番号の人気選手といえば、もともとは大下弘だった。長嶋は巨人入団の際、川上哲治に「15」を勧められた(沢村栄治の「14」、そして川上自身の「16」と連続するという理由で)。しかし長嶋は「フタケタの番号は自分に似合わない」とこれを断わって、川上のライバル千葉茂がつけていた3番を引き継いだ。何やら、のちの川上と長嶋の微妙な関係を象徴するかのようなエピソードである。
ちなみに田淵幸一をドラフトで巨人が指名できていたら、背番号は「2」が有力だったそうな。つまり田淵を間に挟んで、王・長嶋と「1・2・3」番トリオを結成する計画だったのである。
球団別投手通算勝利数ベスト5


「昨年(2004年)までの12球団で唯一、200勝投手が出ていないチームはどこ?」
―答えは日本ハム。セネタースからフライヤーズ・ファイターズを通じ最高は土橋正幸の162勝である(下の表を参照)。しかし、創成期のエース米川を始め江戸っ子エース土橋、怪童尾崎、ヒゲのアン ダースロー高橋、そして90年代のトレンディ・エース西崎に至るまで、各年代にほぼ万遍なく100勝投手がいるのだから そう恥かしいことではない。近鉄などは317勝の大エース鈴木がいる代りに、100勝投手は鈴木を含め3人(柳田は通算では110勝だがうち16勝はライオンズ時代に挙げた もの)。しかも、純生え抜き投手という意味では(佐々木は南海からの移籍なので)、鈴木以後は100勝投手がいなかった。野茂英雄がいれば確実だったのだが。
長いこと100勝投手が出ていないチームには、阪神とロッテ、そしてヤクルトもある。阪神は85年の山本和行、ロッテは86年の仁科時成、ヤクルトは89年の尾花高夫が最後。もっとも「暗黒時代」の続いた阪神や ロッテは当然といえば当然だが、逆に90年代から強くなったヤクルトで100勝投手が出ないのは不思議ではある。90年代以降に活躍した投手の最高は川崎憲次郎の88勝で次は石井 一久の78勝。しかしふたりとも途中でチームを去ってしまった。また、この2人を含め、ヤクルトの投手は故障が多く、続けて活躍したした者がいなかった。岡林、伊藤 智がその代表である。現役でも山部の45勝が最高では、まだ当分100勝投手は出そうもない。
さて、2球団でそれぞれ通算勝利数ベスト5に名前を載せている投手もいる。阪神・ロッテの小山正明である。2球団で各100勝、更には両リーグで各100勝しているのも小山しかいない。
100勝以上した投手が一番多い球団はやはり巨人で、この表以外にも、
斎藤雅樹(180勝)、槙原寛己(159勝)、城乃内邦雄(141勝)、江川卓(135勝)、大友工(129勝)、西本聖(126勝)、藤田元司(119勝)、高橋一三(110勝)、で14人。
オリックスは
佐藤義則(165勝)、石井茂雄(143勝)、天保義夫(131勝)、今井雄太郎(129勝)、山沖之彦(112勝)、森弘太郎(101勝)で11人。
西武は
工藤公康(113勝)、松沼博久(112勝)、池永正明(103勝)、河村久文(102勝)、若生忠泰(102勝)で10人。
阪神は
藤村 隆男(133勝)、梶岡忠義(131勝)、御園生崇男(127勝)、山本和行(116勝)、バッキー(100勝)で10人。
ロッテは
木樽正明(112勝)、坂井勝二(110勝)、仁科時成(110勝)、水谷則博(108勝)で9人。
広島は
備前喜夫(115勝)、池谷公二郎(103勝)で9人。
中日は
服部受弘(112勝)、郭源治(106勝)、三沢淳(105勝)で8人。
横浜は、
野村弘樹(101勝)で6人。
ダイエーは
山内孝徳(100勝)で6人。
そして日本ハムがこの5人。
ヤクルトもこの4人。
近鉄も3人(いずれも当該球団在籍中の通算勝利数)。
勿論、プロ史上で通算100勝を達成した人はもっといるわけだが、ただここに名前の出て来ない投手たちはそれぞれ複数球団にわたって100勝を挙げているのである。
ちなみに真田重蔵は消滅球団である朝日-松竹で145勝、野口二郎もセネタース-西鉄(ライオンズとは別の系譜)で156勝である。また、林義一はゴールドスター-大映で94勝している。消滅球団 の投手というのは個別の球団史上からは語られることがなく、不遇ではある。今後、近鉄もそうなってしまうのだろうか・・・。

球 団1位2位3位4位5位現役最多
巨 人別所 毅彦221中尾 碩志209堀内 恒夫203スタルヒン199藤本 英雄183桑田 真澄172
中 日杉下  茂211山本 昌広173星野 仙一146鈴木 孝政124小松 辰雄122山本 昌広173
阪 神若林 忠志233村山  実222小山 正明176江夏  豊159渡辺 省三134藪  恵壹84
ヤクルト金田 正一353松岡  弘191村田 元一118尾花 高夫112安田  猛93山部  太45
広 島北別府 学213長谷川良平197大野  豊148大石  清134外木場義郎
川口 和久
131佐々岡真司127
横 浜平松 政次201秋山  登193遠藤 一彦134斉藤 明夫128高橋 重行121三浦 大輔86
オリックス米田 哲也338山田 久志284梶本 隆夫254足立 光宏187星野 伸之168小林  宏53
ダイエー皆川 睦雄221杉浦  忠187柚木  進123山内 新一121三浦 清弘119星野 順治42
西 武稲尾 和久276東尾  修251渡辺 久信124郭  泰源117西口 文也116西口 文也116
ロッテ村田 兆治215荒巻  淳173成田 文男169小野 正一142小山 正明136小宮山 悟90
日本ハム土橋 正幸162高橋 直樹138米川 泰夫131西崎 幸広117尾崎 行雄107岩本  勉
金村 暁
61
近 鉄鈴木 啓示317佐々木宏一郎113武智 文雄100柳田  豊94清  俊彦
村田 辰美
85高村  祐83
※04年終了時点。赤字は現役。

同一球団に復帰した監督


2007年から横浜ベイスターズに大矢明彦監督が就任した。大矢は1996、97年にも横浜の監督を務めており、10年振りの復帰となる。 当時、フロントとの対立で退団したと言われ、本人にもこの再監督の要請は意外だった模様。 ただマルハからTBSに親会社が変わりフロント陣も一新されていることから、わだかまりはなかったようである。
さて、球団生え抜きのOBが復帰して再度の監督を務めるケースは、現在の巨人・原をはじめ阪神・吉田や中日・星野など枚挙に暇ないが、 大矢の場合は選手時代ヤクルト一筋で横浜のOBでもないのにちょっと珍しい。
そこで過去の例を辿ってみると、横浜の前身・大洋ホエールズで別当薫が1967〜72年途中で退団した後、中部オーナーの懇望で5年後の77年から79年まで二度目の監督を務めている。 また、阪神の藤本定義は1965年限りで勇退したにもかかわらず、翌66年、成績不振で杉下茂監督が解任され、シーズン途中から復帰するという忙しさ。 退任にした監督を1年も経たず復帰させるという、ちぐはぐでいい加減なところはいかにも当時の阪神らしい。 阪急の上田利治は78年、例の日本シリーズにおける「抗議事件」の引責の形で球団の慰留を振り切り退団。80年にチームがBクラスに沈むと 予定通り(?)81年から復帰している。 日本ハムの大沢啓二、ロッテの金田正一も10年近い間をおいて復帰しているが、大沢は球団常務、また金田も球団非常勤役員の肩書きを 持っており、フロントから現場復帰という形である(大沢は84年にも一度復帰している)。 また仰木彬の場合は、近鉄との合併球団となったオリックスに、両球団をよく知る監督として特に異例の復帰となった。 こうしてみると一度はケンカ別れした球団に10年も経って復帰した大矢はやはりかなり異質なケースである。
監督名球団名監督在任期間選手時代
藤本定義阪神1961-65,66-68なし
別当 薫大洋1967-72,77-79阪神、大毎
上田利治阪急1974-78,81-90広島
金田正一ロッテ1973-78,90-91国鉄、巨人
大沢啓二日本ハム1976-83,84,93-94南海、東京
仰木 彬オリックス1994-01,05西鉄
大矢明彦横浜1996-97,07-ヤクルト

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