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tomiyumi webあはれなる言 ― 湖北弁を語る(2)

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湖北弁を語る(2) [相手との関係を示す補助動詞]


「さっき先生やーたで」

と聞いて、あなたは意味がおわかりだろうか。

この「やーた」を「いはった」にすればおわかりになるだろう。
「おられた」の意である。つまり、尊敬を表す補助動詞なのだ。
(本当は「おられた」とはニュアンスが少し違う。後述。)


湖北弁にはなぜか、敬語的な補助動詞が豊富にある。
どの補助動詞が使われるかで、対する人をどう思っているかがわかる。

では、僕が知っている範囲で主なものを紹介していこう。


まずは、上でも述べた尊敬の意

サ行変格活用の「〜する」は「〜さーる」になる。
これの変形として、「〜しゃーる」もある。

五段活用では、「未然+ーる」。例えば「行く」なら「行かーる」だ。

上・下一段活用なら「未然+やーる」。「起きる」が「起きやーる」になる。

カ行変格の「来る」は「きゃーる」になる。「来やーる」が変化したのだろう。

例外として、存在するという意の「いる」は「やーる」になる。

そして過去形は「る」を「た」に換えればよい。


これは「〜しはる」という京ことばの訛りであろうかと勝手に察している。
そしてこれは標準語に直すと「〜される」「おられる」になるのだろうが、
これらの標準語から受ける少々カタい印象は「さーる」「やーる」等にはない。

軽い気持ちで、目上であることを表せる語なのだ。
親愛的な尊敬語とでも言おうか。
先生さっき教室にやーたで」から
小泉さんテレビに出てやーたで」まで幅広く使える。


次に、友達や家族など、親愛の意を表すもの。

上の親愛な尊敬の「ーる」を「んす」に換えればよい。

つまり、「〜する」は「〜さんす」、「行く」は「行かんす」になる等々。

過去形は「す」が「た」に変わる。「行った」は「行かんた」となる。

命令形は「す」が「せ」に変わる。「行かんせ」は「行きなさい」の意だ。


ここで特筆すべきは「来る」の親愛表現「来ゃんす(きゃんす)」である。
(「来んす(こんす)」と言う場合もある。)

そして、湖北最大の街である、秀吉ゆかりの地・長浜には、
Can's(キャンス)」というショッピングゾーンがある。
これはまさに「来ゃんす」を由来とする名前なのだ。
「来ゃんす」を英語っぽくつづってみたのである。英語に意味はないのだ。

さらに、少し離れたところに「Can's 2」というショッピングゾーンもある。
ここは別名「風の街」である。
長浜周辺の中高生は休日や放課後にこのあたりに群がるのだが、
それはここではどうでもいい。

「Can's」が出来たときのキャッチフレーズは「Can'sに来ゃんせ」だった、
かどうかは知らない


さて、この「〜んす」や「やんす」は、敬語とも丁寧語とも言えない、
特殊な補助動詞だ。
「誰々が〜した」を「誰々が〜さんた」あるいは「誰々が〜してやんた」と
することで、「近しい間柄」が表現されるのだ。

そしてこれは、命令形以外のときは直接話している相手(二人称)には使わず、
話題として出てくる第三者のことを話すときに使うものだ。
「○○君来てやんたやろ」とは言うが、
お前来てやんたやろ」とは言わないのだ。


これに似たもので、
関西弁に「〜しとる」「おる」がある。
これはほぼ同じニュアンスだが、
直接話している相手に対しても使える。
お前来とったやろ」「お前おったやろ」と言えるのだ。
ちなみに「おる」は古語の「をり」のなごりと思われる。

しかし、この「〜しとる」は、湖北では意味自体も違ってしまうのだ。
いや、親愛の意で使う事もあるのだが、
たいていは、見下しや憤慨などの負のニュアンスが入るのである。
「あいつこんなことやっとった」
というのは、馬鹿にしたり怒っていたりするときの言い方なのだ。


そして、この馬鹿にする言い方としてもっと一般的なものとして、
〜よーる」がある。
これは連用形につく。

〜しよーる(実際は「〜しょーる」が多い)」、「行きよーる」、
来ょーる(きょーる)」、「起きよーる」、「やりよった」、
などとなるのだ。

存在するの意の「いる」は「よーる」である。


親しい友達とかなら「〜よーる」は親愛の意だが、
そうでない場合は見下げる言い方になるのだ。
このへんのニュアンスの違いの判断は微妙だが、
湖北人は敏感に感じ取れるのである。


また余談だが、僕は大学進学のため大阪に出てきた。
そして初めのうちは、「〜やんす」にあたる言葉が「〜しとる」であるため、
慣れるまでけっこう嫌な気分だったもんである。

「〜しとる」は「〜やんす」だということは頭ではわかっていたのだが、
条件反射的に見下しの意味と捉えてしまうのである。
「ああ、あいつ昨日来とったで」
と誰かが行ったなら、「あいつ」の事が嫌いなのかと思えてしまうのであった。

そんな感じなので、親愛の意味で「〜しとる」と口にするのには
かなりの抵抗があった。
僕としては「〜やんす」と言うのが自然で、そう言いたいのであるが、
「〜やんす」では絶対に伝わらない。
でも「〜やんす」の意味を付加したい、
そんなときは「〜しとる」と言うしかないのだ。
大袈裟かも知れないが、慣れるまではけっこう苦痛だったのだ。

あと、二人称に「〜しとる」を使うというのにも違和感ありありだった。
「お前来とったやろ」
と言われると、自分に言われてるのに他人事のような気がしてしまうのだ。


「やーる」「やんす」「よーる」。
この使い分けに、湖北人はけっこうシビアである。
日常会話でも、相手との関係をしっかり考慮に入れるのだ。
そのあたりを無意識にやっているのが湖北人である。


ちなみに、この「やんす」は、
ケムンパスとかが使う「〜でやんす」とは全く別物だ。
あれは「〜であります」の意味であり、湖北弁とは何ら関係ない。

だが、湖北以外の人が「やんす」と聞けば、
「〜でやんす」の「やんす」と思うのは至極当然であろう。

僕の叔父(非湖北人)は以前用法を誤って、
朝起きていきなり

おはようでやんす!

と言ったことがある。
直後、みんなで爆笑したのは言うまでもない。
今でも語り草になっているエピソードである。

あと、湖北の小学生の作文には、特に低学年だと、
先生が〜と言ってやありました。
などの文章がたまに見られる。あなをかし、である。


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