「さっき先生やーたで」 と聞いて、あなたは意味がおわかりだろうか。 この「やーた」を「いはった」にすればおわかりになるだろう。 「おられた」の意である。つまり、尊敬を表す補助動詞なのだ。 (本当は「おられた」とはニュアンスが少し違う。後述。) 湖北弁にはなぜか、敬語的な補助動詞が豊富にある。 どの補助動詞が使われるかで、対する人をどう思っているかがわかる。 では、僕が知っている範囲で主なものを紹介していこう。 まずは、上でも述べた尊敬の意。 サ行変格活用の「〜する」は「〜さーる」になる。 これの変形として、「〜しゃーる」もある。 五段活用では、「未然+ーる」。例えば「行く」なら「行かーる」だ。 上・下一段活用なら「未然+やーる」。「起きる」が「起きやーる」になる。 カ行変格の「来る」は「きゃーる」になる。「来やーる」が変化したのだろう。 例外として、存在するという意の「いる」は「やーる」になる。 そして過去形は「る」を「た」に換えればよい。 これは「〜しはる」という京ことばの訛りであろうかと勝手に察している。 そしてこれは標準語に直すと「〜される」「おられる」になるのだろうが、 これらの標準語から受ける少々カタい印象は「さーる」「やーる」等にはない。 軽い気持ちで、目上であることを表せる語なのだ。 親愛的な尊敬語とでも言おうか。 「先生さっき教室にやーたで」から 「小泉さんテレビに出てやーたで」まで幅広く使える。 次に、友達や家族など、親愛の意を表すもの。 上の親愛な尊敬の「ーる」を「んす」に換えればよい。 つまり、「〜する」は「〜さんす」、「行く」は「行かんす」になる等々。 過去形は「す」が「た」に変わる。「行った」は「行かんた」となる。 命令形は「す」が「せ」に変わる。「行かんせ」は「行きなさい」の意だ。 ここで特筆すべきは「来る」の親愛表現「来ゃんす(きゃんす)」である。 (「来んす(こんす)」と言う場合もある。) そして、湖北最大の街である、秀吉ゆかりの地・長浜には、 「Can's(キャンス)」というショッピングゾーンがある。 これはまさに「来ゃんす」を由来とする名前なのだ。 「来ゃんす」を英語っぽくつづってみたのである。英語に意味はないのだ。 さらに、少し離れたところに「Can's 2」というショッピングゾーンもある。 ここは別名「風の街」である。 長浜周辺の中高生は休日や放課後にこのあたりに群がるのだが、 それはここではどうでもいい。 「Can's」が出来たときのキャッチフレーズは「Can'sに来ゃんせ」だった、 かどうかは知らない。 さて、この「〜んす」や「やんす」は、敬語とも丁寧語とも言えない、 特殊な補助動詞だ。 「誰々が〜した」を「誰々が〜さんた」あるいは「誰々が〜してやんた」と することで、「近しい間柄」が表現されるのだ。 そしてこれは、命令形以外のときは直接話している相手(二人称)には使わず、 話題として出てくる第三者のことを話すときに使うものだ。 「○○君来てやんたやろ」とは言うが、 「お前来てやんたやろ」とは言わないのだ。 これに似たもので、 関西弁に「〜しとる」「おる」がある。 これはほぼ同じニュアンスだが、 直接話している相手に対しても使える。 「お前来とったやろ」「お前おったやろ」と言えるのだ。 ちなみに「おる」は古語の「をり」のなごりと思われる。 しかし、この「〜しとる」は、湖北では意味自体も違ってしまうのだ。 いや、親愛の意で使う事もあるのだが、 たいていは、見下しや憤慨などの負のニュアンスが入るのである。 「あいつこんなことやっとった」 というのは、馬鹿にしたり怒っていたりするときの言い方なのだ。 そして、この馬鹿にする言い方としてもっと一般的なものとして、 「〜よーる」がある。 これは連用形につく。 「〜しよーる(実際は「〜しょーる」が多い)」、「行きよーる」、 「来ょーる(きょーる)」、「起きよーる」、「やりよった」、 などとなるのだ。 存在するの意の「いる」は「よーる」である。 親しい友達とかなら「〜よーる」は親愛の意だが、 そうでない場合は見下げる言い方になるのだ。 このへんのニュアンスの違いの判断は微妙だが、 湖北人は敏感に感じ取れるのである。 また余談だが、僕は大学進学のため大阪に出てきた。 そして初めのうちは、「〜やんす」にあたる言葉が「〜しとる」であるため、 慣れるまでけっこう嫌な気分だったもんである。 「〜しとる」は「〜やんす」だということは頭ではわかっていたのだが、 条件反射的に見下しの意味と捉えてしまうのである。 「ああ、あいつ昨日来とったで」 と誰かが行ったなら、「あいつ」の事が嫌いなのかと思えてしまうのであった。 そんな感じなので、親愛の意味で「〜しとる」と口にするのには かなりの抵抗があった。 僕としては「〜やんす」と言うのが自然で、そう言いたいのであるが、 「〜やんす」では絶対に伝わらない。 でも「〜やんす」の意味を付加したい、 そんなときは「〜しとる」と言うしかないのだ。 大袈裟かも知れないが、慣れるまではけっこう苦痛だったのだ。 あと、二人称に「〜しとる」を使うというのにも違和感ありありだった。 「お前来とったやろ」 と言われると、自分に言われてるのに他人事のような気がしてしまうのだ。 「やーる」「やんす」「よーる」。 この使い分けに、湖北人はけっこうシビアである。 日常会話でも、相手との関係をしっかり考慮に入れるのだ。 そのあたりを無意識にやっているのが湖北人である。 ちなみに、この「やんす」は、 ケムンパスとかが使う「〜でやんす」とは全く別物だ。 あれは「〜であります」の意味であり、湖北弁とは何ら関係ない。 だが、湖北以外の人が「やんす」と聞けば、 「〜でやんす」の「やんす」と思うのは至極当然であろう。 僕の叔父(非湖北人)は以前用法を誤って、 朝起きていきなり 「おはようでやんす!」 と言ったことがある。 直後、みんなで爆笑したのは言うまでもない。 今でも語り草になっているエピソードである。 あと、湖北の小学生の作文には、特に低学年だと、 「先生が〜と言ってやありました。」 などの文章がたまに見られる。あなをかし、である。 |