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尖閣諸島の領有権問題     「参考資料(1) 論文・書籍08」



特集
尖閣列島と日本の領有権
−領土編入の史的考察―
奥原敏雄
(国土館大学教授(国際法)



NO 234  じゅん刊 世界と日本
(昭和54年4月15日)
株式会社  内外ニュース 




一、領 土 編 入 へ の 動 き
 尖閣列島は八重山群島(沖縄県)の北西約一七五`、台湾の北東約一九五`のところにあり、東経一二三度二
八分から一二四度三四分、北緯二五度四四分から二五度五六分の間に点在し、八個の島嶼からなっている。その
うち最も大きな島は魚釣島(約四.三二平方キロ)で、以下久場島(約一.0八平方キロ)南小島(約0.四六三平方
キロ)北小島(約0.三0二平方キロ)大正島(約0.一五四平方キロ)沖の北岩、飛瀬の順となる。尖閣列島全体の
面積は約六.三二平方キロであるから、ほぼ山中湖の面積に等しいことになる。
 尖閣列島は現在沖縄県石垣市登野城に属しているが、これが正式に日本の領土として編入されたのは明治二八
年(一八九五年年)のことである。尖閣列島をわが国の領土に編入しようとする動きは明治十八年(一八八五年)か
ら始まっていたといえる。当時においては、尖閣列島は「沖縄縣ト清国福州トノ間に散在セル無人島久米赤島外二
島」として扱われていたが、同年九月、山縣有朋内務卿から在京の森本長義県(沖縄)大書記官に対し、これの取り
調べにつき下命があり、このため沖縄県令(西村捨三)が沖縄県五等属の石沢兵吾を通じて、大城永保(美里間切
詰山方筆者)なる者から「廃藩前公私ノ用ヲ帯テ 婁清国ヘ渡航セシ節親シク目撃セシ趣」を聴取させている。『久米
赤島久場島魚釣島之三島取調書』と題する右の聴取書は、明治十八年九月二十二日付内務卿宛上申書『久米赤
島外二島取調ノ儀ニ付上申』に添付されて、沖縄県令より内務卿へ提出されている。
 内務卿がこの時期に久米赤島外二島の取り調べを下命した直接の理由は明らかではない。ただこの少し前に政
府は、大東島の実地踏査と国標の建設を行っていた。琉球藩及びそれ以前の時代に帰属未定のまま放置されてい
た琉球列島周辺の島々に対し、沖縄に県制を施行した明治十二年(一八七八年)以降漸次これを調査し、帰属を明
確にさせる作業を内務省が中心に行っていたところから、大東島に引き続き、久米赤島外二島についても同種の調
査と国標の建設などを行うべきか否かの決定を必要としていたことによるといえよう。
 内務卿が森本沖縄県大書記官に久米赤島外二島の取り調べを下命した際に、たんに目撃せし者からの事情聴取
だけでなく、実地踏査と国標建設の是非などについても指示していたことは、沖縄県令によって提出されていた先の
明治十八年九月二十二日の内務卿宛上申書により伺うことができる。
 沖縄県令は右の上申書において、大東島と同様に踏査後ただちに国標を建設することにつき若干の懸念を抱き、
出雲丸による実地踏査の結果についてはできるだけすみやかに報告するが、国標建設などについては再度指示を
仰ぎたい旨上申している。この上申書から明らかなように、久米赤島外二島に対する実地踏査と国標の建設方につ
き、沖縄県令はすでに内務卿から指示を受けていたことになる。

  国際法に正確な認識のあった内務卿
 沖縄県令が久米赤島などへの国標の建設につき懸念を抱いたのは、これらの島々と清国との関係についてであっ
た。先の内務卿宛上申書において、西村捨三沖縄県令は、次のようにのべていた。
 久米赤島久場島及魚釣島ハ古来本縣ニ於テ称スル所ノ名ニシテ而モ本縣所轄ノ久米宮古八重山等ノ群島ニ接近
シタル無人ノ島嶼ニ付沖縄縣下ニ属セラルルモ敢テ故障有之間敷ト被存候得共過日御届及候大東島(本縣ト小笠
原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違中山傳信録ニ記載セル釣魚台黄尾嶼赤尾嶼ト同一ナルモノニ無之哉ノ疑ナキ能ハス
果シテ同一ナルトキハ既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラス夫々名称ヲモ附シ琉球航海ノ目標
ト為セシ事明カナリ。
 沖縄県令の懸念は、しかしながら、国際法の観点からすれば、あまり意味がなかったというべきであろう。なるほ
ど、中山傳信録に記載せる釣魚台は魚釣島のことであり、同様に黄尾嶼は久場島、赤尾嶼は久米赤島(大正島)と
同一の島である。久米赤島などを日本と清国が詳悉しているとしても、そこで争われることは、いずれが先に発見し
たかということであるが、仮に、久米赤島などを清国が最初に発見していたとしても、発見だけでは領有権を主張す
ることはできず、これに領有意思を伴うものでなければならず、さらに、実効的支配の事実を立証する必要が出てく
る。
 また、清国の冊封船が琉球航海の目標としていたことが明らかであっても、そうした行為によって清国の領有意思
が立証されたり、実効的支配の証拠とみなされるわけではない。そうした行為は物理的存在物としての利用行為に
すぎず、その行為から国家の主権意思を推測することは不可能である。そうした行為が公船、私船の区別を問わず
行いうるものであることも、当該行為がもっぱら国家の主権意思に専属する性質をもつものでないことは明らかであ
る。
 他方において、沖縄県令は、久米赤島などが八重山群島等に接近することを理由に、沖縄県下に属せしめても支
障がないとする趣旨のことをのべているが、国際法は地理的近接性を領有効果の発生要件としたり、その事実によ
って領有できるとする正当性を与えているわけではない。内務卿宛上申書にみられる沖縄県令の国標建設方に対す
る懸念が、法的な理由によるものか、政治的理由を考慮したものかも、きわめて曖昧である。法的な理由による場合
上述した批判が可能となるが、政治的理由をのべたとしても、上申書の事実だけでは決定的な理由とはならないと
いえよう。
 むしろ、この点については、沖縄県令の上申を受けた後に内務卿が、国標建設方を太政官へ上申するに先立ち、
外務卿の意見を求めた明治十八年十月九日付外務卿宛書簡『沖縄県ト清国トノ間ニ散在スル無人島ノ儀ニ関シ意
見問合ノ件』のなかでのべていることの方に、国際法についての正確な認識があったというべきであろう。
 すなわち、右の書簡に添付された『太政官上申案』(別紙乙号。なお別紙甲号は先の沖縄県令上申書)において、
内務卿山縣有朋は、次のような意見具申をしていた。
 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島久米赤島外二島取調之儀ニ付別紙(甲号)之通同縣令ヨリ上申候処右
諸島ノ儀ハ中山傳信録ニ記載セル島嶼ト同一ノ如ク候ヘ共只針路ノ方向ヲ取リタル迄ニテ別ニ清国所属ノ証跡ハ少
シモ相見ヘ不申且ツ名称ノ如キハ我ト彼ト各其唱フル所ヲ異ニシ……。
 太政官上申案にみられる内務郷の意見は、今日においても、驚くほど正確に事実を認識していたといえよう。同様
に、法的な観点から物を見る目もまた確かであった。内務郷宛沖縄県令の上申書を閲読して後にも、なお、このよう
な意見をのべていることは、久米赤島などへの国標建設が県令を通じての地元沖縄からの要請にもとづくものという
よりも、内務郷を中心にした当時の内務省の独自の意向であったことを伺わせる。

 清国との関係で慎重だった外務郷
 ところで沖縄県令は、出雲丸を現地に派遣して実地踏査を行った後に内務郷へ提出した明治十八年十一月五日
の上申書『魚釣島外二島実地取調ノ義に付上申』では、先の内務郷宛上申書における県令の意見を修正し、次のよ
うにのべてきた。
 ……熟考スルニ最初清国ト接近スルノ疑ヲ抱キ何レニ属スルヤ否ニ到テハ甚タ不決断ノ語ヲ添ヘ上申候得共今回
ノ復命及報告書ニ拠レハ勿論貴重ノ島嶼ニハ無之候得共地形ヨリ論スルトキハ即チ八重山群島ノ北西ニシテ与那
国島ヨリ遙ニ東北ニ位スレハ本県ノ所轄ト御決定相成可然哉ニ被考候……。
 右の沖縄県令の上申書によって、先の内務郷宛上申書にみられた沖縄県令の 「懸念」が法的な理由による疑義
にもとづくものであったことが理解される。なぜならば、中山傳信録における釣魚台などの記載事実があるにもかか
わらず、今回の上申書においては、あえてこのことを考慮することなく、国標の建設方を積極的に上申していたから
である。もっとも、右の上申書にみられる沖縄県令の修正された意見を、国際法の観点からみた場合、法的理由とな
りうるか否かについては、問題のあるところであるが、本稿ではあえてそこまでは触れないことにする。
 だが、国標建設方の指示を求めたせっかくの沖縄県令の上申も、これが内務郷宛提出される直前において、外務
郷の国標建設延期の意見を内務郷が認めたことにより、日の目を見ないことになる。すなわち、実地踏査及び国標
建設につき外務郷の意見を求めた先の内務郷書簡(明治十八年十月九日)に対して、同年十月二十一日の外務郷
回答書簡『沖縄県ト清国トノ間ニ散在スル無人島ニ国標建設ハ延期スル方然ルヘキ旨回答ノ件』において、外務郷
は、次のような理由で、国標建設の延期を求めてきた。
……右嶋嶼ノ儀ハ清国々境ニモ接近致候曩ニ踏査ヲ遂ケ候大東嶋ニ比スレハ周回モ小サキ趣ニ相見ヘ殊ニ清国ニ
ハ其嶋名モ附シ有之候ニ就テハ近時清国新聞紙等ニモ我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ嶋嶼ヲ占拠セシ等ノ風
説ヲ掲載シ我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ頻ニ清政府ノ注意ヲ促シ候モノモ有之候際ニ付此際遽ニ公然国標ヲ建設スル
等ノ処置有之候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間差向実地ヲ踏査セシメ港湾ノ形状并ニ土地物産開拓見込有無等詳細報
告セシムルノミニ止メ国標ヲ建テ開拓等ニ着スルハ他日ノ機会ニ譲候方可然存候……。
ここで重要なことは、外務郷もまた久米赤島などを清国領であるとは考えていなかったことである。これらの島嶼の
法的地位(国際法上の無主地)に関するかぎり、外務内務両郷の間で意見の不一致はなく、そのことは、外務郷が
出雲丸の現地踏査を了承していた事実からも十分説明できるところである。また、「他日ノ機会ニ譲ルベシ」とのべて
いたことから、外務郷は国標の建設や開拓そのものに反対していたのではなく、これを具体化する時期を問題にして
いたのである。
 そうしてこのことは、外務郷として職責上当然のことであったといえよう。なぜならば、外務郷としては、これらの島
嶼が帰属未定の地であっても、わが国と清国の双方がその存在を十分知り、かつ、両国の国境にも近い島嶼に対
し、相手国が関心を持たないならばともかく、清国の新聞などが自国政府の注意を促している時期において、公然と
国標を建設するなどの行為にいたることは、政治的に賢明ならざるものと判断したからである。
 実際にも、これらの島嶼は叢爾たる小嶼にすぎなかったから、少なくとも、当時においては、清国と外交上の紛議を
起こしてまで、性急に国標を建設するなどの措置をとる必要はなかったといえよう。久米赤島外二島の編入経緯に関
する当時の一次資料『帝国版図関係雑件』のファイルのなかに、会議中にまとめた「メモ」らしきものが残されている
が、これには「無用のコンプリケーション(紛糾)」という文字が見える。
 清国との間で多くの重要な外交上の懸案をかかえていた当時の外務省内の空気としては、おそらく、これが率直
な気持ちであったといえよう。また、井上外務郷が対清外交をすすめる上での慎重論者であったということも、本問題
に対する外務省の意向を決定するにあたって、いくらかの影響があったとする見方もできよう。

     二、領 土 編 入 の 完 了
 外務郷の反対によって国標の建設などの延期が決定されて後も、久米赤島などのわが国領土編入を求める動き
は止まなかった。すなわち、明治二十三年(一八九〇年)一月十三日、丸岡莞爾沖縄県知事は、久米赤島外二島を
八重山島役所の所轄と定めたしとの同役所から県知事宛伺書が提出されたのを受けて、同趣旨の上申書『魚釣島
外二島ノ所轄決定ニ関シ伺ノ件』を提出した。
 明治二十三年の内務郷宛上申書は、八重山島役所の所轄決定を求める理由として、水産取り締まりの必要をの
べてきた。右の上申書では「昨今ニ至リ水産取リ締ノ必要ヨリ」とされていたが、魚釣島などへの渡島は、すでに明
治十七年から始まっていた。
 すなわち、明治十七年(一八八四年)には、のちに尖閣列島開拓の功により藍綬褒章を受けることになる古賀辰四
郎が、漁夫などをこれらの島に派遣している。明治十二年に福岡県より沖縄本島にわたった古賀氏は、当初本業の
茶商(同年五月那覇に本店を開く)を営んでいたようであるが、まもなく夜光貝が輸出品として有望であることに目を
つけ、次第に海産物の採集を専業とするようになる。その後、彼は八重山群島にも事業の手をのばし、明治十五年
には、石垣島に支店を開設している。
 魚釣島などの存在を知るようになったのも、おそらくこのころと思われるが、先にのべたように明治十七年に人をや
ってこれらの島々を探検させ、実情を報告させている。ついで出雲丸による実地踏査の行われた明治十八年にいま
一度漁夫を渡島させ、試験的に鳥毛・海産物などを採集させている。その結果輸出品としてもまた国内需要上も有
望であることを知るにいたり、翌年以後事業として鳥毛・海産物などの現地での採集を継続して行うようになった。

     海産物捕獲・採集に取り締まりの要
 ところでこれらの島々へ赴き海産物などの捕獲・採集を行う者が多くなるにつれ、当然のことながら、これに対して
何らかの行政措置をとる必要がでてくる。たとえば、海産物の捕獲などをめぐっての争い、漁業の規制及び取り締ま
りなどさまざまな行政上の問題がでてくる。
 とりわけ、そのほとんどが石垣島から出漁するということもあって、地元の八重山島役所としては、その事実を放置
できない立場にたたされるようになっていた。しかし、八重山島役所がこれらの島嶼での海産物の捕獲取り締まりを
行いうるためには、この島々を自己の所轄下におくことがどうしても必要となる。しかも、その必要性は明治二十二〜
二十三年ごろになると切実なものになっていた。
沖縄県知事による右の上申書(明治二十三年一月十三日)に対して、同年二月七日、末松内務省県治局長より県
知事宛、明治十八年十二月五日指令(国標の建設を必要としない旨伝えた県令宛内務・外務両郷指令)の顛末に
ついての資料の写しの送付方を依頼してきた。そこで同年二月二十六日、沖縄県知事によってその顛末についての
写しが内務省県治局長宛送られたが、このときも結局国標の建設などは見送られた。
 漁業の取り締まりなどを理由とする所轄決定方の上申は、その後明治二十六年(一八九三年)にも、沖縄県知事
によってなされている。すなわち、同年十一月二日の内務・外務両郷宛上申書『久場島魚釣島ヘ本縣所轄標杭建設
之義ニ付上申』において、奈良原繁沖縄県知事は「近来該島ヘ向ケ漁業等ヲ試ミル者」があり、これを取り締まる上
で「関係不尠義ニ付」、明治十八年来縷々上申通り、本県の所轄とし、その標杭を建設したいので、至急指揮を仰ぎ
たい旨をのべている。
魚釣島などへ渡島する者は明治二十四年(一八九一年)以降さらにいっそう相次ぐことになる。すなわち、同年には
熊本県人の伊沢矢喜太が沖縄漁民とともに魚釣島、久場島に赴き、海産物、アホウ鳥の鳥毛採集に成功している。
(ただ気象条件などのため長く滞り得ず石垣島へ戻っている)。
 明治二十六年になると、鹿児島県人の永井・松村某が花本某ほか3人の沖縄漁民と久場島に渡るが、食糧など
が尽きて失敗する。さきの伊沢も再度渡島を試み、海産物などの採集に成功するが、帰路台風に遭い九死に一生を
得て福州に漂着している。この年には熊本県人の野田正等二十人近くが魚釣、久場両島へ伝馬船(サバニ)で向か
ったが、かれらも風浪に遭い失敗している。
 これらの人々は他府県人であったということもあって、今日記録として残されているが、おそらくこのころになると、
古賀氏の魚釣島などでの事業に刺激されて、地元の先島漁民が現地に赴くこともそれほど珍しいことではなくなって
いたと想像される。それとともに、明治二十四年ごろから一獲千金を求める者たちが、冒険の気概と生命の危険を賭
して、魚釣島などへ向かう一種のラッシュが起きていたといえよう。沖縄県知事が先の上申書で「取締上ニモ関係不
尠義」「至急仰御指揮度」とのべていたのも、この間の事情を伺わせるに十分である。
 だが、県知事の上申を受けて政府が何らかの動きを見せはじめるのは、翌年の明治二十七年に入ってからであ
る。このときは明治十八年当時外務郷であり、国標建設などの延期を求めた井上馨が、内務大臣となり反対の立場
に立たされることになる。
 そこで井上馨内務大臣は、同年四月十四日に内務省県治局長名(江木千之)で、沖縄県知事に対し、(一)該島
港湾の形状、(二)物産及土地開拓見込みの有無、(三)旧記口碑等ニ就キ我国ニ属セシ証左其他、(四)宮古嶋八
重山島トノ従来ノ関係などにつき、照会方を求めてきた。
 この照会方に対して、同年五月十二日沖縄県知事は、明治十八年の出雲丸による踏査以来、実地調査を行って
いないので正確なことは報告できないとのべるとともに、「該当ニ関スル旧記書類及我邦ニ属セシ証左ノ明文又ハ口
碑ノ伝説等モ無之古来縣下ノ漁夫時々八重山カラ南嶋へ渡航漁猟致シ候関係ノミ有之候」と回答している。
 沖縄県に対する政府の問い合わせは、このときはここで終わっているが、結局、右の県知事回答から得られたもの
は、魚釣島などが沖縄の一部であったことを証左するものは、何もないということであった。

    明治二十八年に沖縄県への編入を閣議決定
 それからしばらくの間、本件を扱った公文書は見あたらない。これが現れるのは七カ月後の十二月十五日である
が、この時期は,日清戦争がようやく終局段階に近づいたころでもあった。米国国務長官ウオ―ター・グレシャムが、
北京駐在米臨時代理公使(チャールス・デンビー)及び東京駐在同国公使(エドウィン・ダン)を通じて、日清両国政
府に対し、講和周旋の申し入れを行い、日本はこれを受け入れるとともに、在北京米公使館を通じ、清国政府が直接
日本に対し講和を提議するよう要求していた。他方、清国政府も米国の周旋による講和に異議なく、十一月三十日
には、張蔭桓、邵友濂両全権に関する日本天皇宛清国皇帝の国書を作成するにまでいたっていた。
 明治二十七年十二月十五日に作成された内務省文書は、久場島魚釣島への所轄標杭建設につき閣議に提出す
べくまとめられたものであったが、別紙に閣議提出案を付し、本文で閣議に提出する理由をのべていた。
これによれば、次の三つの理由、すなわち、(一)明治十八年当時と今日とでは大いに事情が異なっていること、
(二)海軍省水路部部員の口陳によると、魚釣久場の二島は別にこれまでいずれの領土とも定まっていないようであ
ること、(三)地形上からみても、当然沖縄島の一部と認められること、をあげている。         右の文書が作
成されてから十日余りを過ぎた十二月二十七日に内務大臣野村靖は、本件の閣議提出方につき協議を求める書簡
『久場島、魚釣島ヘ所轄標杭建設ノ義』を、外務大臣陸奥宗光に送っている。この書簡において内務大臣は、明治
十八年当時と今日では事情も相異なるとのべていたが、この点につき外務大臣も、翌明治二十八年一月十一日付
の内務大臣宛親展において、別段異議なき旨回答してきた。
そこで内務大臣は、翌一月十二日内閣総理大臣伊藤博文に対し閣議開催方を要請、これを受けて一月十四日に閣
議が開催され、次のような決定を行った。
別紙内務大臣請議沖縄縣下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ト称スル無人島ヘ向ケ近来漁業等ヲ試ムル
モノ有之為メ取締ヲ要スルニ付テハ同島ノ儀ハ沖縄縣ノ所轄ト認ムルヲ以テ標杭建設ノ儀縣県知事上申ノ通許可ス
ヘシトノ件ハ別ニ差支無之ニ付請議ノ通ニテ然ルヘシ。
この閣議決定にもとづき内閣総理大臣は「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」とする指令に署名し、内務省に送ってい
る。このため内務省はその翌日の一月二十二日、沖縄県知事宛送る指令の内容などについて協議すべく、外務省
に指令の案文を送付した。内務省は、指令の案文として「明治二十六年十一月二日付き甲第百十一号上申標杭建
設ニ関スル件聞届ク」を提示し、さらに、これに内務・外務両大臣が措置することを予定していた。
ところで外務省は右の指令案文を二月一日に、及び指令案文を原文通り浄書し、これを正式の指令本文としたもの
に外務大臣が署名し、二月二日、これを内務省へ転送した。このようにみてくると、内務・外務両大臣によって署名さ
れた正式指令が沖縄県知事宛発遣されたのは、早くても二月三日以降ということになるが、内務省が右の指令をい
つ沖縄県知事に発遣したかについては、今日明らかでない。
また、指令を受けた沖縄県知事が魚釣、久場両島に標杭を建設したか否か、またこれを建設した日がいつであるか
についても、目下のところ不明である。沖縄県知事宛の指令は、行政手続きとしては「指令」であっても、その内容
は、標杭建設に関しての沖縄県知事の許可方要請を認めるとする趣旨のものであるから、命令の意味を含むもので
はない。実際のところ標杭が建設されたとする証拠もない。
ところで魚釣久場両島の沖縄県所轄を閣議決定した翌明治二十九年(一八九六)三月五日に政府は勅令第十三号
を公布、同法令は内務省令第二号によって、四月一日から施行された。勅令第十三号は沖縄県に群制を施行する
ために、島尻、中頭、国頭、宮古、八重山の五郡を定め、各郡に行政上属する地域を規定したものであった。
なお、本法令には区制の実施が予定されていた那覇と首里について適用除外区域としていたが、この二つの地域
以外に適用除外を認めていなかった。したがって、すでに沖縄県の所轄とされていた魚釣島などについても、勅令十
三号が当然に適用されるものと解された。とくに魚釣島などについて勅令第十三号が明示的に言及していなかった
ことから、これらの島々がいずれの郡に所属すべきかが問題にされ、これまでの経緯からみて八重山郡に所属する
ことになった。上述したように、勅令第十三」号は、沖縄県の郡制施行に関するもので、魚釣島などについてのみ直
接かかわるものではなかった。ただ、この法令の施行を機会に魚釣島などを八重山郡に所属させる措置をとったこと
もあって、沖縄県の所轄と定めた閣議決定の事実を知らされなかった現地の多くの人々によって、魚釣島などの領
土編入が勅令第十三号によってなされたとする風説が長らく信じられてきた(そうしてこの錯簡が台湾によって尖閣
列島の領有権が主張されたごく初期の段階において、多少の混乱の原因となった)。
最後に、いま一つ尖閣列島の領土編入との関係で、検討を要する問題が残されている。それは領土編入された尖
閣列島の範囲である。
明治二十八年一月十四日の閣議決定は、魚釣島と久場島には言及しているが、久米赤島、南小島、北小島、沖の
南岩、沖の北岩、飛瀬については直接触れていない。
このうち久米赤島を除く他の島々については問題はない。これらの島々については閣議決定が直接言及していなく
とも、魚釣島の領海を中心にして連鎖的に一つの領海群をかたちづくっている。したがって、国際法の観点からすれ
ば、これらの島々は右の閣議決定によって魚釣島、久場島とともに日本の領土=沖縄県に編入されたことになる。
問題は、久米赤島である。最も近い久場島からでも約五〇海里離れているため、南小島などと異なり、別個に領有
意志を表明する必要があった。明治二八年一月の閣議決定が魚釣島久場島に触れながら、なぜ久米赤島に言及し
なかったかは、明らかでない。
少なくとも、明治十八年と明治二十三年の内務大臣宛沖縄県知事の上申には、久米赤島は明らかに含められてお
り(明治十八年『久米赤島外二島』『久米赤島久場島魚釣島之三島』明治二十三年『無人島魚釣島外二島』また魚
釣島、久場島の編入経緯をまとめた外務省の公文書記録にも、久米赤島は、魚釣、久場島とともに、当然に編入さ
れたものとして扱われている。
このようにみてくると、明治二十八年の閣議決定が久米赤島をとくに意識的に除外して扱う意図があったとも思われ
ない。ただ、このときの閣議に提出すべくまとめられた内務大臣の文書(明治二十七年十二月五日)には、明治二十
六年十一月二日の沖縄県知事上申が別紙として添えられていたが、この県知事上申において表題及び本文のいず
れからも久米赤島が脱落していた。
明治二十六年の県知事上申から久米赤島が抜けていたのは、おそらくは、当時漁業などが魚釣島と久場島及びそ
の周辺でのみ行われ、久米赤島まで及んでいなかったため、漁業取り締まりを緊急に要する魚釣、久場両島につい
てのみ言及したことによるものと想像される。同様に閣議もまた明治二十六年の沖縄県知事上申にしたがって会議
を行い、右の上申通りの決定を行ったことによるものであろう。
この点について気付くのは大正に入ってからで、沖縄県からの通知にもとづき、大正十年七月二十五日にあらため
て久米赤島を内務省所管とし、地籍も設定した。したがって、久米赤島については、この時点で正式な領土編入が
なされたとみるべきであろう。



    三,土 地 利 用 の 歴 史

尖閣列島にたいするわが国の実効的支配は、部分的には、明治十八年の出雲丸による踏査によってなされていた
といえるが、これが本格的なものとなるのは領土繰り入れ以後のことである。
尖閣列島に対するわが国の実効的支配は、まず古賀辰四郎氏を中心にした国の許可と奨励による列島の占有(土
地の利用)行為から始まったといっても過言ではない。そこで本稿では、古賀氏の列島利用を中心にわが国の実効
的支配の事実をのべることにする。

    古賀辰四郎の列島開拓
尖閣列島に対する古賀氏の事業が明治十七年以来続けられてきたことは、すでにのべたところであるが、明治二十
七年に入ると、彼はさらに列島の開拓を計画、実行に移すにあたって、その許可方を沖縄県知事に申請している。だ
が、このときはまだこれらの島嶼の帰属が未定ということで却下されている。
翌明治二十八年、こんどはみずから小艇を艤装して渡海し、久場島(現在の魚釣島。当時は両島の名前が一時的に
錯簡されていた)に上陸、彼としてはじめての現地調査を試みている。その結果現地の開拓見込みの有望なることを
確信、帰島後ただちに上京し、直接、内務大臣宛『官有地拝借御願』(同年六月十日)を上申するかたわら、実地調
査の模様を詳細に説明している。
ところでこの年一月十四日、閣議は魚釣島、久場島などの日本領土編入を決定していた。このことは古賀辰四郎氏
も聞き及んでいたとみえ、先の上申に際して内務大臣に提出した文書において「這度該島ハ劃然日本ノ所属ト確定
到候趣…」とのべていた。前年申請が却下されたにもかかわらず、彼がこの年にあえて再び申請を行ったのも、その
ことと関係していたように思われる。
他方、政府としても、前年申請のときとは事情も異なり、すでに日本領土に決定されていたから、古賀氏の申請を受
理することは、法的には問題がなかったといえよう。だが、手続き上の理由など(国有地指定などの措置が未だ完了
していないという)からか、結局、このときも、すぐには受理されなかった。
古賀氏の『官有地拝借御願』が内務大臣によって正式受理されたのは、翌年の明治二十九年八月であった。すなわ
ち、同年四月、魚釣島などの八重山郡所属が決定されたのを機会に、三度目の官有地拝借御願を申請してきた古
賀辰四郎氏に対し、内務大臣は、期間三十年使用料無料の条件で、同氏に借与することを認めた。
かくして、明治三十年から本格的な列島の開拓が古賀氏によって着手されることになるが、それとともに、これ以後
の尖閣列島における彼の行為は、それ以前のような単純な私人の行為ではなく、国の正式な許可を得ているところ
から、国際法上にも実効的支配として認められるものとなった。
すなわち、古賀辰四郎氏はまず明治三十年三月と四月の二回、自己所有の遠洋改良漁船二隻をもって、出稼ぎ労
働者三十五名、食糧日用品その他を尖閣列島に揚陸させ、次いで三十一年、こんどは大阪商船の須磨丸を往路と
復路に回航させ、みずから季節労働者五十名を引率するとともに、食糧各種資材などの搬入と列島で採集した物産
の載貨を行い、さらに三十二年には、須磨丸及び安平丸を前年同様回航させ、労働者二十九人、建設資材などを運
び込んでいる。
これらの労働者のうち明治三十年と三十一年の場合、全員が短期間の滞在にとどまり、復路回航の便船で列島を
離れていたようであるが、三十二年になると、労働者二十余名が久場島での越年を試み、全員健康状態も良好だっ
たことが報告されている。
明治三十三年五月、古賀辰四郎氏は、黒岩恒氏(沖縄師範学校教諭)と理学士宮島幹之助を伴い尖閣列島に赴
き、まず久場島に上陸している。黒岩、宮嶋両氏が渡島したのは学術調査の目的もあったが、古賀氏の委嘱によっ
て現地での技術上の指導を行うためであった。
この両氏の指導を受けて、古賀氏は、次のような計画と方針を定めている。
一、鳥類魚介ノ濫獲ヲ戒メ繁殖方法ヲ講シ種族ノ断絶ノ憂ナカラシメルコト。
二、家屋ヲ建テ移住者ノ安息ヲ計ルコト。
三、久場島ニハ河泉ノ依ルヘキモノ無キカ故ニ天水貯槽ヲ設クルコト。
四、船着安全ト海陸運搬ノ利便ヲ図ル為メ碇繋所ヲ築クコト。
五、道路ヲ開墾シ兼ネテ汚穢物排除ノ方法其ノ他衛生的設備ヲ講スルコト。
ついで明治三十四年五月から八月までの三カ月間、沖縄県技師熊倉工学士の現地出張を仰ぎ、種々の改善策に
ついての指導を受けた結果、次のような結論に達している。
海鳥ノ卵及ビ雛児ノ風浪ニ略奪セラレルヲ擁護シ且家屋漁船ノ安全ヲ図ル為ニ海岸ノ要所ニ防波堤ヲ築クコト。
上述の諸設備を完成させることがいかに困難であったかは、列島の置かれていた地理的位置、地形、自然環境、さ
らにこれに要する資材のすべてを外部から移入する以外に方法のなかったことを考えれば、想像にあまるものがあっ
たといえよう。そうした悪条件を克服して、古賀辰四郎氏は、明治三十年代の終わりから四十年代のはじめごろまで
に、右の諸設備をほぼ完成させている。今日でも残されている明治四十年代の魚釣島西北部『和平山建物配置平
面図』には、住居、事務所、作業場、倉庫、女子工場及び住居、鰹釜納屋、浴場、火薬庫、造船場、塩焚屋など三
十五戸の建物、水タンク六個、船乗上場、防波堤、人工の入江などがつくられていた。
また、古賀辰四郎氏の『事業経営』(明治四十二年内務省提出)によれば、明治四十二年には移民総数二百四十
八名、戸数九十戸、開墾面積六十余町歩(一戸あたり六反歩余、1人に付二反四畝歩)に達していたことが報告さ
れている。そのほか雑穀、野菜、甘蔗、甘藷、煙火柑橘類、芭蕉、台湾竹、鳳梨などの栽培されていたことが、前記
報告書その他で明らかにされている。
他方、古賀氏の列島での事業についてであるが、明治十七年以来継続してきた鰹漁、アホウ鳥の鳥毛(復毛及び
綿毛)の採補、鱶鰭、海参、貝殻、鼈甲の採集に加えて、三十七年以降アジサシ、鰹鳥など海鳥の剥製(南小島)、
鳥油、鳥肉肥料の製造(久場島)、三十八年以降鰹節の製造(魚釣島)、三十九年以降植林事業(魚釣島及び久場
島。樟樹、松、その他雑木)、四十年以後珊瑚採取及び鳥禽の製造、四十二年以降グアノ(鳥糞=燐鉱石、久場島
及び南小島)、四十二年以降海鳥の缶詰製造が行われてきた(ほかに小規模ながら、養蚕、牧畜なども試みられた
ようである。
なお、明治四十一年四月には、島尻(県立)水産学校の岩井教諭及び同校卒業生一名の渡島をこい、海鳥の缶詰
製造などの指導を受けるとともに、同年五月には、古賀氏の委託をうけて燐鉱石検査のため、恒藤規隆氏(農博)が
来島している(この調査によって南小島に数千トン、久場島に堆積層二〜三尺で二万坪の存在が判明)。
また、明治三十六年には、海鳥の剥製造り職人十数人が、さらに三十八年には宮崎県より漁夫・鰹節職人数十人
が、古賀氏に雇用され、来島している(なお四十一年以降珊瑚採取人二十〜百人が別途雇用されたと推定され
る)。このほか明治三十九年十一月には、台湾総督府付属試験場より樟苗三万本を購入、魚釣島と久場島に移植し
ているが、四十一年以降も毎年二万本合計十万本(明治四十五年まで)の購入が予定されていた。

    乱獲でアホウ鳥邀滅
いま一つは、船の建造及び購入である。すなわち、すでにのべたように明治三十年には遠洋改良漁船二隻を建造さ
せているが、三十九年十一月には台湾総督府所有の三浦丸(一五〇トン)を購入、辰島丸と改称している。このほか
鰹漁船(遠洋)を三十八年三隻、三十九年五隻を建造、さらに四十一年以降毎年鰹漁船二〜五隻、珊瑚採取船五
隻の建造が予定されていた。
だが、古賀辰四郎氏の事業も大正に入るにしたがい、種々の理由から次第に縮小を余儀なくされるようになる。すな
わち、大正四年には、明治十七年以降継続的に行われてきた鳥毛採取事業が中止されるにいたっている。
この事業が打ち切られたのは、そのころになると、ほぼ全滅に近いまでにアホウ鳥の数が滅少したためである。アホ
ウ鳥を激滅させた理由としては、猫害と乱獲が考えられる。まず猫害についてであるが、そもそもの発端は、明治二
十八年ごろ久場島に渡った船頭の飼っていた一対の猫が島内に逃げ込み野生化したとされているもので、宮嶋幹
之助氏の計算(明治三十三年)によって二千匹と推定されていた。そうしてこの猫が夜間にアホウ鳥を襲っていたと
いわれている。なお、魚釣島でも猫の生息が報告されているが、鰹節製造によって異常に繁殖したネズミを駆除する
ため移入された猫が同様に野生化したもののようである。
なお、野生化したものとしては、このほかに鶏がいた。宮嶋氏の報告によれば「よほど以前に県庁より役人の出張し
たるときに、鶏を放置きたるとあり、其の鶏今は繁殖して、野生の状態にあり、かなり多し」と記されていたが、ここに
いう県庁の役人云々は、明治十八年の出雲丸踏査に同行した石沢兵吾(県五等属)のことである。
その事実は石沢報告『魚釣島外二嶋巡視取調概略』に「余ハ石垣島ヨリ二鶏壱番ヲ携帯シテ魚釣島ニ放チ以テ将
来繁殖否ヲ試ム復他日ノ証ヲ残サント欲スルノミ」とあることからも確認することができる。もっとも、この鶏がアホウ
鳥にどの程度の被害を与えたかは明らかでないが、猫と比較できないにせよ、アホウ鳥の雛・卵などに若干の影響
を及ぼしたことが想像される。
次に、乱獲であるが、これがアホウ鳥激滅の最も大きな原因であったといえよう。先の宮嶋報告によると、そのころ
(明治三十一年〜三十二年)年平均十二〜十三万羽から十五〜十六万羽のアホウ鳥が捕獲殺害されていたとされ
る。明治三十三年に宮嶋氏の来島を古賀氏が要請したのも「近年其鳥数大いに滅じ営業に困難を感ずる」ことが理
由になっていたが、このときの宮嶋氏に対する古賀氏の話によると「本年度(明治三十三年)にありては其半にも達
せす」という状態であった。
そうして、この事実は、古賀辰四郎氏の『事業内容』(既出)を検討すると、なお理解できる。すなわち、明治三十一
年に採集高六万五千斤、三十二年八万五千斤であったものが、三十三年には二万五千斤に激減するとともに、これ
以後は毎年この数字さえも達することができず、さらに半減していく。
いま採集高六万五千斤を十三万羽(一羽につき半斤)として、明治三十年から四十年の採集斤数(『事業内容』よ
り)と四十一年から四十五年までの計画予定斤数(計画通り実行されたとして)を集計、捕獲鳥数に換算すると、実
に六十七万羽となる。これに明治十八年より二十九年までに捕獲されたとみなされる。(当時は小規模であったから
最盛時の十分の一と計算して)約二十万羽を加えるならば、九十万羽近くを捕獲していたことになる。
かかる乱獲のためか恒藤規隆氏の実地調査では、明治四十一年久場島で四カ所、魚釣島で二カ所(いずれも狭隘な
区域にかぎられていた。なお、最盛時には両島ともほぼ全島にわたって寸土尺地も洩らさぬほどに群棲していたとい
われる)に、ごくわずかなアホウ鳥が棲息するといった状態であったとされている。
ややアホウ鳥の説明がながくなったが、同様に、グアノ(鳥糞)の採掘と積み出しも大正九年以降中止となった。そ
の理由は、アホウ鳥のように資源が枯渇したということではなく、第一次世界大戦の結果積み出し船価が高騰し採
算がとれなくなったためであるといわれている。
したがって、後述する古賀辰四郎氏の子息善次氏の代(大正八年以降)の尖閣列島での事業は、鰹節の製造(最
盛時漁夫・職人八十人が魚釣島で操業していたといわれる)と、海鳥の剥製製造(最盛時南小島で七十〜八十人)
が主たるもので、このほか小規模の森林伐採を行っていたにすぎない(魚釣島で代用繊維を作っていたともいわれて
いる)。しかし、それらの事業も、太平洋戦争直前には、船舶用燃料が配給制となったため、廃止するのもやむなき
にいたった。



    四、統 治 機 能 発 現 の 歴 史

古賀辰四郎及び善次氏による現実的な占有行為に加えて、わが国は、次のような国及び地方機関による統治機能
を、尖閣列島に対し及ぼしてきた。
すなわち、明治三十三年五月に上述の黒岩恒氏と宮嶋幹之助氏が古賀氏への技術指導及び学術調査のため列島
に赴いているが、このときには野村道安八重山島司も管内視察の目的で同行主張している。なお、古賀氏と右の三
氏は氷康丸で魚釣島などへ向かう途次、久米赤島に上陸(五月四日)、その際に上陸の記念とすべく黒岩氏と宮嶋
氏の筆になる英和両文の標木を建立している。
次いで明治三十四年五月、沖縄県技師熊倉工学士(すでに紹介ずみ)が技術指導のため現地を訪れているが、こ
のときに臨時沖縄県土地整理事務所の一行(鵜木光忠氏ほか)数名も共に渡島し、人頭税廃止(明治三十六年一
月)に備えての地積算定のため魚釣島、久場島、南小島、北小島を実地測量している(実測の結果は翌明治三十五
年十二月島嶼別縮尺図=六千分の一としてまとめられている)。
なお、実地測量後土地台帳(八重山税務署)に記載するにあたって、これら四島を同年十二月、石垣島大浜間切登
野城村の所属(明治四十一年八重山村、大正三年大浜村、大正十五年石垣町)とし、地番も設定された(魚釣島二
三九二番、久場島二三九三番、南小島二三九〇番、北小島二三九一番)。
その二年後の明治三十七年には、岸本賀昌沖縄県事務官、中島謙二郎八重山島庁書記、宮原景名八重山警察署
長が相前後して列島を訪れる一方、さらに四十年九月にも大山勇吉沖縄県技師、同じく十月には内田輔松八重山
警察署長、春田昴同警部ほか一名が、状況視察などの目的で現地主張している。
明治年間における国及び地方機関の派遣、地方機関(沖縄県)の奨励と便宜供与にもとづいた学術調査(三十三
年)、測量などの事実は以上のごとくであるが、このほか明治四十年三月古賀氏の列島における燐鉱石採掘出願に
対して、福岡鉱山監督署は同年八月九日、これを正式に認めている。
また、明治四十一年七月十三日、沖縄県の国有林野は鹿児島大林区署に移管されることとなったが、これに先立っ
て沖縄県と鹿児島大林区著との間で、国有林野台帳の引き継ぎが行われた。しかし、沖縄県には従来完備した土
地台帳といったものがなかったため、県知事は、税務署の土地台帳に依拠して作成された国有林野存度調査員(明
治三十九年三月勅令第六〇号官製制により柚山整理のため臨時に設置され、同四十一年勅令第五五号にもとづい
て廃止された)の調書にしたがって、国有林野台帳を作成、引継台帳としたが、この台帳に魚釣島など四島も記載さ
れた(これから推測すると、魚釣島などについては国有地指定などの事実はあったにしても、国有地台帳への記載
はこれがはじめてであったということになる。ただし、魚釣島などだけがそうであったということではなく、沖縄県にお
ける国有地のすべてについてそうであった)。
さらに明治四十二年十一月二十一日、政府は、尖閣列島開拓十年の功績に対して、古賀辰四郎氏に藍綬褒章を授
与した。このほか、この期間、魚釣島で一回、久場島で一回遭難救助が行われている。すなわち、その一つは、明
治三十三年五月十三日、那覇、宮古島を経由して基隆に向かうことになっていた備前丸が、那覇を出港の後暴風雨
に遭い損害を被った上、海図を奪われたため針路を失し、魚釣島に漂着したというケースである。
これに対し、同島の古賀事務所が海図を与えるなど出帆の便宜をはかるとともに、宮古島で下船するはずであった
巡査1人を含む乗客三人を魚釣島に逗留させ、便船で宮古島に送っている。
いま一つは、明治三十五年五月十八日、刳舟にのった宮古島の漁夫三人が一週間余漂流、半死半生の状態で久
場島に漂着したという事例がある。これについても同島の古賀事務所が薬を与え、二カ月療養させるなどの措置をと
った後、仁寿丸で宮古島に送還している。

    わが国の実効的支配はずっと継続
尖閣列島に対するわが国の実効的支配は、その後大正、昭和に入ってからも、中断されることなく行われてきた。ま
ず古賀氏についてであるが、政府は明治二十九年八月以来同氏に認めてきた魚釣島、久場島についての使用許可
期限三十年が大正十五年八月で切れるのを機会に、以後の賃貸料を有料とすべく改めた。そのため、その後も継続
的にこれを使用することになった古賀善次氏は、同年九月より毎年政府に一定額の賃貸料を納めてきた(同年九月
より昭和六年三月までの四年八カ月、久場島について年間六円四十銭。昭和六年四月以降魚釣島、久場島合計百
三十六円六十一銭)。
古賀氏に対する魚釣島など四島の払い下げは、昭和七年に行われている。すなわち、政府は、同年二月二十日魚
釣島を価格二千八百二十五円で、また久場島については同年二月二十五日二百四十七円で、さらに南小島と北小
島の場合、同年三月三十一日四十七円(南小島)、三十一円五十銭(北小島)で払い下げている。払い下げに伴う
所有権移転の登記は農林省熊本営林局により、平良(宮古島)区裁判所八重山出張所宛申請され、その結果、魚
釣島、久場島は同年七月二十七日、南小島、北小島については同年七月二十八日、移転登記を完了した(なお登
記にあたって農林省は、魚釣島について九十三円二十三銭、以下久場島八円十六銭、南小島一円五十六銭、北小
島一円四銭の登記税を収めている)。
ところで民有地に移管された後の魚釣島外三島は有祖地となったため、昭和七年十二月十五日に賃貸価格が設定
されるとともに、これを基準とした地租が徴収されることになった(その後賃貸価格は昭和十一年六月一日法律第三
六号により改正されている)。
上述した以外に、わが国はまた次のような統治機能を尖閣列島に及ぼしてきた。第一は実地測量であり、これは、
合計四回行われている。すなわち、大正四年には日本水路部が、また同年六年と九年に海軍水路部が、さらに昭
和五年には沖縄営林局が尖閣列島の実地測量を行っている。なお昭和五年の実測の結果、魚釣島など四島につい
て地積が改められることになり、国有林野台帳の修正がなされている。
第二は、国及び地方機関の調査出張である。まず昭和十四年には、農林省資源調査団(小林純及び高橋尚之氏)
が石垣島測候所の正木任技師とともに、尖閣列島に赴いている。また昭和十八年、気象測候所設置予備調査のた
め、大和順一石垣島測候所技師と外間永起所員が魚釣島に出張(九月二十七〜二十九日)している(気象測候所
の設置はその後種々の理由で中止された)。
第三は、遭難救助である。その一つは、大正八年冬、魚釣島付近で遭難、同島へ避難した中国福建省漁民男女三
十一人(子供を含む)に対してであるが、古賀善次氏などによって現地で救助され、その後石垣島に収容、石垣村役
場が救済看護し、全員を無事中国へ送還している。なお、この事件に関連して大正九年五月二十日、長崎駐在中華
民国領事は豊川善佐石垣村長、古賀善次、玉城勢孫伴氏、松葉ロブナスト夫人の四名に感謝状を送っているが、こ
の感謝状において馮冕領事が遭難場所を『日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島』と明記していた事実は注
目されてよいであろう。
その二つは、昭和十五年二月五日、大日本航空内台連路線阿蘇号の魚釣島不時着事件であり、このときは、警察
本部長の電話連絡により高嶺世太八重山警察署長、仲本巡査部長、漢那刑事らが乗客十三名を救助すべく現場へ
急行している。さらにいま一つは、昭和二十年七月、台湾へ疎開途中、米軍機の銃撃に遭い、(七月三日)、魚釣島
に漂着した石垣町民百五十人を救出すべく、警察官と軍関係者が、石垣島から同島へ派遣された(この事件で約六
十名が死亡)。
これとは別に、大正十年七月二十五日、沖縄県の通知にもとづき、政府は久米赤島を国有地に指定、内務省の所
管(魚釣島などは農林省所管)とし、島名も大正島に改称することとした。他方、石垣村役場も、同年七月二十八
日、八重山税務署よりの『土地に関する異動』通知にしたがって、石垣村に編入、地番(二三九四)を設定、土地台
帳にも記載した。



    あ と が き

本稿においては、第二次世界大戦後における尖閣列島の実効的支配、中国、台湾の領有論拠及びその批判につい
ては、主題外として除いている。これらについては、左記の筆者の文献を参考にされたい。

拙稿(以下略)
『尖閣列島―歴史と政治の間』「日本及日本人」(一九七0年新春号)、
『尖閣列島の法的地位』「(季刊)沖縄」第五二号(一九七〇年三月)、
『尖閣列島―その法的地位』「沖縄タイムス」(一九七〇年九月二日〜九月九日)、
『尖閣列島の領有権問題』「(季刊)沖縄」第五六号(一九七一年三月)、
『尖閣列島の領有権と「明報」論文』「中国」(一九七一年六月号)、
『尖閣列島領有権の法理』「日本及日本人」(一九七二年陽春号)、
『尖閣列島と領土権帰属問題』「朝日アジア・レビュー」(一九七二年第二号)、
『尖閣列島と領有権問題』「サンデーおきなわ(週刊)」(一九七二年七月八日〜一九七四年六月十五日、九十六回
連載)、
『動かぬ尖閣列島の領有権』「日本及日本人」(一九七三年新春号)、
『尖閣列島問題と井上清論文』「朝日アジア・レビュー」(一九七三年第一号)、
『明代及び清代における尖閣列島の法的地位』「(季刊)沖縄」第六三号(一九七二年十二月)、
『尖閣列島の領土編入経緯』「政経学会誌(国土館大学)」第四号(一九七五年二月)


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尖閣列島と領有権帰属問題