尖閣諸島の領有権問題
「参考資料(1) 論文・書籍10」
尖閣列島の領有権
現代の法律問題 ―時の法を探る―
〔増訂版〕
粕谷 進編
法学書院
237〜260ページ
第14章 尖閣列島の領有権 (奥原 敏雄)
1 序
わが国南西諸島の一つにあって沖縄県の石垣市に所属する尖閣列島は、東経一二三度三〇分から一二四度三
五分、北緯二五度四五分から二六度〇分に位置し、八つの島嶼よりなる。その内最大の島は魚釣島で面積約四・
三二平方キロ、以下久場島(一・〇八平方キロ)、南小島(〇・四六三平方キロ)、北小島(〇.三〇二平方キロ)、大
正島(〇.一五四平方キロ)の順となり、このほか沖の北岩、沖の南岩、飛瀬の三岩礁がある。
尖閣列島の島々は面積を総計しても約六.三二平方キロにすぎず、静岡県の山中湖や八重山群島の竹富島にほ
ぼ等しい程度であるが、一九六九年五月に国際連合アジア極東経済委員会ECAFEが東シナ海大陸棚の鉱物資
源共同調査の結果を公表し、とりわけ、尖閣列島周辺大陸棚の石油および天然ガス資源の有望なることを指摘した
ことから、同列島の存在が注目されるようになるとともに一九七一年以降これらの島々の領有権自体を中国と台湾
が公式に主張するようになった。
尖閣列島の島々は、後述するように、明治になって日本が国際法上の無主地先占の法理にしたがって領土編入し
たものであるが、中国と台湾はいずれも日本の領土編入以前にこれらの島々が自国の領土であり、しかも、台湾の
付属諸島であったと主張している。
わが国の立場からすれば、尖閣列島が中国の領土であったことは一度もなく、かつ、一九六九年以前には中国、
台湾ともこれが日本の領土であることを認めてきた。たとえば、一九五三年一月八日の人民日報(中国)は「琉球群
島人民の米国占領に反対する闘争」と題する評論記事のなかで琉球群島を定義した際に、“包括尖閣諸島”として、
明示的にこれらの島々を含めてきた。同様に、一九五八年十一月の北京の地図出版社編集部の作成した「日本の
部」と題する地図においても、尖閣列島は明らかに日本の領土の一部とされていた。
台湾もまた一九六九年以前に尖閣列島を台湾の付属諸島の一部としていなかっただけでなく、明らかにこれらの
島々を琉球群島に含めて理解し、島名なども和名を用いて説明していた。たとえば、一九六五年十一月台湾省政府
によって印刷された『台湾省地方自治誌要』では、台湾省の極北を彭佳嶼(尖閣列島より約一五〇キロメートル台湾
に近い)の北端と規定、一九六八年十月の『中華民国年鑑』も、極北を彭佳嶼、極東を綿花嶼としていた。
さらに、一九六五年十月に台湾で、出版された国防研究院と中国地学研究所による世界地図集第一冊(東亜諸
国)において、尖閣列島は「尖閣群島」の名称を与えられ、個々の島嶼名も付していた。魚釣台は日本名の魚釣島と
して示され、わざわざ和音をローマ字でつづっている。黄尾嶼、赤尾嶼はそれぞれ括弧の中で日本名である久場島、
大正島を併記し、黄尾嶼と赤尾嶼も和音で読めるようにローマ字ナイズしていた。北小島と南小島についてはローマ
字のつづりを付していないが、いずれもわが国で付けられた名称である。尖閣群島もまた SENKA KUGUNTO と
正確に和音をつづっていた。
そのほか一九七〇年の中華民国国民中学校地理科教科書でも、尖閣列島(原図では尖閣羣島)は明らかに「大琉
球羣島」の一部とされ、島名も魚釣島、南小島、北小島といった和名を付していた。
このようにみてくると中国と台湾が尖閣列島の領有権を主張することは、上述の事実と矛盾するだけでなく、国際
法上のエストッペル(禁反言)原則にも反するものといえよう。
だが、他方において、中国と台湾がこれらの島々の領有権を現に主張する以上、その論拠を知り、批判的検討を
行うことが必要になる。さらにそうした批判を行う前提として、尖閣列島にたいする日本の領有権自体を明らかにして
おかなければならない。
2 尖閣列島の領土編入
領有意思 尖閣列島にたいしてわが国が公式の地図などで領有意思を示し始めたのは、明治十二年(一八七九
年)頃からであったといえよう。すなわち、この年三月、松井忠兵衛の編になる『大日本全図』が内務省の検閲をえて
出版されたが、その「琉球諸島」の部で尖閣列島をほぼ正確な位置にしるすとともに、魚釣島に「和平山」(Wahe-
san)、その付近島嶼に凸島(NakadakaSn)、久場島に(黄尾嶼)(ローマ字なし)、久米赤島に「嵩尾嶼」(ローマ字な
し)の名を与えていた。
『大日本全図』は沖縄に県制が施行される直前のもの(その約1カ月後に沖縄県となる。当時はまだ琉球藩と呼ば
れていたが、すでに明治七年以降内務省の直轄下におかれていたから、日本の領土としての法的地位にかわりは
ない)という点で重要であるが、県制の施行されたのちのものとしては、同じく明治十二年十二月に出版された『大
日本府縣管轄図』でも、尖閣列島は琉球を構成するものとして明示され、若干の島名も付されていた(ただし、赤尾
嶼は描かれていない)。
尖閣列島にたいするわが国の領有意思は、その後も繰り返し表明され、明治十四年(同十六年改訂)の内務省地
理局『大日本府縣分轄図』の「沖縄縣図」では、島嶼名は付されないものの、尖閣列島の存在が示されている(赤尾
嶼は描かれていない)。また明治十九年以後になると、たんに地図だけでなく、わが国の水路誌においても、尖閣列
島がわが国の領土に含めて記述されるようになる。すなわち、明治十九年三月出版の海軍水路局『寰瀛水路誌』第
一巻下は、尖閣列島をその第十編「洲南諸島」のなかで扱っている。なお、この水路誌は、魚釣島と付近島嶼を含む
総称として「尖閣群島」の名前を与えている。群島名として「尖閣」の名称を用いたのはこれがはじめてである(明治
六年のわが国の『台湾水路誌』は、南小島に尖閣等の名を付している。これは英海軍の水路誌が南小島に
Pinnacle lslandの名を与えたものからの直訳といえる。なお、Pinnacleとは尖塔の意味)。さらに、明治二十七年七
月海軍水路部『日本水路誌』第二卷第三編「南西諸島」において、その一部として尖閣列島に言及している(南西諸
島という名称を用いて、尖閣列島をこれに含めたものとしては、右の文献が最初であろう)。
明治十八年になると、さらにもう一つ重要な事実がみられるようになる。それは、政府がはじめて沖縄県にたいし
て、尖閣列島の調査を命じていることである。すなわち、明治十八年、内務卿(山縣有朋)は「沖縄県ト清國福州トノ
間ニ散在セル無人島久米赤島外二島取調之儀」に付き、在京の森本長義沖縄県大書記官へ内命、そこで沖縄県
令(西村捨三)は、まず石澤兵吾(沖縄県五等属)を通じて、大城永保(美里間切詰山方筆者)なる者から「廃藩前公
私ノ用ヲ帯テ?清國ヘ渡航セシ節親シク目撃セシ趣」を聴取させている。『久米赤島久場島魚釣島之三島取調書』と
題するこの聴取書は、同年九月二十二日付内務卿宛上申書『久米赤島外二島取調ノ儀ニ付上申』に添付されて、
沖縄県令によって政府に提出されている。
次いで、沖縄県令は、石澤兵吾ほか五名の官吏を大阪商船の出雲丸で尖閣列島へ派遣、港湾の形状、土地物産
の開拓見込みなどの有無を調査させ、その結果を報告させている。この報告書は二つあって、一つは、石澤兵吾『魚
釣島外二嶋巡視取調概略』であり、いま一つは、出雲丸船長長林鶴松の『魚釣、久場、久米赤嶋回航報告書』であ
る。
領土編入借置 出雲丸による実地踏査は、尖閣列島にたいするこれまでの日本の領有意思を、具体
的な国家主権の行使という事実を通じて、さらに確認した点で重要であるが、いま一つ、沖縄県令は、現地に国標を
建設すべきか否かについても、内務卿に上申している。ただ、このときは、沖縄県令としても、これらの島々を清国も
よく知っているなどの理由から、国標を建設することについて懸念を抱き、まずその是非を内務卿へ問い合わす程度
のものであった。
しかし、出雲丸の踏査報告を検討した後には、沖縄県令も、本県の所轄とすることに別段の差支えなしと之判断に
傾き、二度目の内務卿宛上申書(明治十八年十一月五日付)『魚釣島外二島実地取調ノ義ニ付上申』では、積極的
に、所轄標札の建設方を要請した。
一方、最初の沖縄県令上申を受けて山縣有朋内務卿は、大政官上申案を作成、本上申案を大政官へ提出するに
先立って井上馨外務卿の意見を書簡(明治十八年十月九日付)『沖縄縣ト清國トノ間ニ散在スル無人島ノ義ニ関シ
意見問合ノ件』で求めたが、このときに添付された右の大政官上申案において、内務卿として次のような意見をのべ
ていた。
「右諸島ノ義ハ中山傳信録ニ記載セル島嶼ト同一ノ如ク候ヘ共只針路ノ方向ヲ取リタル迄ニテ別ニ清國所属ノ證跡
ハ少シモ相見ヘ不申且ツ名称ノ如キハ我ト彼ト各其唱フル所ヲ異ニシ沖縄所轄ノ宮古八重山等ニ接近シタル無人島
嶼ニ有之候ニ有之候ヘハ同縣ニテ実地踏査ノ上國票取建候義差支無之ト相考候…」
ここで内務卿が「清國所属ノ證跡ハ少シモ相見ヘ不申」とのべていることは、重要である。なぜならば、清国所属
の證跡が少しも見えないということは、結局、これらの島々が、いずれの国にも帰属していない「無主地」であると、
内務卿として考えていたことになるからである。
ただ、「國標取建候義差支無之」とする内務卿の意見は、このときは、外務卿の反対によって、実現をみるにいたら
なかった。しかし、そのことは、外務卿が久米赤島などを清国領と考えたからではなかった。これらの島嶼の法的地
位に関するかぎり、両卿の間で意見の不一致はなく、そのことは、外務卿が、出雲丸の実地踏査については、これを
了承していた事実からも明らかである。また、いま一つ指摘すべきことは「他日ノ機会ニ譲ルベシ」とのべていたこと
から、外務卿は、国標の建設や開拓そのものに反対していたのではなく、これを実施する時期を問題にしていたにす
ぎなかったことである。
外務卿が、国標の建設を時期尚早とみなした理由については、先の外務卿宛内務卿書簡にたいする外務卿回答
(明治十八年十月二十一日)『沖縄縣ト清國トノ間ニ散在スル無人島ニ国標建設ハ延期スル方然ルヘキ旨回答ノ
件』において、次のようにのべていた。
「右嶋嶼ノ儀ハ清國々境ニモ接近致候曩ニ踏査ヲ遂ケ候大東嶋ニ比スレハ周回モ小サキ趣ニ相見 ヘ殊ニ清國ニ
ハ其嶋名モ附シ有之候ニ就テハ近時清國新聞等ニモ我政府ニ於テ臺湾近傍清國所属の嶋嶼ヲ占領セシ等ノ風説
ヲ掲載シ我國ニ対シテ猜疑ヲ抱キ頻ニ清政府ノ注意ヲ促シ候モノモ有之候様ニ付此際邃ニ公然國標ヲ建設スル等ノ
處置有之候テハ清國ノ疑惑ヲ招キ候……」
つまり、外務卿としては、これらの島嶼が帰属未定の地であっても、わが国と清国の双方がその存在をよく知り、
かつ、両国の国境にも近い島嶼に対して、相手国が関心を持っていないならばともかく、清国の新聞などが自国政
府の注意を促している段階で、公然と国標を建てるなどの行為を行うことは、外交上好ましくない、と判断したことに
よる。
実際にも、これらの島嶼は?爾たる小嶼にすぎなかったから、少なくとも、当時においては、清国と外交上の紛議を
おこしてまで、性急に国標を建設するなどの借置をとる必要はなかったといえよう。当時は、まだ琉球の帰属をめぐり
わが国と清国との対立が尾を引いていたばかりでなく、清国との間にわが国として多くの重要な外交案件をかかえ
ていた。加えて、井上外務卿が対清外交を進める上での慎重論者であったことも、この問題にたいする外務卿の判
断に影響を与えたといえよう。
沖縄県知事による三度目と四度目の上申は明治二十三年と明治二十六年になされた。すなわち、明治二十三年
一月十三日、沖縄県知事(丸岡莞爾)は、水産取り締まりの必要を理由とした八重山島役所からの無人島魚釣島二
島の所轄決定方伺書を受けて、内務大臣宛上申を行った。右の沖縄県知事上申にたいして、同年二月七日、末松
内務省県治局長より県知事宛、明治十八年十二月五日指令の顛末についての資料の写し方が依頼されてきた。そ
こで、二月二十六日、県知事によって、顛末についての写しが県治局長へ送付されるとともに、先の上申に対する回
答を仰いだが、結局、そのままとなった。
明治二十六年十一月二日の沖縄県知事上申も、明治二十三年のときと同様、漁業上の取り締まりを理由とするも
のであったが、この上申が最終的に政府によって認められることになる。だが右の県知事上申を受けて政府がなんら
かの動きをみせはじめるのは、翌明治二十七年四月十日で、内務大臣(井上馨─明治十八年当時外務卿)は、内
務省県治局長(江木千之)名で、沖縄県知事に対して、(一)該島港湾の形状、(二)物産及土地開拓見込ノ有無、
(三)旧記口碑等ニ就キ我國ニ属セシ証左其他、(四)宮古嶋港湾八重山島等トノ従来ノ関係、などについての照会
方を求めてきた。
上述の照会方に対して、同年五月十二日、沖縄県知事は、「該島に関する旧記書類及我邦ニ属セシ証左ノ明文又
ハ口碑ノ傳説等モ無之古来縣下ノ漁夫時々八重山島カラ南嶋ヘ渡航漁猟致シ候関係ノミ有之候」と回答している。
それからしばらくの間、本件を扱った公文書は見あたらない。これが現れるのは、七ヶ月後の十二月五日で、後に
閣議へ提出されることになる。右の公文書は、別紙に閣議提出案を付し、本文で閣議に提出する理由をのべている
が、その理由として、次の三つ、すなわち、(一)明治十八年当時と今日とでは大いに事情が異なっていること、(二)
海軍省水路部部員の口陳によると、魚釣久場の二島は別にこれまでいずれの領土とも定まっていないようであるこ
と、(三)地形上かみても、当然沖縄群島の一部と認められること、などをあげていた。
右の文書が作成されてから十日余を過ぎた十二月二十七日、内務大臣(野村靖)は、本件の閣議提出方につい
て、外務大臣(陸奥宗光)と協議を行っている。これにたいして外務大臣は明治二十八年一月十一日付書簡で、別
段異議なき旨回答してきた。そこで内務大臣は、一月十二日、内閣総理大臣(伊藤博文)にたいし閣議開催方を要
請、一月十四日、閣議は、本件について、つぎのような決定をおこなった。
「別紙内務大臣請議沖縄縣下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ト稱スル無人島ヘ向ケ近来漁業等ヲ試ム
ルモノ有之為メ取締リヲ要スルニ付テハ同島ノ儀ハ沖縄縣ノ所轄ト認ムルヲ以テ標杭建設ノ儀仝縣知事上申ノ通許
可スヘシトノ件ハ別ニ査支モ無之ニ付請議ノ通ニテ然ルヘシ」
3 実効的支配
明治十八年の出雲丸による実地踏査は、尖閣列島にたいするわが国の領有意思を国家および地方機関の派遣と
いう行為を通じて確認したといえるが、このことは同時に領土編入以前にわが国がおこなった最初の実効的支配の
事実として指摘しうるものでもあった。
一方、国際法上の意味での実効的支配にはいたらないにしても、私人による尖閣列島の利用行為もすでに明治十
八年から本格的に始まった。すなわち、明治十七年に古賀辰四郎氏が人を派遣して列島を探検させ、実情を報告さ
せるとともに、明治十八年にはじめて鳥毛・海産物などを採集、輸出品および国内需要上に有望なことを知り、以後
これを事業として継続的におこなうようになった。
古賀氏は明治二十七年にいたって同列島の開拓を計画し、これの実行のため沖縄県知事に尖閣列島開拓の許可
方を申請、明治二十八年六月にも『官有地拝借御願』を内務大臣に上申している。古賀辰四郎氏の、『官有地借置
御願』が内務大臣により正式に受理されたのは翌明治二十九年八月であった。
政府は、明治二十八年一月十四日の閣議による魚釣島などの沖縄県所轄の決定、翌明治二十九年四月の同県
八重山郡への編入を機会に古賀氏の申請を受理、内務大臣は期間三十年使用料無料の条件で、魚釣島と久場島
を貸与することを認めた。これによって以後の尖閣列島にたいする古賀氏の利用行為は、単純な私人の行為として
ではなく、國によってオーソライズされた行為として、国際法上の実効的支配を構成することになる。
古賀辰四郎氏の事業は大正七年(一九一八年)
(一九二六年)これまでの無料貸与期間が切れたため、以後は一年契約の有料貸与となった。そこで昭和七年(一
九六二年)古賀氏は、魚釣島、久場島、南小島、北小島の払い下げを申請、政府はこれを有料で払い下げた。これ
によって右四島は古賀氏の私有地となり、所有権移転と登記も完了、同氏は爾後毎年四島にたいする地租を納めて
きた。
古賀辰四郎および善次氏による列島での事業は多種多様で、アホウ鳥の鳥毛の採取とグアノ(鳥糞)の採掘の他
に、フカの鰭や貝類、ベッ甲の加工、海鳥の罐詰製造、カツオ鳥、アジサシの剥製、カツオブシの製造、珊瑚の採取
などの事業を営んだ。なお、古賀氏は、それらの事業と並行して、魚釣島と久場島に家屋、貯水施設、船着場、桟橋
などを構築するとともに、排水溝など衛生環境の整備、海鳥の捕獲、芭蕉、甘蔗、甘藷、煙草などの実験栽培、杉な
どの植林をおこなった。
尖閣列島における古賀氏の事業は太平洋戦争直前に廃止されることになるが、それまでの事業期間少なくとも延
二千人を超える労働者・漁民・職人などが列島に居住または派遣された。古賀辰四郎氏が明治四十二年内務省に
提出した報告書によれば、明治四十年に移民総数二百四十八名、戸数九十戸、開墾面積六十余町歩に達していた
とされる。
古賀辰四郎による明治二十九年以後の列島の利用状況は、これだけで尖閣列島の領有権を確立するに十分な実
効的支配をわが国がおこなってきたことを示しているといえよう。だが、わが国は、右の事実に加えて、さらに次のよ
うな国家機能の発現(統治行為)を尖閣列島にたいしておこなってきた。
すなわち、政府は、魚釣島、久場島、南小島、北小島の四島を明治二十九年に国有地に指定、国有地台帳に登
録(内務省所管)するとともに、この借置にもとづいて同年八月古賀氏に魚釣、久場両島の貸与を認めた。また尖閣
列島の地方行政上の編入借置も、明治二十八年一月十四日の閣議による沖縄県への編入決定、翌明治二十九年
四月の同県八重山郡への編入に続き、明治三十五年十二月石垣島大浜間切登野城村所属とした。同年十二月沖
縄県は、臨時土地整理事務局によって列島にたいする最初の実地測量を行うとともに、各島の正確な縮尺図を作成
した。この測量にもとづいて魚釣島など四島は石垣島の土地台帳にも正式に記載、地番なども設定された。列島に
たいする実地測量は、その後大正四年(一九一五年)日本水路部、大正六年(一九一七年)海軍水路部、昭和六年
(一九三一年)沖縄営林署によっておこなわれた。
また、国もしくは地方行政機関の許可または奨励を受けた資源および学術調査、救助借置、起床測候所の設置の
ための現地調査が、尖閣列島にたいして数多くおこなわれてきた。すなわち、明治三十三年、三十四年、三十六
年、四十年に技術指導あるいは状況視察などの目的で国および地方機関(県事務官、県技師、八重山警察署長な
ど)が渡島、さらに昭和七年(一九三二年)には農林省の資源調査団が現地に赴き調査をおこなっている。この調査
には石垣島測候所の正木任氏も同行、後にこの調査結果を報告している。また昭和十五年(一九四〇年)、魚釣島
に不時着した大日本航空内台連絡船阿蘇号の遭難に際して、旅客記の乗客十三名を救出すべく八重山警察署の
警官などが現地に急行した。昭和十八年(一九四三年)には、軍の要請で魚釣島に起床測候所を設置すべく石垣島
測候所の技官二名が現地に出張している。さらに昭和二十年(一九四五年)には、台湾疎開者遭難事件に関連して
警察官と軍関係者が遭難現場である魚釣島へ救助に赴いている。なお、政府は、明治四十二年十一月二十二日、
古賀辰四郎氏にたいして、尖閣列島開拓の功績により藍綬■章を授与している。このほか、福岡鉱山監督署は、明
治四十年八月十九日、古賀氏の燐鉱石採掘出願を正式に認めている。
以上の事実は、すでに戦前(第二次世界大戦前)において、わが国が尖閣列島の領有権を確立するに十分な実効
的支配をおこなってきたことを立証しているといえよう。他方、尖閣列島は、第二次大戦後、琉球列島、大東諸島を含
む北緯二十九度以南の南西諸島(ただし、昭和二十八年十二月二十五日以降奄美群島を除く)とともに米国の立
法、司法、行政上の管轄下に置かれてきた。
もっとも、南西諸島にたいする米国の施政権を定めたサンフランシスコ平和条約第三条は、尖閣列島に明示的に言
及していたわけではない。だが、同列島が右の平和条約第三条の範囲に含められていたことは、昭和二十七年二
月二十九日の米民政府布令第六八号『琉球政府章典』、昭和二十八年十二月二十五日の米民政府布告第二七号
『琉球列島の地理的境界』その他によって明らかであった。また、昭和二十一年一月に二十九日付連合国最高司令
官総司令部覚書『若干の外廓地域を政治上、行政上日本から分離することに関する覚書』にしたがってわが国の外
務省が作成した『南西諸島一覧表』にも、尖閣列島は、明示的に島名をあげて列記されていた。
平和条約第三条の下で米国は北緯二九度以南の南西諸島にたいして「施政権」のみを認められてきた。尖閣列島
を含む南西諸島の領有権は依然として日本に帰属したままで、ただ日本としては自国の領域である南西諸島に領
域主権を行使できないという意味において、この地域にたいして潜在主権を有するとされてきた。この点は、昭和四
十五年八月三十一日の米国務省マクロスキー報道官によって、尖閣列島を明示的に含めて、確認された。この米国
政府の方針はわが国への沖縄返還まで一貫して変わることがなかった。
サンフランシスコ平和条約第三条の範囲に尖閣列島が含められてきた結果、同列島はこの条約によって法的地位
(日本の領土であること)を保証されてきたことになる。したがって、米国が施政権を認められた期間内に尖閣列島に
対してどの程度の施政権を行使してきたかは、同列島の領有権帰属に影響を及ぼすものではない。
だが、この点を別にすれば、第二次大戦後は平和条約第三条によって、日本に代わって米国が尖閣列島にたいし
て実効的支配(施政権の行使)をおこなってきたことになる。同列島にたいする米国の実効的支配の程度は、戦前に
わが国がおこなってきたほどではないが、皆無であったわけでもない。すなわち、米民政府は、同列島中の国有地
である大正島を昭和三十一年(一九五六年)以降海軍演習地として、また民有地である久場島については、昭和三
十年(一九五五年)に空軍、それ以後海軍演習として使用してきた。ただし、久場島については民有地のこともあっ
て、琉球政府を代理人として、一九五八年七月一日、所有主である古賀善次氏米民政府との間に基本賃貸契約が
結ばれた。この契約にしたがって米民政府は一定金額を軍用地使用料として毎年支払ってきた。琉球政府は、この
契約以前から古賀氏所有の四島にたいして固定資産税を徴収してきたが、軍用地使用料収入にたいしても別途に
源泉徴収をおこなってきた。
一方、琉球政府立法院は、昭和三十年(一九五五年)三月二日、魚釣島領海内で国籍不明のジャンク船二隻に銃
撃され、三名が行方不明になった第三清徳丸事件に関連して、同年三月五日、米民政府、日本政府および国際連
合などにたいして、事件の調査方を要望する決議を採択した。昭和四十二年(一九六七年)十月二十八日、琉球政
府はこの事件に関連して被害者家族に救援金を支出した。昭和三十六年(一九六一年)、尖閣列島を行政的に所管
する石垣市は、土地借賃安定法にもとづき固定資産再評価上の実態調査のため担当官を尖閣列島に派遣するとと
もに、昭和四十年(一九六九年)五月、石垣市長も同行して、尖閣列島五等に同市の管轄を明示した行政標識を設
立した。他方、米民政府と琉球政府は、昭和四十三年(一九六八年)以降、列島にたいする不法入域を取り締まる
べく種々の対策、たとえば、軍用機による哨戒、警告板の設置、琉球政府巡視艇によるパトロール、不法上陸者へ
の退去命令発出などをおこなってきた。
なお、尖閣列島の学術調査は、国連のエカフェによる東シナ海大陸棚調査の開始以前にかぎっても、戦後五回を
数える。すなわち、一九五〇年、五二年(二回)、六三年、六八年に琉大、、琉球政府気象庁、八重山地方庁、八重
山気象台、石垣市警察署などによって、学術調査、資源、水質調査などがおこなわれてきた。
4 中国および台湾の領有論拠とその批判
一九七一年六月一日に台湾の中華民国政府(国府)が、また、同年十二月三十日に中国の中華人民共和国政府
が、それぞれ公式の外交部声明を発し、尖閣列島の領有権を主張して以来、この問題は日中台間の国際紛争とし
ての性格を持つにいたった。他方、中国と台湾は形式的にはそれぞれ自国の領土として別個に領有権を主張してい
るけれども、尖閣列島が日本の領土編入以前に中国領であったとみなしている点で、両国の立場は一致する。もっ
とも、両国の領有論拠は必ずしも同じではない。領有権をめぐる論理の展開の仕方にも両国の間でいくらかの違い
がみられる。しかし、ここでは、必要な場合を除いて、この点には触れず、中国領有論の論拠を全体として捉え、これ
に若干の批判を加えることとする。
中国領有論の論拠は、大体において、次の六つに分類することができよう。すなわち、第一に、歴代冊封使録等の
古文書を理由にしたものであり、第二に、日清講和条約第二条の「台湾全島及びその付属諸島嶼」のなかに釣魚台
などがふくまれていたとする主張であり、第三に、明代の古文書に釣魚台などの名前がみえることをもって、それら
が中国によって発見されたこと、および光緒十九年(一八九三年)の慈禧太后(西太后)詔書なるものを根拠に、中
国の釣魚台などにたいする領有意思あるいは統治行為の証拠として、日本に先立つ無主地先占の事実が中国側に
あったことを主張するものであり、第四に、釣魚台などと台湾の地理的接近および地質構造上の一体性を理由にす
るものであり、第五に、台湾漁民の釣魚台などの使用状況もしくは実態を指摘するものであり、第六に、釣魚台など
を大陸棚の一部であるとみなす主張である。
これらの理由または根拠のうち第四から第六までについては、国際法上ほとんど問題にならないといえよう。地理
的近接性とか地質構造の一体性が領有権の帰属を決定しうるものでないことは、国家実行あるいは国際判例からも
明らかであり、大陸棚一部論にいたっては、国際法上の大陸棚の定義そのものを無視した議論といえよう。台湾漁
民の列島および列島領海内の利用も、そうした行為が日本の台湾統治以後であることについては、台湾の国際法
学者によってさえ指摘されている。日本が台湾と統治していた時代における台湾漁民等の列島利用行為は、当時の
わが国の国内法にしたがったものであり、国籍法上には日本人としての利用行為にすぎない。また第二次大戦後の
台湾漁民の列島利用行為は、そうした行為が不法行為であったことを別にしても、単純な私人としての利用行為に
すぎず、国際法上の領有権効果を伴う性質のものではない。さらに台湾の労働者等による尖閣列島での沈船解体
工事(若干の島上施設構築行為を含む)も、米民政府による取締り開始以後は、米高等弁務官の入域査証を得て作
業を継続する手続きがとられたものである。
第三の西太后の詔書についても、その押印が公的なものでないなど信憑性に大いに疑問があるだけでなく、これ
以外に中国の実効的支配を立証する証拠のないことを明らかにする結果となった。だが、仮にこの詔書が真正なも
のとしても、これを実効的支配の証拠とみなすべきか否かについては、台湾の国際法学者の間でも意見を異にして
いる。この詔書は西太后が、薬草採取の用に供せられるべく盛宣懐に釣魚台など三島を下腸したとされるものであ
るが、盛宣懐自身は結局釣魚台などに赴くことのなかったことが台湾の新聞などで明らかにされている。これにたい
してわが国は、すでに西太后詔書の八年前に尖閣列島にたいして主権を行使している(明治十八年内務・外務両大
臣の同意を得てかつ政府の列島調査の命を受けて、沖縄県知事が出雲丸を派遣、列島の踏査を行った)。したがっ
て、西太后詔書の信憑性いかんにかかわりなく、わが国の領有権主張を弱めることにはならない。
つぎに、日清講和条約第二条についてであるが、講和会議の席上で台湾の付属諸島の範囲が問題になったの
は、福建省沿岸の諸島であった。清国側は、日本が福建省に近い島嶼まで台湾の付属島嶼であると主張することを
恐れて、具体的な島嶼の名前をあげることを要求したが、台湾と福建省の間に澎湖列島のある以上、清国側が心配
するようなことは起こりえないと日本側が説明したので、清国代表も了解したという経緯があった。ここで明らかなよう
に台湾の付属諸島ということで清国側が問題にしたのは、福建省沿岸の諸島であった。
他方、尖閣列島よりもはるかに台湾に近い澎湖諸島については緯度経度で示し、尖閣列島については明示的に
はもちろんのこと、緯度経度でも示されなかった。講和会議の席上で尖閣列島がまったく言及されなかったことはも
ちろんである。尖閣列島だけでなく、綿花、花瓶、澎佳の三嶼も会議ではまったく問題にされなかった。そうしてこの
ことは、当然であったといえよう。
すなわち、一七一七年の周鐘■■『諸羅県志』は巻一の「疆界」で、台湾県(台湾北部)の北界が大難籠山である
ことを明らかにし、一八七一年の陳培桂■『淡水庁志』も巻一「封域志」の「疆界」で、同様に大難籠山が極北の道の
終りにあたることを明記している。さらに、綿花、花瓶、澎佳の三嶼について一九五四年基降市文献委員会編の『基
降市志』は、それらが台湾省の行政範囲に編入されたのは一九〇五年(光緒三一年)で、この年轄区の再調整が日
本政府によっておこなわれたと誌している。一九六五年の『台湾省地方自治誌要』も、澎佳嶼などが台湾省の範囲
に入れられたのは、日本が台湾を統治していた時代であることを再確認している。したがって当然のことながら、右に
二つの文献(公文書)および一九六八年の『中華民国年鑑』などは、第二次大戦後の台湾省の北限もしくは極北を、
尖閣列島ではなく、これより約一五〇キロも台湾に近い澎佳嶼であると説明している。
以上のことから日清戦争終結時の台湾省の行政上の北限は大難籠嶼であり、尖閣列島はもとより、澎佳など三嶼
さえ台湾省に付属する諸島として扱われていなかった。日清講和会議で尖閣列島がまったく問題にされなかったの
は当然といえよう。
最後に冊封使録などの古文書についてであるが、中国領有の論拠として引用されるものとしては、陳侃『使琉球
録』(一五三四年)、鄭舜功『日本一鑑』(一五五六年)、郭汝霖『重刻使琉球録』(一五六一年)、鄭若曽『籌海図
編』(一五六二年)、■楫『使琉球雑録』(一六八二年)、徐葆光『中山傳信録』(一七一九年)、周煌『琉球國志略』
(一七五六年)、林子平『三國通覧図説』(一七八五年)などがある。
まず陳侃使録においては「一一日夕 古米山がみえた。これすなわち─琉球に属するもの也」が問題にされる。ま
た郭汝霖使録については「赤嶼は琉球地方とを界する山也」が問題にされる。そうして陳侃使録唐久米島より手前
の島々が中国領であったことが側面的に説明されるとし、さらに郭汝霖使録によって赤嶼(赤尾嶼─大正島)が中国
と琉球との界を接する山と解されるとする。同様に汪揖使録などにおける「中外之界」記載を中国と外国との界であ
ると解することによって、赤嶼と久米島との間の水域に中国・琉球の境界があったと説明する。
だが、以上の指摘が事実に反することはすでにのべたところである。綿花、花瓶、澎佳三嶼が行政上台湾の付属
諸島として編入されたのは一九〇五年以後のことであるから、これらの島々を飛び越えて、中国と琉球との境界が
赤嶼と久米島との間の水域にあると主張しえないのである。そうした主張あるいは解釈をおこないうるためには、右
の三嶼はもとよりのこと、台湾もすでに中国領であったことを前提にしなければならない。しかしながら、台湾が中国
の版図にはじめて編入されたのは、康煕二十二年、すなわち、一六八三年のことである。このことは、一六九六年高
拱乾撰『台湾府志』および一七六五年の余文儀撰『続修台湾府志』などの清朝公文書によって明らかである(ただ
し、『台湾府志』は版図編入を康煕二十年年「台湾自康煕二十年し始入版図」と記している)。
かくして、汪揖使録を含むそれ以前の古文書において上述したような解釈をおこなうことは完全な誤りであるといえ
る。他方、それ以後の古文書であっても、澎佳など三嶼がいまだ台湾の付属諸島になっていなかったのであるから、
同様に、そうした解釈をおこなうことはできない。魚釣台などの色を問題にすること(『三国通覧図説』)も、また「魚釣
嶼は小東の小嶼也」(小東はこの場合台湾のことである)をもって魚釣嶼が台湾の付属諸島であったとする解釈(『日
本一鑑』も事実認識を無視したものといわなければならない。「福建沿海海山沙図」に魚釣台などの見出せることをも
ってそれらが中国領であるとみなされてきたとする説(『籌海図編』)にいたっては、同書巻一の十七「福建界」が小
琉球(台湾)、魚釣台などを描いていない(澎佳山─澎湖諸島は描かれている)事実を無視したかあるいは見落とし
た議論といえよう。
中国の領有を歴史的に立証するものとして引用されている古文書はそのすべてが、尖閣列島にたいする中国の領
有意思の存在を証明していない。したがってそのすべてが古文書の文言あるいは地図上の「色」などからの解釈、そ
れも事実を無視し、憶測と主観を混ぜた解釈によって、領有意思の存在を立証しようと試みたにすぎない。
5 む す び
尖閣列島の島々を記載した古文書の多くは中国側のものである。日本および琉球の古文書としては既述の林子
平『三国通覧図説』のほかに、羽地朝秀(向象賢)『中山世鑑』(一六五〇年)、名護寵文(程順則)、『指南広義』(一
七〇八年)が見受けられる程度である。そのうち『中山世鑑』は陳侃使録を転載したにすぎず、林子平の『三国通覧
図説』も、徐葆光『中山傳信録』に依拠したことが明らかにされている。そこでそうした事実から尖閣列島を最初に発
見したのは中国人であり、琉球人は尖閣列島の存在を中国人または中国の文献を介してしか知ることができなかっ
たと主張されることがある。
しかし、そうした見方は文献の数だけを比較した性急きわまりない議論であるといえよう。尖閣列島の航路を熟知し
ていたのが琉球人で、中国人がこの航路にうとく、冊封船への琉球人の駕乗導引によって、はじめて琉球へ赴くとが
できたことは、陳侃使録からも明らかである。琉球と中国との間に冊封と進貢の関係があったのは一三七二年から
一八六八年までの四百九十六年間であるが、その間に渡琉した冊風船の回数は二十三回に過ぎない。単純に計
算しても二十一・五年に一回の割合であるが、実際には、三十年あるいは四十年の間隔をおいたことも稀ではない。
とりわけ、陳侃のときは前使董旻との間に五十五年の空白があった。
これにたいして琉球側は一三七二年から一五二三年までは、途中三十二年間を除いて毎年進貢船を福州に派遣
していた。一五二三年以後は一年一貢制が改められたため、毎年進貢船が中国へ赴くことはなかったが、相当の数
にのぼった。琉球側は進貢船だけでなく、謝恩船、迎接船、護送船など様々な目的の船が、福州へ赴き、帰途尖閣
列島の航路を通っていた。その回数は今日記録として残っているものだけでも二百四十回に達する。この他、琉球船
は南方諸地域との交易の帰路にも尖閣列島の航路を用いたと考えられるから、それらの回数を加えると、三百三十
回を越えることになる。しかも、琉球と南方諸地域との交易は中国との冊封関係開始に先立つ一四世紀初頭頃から
はじまっていた。尖閣列島の航路は、季節風の時期によって厳しく限定される航路である。
尖閣列島の航路を用いたか否かが文献上に残されていなくてとも、琉球船の出入港年月日が記録に残されてお
り、しかも、その時期が季節的に一定している。冊封船が福州を出港する時期もまた同じ季節である。琉球からみた
場合、尖閣列島の航路は、南方諸地域との交易の帰路の最短コースである。冊封船のように迂回するコースではな
い。南方諸地域との交易を終えた琉球の勘合府船が南風の季節風を利用していたことは、『おもろさうし』その他に
よっても十分明らかにされている。陳侃使録をみても、陳侃自身がこれらの島を発見したとか命名したといっているわ
けではない。また文献によってそれらの名前を知っていたとも思われない。陳侃使録においてそのような文献を引用
した形跡もなければ、命名したなどの事実もない。
陳侃が尖閣列島の島々の名前を知ったのは冊封船上においてであって、しかも、陳侃使録で指摘されているよう
に■人(福建人)たちがこの航路にうといところから、かれらの島々の名前を知っていたとも思われない。実際にも尖
閣列島への針路をとった者は、■人ではなく陳侃の冊封船に駕乗していた琉球人たちであった。これらの者はこの
島々を針路の目標としていたのであるから、当然に目標を識別する手段として、島々に名称を与えていたものと想像
される。したがって、陳侃は冊封船上の琉球人にこの島々の名前を聞くのがもっとも自然であるし、正確でもあったと
いえよう。
《参考文献》
左に参考のため筆者の文献を記す。
拙稿(以下略)「尖閣列島―歴史と政治の間」(『日本及日本人』一九七〇年新春号)
「尖閣列島の法的地位」(『李刊』沖縄』第五二号、一九七〇年三月)
「尖閣列島―その法的地位」(『沖縄タイムス』一九七〇年九月二日─九月九日)
「尖閣列島の領有権問題」(『(李刊)沖縄』第五六号、一九七一年三月)
「尖閣列島の領有権と『明報』論文」(『中国』一九七一年六月号)
「尖閣列島領有権の法理」(『日本及日本人』一九七二年陽春号)
「尖閣列島と領土権帰属問題」(『朝日アジア・レビュー』一九七二年第二号)
「尖閣列島と領有権問題」(『サンデーおきなわ(週刊)』一九七三年新春号)
「尖閣列島問題と井上清論文」(『朝日アジア・レビュー』一九七三年第一号)
「明代及び清代における尖閣列島の法的地位」『(李刊)沖縄』第六三号、一九七二年十二月
「尖閣列島の領土編入経緯」(『政教学会誌(国士舘大学)』第四号、一九七五年二月)
「尖閣列島は中国の領土ではない」(『二〇世紀』一九七八年六月)
「尖閣列島領有権の根拠」(『中央公論』一九七八年七月)
「尖閣列島(上)─日本領土編入借置」(『法と秩序』第八巻第五号、一九七八年十月)
「尖閣列島―中国及び台湾の領有論拠批判」(『AFAシリーズ』第六号〔アジア親善交流協会〕、一九七八年十二
月)
「尖閣列島(下)─日本の領土編入借置」(『法と秩序』第八巻第六号、一九七八年十二月)、
「尖閣列島と日本の領有権─領土編入の史的考察」(『(じゅん刊)世界と日本』第二三四号、一九七九年四月十五
日)
The,Territorial Sovereignty over the Senkaku lslands and Problems on the Surrounding Continental Shelf,the
Japanese Annual of lnternational No,15,1971,the Japan Branch of lnternational Law Association.
(奥原 敏雄)
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