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「助っ人ガイジン」物語

今は「外国人選手」と呼称されているが、昔は「外人=ガイジン」と呼ばれ、時には「害人」などと当て字を使われたりもした。 当時は「助っ人」扱いにされ、大金を支払われているだけにチームが負けたらスケープゴートにされ非難される半面、勝ったら勝ったでも活躍を無視されるという 傾向があったのである。尤も、この体質は今もあまり変らないかもしれないが…。そんな、外国人がガイジンと呼ばれていた1970〜80年代の選手たちを、何人かピックアップしてみたい。

*Lineup*

「ジョン損」と呼ばれた男―デーブ・ジョンソン
「クレージー」は演出だった?―クライド・ライト
「ライオン丸」からモテモテ男に変身―ジョン・シピン
「OB会」に呼ばれた男―ロイ・ホワイト
謎の「前衛芸術」にそのに名を残す―ゲーリー・トマソン
やっぱり「ヒロオカは正しかった」?!―チャーリー・マニエル
日米野球文化の犠牲者…―ジム・トレーシー
「藤井寺のゴキブリ」があの「10.19」の産みの親?!―ドン・マネー



「ジョン損」と呼ばれた男―デーブ・ジョンソン(1975-76巨人)
「ジョン損」と酷評され、75年の長嶋巨人初年度の、球団史上唯一の最下位転落の「戦犯」にされた不幸なガイジンである。 そもそも巨人が外人、それも日系でないアメリカ人選手を入団させたのはこれが初のことだった。 実は、川上監督時代にも毎年、外人の補強を要請していたが、球団に拒否されていたという。 それが長嶋時代になって、長嶋自らが「ポスト長嶋」として大物メジャーリーガー獲得を希望するや、あっさり受け入れられた。 長嶋の所謂「欲しい欲しい病」は既にこの頃から始まっていたらしい。そして白羽の矢が立てられたのは、 アトランタ・ブレーブスで42本塁打を放ったこともあるジョンソン。しかしこれが大失敗だったのだ。だが、 その原因の大部分は巨人側にある。まず本来、セカンドがポジションのジョンソンに不慣れなサードを守らせたことで、 ジョンソンは守備に気を使ったため打撃のリズムまで崩した。また、外人2人枠まであるのに巨人はジョンソン1人だったこと、 そして何分初めての外人選手入団で巨人にケアの体勢が乏しかったことのため、ただでさえ慣れぬ異郷での生活に神経をすり減らした繊細なジョンソンは 10キロ以上体重も減らすほど苦しみ、その結果打率1割台の悲惨な成績に終ったのである。 翌76年は多少日本に慣れ、またセカンドに固定されて打撃も安定し、ベストナインにも選ばれる活躍でリーグ優勝に貢献した。 ただ、2打席凡退するとすぐ代打を出す長嶋の「ひらめき采配」には我慢がならず、その年限りで日本を去った。 その後、メジャーでワールド・シリーズを制する名監督にまでなったのは有名。 全米チームを率いて来日した時は、かつての敵討ちとばかりに、観光気分の選手たちを叱咤激励して本気で勝ちに掛かって来たものである。 メジャーで名声を得ても、日本で受けた心の傷は癒せなかったようである。

「クレージー」は演出だった?―クライド・ライト(1976-78巨人)
ジョンソンに続く巨人2人目の外人選手は、これもメジャー100勝を挙げた大物左腕投手。76年から8勝、11勝でV2に貢献したが、 それより有名なのは「クレージー」と言われた暴れっ振り。尤も、のちに本人の弁では、 大人しい日本の観客を乗せるための演出だったと言うが、それにしても華々しかった。 審判と文字通り鼻っ柱をくっ付けて抗議したり、不本意な降板を命じられて暴れたり…、 深夜の六本木でヤクルトのマニエルと大喧嘩になり、翌日あざをこしらえた顔で球場に現れたこともあったそうだ。 ただジョンソンと違い、陽気なライトは日本にも馴染み、長嶋監督を敬愛もしていたが、78年途中、 同僚シピンへの死球を巡る乱闘騒ぎの際、降板を命じられて激怒し、栄光のユニフォームを引き千切って退団した。 その帰国の際、今後来日する外人へのアドバイスを聞かれて、「日本へ行かないことさ」と答えたのは名言だろう。 その後、アル中で入院したこともあったようだが、今は古巣エンゼルスの球団職員。最近、日本の新聞のインタビュー に登場して、長嶋ジャパン監督にエールを送っていた。

「ライオン丸」からモテモテ男に変身―ジョン・シピン(1972-77大洋、78-80巨人)
大洋時代は長髪・ヒゲで「ライオン丸」と呼ばれた。 それが「紳士」の巨人ではぱっさり切って、素顔に変身。当時のヒット映画「サタデーナイト・フィーバー」の主演男優になぞらえて 「球界のジョン・トラボルタ」と言われた色男振りで、夜の街では浮名を流した… なぁんて話は、リアルタイムでは勿論知らなくて、古巣大洋戦で死球に怒り 相手ピッチャーを追い掛け回した恐いガイジンとして、当時の我々子供うちでは知られていたものだった。 帰国後は不動産業をやったり、バッティングセンターを経営したりしていたそうだ。 98年に大洋の後身・横浜優勝の時にはとんねるずの番組に「弱い時代の大洋」の代表の1人として出演したのを見た記憶がある。

「OB会」に呼ばれた男―ロイ・ホワイト(1980-82巨人)
ジョンソン以来、いまいち評判のよろしくなかった巨人助っ人ガイジンに、漸く「球界の盟主」に相応しい名選手が登場した。 ホワイトはヤンキース一筋15年だった超大物で、日本での1年目は29本塁打を放ち活躍した。 2、3年目は年齢的衰えもあって成績を落したが、日本シリーズで決勝本塁打を打つなど、ここ一番で勝負強いバッティングが印象的だった。それほどの大物でありながら万事、謙虚で控え目な性格だったことで、中畑清ら若手の多かった当時のチーム内では尊敬されていたらしい。 のちに、ガイジンとして初めて巨人のOB会に招かれた存在になった。ちなみに、なかなか渋めの二枚目で、映画に出演したこともあるそうである。

謎の「前衛芸術」にそのに名を残す―ゲーリー・トマソン(1981-82巨人)
のちに赤瀬川原平命名の謎の建造物「トマソン」として有名となった。つまり「無駄なもの」という意味なのだが、 ただし1年目は20本塁打を打っているので、全くダメ外人だったわけでもない。しかし2年目は三振の山を築き「大型扇風機」(いかにも昭和的な表現) と呼ばれ、これで「トマソン」の語源となってしまった。帰国後は親のビジネスを継いで実業家になったらしいが、 本人は、日本の前衛芸術に名を残したことを知っているのだろうか。

やっぱり「ヒロオカは正しかった」?!―チャーリー・マニエル(1976-78、81ヤクルト、79、80近鉄)
巨人はこれくらいにして、お次は、70年代…というか、昭和50年代最強助っ人のこの人、マニエル。 ヤクルト初優勝に貢献したが、「管理野球」の広岡監督と衝突して、近鉄へトレード。 ここでも猛打爆発で、近鉄独走の前期優勝(当時パは前後期制)かと思われたが、厳しい内角攻めに合った挙句アゴに死球を受け骨折した。マニエル欠場中は、 近鉄は失速しよれよれになってしまって、やっと前期最終戦で優勝を決めた。西本監督が 「マニエルおじさんの遺産を道楽息子が食い潰した」とコメントしたものだ。 後期は、退院後すぐ抜糸したばかりでアメフト用のフェイスガードを付けて復帰し、MVPを獲得、近鉄を初のリーグ優勝に導いた。 近鉄ではその後のブライアント、そしてローズも凄かったが、気迫という点では 死球禍に合いながらも臆することなくホームランを打ち続けたマニエルが上だったろう。 ただし日本シリーズでのザル守備には目を覆ったが…。 ちなみにその後、マイナーリーグの監督を経て、インディアンスの監督に就任したが、 かつてあれほど反発した広岡監督のことを「自分も監督になったら、ヒロオカが教えてくれたこと、やろうとしていたことが間違っていなかったことが分かったよ」 と絶賛していたそうである。歳月がひとを変えるとは、まさにこのことか。

日米野球文化の犠牲者…―ジム・トレーシー(1981-82大洋)
シピン、そして後釜のミヤーン(1978-80)、更に80年代半ばからもポンセ(86-90)、パチョレック(88-91大洋、92-93阪神)、そして90年代のローズ、ブラックスなど いつの時代も優良ガイジンを獲得していた観のある大洋だが、しかし必ずしも常にうまく行っていたわけではない。 特にミヤーンのあとポンセまでの80年代前半は不作だった。その象徴と言えるのがこのトレーシーである。 成績自体は悪くなくて、1年目は打率.303で本塁打19本。慣れれば更にもっと活躍するだろうと期待されて迎えた2年目だったが、完全に裏目だった。 「長嶋の受け皿」でこの年から就任した、新監督の関根潤三と衝突してしまったのである。 関根さんというと、いつもにこにこしている好人物のイメージだが、実際はそうでもないらしい。 そもそもお人好しでは、生き馬の目を抜くようなプロの世界で長年、飯を食って来られなかったろう。 それはさておき、トレーシーは開幕2試合目のヤクルト戦で、C.スミスのハーフライナーを取れず勝敗を決めてしまうという大失敗をしでかす。単なる判断ミスだったのだが、 関根監督にこれが「怠慢プレー」と見なされて、ペテルティとして翌日は途中交代させられた。 プライドを傷つけられたトレーシーは関根に説明を要求して試合出場をボイコット、 牛込通訳や同僚レオンの説得にも応じず、結局退団、帰国することになったのである。 当時は「わがままガイジン」などと一方的に非難されていたが、今にして思えば、コミュニケーション能力に欠如した関根側に問題があった。 例えば85年に阪神日本一の時の吉田義男監督などは、ことあるごとに当時の助っ人であるバースやゲイルと会食していた。 「ガイジンを甘やかす」と批判されたこともあったが、言葉のギャップがある外人には、常にチームの方針や監督の意図を伝えるため、 コミュニケーションを密にする必要があったのだという(そのおかげか吉田監督は外人の扱いがうまいと評判だったが、逆に日本人には評判が悪かった)。 しかし関根にはその配慮がない。また、鶴岡にしろ西本にしろ、名将と言われた人は外人の扱いもうまかったことも事実である。 関根はのちに「のびのび野球」でヤクルトの池山、広澤らを育てた…などと評価されることもあるが、指揮官としての無能さがトレーシー問題での対応のまずさ現れてしまった ことは否めないのである。そのトレーシーは今、野茂英雄のいるあのドジャースの監督だが、マニエルと違って 「自分も監督になったら、セキネさんは間違っていなかったことが分かった」…とは残念ながら言っていないようだ。

「藤井寺のゴキブリ」があの「10.19」の産みの親?!―ドン・マネー(1984近鉄)
たった29試合出場しただけで開幕後すぐ途中帰国、日本球界に何も実績も残さなかった選手だが、たったひとつ大きな功績を残した。 それは藤井寺球場の衛生改善。というのはマネーの退団理由が「球場のロッカー室にゴキブリが出る」というものだったからである。 (無論それだけではなく、諸々の待遇に対する不満からだが)。更に、マネーに続いてもう1人のガイジンであるリチャード・デュランまで 途中帰国してしまったので、近鉄の戦力は大幅ダウンするわ、そして面子は丸潰れるわ、で散々なシーズンだった。 しかし瓢箪から駒とはこのことで、2人の退団のあと急遽新外国人として獲得したディック・デービスがその後4年にわたって 主砲として大活躍する大当たりガイニンになったのである。更に因縁は続き、今度はこのデービスが88年開幕直後、 大麻所持で逮捕・退団するはめになってしまったのだ。慌てた近鉄は中日の第3ガイジンとして二軍で燻っていたラルフ・ブライアントを貰い受けたところ、 これがまた大当たりし、この年のあの「10.19」をもたらす大活躍、そして以後8年間も主砲として君臨し続けたのである。 考えてみれば、これというのも藤井寺のゴキブリのおかげでマネーが帰国したのがそもそもの始まり…というのは、いささか「風が吹けば桶屋」式のこじつけっぽいか。

(まだ続きます)