尖閣諸島の領有権問題
杏林社会科学研究
第1 2 巻第3 号
1996年12月
尖閣諸島の領有権問題と中国の東シナ海戦略
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平松茂雄
1996年7月わが国の領土である尖閣諸島・北小島に日本の政治団体が灯台を建
設したところから、中国と台湾が主権・領土の侵害であると抗議したことに続い
て、台湾、香港で抗議デモが起こり、政治活動家・報道関係者多数を乗せた船が
尖閣諸島海域に近付き、わが国の領海を繰り返し侵犯したばかりか、10月7日台
湾、香港、マカオの抗議団体が約45隻の漁船などで領海を侵犯し、魚釣島に上陸
して中華人民共和国と中華民国の国旗を掲げる事態が生じた。抗議デモは中国国
内、欧米にまで拡大した。こうした状況のなかで、同年10月4日日本政府の灯台
許可保留の決定により、事態はようやく沈静化した。同政治団体はそれ先の1989
年に尖閣諸島の主島である魚釣島に灯台を建設したことがある。その時も台湾、
香港、中国で抗議デモが起こり、1996年と同様に中国の強硬な抗議により日本政
府は許可を保留した歴史がある。
尖閣諸島はわが国の南西諸島西北端に位置し、行政的には現在沖縄県石垣市の
管轄下にある。魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島の5つの島、沖の北岩、
沖の南岩、飛瀬の3つの岩礁からなる島礁の総称である。総面積は約6.3平方キロ
メートル、山中湖を一回り小さくした大きさである。一番大きい魚釣島が3.6平方
キロメートルである。そのように東シナ海の真っ只中にある小さな島が何故国家
間の政治問題に発展するのか。灯台の建設はどのような意味を持っているのか。
1 北小島の灯台建設を巡る紛争
わが国政府が1996年6月20日に批准した国連海洋法条約が発効する直前の同年
7月14日、わが国の政治団体・日本青年社が尖閣諸島・北小島に灯台を建設した1)。
高さ5メートル、重さ210キログラム、耐蝕アルミ軽合金で作られ、太陽電池式
で約30キロメートル先まで光が届く本格的な灯台である。灯台は石垣島に居住す
る漁民に譲渡され、同月25日石垣海上保安部に、航路標識として許可申請が出さ
れた。許可申請の理由は、「当該海域における操業の目標として、また天候の急変
などの際、同島へ避難するための目標」と説明されている2)が、日本青年社の目
的は、この灯台が航路標識として日本政府によって認可されれば、日本ばかりで
なく世界各国の地図・海図などに記載され、国際的な認知をえられるところにあ
ると推定される。それは尖閣諸島に対する日本の実効支配を強化することになる。
同様に領有権を主張する中国、台湾が反対する理由はここにある。
灯台の建設に対して、中国外交部は7月18日の定例記者会見で、「釣魚島などの
島は古来から中国の固有の領土である。日本の一部の者が勝手に島に施設を建設
することは、中国の領土・主権に対する重大な侵犯であり、われわれは重大な関
心を持っている」と抗議し、「日本政府が直ちに有効な措置をとり、今回の事件に
よる良くない影響を排除する」ことを要求した3)。「有効な措置」の具体的な内容
については明らかにされなかったが、灯台の撤去を求めたと解釈された。続いて
7月24日には、「われわれは一貫して友好的な話し合いによって解決することを
主張しており、双方が自制の態度を保持し、一方がことを荒立てないことを希望
する」と述べて、交渉による解決を主張した4)。
灯台建設に強く反発したのは台湾であった。同月17日荘銘耀台湾駐日代表は日
本交流協会に対し、灯台建設に関して日本政府に厳重に抗議するとともに、「中華
民国が釣魚台列島に対して主権を有している」ことを伝え5)、梶山官房長官が「尖
閣諸島は日本の領土であり、所有者が灯台建設を許可したのであるならば、政府
が関与する余地はない」と説明したことに対して、翌18日抗議声明を発した6)。
22日には内政部が抗議を表明し,台北では民間団体が日本国旗を焼いて抗議した。
24日、台湾外交部は尖閣諸島周辺海域での排他的経済水域設定など日本の支配
強化を受け入れないと公式に声明した7)。声明は同諸島の台湾帰属を重ねて主張
し、漁民による漁業権益保護の訴えを支持した。
こうした状況のなかで21日台湾東岸の漁業組合は、漁船200隻以上で尖閣諸島
に上陸を敢行し、中華民国の国旗を掲げる方針を表明した8)。期日は7月28日
から8月2日までと決定され、内政部は漁民保護のため沿岸警備を担当する保安警
察第7総隊の巡視船の派遣を明らかにした9)が、丁度その28日前後に台風が来襲
したため、漁船団の派遣が延期されたことに加えて、台風で灯台が傾いたため灯
台の申請が取り下げられ、漁船団の派遣は中止された。
8月3日台北で、日本と台湾の水産関係者が、日本の排他的経済水域設定に伴う
漁業権に関する協議が実施された。双方は「尖閣諸島周辺海域での台湾側漁船の
操業を当面現状通りとする」ことで一致した10)。台湾側は日本の経済水域設定に
一定の理解を示し、領有権問題の棚上げを前提に、漁業権協定の締結に向けた交
渉を拒否しない姿勢をみせたといわれている。この協議を受けて8月4日台湾の李
登輝総統は「主権問題は簡単なことではなく、平和的に解決すべきである」とデ
モの中止を呼び掛け、漁業権を中心とする問題の平和解決を表明した11)。
しかしながらこの頃までに抗議運動は、大陸系政治勢力による尖閣諸島問題を
中台統一問題と絡めて、李登輝総統を批判する動きへと発展し始めていた。8月
12日台湾の39地区の漁業組合の代表約100人が台北で領土・漁業保全会議を開き、
台湾と日本の両当局に漁業協定の締結を求める一方、安全操業のために台湾当局
に軍艦の出動を要請する声明文を採択した。会議には台湾の外交部、国防部、保
安警察第7総隊の担当者も参加した12)。また抗議行動は台湾ばかりでなく香港に
まで拡大し、返還を翌年に控えた香港の政治活動家・報道機関の政治的思惑によ
って動かされ、中華ナショナリズムを刺激した。その背景には、ケ小平の改革・
開放により急速な経済成長を遂げ、それとともに軍事大国化しつつある中国の存
在がある。
こうして台湾漁民の漁業権問題から始まった抗議運動は、8月末以降大陸系政
治勢力による民族主義の色彩を濃厚にして香港と結びつき、8月29日与那国島近
海で台湾の釣船がわが国の海上保安庁巡視船の臨検を受けたことを契機に、意図
的に領海を侵犯する抗議運動へと発展した13)。9月4日台湾の報道関係者を乗せた
台湾漁船が、尖閣諸島の領海を2時間半余にわたって侵犯した14)。抗議船の行動
はその後も続き、9月9日灯台が再建されたところから一層高まった。9月26日に
は、香港の政治活動家・報道関係者40人を乗せて魚釣島に接近した「保釣号」の
乗員5人が海に飛込み、1人が溺死する事件が起きた15)。続いて10月7日、台湾か
ら、台湾・香港・マカオの政治活動家ら多数を乗せた約49隻の漁船が尖閣諸島海
域に押し寄せ、うち41隻が領海を侵犯したばかりか、4人が魚釣島に上陸して、
中華人民共和国と中華民国の国旗を掲げた16)。また灯台を爆破する決死隊が組織
されたとか、ヘリコプターで上空から中華民国の国旗を投下するなどの計画が台
湾で立てられたと報じられたが、実施されなかった17)。
中国は灯台が建設された時点で、2回にわたり外交部スポークスマンの談話を
発表しただけであったが、8月末になって『人民日報』は「日本はばかなことを
するな」という題の激しい内容の論説を掲載した18)。論文は釣魚島に対する中国
の主権を確認した後、「この百年余り中国人民は暴力を恐れず、前の者が倒れても
後の者が続き、何千何百万の人々の鮮血と命で国家の独立と主権を勝ちとった。
いま12億の中国人民が領土をたとえわずかでも放棄すると望むならば、それは愚
かな妄想である」。「国家の主権に関わることで、炎帝・黄帝(中華民族の祖先―
―引用者)の子孫の心は一致していると断言できる。いかなる中国人も領土を拱
手で人に譲るならば、永遠に汚名を残すことになる」と論じた。同日の紙面に掲
載されたもう一つの記事は、橋本首相が「不測の事態に備えて準備する」ことを
指示したことを以て、灯台建設を「日本政府の従容の下に発生した」と決め付け
た19)。中国各紙はこの論文と記事を転載した。これらの論文・記事は台湾、香港
の抗議船による行動を刺激したと考えられる。
2 繰り返される尖閣諸島問題
北小島の灯台建設を巡って、何故あのような異状な事態が生まれたのか。何故
台湾や香港であのように激しい抗議デモが起こるのか。日本人の多くは疑問に感
じたようである。しかしながら尖閣諸島の領有権を巡ってわが国と中国との間に
紛争が起きたのは初めてではないし、過去において何回か台湾、香港を巻き込ん
で同じような事態が生じている。
日本政府が尖閣諸島を日本の領土に編入したのは明治28年(1895年)1月14日で
あり、それ以来どこの国からもそれについて異義を唱えられなかった尖閣諸島の
領有権問題が生じたのは1969年である20)。この時、それまでの74年間日本の領有
に対して一度も異義を唱えなかった中国と台湾が、初めて領有権を主張した。そ
の理由は、1968年に実施された国連アジア極東経済委員会(ECAFE)による東シナ
海大陸棚資源調査の結果、同大陸棚とくに尖閣諸島周辺海域の海底に石油資源が
豊富に埋蔵されている可能性のあることが、1969年5月に発表されたことにあっ
た。そしてこの時から今日までに27年を経ているにもかかわらず、尖閣諸島問題
は少しも解決されることなく、むしろ日本側に不利に展開してきている。これま
でに尖閣諸島を巡って、日本と中国との間には、5回にわたって大きな摩擦が生
じている。
(1) 1969年〜1972年1969年尖閣諸島周辺海域に石油の埋蔵されていること
が発表された時、最初にその権利を主張したのは台湾(中華民国)であった21)。
1969年7月17日中華民国行政院は「自国沿岸に隣接する大陸棚の天然資源に対し
てすべての主権的権利を行使しうる」との声明を発した22)。ついで1年後の8月
大陸棚条約を批准、「海域油田探査・採掘条例」を制定し、ガルフその他の米国系
石油企業と探査・試掘の契約を結んだばかりか、台湾省水産試験所所属の船を派
遣して、魚釣島に中華民国の国旗を立て、琉球政府により取り下げられるという
一幕もあった。韓国も東シナ海大陸棚の北側海域に石油鉱区を設定して米国系石
油企業と契約し、わが国も4つの石油企業が鉱区を設定したため、鉱区が重複し
た。そこで1970年に入り、これら3国の間で、領有権を棚上げして、石油を共同
開発する協議が行なわれた。その間尖閣諸島問題は米国在住の中国人の反対運動
に広がり、さらに香港へと拡大し、抗議デモが行なわれ、日の丸の旗が焼かれた
り、占領時代の軍票の支払いを求めて、香港市民が日本総領事館に押し寄せた。
こうした事態の進展のなかで、それまで何もしなかった中国が1970年末になっ
て突然、尖閣諸島は中国の領土であり、その周辺の海域は中国の海であり、した
がってその海域の資源に対して中国は主権的権利を持っている。日本、台湾、韓
国の協議は中国の資源を掠奪する企みであるとの強硬な抗議を行なった23)。中国
の抗議はその後も続き、折から沖縄返還(1972年5月)、日本の第4次防衛力整備計
画(1972年〜77)により自衛隊の近代化が進むという状況のなかで、尖閣諸島問題
は「日本軍国主義復活」批判と結びついて激しさを増していった24)が、1972年9
月田中首相が中国を訪問して中国との間に国家関係を樹立した際、「尖閣諸島の
領有権問題をはっきりさせたい」とする日本側の要望に対して、「ここで議論する
のはやめよう」との周恩来首相の要請25)により、尖閣諸島を巡る摩擦はいつか立
ち消えとなった。3国による共同石油開発は中止されたばかりか、現在にいたる
まで日本側海域では石油探査すら日本政府によって許可されていない。
(2) 1978年4月尖閣諸島が次に問題となったのは1978年4月で、「領土問題
には触れない」という周恩来首相の約束を無視して、突然100隻以上の中国籍武
装漁船が尖閣諸島の領海を侵犯し、「尖閣諸島は中国の領土である」との意思表示
を行い、日本政府の抗議を無視して領海内に停泊する事件が起きた26)。何故その
ような事態が起きたのか理由ははっきりしないが、折から進展していた日中平和
友好条約の締結交渉と何らかの関係があった。当時副首相であった耿が「偶発
的な出来事である」と説明したことにより27)、領海を侵犯した漁船は引き揚げた。
ついで日中平和友好条約締結(8月12日)のために中国を訪問した園田外相に、ケ小
平は「このような事件(尖閣諸島侵犯――引用者)を「今後は起こさない」と約
束し、「領有権の棚上げ」を提案した28」。さらに同年10月同条約の批准書交換の
ため日本を訪問した際日本記者クラブで、「領有権の棚上げ」に再度言及した29)。
「棚上げ」は当時の中国にとってこの問題を解決するのが適切でないとの判断
から下されたのであり、中国が有利と判断した時には棚から降ろされると考えら
れる30)。それまでの時間稼ぎである。日本政府はケ小平の「領有権問題の棚上げ」
に同意していないとしているが、そうであるならばその立場を明確に公表すべき
であったし、その後も機会ある度に、声を大にして主張すべきであった。わが国
外務省の態度が不明確であり、その声が余りにも小さいところから、わが国はケ
小平の「棚上げ」提案を受け入れたとの見方が、当時から中国の内外で常識化し
てしまった。なおこの時には、台湾や香港での抗議行動は起きなかったようであ
るが、中華民国外交部は「釣魚台(尖閣諸島――引用者)列嶼に対する主権」を
確認するスポークスマン声明を発し、漁民の行動を「偶発的事件」として片付け
た中国のやり方を、「釣魚台に対して一貫性を欠く態度である」と批判した31)。
(3) 1990年10月3回目は1989年夏日本青年社が魚釣島に灯台を建設し、航路
標識として海上保安庁に許可を申請した時に起きた32)。7月28日中華民国外交部
は尖閣諸島は中国の固有の領土であることを確認していた33)が、1990年9月末月
灯台を海上保安庁が許可するとの報道を契機に台湾では、抗議行動が盛り上がっ
た。台湾の立法院では、直ちに海空軍を派遣して大砲で灯台を爆破し、中華民国
の国旗を掲げることが主張された34)。折から台湾ではスポーツ大会が開催された
が、開会式で点火される聖火を尖閣諸島に上陸させて、「主権が中華民国に属す」
ことを宣明にする計画が立てられ35)、聖火を乗せた船が尖閣諸島海域でわが国の
海上保安庁巡視船に阻止されるという出来事が起きた36)。この時台湾の立法院で
は、国防相が「今日から日本は敵である」と決め付け37)、聖火を乗せた船を警備
するために台湾空軍の戦闘機が緊急発進した38)。台湾各地で抗議デモが行なわれ、
日本の国旗が焼かれた39)。抗議デモは香港に広がった40)。
一方中国外交部は10月18日、22日、23日、25日、27日と立て続けに灯台建設
に対して強硬に抗議した41)ため、日本政府は灯台の許可申請を保留した。当時日
本では国連平和協力法案(PKO)が審議されており、自衛隊の海外派遣を警戒する
動きが背景にあった。台湾と比べて中国の関心は海洋資源の開発にあり、灯台の
不許可で事態を収拾したい意図がうかがわれた。なによりも注目された点は、上
記27日の発言で「双方が主権問題の棚上げ、釣魚島海域資源の共同開発、漁業資
源の開放などの問題で、できるかぎり早く話し合う」ことを提案したことであっ
た。
(4) 1992年2月それから2年後の1992年2月に制定した「領海法」のなかに、
中国は「棚上げ」の約束を自ら破って、尖閣諸島を「中国の領土」と明記した42)。
日本政府は在北京大使館を通して口頭で抗議し「是正」を要求した43)。筆者の知
る限り文書で該当する条項の削除を要求することはなかった。これに対して中国
外交部は、「大量の歴史的事実」および国際法からみて、「釣魚島が中国の領土で
ある」ことは「非難される筋合いのものではない」と答えた44)。それからまもな
く江沢民主席は日中国交20周年を記念して日本を訪問したが、訪日直前の北京で
の記者会見で領海法と尖閣諸島の関係について質問され、躊躇いもなく「ケ小平
同志の立場と主張は変わっていない」と説明した45)。そして東京における両国首
脳の間で、この問題の解決で何の進展もなかったようである46)。
1978年8月日中平和友好条約締結の際、ケ小平が同年4月に起きた中国漁船の尖
閣諸島領海侵犯を「二度と起こさない」と約束した発言(上述)について、当時
外務省アジア局長は衆議院外務委員会で、「ケ発言に中国は拘束される。副主席と
いう地位の人が日本の外交責任者に言ったことは、両者の地位、立場、公の会談
ということから、それ以外の場所での発言とは比較にならない拘束力がある」と
説明した47)。そうであるならば、何故日本政府は中国側の約束違反を追求し、領
海法から尖閣諸島の領有を明記した条文の削除を強く要求しなかったのか。年来
の日本政府の対中軟弱外交に加えて、同年10月に予定されていた天皇訪中に対す
る配慮があったと考えられる。
そして5回目が1996年7月の北小島の灯台建設を契機に起きた紛争である。
このように見てくると、尖閣諸島を巡る問題はたんに中国と日本との間の問題
だけでなく、台湾、香港、さらには米国を含む世界の中国人の民族意識を刺激す
る要素を持っていること、日米関係、日本の国内政治の動向、あるいは中台関係、
香港問題など絡んで複雑化していることがわかる。その間27年を経ているにもか
かわらず、尖閣諸島を巡る問題は少しも解決しておらず、むしろ問題が起こる度
に中国側が強い態度に出て、日本側はそれに押されて後退し、不利になる一方で
ある。そして今後の中国の経済成長とそれに伴う軍事大国化により、日本と中国
の立場は逆転する可能性がある。
3 中国の東シナ海戦略
1996年7月の北小島・灯台建設を契機として発生した紛争では、台湾、香港の
加熱ぶりに比べて、中国の態度には消極的なところがあり、静観しているとの見
方がわが国で有力あった。それは中国の国家戦略を知らない些末な見方である。
中国の尖閣諸島に対する関心は、第1に東シナ海、とくにその大陸棚石油資源の
開発であり、第2にそれを通して東シナ海に対して影響力を強め、将来における
太平洋進出の足掛かりを確保することにある。
中国は早くから海底資源開発に関心を示し、1980年代に入ると、東シナ海の中
間線の中国側海域で継続的に石油探査・試掘が実施され、1992年2月の領海法に
よる法的裏付けをえた後、同年5月石油鉱区を設定して、国際石油資本に開放し
た。同年末までに世界の主要な石油企業が落札し、1994年から探査・試掘が行な
われた48)。1995年になると、中間線の日本側海域で中国の海洋調査船が海洋調査
を実施し、同年末から1996年2月にかけて、石油掘削リグが試掘を行った。つい
で1996年4月〜5月に中国の5隻の海洋調査船が宮古海峡で、フランスの海洋調査
船が中国と共同で奄美大島から沖縄本島の北側海域で、海洋調査を行なった。い
ずれもわが国政府の許可をうることなく実施され、フランスの海洋調査船を除い
て、わが国政府の照会、警告を無視して遂行された49)。さらに1996年8月上旬北
京で開催された世界地質大会で、中国は「大洋底掘削計画」(ODP)への参加を決
定し、「今世紀中に南シナ海、東シナ海、沖縄トラフの海底掘削を実施する」計画
を発表した50)。
台湾、香港の報道関係者が漁船で尖閣諸島の領海侵犯を繰り返していた9月2日
から3日にかけて、中国の海洋調査船「海洋4号」が尖閣諸島・大正島の南方海
域を、短冊型に何回も往復して海洋調査を実施し、その際わが国の領海を数回に
わたり侵犯した。領海内では、「船橋前部甲板のクレーンを使用し、機材を海中に
降ろしたが、その後機材を揚収の上、変針や増減速を繰り返しながら航走を続け
た」と報告されている。海上保安庁巡視船の再三にわたる警告にもかかわらず、
同船はその後も領海内に侵入、退去を繰り返した51)。さらに9月8日から9日にか
けて、同「大洋1号」が尖閣諸島・久場島、ついで大正島の北方海域を西から東
に向かって航行し、その際わが国の領海を侵犯した。その後同島の東約50カイリ
の海域に漂泊し、船尾に作業灯を点灯して、右舷船尾から2本のデリックブーム
(揚荷装置用振出棒)を出して何らかの作業を実施した、と報告されている。海
洋調査船は海上保安庁巡視船の警告に対して、「われわれは中国の船である。現在
海洋観測中である。ここは中国の海である」と答えた52)。
わが国のマスコミの多くは、灯台建設は悪いことであり、中国、台湾、香港が
非難するのは当然であるかのような報道ぶりを示し、また台湾・香港の抗議行動、
漁船の領海侵犯・魚釣島上陸については大々的に報道したが、中国の海洋調査船
の度重なる領海侵犯については、一部の報道機関を除いて報じなかった53)。
中国の東シナ海戦略のなかで、尖閣諸島の領有権問題は欠くことのできない重
要な要素である。灯台の建設は中国にとって重大な障害である。撤去できないま
でも、日本政府によって国際航路標識として許可され、日本の実効支配が強化さ
れる事態は回避しなければならない。東シナ海における中国の活動が強化され、
尖閣諸島問題を棚から降ろしてもよい時期が来るまでは、「棚上げ」のまま、現状
で推移するのが望ましい。
9月9日の定例記者会見で、外交部スポークスマンは、日本政府は「右翼団体の
釣魚島での不法な活動を阻止する」「いかなる措置も講じていない。そのため香港
と台湾を含む中国人民の強い憤りを引き起こしている」と指摘し、「現在最も重要
なことは日本政府が効果的な措置を講じて」その「不法な活動を止めさせること
である。日本政府はこの問題で明確な態度を表明すべきである」と迫った54)。灯
台の建直しに際して、外交部スポークスマンは「これらの行動は中国を含むアジ
ア各国人民の高度の警戒心を呼び起こさないわけにはいかない。日本政府は有効
な措置をとり、こうした逆流を抑えるべきである。このまま放置するならば、中
日関係を大きく損なうことになる」55)。また東京では在日中国大使は日本外務省
に抗議し、北京では外交部アジア局長は中国駐在臨時大使を呼んで抗議した56)。
しかしながら、中国はこの問題で必要以上に日本との関係を悪化させることを
考えていない。日本の実効支配を強化させることなく、海洋調査船などにより既
成事実を積み重ね、東シナ海に対する中国の影響力を拡大することにある。香港、
台湾の抗議行動に同調しながらも、他方でそれの行き過ぎを抑えようとしている
57)のはそのためである。日本政府の対中弱腰は過去の何回にもわたる行動から十
分に証明済みであり、今回も強く押せば日本政府は必ず折れると読んでの行動で
ある。外野席の応援団にはほどほどにしてもらう必要がある。いわんや中国国内
での抗議行動は「民主化」を求める行動に発展するから、論外である58)。
1996年10月4日、わが国政府は灯台の許可申請を保留した。許可すれば中国と
の関係を一層悪化させ、許可しなければ領有権を否定するとになるという立場を
保留によってひとまず切り抜けたのである。他方わが国政府はそれ以前に核実験
を理由に停止していた中国への経済援助の再開を表明しているから、これにより
中国と日本の関係は改善されると考えられる59)。簡単にいえば金(経済援助)
で解決ということである。しかしながら問題は何も解決していない。そればかり
か、わが国政府は海洋法条約を批准し、尖閣諸島を基線として200カイリ経済水
域を設定していながら、同様に領有権を主張する中国の海洋調査船の海洋活動ば
かりか、領海侵犯まで許してしまった。あるいは台湾と香港の抗議船多数による
ひんぱんな領海侵犯ばかりか、魚釣島上陸まで許してしまった。日本政府が中国
との「友好関係」の維持ばかりに気を使い、主権国家としての自覚を持ち、その
ための行動を取らないかぎり、27年間繰り返されてきた事態がまた繰り返され、
日本政府はさらに追い詰められるだけである。台湾や香港の抗議デモや抗議船に
惑わされることなく、大局を見誤らないことが肝要である。
4 日中共同石油開発か?
灯台の許可申請保留によって尖閣諸島をめぐる紛争が沈静化しつつあった
1996年10月12日、銭其外相は日本報道界訪中団の質問に書面で回答し、尖閣諸
島海域における石油資源の共同開発を提案した60)。同外相は「国交正常化交渉と
平和友好条約締結の際、双方は尖閣諸島問題を今後の解決に委ねることで合意し
た。これは歴史的な客観的事実である」と強調し、「これを前提に、われわれは何
回も論議をわきにおいて、資源の共同開発を行なうことを提案してきた。この主
張は両国関係の大局と同地域の平和、安定に有利な戦略的見地から出発している」
と述べて、尖閣諸島の領有権棚上げによる石油資源の共同開発を提案し、さらに
「日本側がこの問題の重要性を十分認識し、同島の問題で二度と新しい事件を起
こさない」ことを希望した。1978年4月に中国の漁船多数が尖閣諸島の領海を侵
犯した時、日本政府の抗議に対して、「二度とこのようなこと(尖閣諸島の領海侵
犯)を起こさない」(ケ小平)と約束したのは中国側であったが、27年にわたる
日本政府の無為無策により立場が逆転してしまった。
尖閣諸島の領有権棚上げによる石油資源の共同開発は、1978年の華国鋒時代に
中国が日本に対して提案し、日本側がそれを受けて、政府間で協議が行なわれた
ことがある。その後1980年代に入ってから、中国海洋石油総公司と日本の石油企
業との間で断続的に交渉が行なわれた。交渉の詳細はわからないが、日本側は大
陸棚の境界線の境界画定に触れずに中間線を挟んだ両側の大陸棚を一つの鉱区と
して両国で共同開発する案を提案したが、中国側は東シナ海の大陸棚は中国の大
陸棚であるとして譲らず、1992年2月中国が尖閣諸島(釣魚島諸島)の領有権を
明記した領海法を制定したため、3月交渉は打ち切られた。そして同年6月中国は
中間線の中国側海域に石油鉱区を設定して、国際入札を呼び掛けた61)。
今回の中国の呼び掛けはその延長線上で行なわれているが、すでに中間線の中
国側海域での開発が進行しているだけに、共同開発に関するこれまでの日本側の
主張が受け入れられる可能性はなくなり、中間線の日本側海域、とりわけ尖閣諸
島周辺海域での共同開発を中国側は計画していることはほとんど間違いない。尖
閣諸島に対して日本は領有権を有しており、同島を実効支配している。そして
1996年7月日本政府は国連海洋法条約を批准して、東シナ海の日本側海域に排他
的経済水域を設定し、中国側と重なる同水域では中間線の原則により境界線を敷
き、かつその海底の大陸棚に対する主権的権利を主張したのであるから、わが国
は誰に遠慮することもなく、日本側海域の資源の開発・利用・保護に関して権利
を行使できるし、行使する必要がある。日本政府がそれらの権利を行使すること
なく、中国に対してこれまでと同様に中国に対して弱腰の態度を取り続けるなら
ば、尖閣諸島は中国の領土となってしまうばかりが、日本側海域は「中国の海」
となってしまう。
日本政府が中国との「友好関係」を第一義的に考え、尖閣諸島の領有権および
大陸棚の主権的権利を小さな問題と考えて、権利を行使し、国益を守ることを控
えるのであるならば、尖閣諸島の領有権、大陸棚の主権的権利を棚上げして共同
石油開発を進めることは、一つの選択であろう。現実に銭其外相の上記提案の
少し前で、香港の報道関係者多数を乗せた「保釣号」が尖閣諸島の領海を侵犯し
たばかりか、5人の乗員が抗議のため海に飛込み1人が死亡する出来事が起きて
いた同年9月25日、日本石油公団の役員が訪問中のシンガポールで、尖閣諸島海
域での共同事業は「緊張緩和を促進する可能性がある」と関連諸国の間で海底石
油の共同開発を進めることを呼び掛けた62)。これに対して翌26日中国海洋石油総
公司は、この発言に対するロイターの電話取材に対して、「尖閣諸島での石油共同
探査について、日本企業との交渉再開に応じる」と答え、日本側の共同事業の呼
び掛けを歓迎した63)。領有権・主権的権利を有している日本側から、尖閣諸島海
域での共同開発の提案を行ったのであるから、中国側が「歓迎する」のは当然で
あろう。
灯台問題が片付いてまもなくの1996年10月12日、わが国の南西諸島・久米島の
北西約140カイリの海域で、中国の海洋調査船「雪竜号」が日中中間線を越えて
約20カイリ日本側海域に入った64)。海上保安庁巡視船の警告により同船は日本側
海域を離れて中国側海域に移動したが、「雪竜号」は1万4500トンの大きな海洋調
査船で、日本にはこのように大きな海洋調査船はなく、このように大きな海洋調
査船は太平洋やインドで深海底の海底掘削を実施することを目的として建造され
ている65)。そのように大きな海洋調査船が東シナ海の日本側海域に入ってきた目
的はわからないが、同年8月北京で開催された世界地質大会で、中国が「南シナ
海、東シナ海、沖縄トラフの掘削」を計画していると公表したことと関連してい
るのかもしれない。
また同じ時の10月13日、久米島の南西33カイリで宮古海峡の北側入り口に当た
る海域に、中国の海洋調査船「海洋13号」(2000トン)が航走・停泊を繰り返し、
船尾からワイヤーロープを入れたり、ケーブルを海中に降ろして海中の海水を採
取するなどて海洋調査を実施した。同船は同年4月末から5月初頭にかけて、他の
四隻の海洋調査船とともに、海上保安庁の警告を無視して、宮古海峡の探水作業
などの海洋調査を実施した船であり、今回も海上保安庁巡視船の警告を無視して、
同様の調査を継続した66)。
さらに10月31日、久米島の北西約240キロメートルで日中中間線の少し日本側
に入った海域で、中国の海洋調査船「東測227号」「東測226号」(どちらも1000
トン)の2隻が、海洋調査活動を行なった。同日魚釣島の西南約60キロメートル
で日中中間線の少し日本側に入った海域で、同「海洋13号」(上述)が観測機器
を海中に投入して調査活動を実施した。3隻の船はわが国海上保安庁巡視船の調
査活動の中止の要求に応答せず、調査を続けた。
東シナ海における中国の海洋調査船の活動は、1996年10月末現在で延べ15隻と
なり、前年の7隻と比べて倍増している。日本政府は日本側海域への無許可侵入
に対して、何ら法的対抗措置をとっていないから、このままの状態が続くと、中
国の海洋調査活動は日常化し、東シナ海は「中国の海」であるとの中国の主張が
既成事実化してしまう恐れがある。
註
1)「尖閣諸島、新たに灯台設置、都内の政治結社、外交問題に発展も」『産経新聞』1996
年7月17日。
2)平成8年7月25日に石垣海上保安部長に提出された「航路標識設置及び管理許可申請
書」。
3)「外交部発言人答記者問、釣魚島自古以来就是中国領土」『人民日報』1996年7月19
日。
4)「外交部発言人答記者問、釣魚島属中国、主張中日通過有効協商解決存在的争議」
杏林社会科学研究
−16−
『人民日報』1996年7月25日。
5)「日在釣魚台設灯塔我厳重関切、駐日代表荘銘耀赴日本交流協会達立場」『聯合報』
1996年7月18日。
6)「日在釣魚台設灯塔、両岸強烈抗議、我駐日代表発表声明、指日人侵権行為不当」『聯
合報』1996年7月19日。
7)「外交部、釣魚台領土主権不容侵犯」『聯合報』1996年7月25日。
8)「両百隻漁船将到釣魚台抗議」『聯合報』1996年7月21日、「宜蘭漁民赴釣魚台挿国旗
宣示主権」『中国時報』1996年7月21日。
9)「尖閣諸島、台湾が巡視船派遣へ」『産経新聞』1996年7月23日。
10)「尖閣諸島領有権は棚上げの方向か、日台が漁業権で初協議」『時事通信』1996年8
月5日。
11)「尖閣問題で台湾総統、漁民に実力行動停止要請」『産経新聞』1996年8月5日
12)「台湾漁民操業継続を決議、尖閣諸島海域保護の艦艇試験要請」『産経新聞』1996年
8月13日。
13)「台湾漁民臨検、日本に抗議団派遣へ」『産経新聞』1996年9月1日。
14)「日艦在公海、盤査駆離我海釣船」『聯合報』1996年8月31日、「台湾漁民臨検日本に
抗議団派遣へ」『産経新聞』1996年9月1日。
15)「尖閣抗議の香港・台湾船日本領海に侵入、海保と接触、上陸の機うかがう」『産経
新聞』1996年9月26日夕刊。
16)「活動家四人が泳いで上陸、尖閣諸島中台の旗、政治レベルで問題化も」『産経新聞』
1996年10月7日、「尖閣諸島、香港・台湾の抗議団上陸」1996年10月7日夕刊。
17)「敢死隊揚言出海炸灯塔、保七隊攜炸薬会被取締」「『聯合報』1996年9月13日「台
湾光復節、国旗空降釣魚台湾、保釣人士決於当天搭機前往空投、宣示我対釣魚島領
空権」『中国時報』1996年10月14日。
18)本報評論員「日本別干蠢事」『人民日報』1996年8月30日。
19)「日在我釣魚島製造事端、侵犯中国領土令人憤慨」『人民日報』1996年8月30日。
20)日本の尖閣諸島領有に関しては、日本政府の公式の立場を説明した「尖閣諸島の領
有権問題についての外務省基本見解(1972年3月8日)」(外務省アジア局編『日中関
係基本文献集1970年〜1992年』、1993年、霞山会、73頁収録)、この見解のほかに、
日本の領有権に関する資料(そのなかには清国、中華民国、中華人民共和国が日本
の領有を認めた事実を示す資料も収録されている)を収録した小冊子・外務省情報
文化局編『尖閣諸島について』(1972年)がある。国際法の専門家による研究として
次の文献がある。尾崎重義「尖閣諸島の帰属について上、中、下の一、下の二」
『レファランス』昭和47年9月、10月、11月、12月の各号、奥原敏雄「尖閣諸島中
国及び台湾の領有論批判」『AFAシリーズ』(アジア親善交流協会)1978年第四号、緑
間栄『尖閣諸島』(1984年、那覇・ひるぎ社)
−17−
21)とくに断っていないかぎり、以下の記述は註20であげた文献に依拠している。
22)興味あることには、台湾は尖閣諸島に対する領有権よりも、東シナ海大陸棚の主権
的権利を先ず主張したのである。台湾が尖閣諸島の領有権を初めて公式に主張した
のは、1970年12月に中国が領有権を主張した(後述)後の1971年2月中旬とされてい
る。
23)「中華人民共和国外交部声明」『人民日報』1970年12月30日、本報評論員「決不容許
美日反動派掠奪我国海底資源」同12月29日。
24)多数の論説・記事が書かれたが、『人民日報』に掲載された代表的な文献を以下にあ
げる。本報評論員「中国領土主権不容侵犯」1971年5月1日、「中華人民共和国外交部
声明――1971年12月30日」同年12月31日、「佐藤政府依仗同美帝簽訂“帰還”沖縄協
定、陰謀侵呑中国領土釣魚島等島嶼」同年12月31日、「安致遠在聯合国海底委員会会
議上駁斥日本代表謬論並重申、釣魚島等島嶼是我国領土不容日本覇占」道1972年3
月12日。
25)「尖閣論議深入りせず、日中会談で周首相、田中首相が明かす」『朝日新聞』1972年
10月2日、「尖閣論議避けた周首相、肩の荷おろし日中会談秘話」『日新聞』同10月2
日。
26)以下の記述については、とくに断っていないかぎり拙著『中国の海洋戦略』(1993
年、勁草書房)第2章「東シナ海の石油開発と尖閣諸島問題」84〜85頁。
27)「『絶対、故意でない』、尖閣事件で耿・副首相が言明」『毎日新聞』1978年4月14日。
28)「尖閣20〜30年現状で、ケ氏が言明と外相裏話」『読売新聞』1978年9月19日、「日中
審議の要旨」『朝日新聞』同年10月14日。
29)「記者会見の発言要旨」『朝日新聞』1978年10月26日、「論点ズバリ会見、尖閣あい
まい裏付け」『読売新聞』同日。
30)「棚上げ」問題については前掲『中国の海洋戦略』96〜103頁を参照。
31)「変幻不測のペテン戦術、中共漁船の尖閣海域進出」『中華週報』1978年5月15日3頁。
32)「尖閣の灯台」(「沈黙の大国67」)『業経新聞』1993年4月16日。
33)「釣魚台列島は中国固有の領土、外交部スポークスマンが重ねて言明」『中華週報』
1989年8月14日2頁。
34)「確保釣魚台湾主権」『聯合報』1990年10月13日。
35)「首次行動鄭重宣示主権属於中華民国、船団護聖火今晨航向釣魚台」『聯合報』1990
年10月21日。
36)「釣魚台列嶼外海十二里、日海上保安庁海空布陣、我聖火船隊遭日方艦艇阻止折回」
『聯合報』1990年10月22日。
37)「陳履安、視日本為仮想敵」『聯合報』1990年10月23日。
38)「戒護巡邏釣魚台附近上空、空軍昨出動三梯次」『聯合報』1990年10月22日。
39)「民衆抗議、焚太陽旗」『聯合報』1990年10月23日。
杏林社会科学研究
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40)「香港で尖閣列島問題でデモ」朝日新聞』1990年10月26日。
41)「外交部発言人発表談話、釣魚島是中国固有領土」『人民日報』1990年10月19日、
「我外交部発言人強調、日本政府応立即停止侵犯中国主権的活動」10月23日、「日官房
長官妄称釣魚島是“日本領土”」10月24日、「斉懐遠緊急約見日本駐華大使、強烈要
求日本停止在釣魚島単方行動、希望日本政府対向海外派兵慎重行事」10月28日。
42)「中華人民共和国領海及・連区法」『人民日報』1992年2月26日。
43)「中国政府尖閣諸島の領有明記、侵犯には武力行使も、日本政府が抗議」『産経新聞』
1992年2月27日。
44)「外交部発言人発表談話、重申釣魚島属於中国」『人民日報』1992年2月28日。
45)「江沢民総書記答日本記者問」『人民日報』1992年4月3日。
46)前掲拙著『中国の海洋戦略』103頁。
47)「日中審議の要旨、13日衆議院外務委員会」『朝日新聞』1978年10月14日。
48)拙稿「本格化する中国の東シナ海石油開発」『東亜』1994年5月号。
49)拙稿「活発化する中国の東シナ海海洋調査活動」『東亜』1996年7月号。
50)拙稿「大陸棚自然延長論立証狙う中国」『産経新聞』1996年8月28日。
51)「尖閣周辺海域における中国海洋調査船の領海侵入について」海上保安庁、平成8年
9月3日。
52)「我が国排他的経済水域における中国海洋調査船(2隻目の海洋調査活動につい
て)」海上保安庁、平成8年9月9日。
53)「海洋4号」の領海侵犯については、9月3日付『日本経済新聞』が社会面で報道し
ただけであり、1日後れて『産経新聞』が国際欄の解説で言及した。「大洋1号」の
領海侵犯については、9月9日付『産経新聞』が国際欄で報道しただけである。
54)「釣魚島は中国領土、中国外務省改めて強調」『中国通信』1996年9月9日。
55と56)「釣魚島問題で日本に強く抗議、中国外務省」『中国通信』1996年9月13日
57)「尖閣対日行動、香港に自制を求める」『産経新聞』1996年10月1日、「江主席香港の
対日抗議警告」同10月4日、「香港の日本総領事館乱入、中国外務省が批判『強行突
入賛成できない』」同10月11日。
58)「北大学生集会保釣、警動高層厳禁遊行」『星島日報』1996年9月21日。
59)「対中借款来月にも調査団派遣、政府核実験凍結で改善探る」『産経新聞』1996年8
月11日、「円借款調査団の今秋派遣、日中外相会談で」同9月6日、「対中無償援助再
開へ、外務省幹部『条件クリア』」同9月19日。
60)「銭中国外相の回答要旨」『産経新聞』1996年10月13日。
61)前掲拙稿「本格化する中国東シナ海石油開発」。
62)「尖閣周辺の石油共同開発訴え、石油公団理事」『毎日新聞』1996年9月27日。
63)「尖閣諸島の石油共同探査で日本と交渉の用意、中国当局者」『時事通信』1996年9
月26日。
−19−
64)海上保安庁「我が国排他的経済水域における中国海洋調査船(2隻)の視認につい
て」(平成8年10月1日)。
65)「尖閣諸島近海、日本側海域に今度は大型船、中国の調査活動が拡大」『産経新聞』
1996年10月16日。
66)註64二同じ。
[追記]本稿は筆者が1997年3月に出版予定の『中国の海洋進出』(仮題)(勁草書房刊)の
第8章を構成する論文(草稿)である
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