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プロ野球史事典


青田舌禍事件   上田監督猛抗議   江夏の21球   「円城寺 あれがボールか 秋の空」   岡田・ヒルトン騒動  

金田監督殴打事件   「空白の1日」事件   クリーン・ベースボール   「黒い霧」事件   駒沢の暴れん坊  

10.19   「死んだふり」優勝   スーパーカー・トリオ   世紀のトレード  

哲のカーテン   天覧試合  

長嶋解任騒動   永田ラッパ   西本信任投票事件   野村解任騒動   野村スコープ  

バカヤロウ事件   バース騒動   8時半の男   バレンタイン解任騒動   阪神部屋   広岡造反事件   藤村排斥事件   平和台事件   別所引き抜き事件   別所退団事件   「ベンチがアホやから」事件  

三原ポカリ事件  

柳川事件  

ロッテ・太平洋遺恨試合  


青田舌禍事件


上田監督猛抗議

1978年の日本シリーズ、3勝3敗で迎えたヤクルト−阪急の第7戦(後楽園、10月22日)は1対0でヤクルトがリードして6回裏まで進んだ。この回1死後、ヤクルトの4番・大杉勝男が阪急の先発・足立光宏から放った打球はレフトポール上空を通過してスタンドに飛び込み、富沢宏哉線審は右手を回しホームランを宣告した。時刻、午後2時54分。大杉は小躍りしてベースを一周したが、三塁側阪急ベンチから上田利治監督が猛然と飛び出して「ファウルだ」と激しく抗議した。 しかし審判団がこれをはねつけると上田は選手をベンチに下げ、「あんな審判じゃやってられない、代えてくれ」と強硬に要求し試合中断が続いた。事態を重く見た工藤信一パリーグ会長、そして金子鋭コミッショナーもグラウンドに現れて上田を説得したが、これを上田は拒否、更に 球団社長らに説得され、漸く午後4時13分、試合は再開された。この間、1時間19分の中断だった。阪急は代った松本正志がマニエルにホームランを浴び、更に8回には山田久志が大杉から、今度は文句なしの1発を打たれ4対0で敗れ 4年連続日本一を逃した。試合後、上田監督は辞任を表明。この時、上田監督は41才だった。

私的な思い出だが、この試合の翌日の新聞で、抗議の中断中、上田監督の自宅には野球ファンやテレビ中継の視聴者からの苦情電話が鳴り止まずに、奥さんや娘さんたちが疲労困憊していた、 という記事を読み、子供心にも監督の家族って大変だなあと思ったことを覚えている。それから20年近く経って、日本ハムの監督になっていた上田さんが大事な首位攻防戦の直前、娘さんの宗教問題のために突然休養する事件があった。この時ふと、20年前のあの新聞記事を思い出した。


江夏の21球


「円城寺 あれがボールか 秋の空」

1961年の巨人−南海の日本シリーズは、巨人の2勝1敗で第4戦(後楽園、10月29日)まで進んだ。この試合は9回表に南海が広瀬叔功の2ランで逆転し3対2でリード、9回裏巨人の攻撃を迎えた。南海は3番手・祓川がいきなり死球を出すと、すかさず鶴岡一人監督は、この年終盤、血行障害で戦列を離れたエース杉浦忠に代って大活躍したスタンカを投入、スタンカは期待通り2死を取って、代打・藤尾茂も一塁への飛球に打ち取った。 これで試合終了・・・と誰しもが思ったその直後、何と一塁手・寺田陽介がポロリと落球したのである。続く長嶋茂雄のサードゴロを、今度は小池兼司がファンブル、内野安打となり、これで二死満塁。巨人、1打逆転サラヨラの大チャンス、逆に南海は負ければ巨人王手を許す大ピンチに追い込まれた。バッターは、シリーズ好調のエンディ宮本。スタンカ−野村克也のバッテリーは、 宮本を2−1と追い詰めた。そして野村は外角低めのフォークを要求、スタンカが自信を持って投げこんだその1球は注文通り外角低めに決まって宮本のバットは動かない。勝利を確信した野村が踊り上がって立ちあがるのと、円城寺球審の判定のコールが響くのと、ほぼ同時だった。「ボール!」。驚愕した野村は振り向いて円城寺に抗議する。 スタンカもマウンドを駆け降り、円城寺に猛然と詰め寄る。鶴岡監督も出てくる。しかし判定は覆らない。やむなく南海勢が引き下がり試合再開。そしてスタンカが投じた次の1球、前の球と同じコースに入った5球目を宮本は叩き、ライト前に弾き返した。2者が帰る、サヨナラヒットである。この時、ホームカバーに走ったと見えたスタンカは、 円城寺に怒りの体当たりを食らわせ暴行、試合後も南海の選手たちは円城寺に詰め寄って執拗に抗議を繰り返したが、あとの祭りであった。この後シリーズは結局、巨人が4勝2敗で日本一になった。 問題のスタンカの投球は、実際にはボールだったのか、ストライクのだったのか…。スタンカは、自分のフォークを見慣れたパリーグの審判だったら間違いなくストライクだっただろうと言っている(円城寺はセの審判)。当時の映像を見ると、野村は捕球するや否や、ミットを静止もせずに立ち上がっている。野村は、今でもあれはストライクだったと確信しているが、ただ、自分の未熟な捕球動作が誤審を招く元になったかもしれないと述懐している。 ちなみに円城寺審判はその後、亡くなる直前、死の床でのうわ言に「あれはボールだ」と言ったとか、言わないとか。


岡田・ヒルトン騒動

岡田彰布選手の起用をめぐって生じた阪神のお家騒動。
1978年、阪神は球団史上初の最下位に転落した。今では信じられないが、それまでセリーグで唯一最下位になったことがないのが、阪神だったのである。これには、「万年2位」でも「カネがかかるから優勝しない方がいい」と本社首脳が言い放っていたといわれる阪神もさすがに憂慮、オフには前例のないチーム大改革に取りかかった。
まず、本社専務を務めた小津正次郎が実力社長として球団に乗り込んだ。小津の最初の仕事は新監督選定である。リーグ優勝しながらもオーナーとの確執で退団が噂されたヤクルトの広岡達朗の就任を工作したが、ヤクルトが日本一になってしまい広岡は留任、頓挫。 そこで、南海時代に野村克也監督を「シンキング・ベースボール」(考える野球)で支えたブレイザー元ヘッドコーチ(当時は広島コーチ)を起用する。阪神がOBでもない、しかも外国人を監督に据えたのは歴史上初めてのことだった。
次に看板スター田淵幸一放出を含む大トレードを敢行しチームの体質改善を図った。更に江川騒動の結果、巨人のエース小林繁を獲得するという余得もあった。当初、小津は江川問題で妥協しないと断言していたので、前言を翻して小林とのトレードに応じたことで「オズの魔法使い」と呼ばれたが、チーム改革自体は着々と進んだ。 この結果79年のシーズン阪神は、最終順位こそ4位にとどまったものの夏までは優勝を争う健闘を見せた。そしてこのオフには、ドラフト会議で早稲田大学のスラッガー・岡田を引き当てたのである。こうして、全ては順風満帆であるかに見えた。ところが、ここから問題が生じるところが阪神らしい。
まず岡田の守備位置はサードだったが、そこにはこの年、48本塁打で初タイトルを獲得して田淵に代るチームの顔に成長した掛布雅之がいる。 ということで、岡田を二塁にコンバートすることになったが、そこで今度はヒルトンと競合するのである。ヒルトンはヤクルトの日本一に不動の1番打者として3割を打ち貢献した外国人選手で、この79年はシーズン当初の広岡との衝突などもあって奮わなかったが、ブレイザーは、そのシュアなバッティングは再生可能と見て獲得したのである。それに対して岡田はまだ新人、しかも二塁守備は何と言っても素人である。そこでブレイザーは二塁にヒルトンを固定し、 岡田は徐々に段階を踏んで起用して育てていく、という方針を固めたが、これがファン、そしてマスコミの反発を買ってしまう。
開幕戦で岡田の出場はなく、以後も出番に乏しかったことから失望した観客の怒りが爆発、「岡田を出せ」「岡田を見せろ」の声が高まり、ヒルトンが打席に入ると「オカダ、オカダ」の大合唱を浴びせた。そして岡田を起用せず「ガイジン仲間」のヒルトンを重用するブレイザーは悪者視される一方になった。 ブレイザーのもとに脅迫状が送りつけられるは、試合後ブレイザーとヒルトン夫妻がファンに取り囲まれるは、常軌を逸した暴挙に出る有り様。 こうした中、ついにヒルトン解雇が決まる。ブレイザーもこれには同意した。ヒルトンの打率は1割台に低迷する状況だったし、またヒルトン夫妻の身の安全を考慮すればやむを得ない措置だった。ただ、ブレイザー自身は辞める気は全くなかった。チーム改革はまだ半ばであり、そして何よりもこのゴタゴタの状況下でも5割と健闘、まだシーズンは始まったばかりであり、これからの上昇も十分可能だったからである。
ところが5月15日、ブレイザー退団が発表されてしまう。原因は、球団が断わりもなしに新外国人としてボウクレア獲得を決定したことにブレイザーが激怒したことだった。ブレイザーはこれを不当な現場介入と判断、辞任を決意したのである。26試合目でのことだった。 マスコミはこれを「シンキング・ベースボール」をもじって「シンク(think、考える)する前にシンク(sink、沈む)した」と揶揄した。
その後監督にはヘッドコーチの中西太が昇格し、二塁に定着した岡田は見事新人王を獲得したが、チームは5位に終った。またブレイザー退団の引きがねとなったボウクレアはぱっとしない成績で、1年で帰国した。


金田監督殴打事件


「空白の1日」事件

巨人が野球協約の網をくぐって江川卓投手と契約した事件。
1978年のドラフト会議前々日の11月20日、この年のドラフトの超目玉であり前年のドラフト会議でのクラウンライター・ライオンズ(78年10月、西武球団に経営権を譲渡)の指名を蹴ってアメリカに野球留学していた前法政大学の江川卓投手が帰国した。 翌21日、巨人は正力亨オーナーが江川同席の上記者会見を開き、江川との契約を発表した。当時の野球協約では、ドラフト指名選手との交渉権は翌年のドラフト会議開催日の「前々日」まで、と規程されていた。つまりライオンズ球団の交渉権はドラフト会議前々日の1978年11月20日で消滅し、21日には江川はいずれの球団とも自由に契約できる野球協約の「空白の1日」であると判断したのである。 野球協約がドラフト交渉権を前々日までに限っていたのは、事務的な手続き上の理由だったのだが(アメリカの協約をそのまま引き写したせいだとも言う)、巨人はこの盲点をついたのである。
巨人は直ちに江川との契約承認を連盟に求めたが、巨人以外の11球団の反対で鈴木龍二セリーグ会長がこれを却下したため、巨人は金子鋭コミッショナーに対し提訴、更にドラフト会議をボイコットした。 巨人欠席のまま行われた22日のドラフト会議では抽選の結果阪神が江川との交渉権を獲得したが、巨人と江川側はあくまで契約の正当性を主張し、もし受け入れられないときは連盟脱退も辞さないという強硬姿勢を貫いた。
12月21日、金子コミッショナーは巨人の契約を無効とする裁定を下した。しかし翌22日には阪神とのトレードによる解決策をコミッショナーの「強い要望」として提示した。 金子を始め球界関係者・首脳は本気で巨人のリーグ脱退を怖れたのである。
事態は表向き膠着状態のまま年を越したが水面下で動き、翌1979年1月31日、キャンプ解禁の前日、突如阪神は記者会見を開き「江川の阪神入団」を発表するとともに、 翌2月1日深夜0時過ぎ、巨人球団事務所で長谷川実雄巨人球団代表と小津阪神球団社長が会見し江川と巨人のエース小林繁とのトレードが発表された(形式上は小林をまず阪神に金銭トレードし、4月になって江川を巨人に金銭トレード)。小林はトレードを了承し「同情されたくない」との言葉を吐いて阪神に移籍、江川には6月までの一軍登録自粛措置が取られた。
この年、小林は対巨人戦8戦全勝を含む22勝をあげ最多勝を獲得、一方江川は出遅れも響き6月2日の対阪神戦でのデビュー戦黒星を始め9勝10敗にとどまった。
「空白の1日」から始まった江川事件はこの間、球界の枠を越えた社会問題にまで発展して日本中を騒然とさせた。


クリーン・ベースボール

現役を引退して1974年11月21日に巨人の監督に正式就任した長嶋茂雄が自らの標榜する野球に命名したキャッチフレーズ。 目指す野球は、高度な技術に裏打ちされたクリーン・ヒット、というわけだが、裏を返せば前任者・川上哲治の、どんな点差が開いてもせこくスクイズで1点を取る「石橋を叩いても渡らない野球」の全否定とも言える。 ちなみに長嶋巨人はこの「クリーン・ベースボール」を掲げた初年度、史上初の最下位に転落した。


「黒い霧」事件


「死んだふり」優勝


スーパーカー・トリオ


世紀のトレード

1963年12月26日、阪神・大毎両球団から小山正明と山内一弘の1対1トレードが発表された。 小山は村山実と並ぶ阪神のエース、山内は大毎の4番打者である。この過去に例を見ない大型トレードは「世紀のトレード」と言われてファン、マスコミを驚かせたが、原因は阪神お家芸の内紛にあった。 つまり選手間が村山派、小山派、そして吉田義男派の三派に分かれて派閥対立が行われていたのである。 また、阪神は小山・村山の両エースが揃う投手陣に比べ、慢性的な大砲不足に悩まされていた。 そこに大毎から山内一弘とのトレードを持ち掛けられ、加えて小山・村山の並び立たぬ両雄を引き離す一石二鳥の策として、 阪神の思惑も一致したのである。このトレードはその後、阪神が江夏、田淵らスター選手を放出していく発端ともなった。


哲のカーテン

巨人の川上哲治監督が敷いた、報道陣への取材規制。
1962年のキャンプから川上監督は練習中のグラウンド立入り禁止、更には撮影制限などを敷いた。 それまでは全く自由だったのでこの措置は反発を呼び、川上哲治の「哲」と第2次大戦後の東西冷戦を意味するチャーチル英首相の言葉「鉄のカーテン」 をもじって「哲のカーテン」と名付けられた。


天覧試合


長嶋解任騒動

巨人の長嶋茂雄監督が解任されたことをめぐる騒動。
1980年のベナントレースを巨人は3位で終えた。77年にリーグV2を達成したものの日本シリーズでは2年連続で阪急に敗退、以後2位、5位、そしてこの年の3位と3年連続で巨人は優勝を逃し昔日の栄光を過去のものとしていた。 この結果、長嶋監督の采配を疑問視し批判する声がファン、マスコミ、OB、そして親会社である読売内部からも高まっていた。10月21日、長嶋は会見を開き「男のけじめ」として辞任を表明したが、事実は解任であった。スーパースター長嶋の 突然の解任に世間は騒然となり、激怒したファンによる読売・報知の不買運動にまで発展し、また、長嶋の後を継いだ藤田元司新監督のもとには脅迫電話や剃刀が送られてくるという事件も起った。


永田ラッパ

大映スターズや大毎オリオンズのオーナーを務めた、永田雅一大映映画社長のこと。押しが強くやたら景気いいの言動で「ラッパ」の異名をとった。


西本信任投票事件

阪急の西本幸雄監督が自分を監督として信任するか否かを選手に投票させた事件。
西本監督というと、近鉄時代の白髪の老将の印象が強い。だが当然ながら若い頃もあった。 プロ入りは30才と遅かったが、大毎オリオンズの監督に就任したのが39才、阪急の監督時代も大半は四十代である。 当時の写真を見ると、髪は黒々としているし、そして意地の強そうな顔をしている。 そのまだ若くて気力も体力も充実ししている頑固者が己の信念を貫こうとしたから、選手の反発も起った。 繰り返すが、西本はまだのちの「悲運の名将」ではない。大毎監督1年目で優勝させた実績はあったが、阪急では 就任4年で最下位、2位、4位、5位と、「灰色」と言われたチームカラーと澱んだ雰囲気を払拭できないでいた。 球団フロントでは、ベテラン選手の声を聞き監督交代も視野に入れている節がある。そこで西本は先手を打った。
1966(昭和41)年10月14日の西宮球場。秋季練習の始まるその日、西本は選手全員を会議室に集めると、
「俺を信用して一緒にやるなら○を、嫌なら×をつけてくれ」
と投票用紙を配ったのである。前代未聞の監督信任投票。当時、西本46才。
結果には諸説あるが、投票45ないし47で、不信任は7票、白票4票というのが定説である。 つまり80%近くが信任しているのだから、政治家なら圧勝、リコール不成立というところだが、逆に西本は愕然とした。 主力選手数名が球団社長宅に連夜出入りして西本批判を行っているとの噂が西本の耳に届いており、 それを裏付ける数字が出たからである。西本は即座に辞任を決意、球団に伝えた。 そして渡りに舟とばかりに球団は後任の選定に動き出そうとした。ところが、ある人物から強力な"待った"がかかった。 小林米三オーナーである。
小林オーナーは球団社長を呼びつけると、「西本慰留」を厳命、オーナーの意向を知って慌てた球団フロントも 西本の説得に努め、結局留任することとなった。 小林オーナーは西本の才能を高く評価し、また、チーム強化には時間がかかることを承知していたので、 断固として西本擁護の姿勢を貫いたのである。 このオーナーの支援を意気に感じた西本は、のちに「西本道場」と言われた猛練習で選手を鍛え、翌67年、見事、阪急を初優勝に導いた。


野村解任騒動

南海ホークスの野村克也監督が解任されたことを巡る騒動。
プロ野球の監督がクビになるケースは、成績不振が殆どだ。昔は私生活のことなど問題外だったし、まして1970年代の注目度の低かったパ・リーグでは尚更である。 ところが前代未聞の「公私混同」で解任されたのが選手兼任の主砲であり監督だった南海の野村。1977年9月25日、まだ公式戦が残っているこの段階で スポーツ紙の見出しに「南海・野村監督解任」の大きな文字が踊った。この年、南海は前期2位、後期3位で通算でも2位を既に確保していて、監督を更迭する理由は考えにくかったのだが、 マスコミが伝える解任理由は何と「私生活問題」。野村が川勝傳オーナーから「球団を取るのか、女を取るのか」と迫られたというものだったのだ。そして3日後の28日、南海は野村解任を 発表、もともとは野村の支持者だった川勝オーナーはマスコミの質問に「野村君ではチーム把握ができない」と答え、暗に野村の「公私混同」を認めた。 また、解任報道の直後から野村は姿を消し刀根山の自宅マンションに篭った。しかも野村だけではなく、江夏豊、柏原純一の主力2人にコーチの高畠導宏まで集結、野村宅に篭城したのである。 これが名門・南海を凋落させた、野村解任騒動の発端だった。
野村の私生活問題とは、言うまでもなくのちのサッチーこと沙知代夫人の問題である。当時2人はまだ愛人関係、それもダブル不倫の関係だった。 もっとも、それだけなら監督解任まで発展しない。問題となったのは、正式の夫人でもない沙知代がグラウンドにしゃしゃり出て来て我が物顔に尊大に振舞うばかりか、果ては選手、コーチの起用にまでくちばしを挟みチームを壟断、私物化。 「女監督」とまで言われる横暴振りを発揮し、そして野村はそれを放任している始末だったという話なのである。 かねてこのことがチーム内の不協和音を招いていたが、野村は川勝オーナーの絶大な信頼を得ていたためあまり表沙汰にはならなかった。 しかしついにオーナーの耳にまで届き、驚いたオーナーが密かに調査させたところ、実態もまさにその通りだったので、やむなく野村解任に踏み切った、というものである。
解任発表から1週間後の10月5日、野村は漸く姿を現し大阪市内のホテルで記者会見を行った。 その場で出てきたのは、「鶴岡元老の圧力で吹っ飛ばされた」という発言だった。鶴岡元老とは、元監督の、南海の「親分」こと鶴岡一人のことである。 野村に言わせれば、愛人の現場介入問題などは針小棒大な話であって、そもそも背景には南海の派閥争いがある。もともと野村は、親分を頭に戴く「鶴岡一家」とは距離を置いていた。 更に親分の息のかかった選手、コーチなどを野村が一掃したため、鶴岡派の反発を買い、果ては鶴岡本人の逆鱗にも触れ、その巻き返しでクビにされたと主張したのである。 この思いがけない"告発"に鶴岡は激怒し抗議、球団は謝罪したが、野村は撤回しなかった。
こうして野村は南海を追われ、やがて金田正一監督の誘いで一選手("生涯一捕手")としてロッテに入団するのだが、 まだ騒動は済まない。野村に心酔していた江夏と柏原が同行を希望し、南海からのトレードを申し出たからである。
江夏はかつて阪神のエース。南海へのトレードを渋っていたが野村に口説かれ移籍、 更に野村からの「球界に革命を起そう」との殺し文句で抑えに転向して、この年の最優秀救援投手に輝いている。 柏原はレギュラー定着2年目の打の中心の一角。入団時から野村に素質を見込まれ、柏原も野村に学ぶため同じマンションに引っ越して来たほどだった。 この2人が球団の野村解任に反旗を翻し、野村の移籍先に一緒に付いて行くと強硬に主張したのである。 球団は慰留に努めたが2人は拒否、結局、江夏は広島へ、柏原は日本ハムへトレードされることとなった。 衰えたりとはいえ主砲兼主戦捕手、リリーフエース、そして若手ポープの3人が一気にいなくなった南海の戦力は大幅ダウンし、 現役引退して就任した広瀬叔功新監督のもと臨んだ翌78年のシーズンは前後期とも最下位に転落した。 以後、南海はBクラスの常連となり、そしてチームを愛していた川勝オーナーが88年に死去すると、電鉄本社はすぐさま球団をダイエーに身売りした。


野村スコープ


バカヤロウ事件

1960年10月12日。
東京・日比谷公会堂では、来たる総選挙に向けて、自民・社会・民社三党の党首による立会い演説会が催されていた。 自民党の池田勇人総裁に続き檀上に立ったのは、社会党の浅沼稲次郎委員長。その巧みな演説と庶民性で「ヌマさん」と呼ばれ親しまれていた浅沼は、 トレードマークのガラガラ声を震わせて激しく自民党政権を批判した。と、その時、学生服にコート姿の少年が隼のように演壇に駆け上がるや、浅沼の巨体 に体当たりした。倒れる浅沼。少年の右手には、鋭利な刃物が握り締められていた・・・。
戦後史上最大の政治テロ、浅沼暗殺事件の瞬間である。
同じその10月12日。後楽園球場では、球史に残る「事件」が起きていた。
大洋と大毎の日本シリーズ第2戦。得意の「ミサイル打線」が沈黙して第1戦を1点差で落した大毎は、この試合も2-3の1点差でリードされていた。そして迎えた8回裏、1死満塁のチャンスとなった。 ここで大毎の西本幸雄監督は打者・谷本稔にスクイズを命じる。だが結果は最悪のダブルプレー。 まさかの2連敗を喫してしまう。
この模様を貴賓席で見ていた大毎の永田雅一オーナーは激怒し、その夜、 西本監督に電話を入れて作戦ミスを激しくなじった。それに対して西本監督も反論し、日本シリーズさ中にオーナーと監督が対立する前代未聞の事態となった。 これが世に言う、「バカヤロウ事件」である。
結局、大毎は続く第3戦、第4戦にも1点差で敗れて4連敗となり、西本は就任1年目でリーグ優勝を果しながら解任されてしまう。
また、当時、毎日新聞と大映の共同経営だった球団から日本シリーズ後に毎日側役員が総退陣して、永田オーナー(大映社長)のワンマン体制が確立されることとなった(ただし球団そのものは「毎日大映球団」の名目で1971年の永田退陣まで存続)。 かねて球団経営に熱意を失いつつあった毎日側が、この日本シリーズ敗退を契機に球界の第一線から手を引いたのだと言われる。だが、もしこの日本シリーズで勝っていたら、或いは毎日側も考えを変えたのではないか、とのちに西本は回想している。 確かにそのまま毎日のコミットが続いていたなら、その後のパ・リーグの歴史、そして球界地図も変っていたかもしれない。また西本はその後結局8度日本シリーズに挑んで敗れて「悲運の名将」として球史に名を残すことなった。その意味でもまさに歴史を変えた痛恨の「スクイズ失敗」だった。


バース騒動


8時半の男


バレンタイン解任騒動

ロッテのバレンタイン監督の去就を巡る騒動。
1994年11月、千葉ロッテマリーンズはゼネラルマネージャー(GM)として、広岡達朗元監督の就任を発表した。74年以来優勝から遠ざかり、 85年の2位を最後にAクラスにも入れなくなったチームを改革するため、それまで権限の曖昧だったチーム編成の全権を与えるGMを日本で初めて創設し、 その任にかつてヤクルト、西武を日本一に導いた広岡を選んだのである。 広岡GMの初仕事はまず、新監督の選定である。広岡は、国内には人はなしとして、元レンジャース監督の ボビー・バレンタインをメジャーから招聘した。広岡とバレンタインとは、1989年に催された「日米ベースボール・サミット」以来の旧知であり、 その野球観に広岡は惚れ込んでいたのである。こうして新生ロッテが出発し、広岡とバレンタインはそれぞれ 理想のチーム作りの意欲に燃えていた。だが翌年のキャンプ、そしてオープン戦と進むにつれ、広岡は早くも バレンタインの手腕に疑問を抱き始める。バレンタインのやり方は、選手の自主性に任せて練習時間も短いメジャー流。 これに対して広岡はそもそも「管理野球」の人である。したがって「日本はメジャーと違う。選手には教育をせねばならない」と忠告したが、 バレンタインは聞き入れなかったことから、広岡の不安は広がった。
案の定、公式戦が始まると、ロッテは下位に低迷、バレンタインの推進する攻撃野球に選手が対応できず、凡プレー を連発した。ここに至って広岡はバレンタインを選んだことが誤りであったと確信、だが自分が推薦したからには放ってもおけず、作戦変更を申し入れるが、バレンタインは 「あと2ヶ月待ってくれ。そうすれば必ず上昇するから」とそれを拒否、広岡との亀裂が広まった。事実、6月半ばからロッテは急上昇、選手はバレンタインの教える エキサイティングな野球を展開し始める。9月になると、序盤の躓きで大差が開いていたものの2位に浮上し、本拠地・千葉マリンスタジアムも 満員になっていた。選手はバレンタインのエンジョイ・ベースボールを理解し、それにバレンタインも満足、そしてファンも好調なチームに声援を贈る・・・全ては結構ずくめな状況になっていた。
だがひとりだけそれが気に入らない人物がいた。GMの広岡である。
広岡には、バレンタインのエンジョイ野球は選手を甘やかしているとしか見えなかったのだ。 そこで広岡自身がグラウンドに下り立ち独断で個別に選手を指導、更にバレンタインの方針を無視して、休養日に 全体練習を強行させた。GMのこの現場介入にバレンタインは怒り、練習の指導をボイコット。 ここに至って両者の確執が表面化することとなった。チームは2位にいるのに「バレンタイン解雇」の見出しが マスコミ各紙を飾るようになる。これに驚いたのはマリーンズ・ファン。野球観に因む広岡とバレンタインの 対立などファンにとってはどうでもいいことであって、彼らにとってはチームを単に勝たせてくれる監督がいい監督である。 マリーンズをBクラスから引き上げたバレンタインがなぜ辞めさせられるのか理解できないし、 したがって、当然GMが悪者視された。スタンドには「ボビーやめないで」「広岡ヤメロ」の文字が踊り、 最終戦後には「ボビー、ボビー」の大合唱。ファンを鎮めるため私服姿のバレンタインが現れたほどだった。 そして「2年契約だから来年も指揮をとる。来年は必ず優勝する」と誓ったが…、しかし10月17日、 バレンタイン解任と江尻亮新監督就任が発表されてしまう。 オーナー代行は解任がGMと監督との野球観の違いによるものだと認め、 広岡GMは「バレンタインの采配ミスで15勝は損した。優勝できていたはずだ」と語った。 しかしファンは納得せず、ファン感謝デーでは暴動騒ぎも起きた.
翌96年、チームは5位に沈み、これに伊良部秀輝のメジャー移籍騒動なども加わって、広岡に非難集中。 ロッテ本社はイメージ悪化を怖れ広岡を解任、そしてGM制度そのものも廃止してしまったのである。 結局、日本初のGM制の試みは、たった2年で頓挫してしまった。
一連のこの騒動を今振り返ってみると…、当時は広岡が一方的に非難され、特にマリーンズ・ファンにとっては バレンタインを辞めさせたことで今も悪者視されているが、第三者として私の観方は少し違う。まず広岡とバレンタイン、 両者の野球観の違いについては、どちらがどうとも言えない。広岡の「管理野球」は確かに評判が悪いが、 しかしそれで現にヤルクト、西武を優勝させて来た実績があるのだし、加えて彼は守備コーチとしても 卓越した人である。その広岡から見て、未熟な選手をなぜ鍛えないのだとバレンタインに不満が出るのは 当然のことなのである。問題なのは、そういう野球観の食い違うバレンタインを見抜けずに監督に引っ張って来た 広岡のGMとしての不明である。また、いかにやり方が気に入らなかろうとも、 GMとあろうものがのこのこグラウンドに降りて行って選手を直接指導するのは論外である。 だったら自分が監督をやればよいという話になる。結局、広岡というのは監督、コーチ向きの人間であるにも関らず 本人も廻りもGMが務まると勘違いしたところに失敗の種があった。「名選手、名監督ならず」というが、GMもなまじ名監督過ぎるとよくないということであろう。 また、問題は見識なくどっちつかずでバレンタインと広岡を次々辞めさせたロッテのフロントや親会社筋にもある。 バレンタインを斬ってまで広岡に任せたのなら最後まで広岡に任せるべきだったし、 1年も経たず広岡を斬るのだったら先に辞めさせ、バレンタインに続けさせていればよかったということになるのではないか。 広岡も辞めさせた挙句、それでマリーンズはよくなったのならともかく、その後ずっとBクラス続き。 今年9年振りバレンタインが復帰したが、もしそれで活躍したからと言っても、この間の失態は全て帳消しにはならないだろう。


阪神部屋

1970年代、肥満気味の選手が多い阪神タイガースを相撲部屋に揶揄した言葉。
特に江夏豊、田淵幸一、遠井吾郎というレギュラー選手3人の突き出た腹が目立った。 尤も田淵の場合は、もともとスリムな選手だったが死球で入院した際の投薬の副作用で太り始めたということだったが。


広岡造反事件

巨人の広岡達朗選手が川上哲治監督に造反した事件。
1960年オフ、巨人の新監督に就任した川上は、広岡を兼任の守備コーチに任命した。川上は打撃では「神様」の異名を取る達人だったが、守備では現役時代から下手との定評があり本人もそれを自覚していた。そこで、 華麗な遊撃守備で阪神の吉田義男と並び称されていた名手・広岡にその役割を託したのである。しかしこの2人、かねて馬が合わず、特に広岡の方にその意識が強かった。
もともと、海軍軍人の息子で六大学出身のエリートとして 戦後プロ入りした貴公子の広岡と、泥臭く、戦前の「職業野球」に身を投じてバット1本にすがってのしあがった川上とでは人間性が違うのは言うまでもないが、広岡をいらだたせたのは、現役時代の川上が打撃練習ではケージを独り占めする一方、 自分の目の前に飛んで来た送球しか取らない一塁守備で、広岡を苦しませたからである。   加えて広岡は今でも変らぬ一言多い皮肉な性格、そのためコーチ会議では結論をズバリ言い放って場をシラケさせるわ、方針にただ1人反対を唱えるわ、で、徐々に浮き上がり川上との亀裂も深まっていった。その亀裂を決定付けたのは、 長嶋茂雄のホームスチール事件である。
すなわち、打者広岡、三塁走者長嶋と言うケースで、長嶋が突如(と、広岡は思った)ホームスチールを敢行、失敗した。しかもこのケースが2度あったのである。広岡には全く寝耳に水の このプレーに激怒、つまり「そんなにオレの打撃が信用できないのか」と言うわけで、その怒りは監督の川上に向けられた。広岡はこれを川上のサインによるものと解釈したのであるが、事実はどうもはっきりしない。長嶋特有の「野生のカン」 による単独スチールなのかもしれない。ただいずれにしろ広岡はその華麗な守備に比して打撃が弱く、新人の年が最高の成績で以後下り坂だったことは否めない。しかしこれによって広岡のプライドはいたく傷ついたが、川上は川上で何の説明もしなかった。
折りしも当時、広岡は週刊誌に「ジャイアンツの打ち明け話」というような連載をもっていた。広岡の談話を記者が綴ったものだが、ここで広岡は例の一言多い発言で首脳陣批判を展開したことから、事態は一気に動き出す。それまで川上は 広岡が内心自分に反感を抱いていても、また実際にコーチ会議で批判を口にしても、それはあくまで内部問題として目をつむることもできたが、こうあからさまに外部で批判を口にされては放置もできない。チームの和を乱す叛乱分子として広岡排除の覚悟を固め、 隠密裏にトレードの工作を始めた。これが1964年のことである。
しかしその噂は広岡の耳に入り、広岡は球団の最高実権者であるオーナーの正力親子に直訴、巨人残留を主張した。この結果、広岡は残留、ただしコーチの肩書きは剥奪、そして広岡の打撃向上などの 条件が付けられ、正力の裁定が下った。この間、スター広岡の去就をめぐって川上批判の声が轟々と巻き起こり、夫の身を案じた川上夫人は心労で倒れたほどである。こうして1965年シーズンは始まったが、巨人は2年振り優勝を果し、以後V9へ驀進、一方広岡はこの年も 懸案の打撃は奮わず、結局この年限りで引退することとなった。
広岡は解説者に転じ、67年春の巨人フロリダ・キャンプを取材に訪れたが、そこに待っていたのは広岡出入り禁止の川上の指令。捕手の森昌彦だけが温かい声を掛けたが、そのため森は後で譴責を食らうという有り様だった。 こうして広岡と川上の確執は解けぬままだったが、のちに広岡が広島でコーチを務め、指導者の立場に立って川上の考えの一端も理解したところから、自ら川上に会い過去の言動の至らなさを詫び、また川上も広岡を使いこなせなかった自分の不明を認めて和解した、ということである。 そううわけで今では2人揃って対談で同席したり、表面的には何のこだわりもなくふるまっている。内心はどうだかわからないが。


藤村排斥事件


平和台事件


別所引き抜き事件


別所退団事件

巨人の別所毅彦ヘッドコーチが、暴力事件がきっかけで退団した事件。
1960年、巨人の別所投手は通算310勝(この時点で歴代1位)の記録を残して引退し、同年オフに誕生した川上哲治新体制下のヘッドコーチに就任した。 別所は選手を鍛える「鬼軍曹」として張り切ったが、それがあだとなって事件が生まれた。 1962年7月10日、名古屋での対中日戦後、たまたま別所が宿舎の旅館の中村稔投手の部屋をのぞくと、中村が球団が禁止している酒を飲んでいるのを発見、 怒った別所が中村を殴打したと言うものである。週刊誌がこれを聞き付け記事にしたため「紳士」の巨人軍で暴力はご法度として問題化し、球団は別所に謹慎処分を課し、更に2軍コーチ降格を命じたが、 別所は拒否して巨人を退団した。実際は別所は殴らなかったともいうし、また、最初川上監督は別所に同調していたのにいざ問題化すると素知らぬ振りをしたので、 その態度に別所が激怒したともいう。


「ベンチがアホやから」事件


三原ポカリ事件


柳川事件

1961年4月、中日球団が日本生命・柳川福三外野手をを引き抜き契約したことに怒ったアマ側が、プロ退団者受け入れの門を閉ざし、プロ・アマの交流断絶に発展した事件。


ロッテ・太平洋遺恨試合


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