本、中華民国、韓国の海洋専門家が中心となり、国連のアジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の基に、東シナ海 一帯にわたって海底の学術調査を行った。翌年5月、東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性が あることが指摘された。これが契機になって、尖閣諸島がにわかに関係諸国の注目を集めることになったのだ。現に この2年後に、台湾と中国が相次いで同諸島の領有権を公式に主張している。石油があるとの発表が無ければ、こ れほど問題がこじれたとは考えにくい。この日中間で懸案となっている尖閣諸島(尖閣列島とも云う)の領有問題につ いて詳しく説明しよう。 と云うが、琉球で新しい王が即位する時には、明清両朝はこの冊封使を派遣た。そして冊封使が大陸の福州と那覇 の間を往来する際には、必ず魚釣島(中国名・釣魚台)を航行の目印とした。中国の主張によると、書物の中に初めて 魚釣島の名が登場するのは1372年で、『順風相送』と云う1403年の明の時代に刊行された物だという。 ある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭 (台湾の基隆)の沖合で東に転し、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。琉球冊封使は、これより先1372年に琉球に派 遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同 じ航路を進んだと想像出来る。ここで「想像出来る」と推測するのは、1〜10回の使録がないからだ。それらはもともと 書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していたのであろう。 命により日本に派遣された鄭舜功が、九州滞在3年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日 本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅 花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山か ら出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、 その注解文中に、 「梅花より澎湖の小東に渡る」、「釣魚嶼は小東の小嶼也」とある。 功も『日本一艦』の中でこれをあきらかにしている。『使琉球録』において陳侃は従人の中に日本へいたる路程につ いて知識を有する者がいたことを誌している。その知識を有する者とは、 寧波などに居住する日本人多数からである と、鄭舜功自身が述べているではないか。中国から琉球への往来は496年間中国に冊封使を琉球へ、琉球は進貢 使謝恩使などを中国へそれぞれ赴かせた。中国が琉球へ往来するようになったのはこのとき以後であって、これによ り前に公的なかたちで両国が相互に交通をおこなっていたということは記録上無い。他方冊封使が琉球へ赴いた回 数は冊封・進貢関係の全期間を通じて、合計23回であった。そうしてこれ以外に中国が琉球へ公船を派遣したことは ほとんどなかった。 平均はいわば算術的な平均であって、実際には30年あるいは40年といった空白期間のあった例も数多くみられた (張学礼・林鴻年各30年、徐葆光・周煌各37年、李鼎元40年など)。陳侃のときは最長で前使董旻との間に実に55 年の空白があった。これでは中国人たちがこの航路を経験するのは一生に一度か二度ということとなり、とうていこ の航路に関する正確な知識をもちうるはずがなかった。航海の経験が少ない以上、操舟の術に信がおけなかったこ ともまた当然である。 陳侃はなぜ琉球人がこの航路を熟知し、操舟の術にも優れていたと記述したのであるかと言 うと、それは中国への琉球船の圧倒的な派遣回数である。陳侃までの時代に、琉球船は281回中国へ赴いていた。 これに安南・シャムなどとの交易船が南洋諸地域へ渡っていた回数が加わる。これらの琉球船も帰路尖閣列島を通 っていたことはほぼ間違いない。 ず、基隆(キールン)とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土 であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになってい た。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島が中国領であることは、こ れによってもまったく明確である。」 (1368-1644)の歴史を記した正史の『明史』は、1679年から着手され、60年の歳月を費やして1739年にやっと完成、 刊行した勅撰歴史である。『明史』はミャンマー、ラオスについて雲南の「土司」(=外蕃)列伝のなかで同列に記述し ているのに対し、「鶏龍国(けいろうこく)」(=台湾)は「日本に属す」と外国伝の日本、呂宋(ルソン島)の間に併記し ている。そして清代(1644-1911)の官定史書にも、台湾の領有権については、「日本に属する」と公的に記録されて いる。例えば、乾隆版『大清統一志』には、「台湾は古より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間 (1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。(中略)台湾はもともと日本に属する」と記述している。 れ、残る12名が命からがら帰国するという「牡丹社事件」が起こった。外務卿副島種臣が1873年に北京を訪れ、清 国政府と直接交渉したところ、台湾の住民は「化外の民」で「教化の及ばぬところ」とし、清国政府は事件の責任を回 避した。 従って『順風相送』や『使琉球録』などで尖閣諸島のことが記載されていても、それらが直ちに中国の尖閣諸島領有 の国家意思とはならないのである。また、中国から琉球への使節団よりも、琉球から中国への使節団の派遣回数の 方が圧倒的に多いことから、尖閣諸島に対する知識も日本人の方が正確であった。 近海の海産物の採取、輸出の業をはじめた。そのうちに1885年、古賀は「久場島」(釣魚島)に航して、ここに産卵期 のアホウ鳥が群がることを発見し、その羽毛を採取して大いにもうけることを思いたった。彼は那覇に帰って、その事 業のための土地貸与を沖縄県庁に願い出た。この古賀の要請を受け、内務省は先ず、沖縄県庁にこの島の調査を 内々に命令した。それに対して、沖縄県令は1885年9月22日次のように上申している。 調べ致し候処、概略別紙の通りこれ有り候。抑モ久米赤島、久場島及び魚釣島は、古来本県に於て称する所の名 にして、しかも本県所轄の久米、宮古、八重山等の群島に接近したる無人の島嶼に付き、沖縄県下に属せらるるも、 敢て故障これ有る間敷と存ぜられ候へども、過日御届け及び候大東島(本県と小笠原島の間にあり)とは地勢相違 し、中山傳信録に記載せる釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一なるものにこれ無きやの疑なき能はず。 航海の目標と為せしこと明らかなり。依て今回の大東島同様、踏査直ちに国標取建て候も如何と懸念仕り候間、来 る十月中旬、両先島(宮古・八重山)へ向け出帆の雇ひ汽船出雲丸の帰便を以て、取り敢へず実地踏査、御届けに 及ぶべく候条、国標取建等の儀、なほ御指揮を請けたく、此段兼て申上候也 ある。よって日本は、尖閣諸島が中国領であると知っていたのだ。現に沖縄県は、「清国側でも尖閣を詳悉せる(くわ しく知っている)のみならず、各々名称をも附し、琉球航海の目標と為せしこと明らかなり」と言っているではないか。 避けただけである。また、清国は尖閣諸島については、航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図において か、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣諸島の島嶼の名をあげているに過ぎない。そしてそれが直 ちに中国領とはならないのである。 案するため、まず十月九日、外務卿に協議した。その文は、たとえ「久米赤島」などが『中山傳信録』にある島々と同 じであっても、その島はただ清国船が「針路の方向を取りたるまでにて、別に清国所属の証跡は少しも相見へ申さ ず」、また「名称の如きは彼と我と各其の唱ふる所を異にし」ているだけであり、かつ「沖縄所轄の宮古、八重山等に 接近したる無人の島嶼にこれ有り候へば」、実地踏査の上でただちに国標を建てたい、というのであった。この協議 書は、釣魚諸島を日本領にする重要な論拠に、この島が沖縄所轄の宮古・八重山に近いことをあげている。 九日付甲第八十三号を以て御協議の趣、熟考致し候処、右島嶼の儀は清国国境にも接近致候。さきに踏査を遂げ 候大東島に比すれば、周回も小さき趣に相見へ、殊に清国には其島名を附しこれ有り候に就ては、近時、清国新聞 紙等にも、我政府に於て台湾近傍清国所属の島嶼を占拠せし等の風説を掲載し、我国に対して猜疑を抱き、しきり に清政府の注意を促がし候ものこれ有る際に付、此際にわかに公然国標を建設する等の処置これ有り候ては清国 の疑惑を招き候間、さしむき実地を踏査せしめ、港湾の形状并に土地物産開拓見込の有無を詳細報告せしむるのみ に止め、国標を建て開拓等に着手するは、他日の機会に譲り候方然るべしと存じ候。 間、それぞれ御注意相成り置き候様致したく候。 本領とするなら、清国の厳重な抗議を受けるのを恐れたのである。それゆえ彼は、日本がこの島を踏査することさ え、新聞などにのらないよう、ひそかにやり、一般国民および外国とりわけ清国に知られないよう、とくに内務卿に要 望した。清国から抗議を受けないような「他日ノ機会」にここを取ろうというのである。山県も井上の意見を受けいれ、 この問題は結局閣議に出さなかった。 れており(勿論日本名もある)、日本にも近いが清国にも近く、台湾近くの清国の島(花瓶嶼や彭隹山)を占領される ことを警戒し、日本を疑っている。したがってこの時期に国標を建てるのを反対しただけだ。「他日の機会に」と、つま り後日機会を伺って国標を建てる方針を内務省に伝えたのだ。 がある。この講和条約の第二条を口実に、尖閣は中国から切り離されたと言うのである。本当であろうか?日清講 和条約第二条※(図3参考)をここで見ていただきたい。第二条の第一項では遼東半島、第二項では台湾、そして第 三項には澎湖列島の各領域が日本に割譲される旨が書かれている。しかし、尖閣諸島については一切言及されて いないのである。 つ、「国標建設の儀は、嘗て伺書の通り、清国との関係なきにしもあらず、万一不都合を生じ候ては相済まぜるに付 き、如何取計らい然るべきや」、と至急の指揮をもとめた。これに対しては、内務・外務両卿の連名で、十二月五日、 「書面伺の趣、目下建設を要せぜる儀と心得べき事」と指令した。 を出した。 「管下八重山群島石垣島に接近せる無人島魚釣島外二島の儀に付、十八年十一月五日第三百八十 四号伺に対し、同年十二月五日付を以て御指令の次第もこれ有候処、右は無人島なるより、是まで別に所轄をも相 定めず、其儘に致し候処、昨今に至り、水産取締りの必要より所轄を相定められたき旨、八重山役所より伺出で候 次第もこれ有り、かたがた此段相伺候也」(前掲『日本外交文書』第二三巻、「雑件」) 賀の事業の取締りを理由に、日本領として沖縄県の管轄にされるように願っている。このときの知事は、かつての西 村県令が内務省土木局長のままで沖縄県令を兼任していたのとはちがって、内務省社寺局長から専任の沖縄県知 事に転出した丸岡莞爾である。丸岡沖縄県知事も山県内務卿と同じく、尖閣諸島を日本領として認識していた。 趣旨で、「魚釣島」(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を同県の所轄とし、標杭を建設したい旨を、内務、外務両大臣に上申し た。これに対しても、両大臣は1890年の上申に対するのと同様に、一年以上も何らの協議もしなかった。 ことについて、秘密文書で協議した。その本文は次の通りである 号の通り明治十八年貴省と御協議の末指令に及びたる次第もこれ有り候へども、其の当時と今日とは事情も相異 候に付き、別紙閣議提出の見込にこれ有り候条、一応御協議に及び候也 試むる者これ有り、之が取締りを要するを以て、同県の所轄とし標杭建設致したき旨、同県知事より上申これ有り、 右は同県の所轄と認むるに依り、上申の通り標杭を建設せしめんとす。 右閣議を請ふ」 る。政府はよほどこの問題が外部にもれるのを恐れていたとみえる。 関し本省に於て別段異議これ無きに付、御見込の通り御取計相成り然るべしと存候」と答えた。ついで同月十四日 の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさ せることを決定、同月21日、内務大臣から沖縄県知事に、「標杭建設に関する件請議の通り」と指令した。 いない。これは明らかに日本の不備である。しかし中国は後年、尖閣諸島は八重山に属するという認識を示した手 紙を送るのである。下記はその資料である。 高まっているが、この史料が中国や台湾の主張を崩す有力な資料となるのは間違いない。史料は中華民国九年(一 九二〇年、大正九年)五月二十日、中華民国駐長崎領事が中国漁民救助に対する「感謝状」として、当時の沖縄県 石垣村(現、石垣市)村民に贈ったものである。内容は「中華民国八年(大正八年)の冬、中国の福建省恵安県(現、泉 州付近)の漁民、郭合順氏ら三十一人が遭難し、日本の尖閣列島(現、尖閣諸島)にある和洋島(魚釣島のこと)に漂 着した。石垣村の玉代勢孫伴氏(後の助役)が熱心に看病し、皆元気に生還することができた。こうした看護は感謝 に堪えず感謝状を贈る」というものである。 目されるのは、この漁船が遭難した当時、中華民国政府の外交当局が、感謝状の中で尖閣諸島のことを「日本帝国 八重山郡尖閣列島」と明記している点である。このころまでに、中国が領有権の主張をした事実がないことはもちろ ん、むしろ積極的に尖閣諸島を日本領と認めていた何よりの証拠であり、第一級の史料価値がある。 で、尖閣諸島について「台湾にも中国にも属さない(不屬於台灣,也不屬於中國)」であると発言、台湾では連日大 きく報道された。彼は同諸島について「日本の領土(釣魚台是日本的領土)」と明言し、与那国島上空に設定されて いる台湾の防空識別圏については、「総統就任時、軍に十分注意するよう指示した(擔任總統時就指示軍方要特別 注意,不要侵犯日本領空)」と当時の政策を語った。この李前総統の一連の発言で、日本の主権がますます明確に なったと言えよう。
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