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2X世紀死神考
 生命科学の進化をデタラメに予想する

 このところ、ジャンク双眼鏡を分解してはネタを探す生活をしていたら、変な気分になってしまいました。
 高価な双眼鏡が乾燥庫に収まる前で、日夜、同じような形の物がバラバラにされているのです。
 なんてスプラッターなんでしょうか。
 双眼鏡を相手に諸行無常を悟ってしまいそうです。

 諸行無常といえば、もちろん人間だって例外ではありません。
 この世に生れ落ちた以上、いつの日か、必ず「死」を迎えることになります。
 これを読んでいるあなたも、そして私も、ただ一人の例外もありません。

 なああんて変な書き出しをしてしまうと、どこかの怪しいサイトになってしまいますね。

ああ、そこのあなた!
書き出しだけで「戻る」ボタンを押さないでください。

 ここは「双眼鏡愛好会・何でも雑記帳」ですから、でたらめな科学を武器に人間の死を考えてみましょう。

 

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 テーマがあまりにも大きすぎて漠然としすぎていますね。
 とりあえず、まず「死とはなにか」を似非科学風に考えてみましょう。

 一番、死んでいると考えやすいのは、心臓が止っている場合です。
 死んでいる人の殆どは心臓が止っています。

 が、心臓が止っている人でも、もう一度動き出しそうな場合は死んでいるとはいいません。
 妻のクレジットカードの請求書を覗いた筆者や、化粧を落とした妻と眼が合ってしまった筆者は、短時間 心臓が止っていますが 死んでいるとは思われませんし、同情もされません。
 心臓手術はもちろん、蘇生処置中の人も、心臓は止っていても死んでいるとはいえません。

 次に、息をしていない人はどうでしょうか。
 死んだ人は まず間違いなく息をしていません

 しかし、呼吸をしていない人がすべて死んでいるわけではありません。
 妻の手料理を口にする瞬間の筆者や、妻の放屁に耐える瞬間の筆者は、息をしていませんが まだ生きています。
 もちろん、水泳中や溺水中も息は止っていますが、蘇生する可能性がある場合は まだ死んでいるとは考えません。

 じゃあ、最後に中枢神経機能はどうでしょう。

 死んだ人は脳の機能は失われていますが、脳の機能が停止していても死んでいるとは限りません。
 現に、我が家の妻は、脳の機能はおろか その存在すら疑われるのに、未だにのうのうと生活を続けています。
 現在の医学では、中枢神経機能が停止していても心拍と呼吸の維持が可能なのです。

 もっと進んで、冷たくなっている人はどうでしょうか。
 死人の大多数は冷たくなっているはずです。

 これも厳密に考えると「死」の基準にはなりえません。
 我が家の妻は非常に冷たい人間ですが、誰も死亡宣告をしてくれませんし、生命保険も支払われません。
 心拍呼吸が停止して冷たくなっていても、ある種の状況下では蘇生の可能性があり医学的な努力が続けられます。

 「似非科学」風に考えてみただけで訳がわからなくなってしまいました。
 私たちの頭の中には、強固な「死」の概念が出来上がっているのに、現代では多くの例外が生じてしまっているのです。

 人類がいつ頃から死の概念を意識し始めたかは分かりませんが、ネアンデルタール人の時代には葬儀の習慣があったと言われていますから、彼らなりの死亡確認法があったのでしょう。
 当時は、人工呼吸器も体外循環装置もなければ、我が家の妻も生まれていません。
 「心臓が止り、息が止り、動かなくなる」ことが、身近な動物たちと同じように、死そのものだったはずです。

 しかし、現代人はもっと複雑な世界です。
 心臓が止っていても電気的・機械的な循環補助が行われ、呼吸が止っても人工的な換気が可能です。
 呼吸が止り、自力で心拍を維持できなくなっても、一部では古典的な死を避けることが可能なのです。

 その事実を受け入れられるか否かにかかわらず、死の一線は急激に変化し続けています。
 「脳死」が普通の死の一形態になったように、これからも科学技術は新しい死を創り続けるでしょう。


 当たり前な結論ではつまらないので、この先 「死」がどのように変化していくのか、いつもどおりデタラメに考察してみましょう。

 呼吸・循環を初めとする医療技術が「脳死」という新しい概念を生み出したのですが、次は何が人類に新しい問題を突きつけるのでしょうか。
 「脳死」が死と考えられているのは、その変化が不可逆的で、比較的短時間のうちに循環・呼吸といった生命兆候が確実に失われるからです。
 ということは、中枢神経機能が人工的に長期間代償できるようになれば、脳死の概念は崩れてきてしまいます。

 現在のコンピューター技術の進歩を考えれば、そう遠い未来のことではないでしょう。
 別に高次の脳機能は問題ではないのです、炭酸ガス濃度や血圧に応じて生体機能をコントロールするだけでいいのです。
 20XX年、未来の病院にお邪魔してみましょう。

 早速、交通事故で頭部外傷の患者が運ばれてきました。
 携帯型磁気断層写真に掛けてみると、脳幹部損傷が激しく通常の医療では絶望的な状態です。
 現在なら脳死判定を行なうか、人工呼吸器につないでゆっくりと死への経過をたどります。
 が、この時代の主治医には、まだまだお仕事が一杯です。

 そう、患者の保険にあわせて、人口脳幹を発注しなければいけませんし、各種生体センサーも必要です。
 ああ かわいそうに、この患者は無保険エアカーでの事故のようです。
 主治医は迷わずTWOT●Pやマ●スコンピューターに電話します。
 安物の人口脳幹では プロセッサーがINTえL Cel●ronで、基本ソフトにはM$・W●ND●WSが使われています。
 その辺のパソコンからの流用品ばかりなので安く上がるのでしょう。
 もう少し高級な保険に入っていれば、専用プロセッサーと堅牢なOSが組み込まれた脳幹が買えるんですけど、ほかにも各種モニターが必要になりますから、予算の節約は重要です。
 もう少し御予算があれば、D●LLやG●TEWAY20XXがお勧めなんですが、上を見てはキリがありません。
 この世界ではAP●LE社が高級品といわれていますが、生体内で機能するには安定感がいまいちです。

 とりあえず、安物ですが人口脳幹の埋め込み手術は無事終了し、不本意な死は避けることが出来ました。
 血中ガスセンサーと代謝センサーも順調に働き、この先は電池が切れるまで安定した生命維持が可能になるでしょう。
 問題は、電池が切れる前にOSがハングしないことを祈ることだけです


 もちろん、人類のことですから、これで終わりではありません。
 科学技術は私たちを置き去りにしてどんどん進化していきます。

 次に 人間の死を変えてしまうのは 細胞培養技術の発達でしょう。
 脳が死のうが、心臓がへばろうが、臓器を再び培養させることができれば死を避けることが出来ます。
 「そんな夢みたいな」なんていわないでください、今でも組織レベルの培養は可能になりつつあるのです。
 そう遠くない将来、器官レベルの人工培養が可能になれば、私たちの生活も大きく変わってしまうでしょう。

 早速、2XXX年の救急外来を覗いて見ましょう。
 都合よく、15階建てのビルから飛び降りた患者が運ばれてきました。
 まだ生暖かいのですが、呼吸・循環とも停止していて、頭も半分なくなっているような状態です。
 今の日本なら、救急車に乗せられることもないでしょうが、この時代ならまだ生存可能と判断されます。 

 当直医は患者の損傷を見て、即座に「複数の器官培養」を専門会社に発注し、それぞれの組織のかけらをシャーレに入れて発送します。
 大部分の組織を入れ替えなければいけないのでちょっと時間はかかるでしょうが、 病院では新しいアセンブリ器官が出来上がるまでの間、再利用できそうな組織を培養液に浮かべておけばいいだけのお話。

 数日後には保冷車で病院に全身の器官が揃って届けられます。
 サービスが良い会社だと、「腹部臓器」「胸部臓器」「脳脊髄系」と組み込みがしやすい形になっているので、手術は説明書にしたがってコネクターをつなぎ合わせるだけでOKです。 ああ、うらやましい。

 まあ、生前?の記憶は戻らないでしょうが、記憶の有無は生命の必須条件ではありませんから、この際 目をつむることにしましょう。
 部品を交換するなら高性能のものにしてしまいたいという諸氏も多いようですが、自分に遺伝子からできるものですから性能の向上は厳しそうです。

 2X世紀人たちがどのような生死感を持つのかも興味があるのですが、本当に困ってしまうのは人生に思い悩んだ自殺志願者たちでしょう。
 ニュー新幹線?に飛び込もうが、枝ぶりの良い人工樹木に縄をかけようが、生存細胞が一つでもあれば再生が可能なのです。
 残された道は、溶鉱炉に身投げをするか、青酸カリのような細胞毒を大量に服用するかだけでしょう。


 「バカな」と思っているあなた、遠い未来の話ではないのですよ。
 50年前に、誰が心臓や肺が移植できると信じていましたか。
 もう、数十年後の世界すら私たちには想像すら難しいのです。

 ほおら、どんどん心配になってきたでしょう。
 筆者も心配で心配で夜も眠れません。

 2X世紀、私は何時になったら妻の生命保険金を受け取れるのでしょうか。

 


 

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