まえがき
この『尖閣列島ノート』に収録したものは、ほぼ1〇年間にわたる筆者の研究ノートブックに若干手を加えたものであ
り、普通の著書のように順序よく体裁の整ったものではない。だからおなじ問題があちこちにでてきたり重複したりし ているが、これは書きおろしではないから、避けられない。少しでも格好がついていれば、それは編集者の功績に帰 すべきものである。
わが国では、尖閣列島の領有権問題について、政府も与党もマスコミも、その主張は不思議に一致しており、まっ
たく疑問をさしはさむ余地がないようにみえる。北方領土問題では、徳川幕府とロシアの交渉の記録があり、下田条 約、樺太・千島交換条約もあって、公文書が多い。それでも日本が放棄した「千島の範囲」について、国際法学者な どのあいだにさまざまな意見がある。そもそも北方領土問題と尖閣列島問題とは性格が違う問題であるが、それにも かかわらず尖閣列島問題では論争が少ない。
ところが、尖閣列島問題をよく調べてみると、日本の領有権主張についての疑問はたくさんある。この『尖閣列島ノ
ート』の目的は、それらの問題点を、広く日本国民に知ってもらうことにある。
尖閣列島についての日中間の主張の相違は、日本側が、尖閣列島は国際法でいうところの「無主地の先占」によ
ってわが国領土にしたもので、台湾の付属島嶼ではない、だからポツダム宣言を受諾しても中国に返還する必要は ないと主張し、中国側が、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などは台湾の付属島嶼であって無主地ではな いと主張しているところにある。
日本側では、総理府の外廓団体である南方同胞援護会の『尖閣列島研究会』が、一年がかりで日本の領有権主
張の根拠となるべき資料を沖縄本島と石垣島で収集し、その結論として、わが国は、国際法の「無主地の先占」によ って尖閣列島を領有したのだと主張しはじめたのである。そしてそれ以後、わが国政府も「先占」による尖閣列島の 領土編入を主張するようになった。というよりも、わが国が尖閣列島の領有権を主張するためには、領土取得の法的 根拠(権原)として無主地の先占以外ないから、「先占」の根拠となるものをかき集めたといったほうがよい。それは まさに、かき集めたといった感じである。このことは、南方同胞援護会機関紙『季刊沖縄』第五十六号に明らかであ る。尖閣列島が石油で燃えあがったとき、外務省には、尖閣列島を領土編入したいきさつはこうだったと、ただちに説 明できるファイルはなかった。尖閣列島の島々についての正確な地図もなかったし、尖閣列島の位置を経緯度で示 したものもなかった。政府の公示も沖縄県の告示もなかった。したがって一般国民は知らなかったのである。
石油にからんで尖閣列島が問題になったとき、中国の石油の研究をしていた筆者は、黄尾嶼、赤尾嶼という島名
に疑問をもった。そぇは福建省から台湾の周辺に、嶼というシマがたくさんあるからである。これらは中国名の島¥で ある。アメリカの施政権下にあった琉球政府も公文書で、この中国の島名を使ったし、沖縄返還協定の付属文書に おいてもそうである。これは島の固有の名称が黄尾嶼、赤尾嶼だと考えたからに相違ない。
わが国政府が無主地の「先占」を主張しても、じつは、尖閣列島は無主地ではなかったということになれば、古賀
辰四郎氏父子による尖閣列島開発という実効的支配の証拠がいくらあっても、日清戦争の結果そうなったのだから、 それらはわが国の領有権主張の根拠にはならない。重要なことは、日清戦争の結果、沖縄と台湾とのあいだに国境 がなくなってしまったということである。筆者は古賀辰四郎氏の事業を、幻の事業などとは決していわない。だから古 賀氏の事業について詳しく調べてみた。それだけで一冊のノートブックは埋まってしまった。
日中平和友好条約の交渉では、尖閣列島に対する日本の領有権を中国に認めさせることが前提条件だとする強い
主張が日本側にあった。しかし、この問題は日中間に主張の相違があるのだから、時間をかけてじっくりと平和的に 話しあることで日中間の意見が一致している。尖閣列島問題の解決を日中平和友好条約の前提とするならば、条約 締結は一〇年も二〇年も、あるいはもっと遅れてしまったであろう。これが日中双方の利益にならないことは現実が 証明している。
尖閣列島問題を棚上げにして、日中平和友好条約を早く結ぶべきだと考えた筆者は、雑誌『中央公論』一九七八年
七月号に、国士舘大学の奥原敏雄教授(国際法)が『尖閣列島の領有権の根拠』を発表されたときにも、あえて発言 しなかった。奥原教授自身も、日中平和友好条約は必要であるから、そのために、尖閣列島問題をひとまず置くこと もしかたない、としていたからである。
日中平和友好条約も発効したのだから、尖閣列島問題は、これから時間をかけて話しあうべきである。「領海
侵犯」とマスコミが騒ぎ立てると、よく事情を知らない多くの人は、それだけで、尖閣列島は間違いなく日本のものだ
と思いこんでしまう。ところが尖閣列島は、明治時代には、そこにバカ島がいなければ問題にならなかったし、一九六 ○年代には、そこに石油がなければ問題にならなかった。ともに資源にからんで問題が起きているのである。だから 「中国を硬化させるのを承知で、政府が日本領有の“つじつまあわせ”や“ツバつけ”にやっきとなるのはなぜか。そこ には“石油があるから”といぅった海底資源への先取り意識は、当然考えられる」(「東風西風」『中央公論』一九七二 年五月号)といわれるのである。
日本の学者のなかで、尖閣列島の問題に最も真剣にとりくんでおられるのは、奥原敏雄教授と京都府大学の井上
清名誉教授(日本史)である。両教授とも歴史的古文書にも触れて論争を展開しているので、その論争点にも触れ た。
著者の尖閣列島研究に対して、今は大学を去られた元早稲田大学教授の洞富雄先生(日本史)から、たくさんの資
料をいただき、また古文書の読み方についてもご指導いただいた。厚くお礼を申し上げる。
また、著者のノートブックを整理して、やっかいな編集を全部やってくださった青年出版社の福井肇氏に、心から謝意
を表したい。一九七九年三月
______________________________________________________________________________________________________________________________高橋庄五郎
目 次
まえがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
T 尖閣列島はどうして問題になったのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
(1) 新野論文によって始まった尖閣列島問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
(2) 動きだしたエカフェ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
(3) こっそり調査を始めたアメリカ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
(4) ようやくのりだした日本・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
(5) 大見謝恒寿氏の出願・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
(6) 日・韓・「台」三つどもえの紛争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
(7) どこへゆく中国ぬきの「共同開発」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
(8) 日本共同声明と尖閣列島問題の棚上げ・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
(9) 「日韓大陸棚共同開発協定」と中国の声明・・・・・・・・・・・・・・・・43
U 尖閣列島とは何か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47
(1) 尖閣列島はどこにあるのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47
(2) 尖閣列島名の由来・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
(3) 尖閣列島の島名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51
(4) 尖閣列島の地籍・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60
V 日本国内公文書上の尖閣列島・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
(1) 清国ト関係ナキニシモアラス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
(2) 明治十八年と二十八年との違い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69
W 日本政府の領有権主張・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・75
X 中国の領有権主張・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・94
Y 南方同胞援護会の見解と問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・101
(1) 「尖閣列島と日本の領有権」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・101
(4) いくつかの問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・109
Z 尖閣列島のあれこれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・130
(1) 藤田元春氏の削除・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・130
(2) ??と尖閣列島と沖縄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・132
(3) 清国領になろうとした宮古・八重山群島・・・・・・・・・・・・・・・・・・136
(4) 尖閣列島とサバニ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・141
(5) 尖閣列島の発見者は誰か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・146
(6) 日清戦争とバカ鳥の島・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・148
(7) 尖閣列島の開発・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・161
(8) 閣議決定と勅令第十三号と十四号_
その政治的、経済的、社会的背景・・・・173
(9) 『ひるぎの一葉』より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・182
(10) 下関条約と台湾の受渡し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・184
[ 井上清教授と奥原敏雄教授の古文書をめぐる論争・・・・191
(1) 尖閣列島は台湾の付属島?か無主地か・・・・・・・・・・・・・・・・・191
(2) 『三国通観覧図説』をめぐる論争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・194
(3) 赤尾嶼と久米島のあいだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・200
\ 井上清教授と筆者の見解の相違・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・208
(1) 軍事基地か石油か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・208
(2) 窃取か割譲か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・209
T 尖閣列島はどうして問題になったのか
(1)新野論文によって始まった尖閣列島問題
一九六一年、東海大学の新野弘教授(地質学)の「東中国海および南中国海浅海部の沈積層」という論文が発表さ
れたことに、この問題は始まる。
アメリカの地質学誌に発表された新野教授とウッズホール海洋研究所のエメリー氏のこの論文は世界の地質学者
と国際石油資本(International Majors)の注目するところとなった。というのは、この論文が、その海底に豊富な石油 と天然ガス埋蔵の可能性を指摘するものであったからである。
ところが、わが国では、新野教授が「石油があるぞ!」と大声で叫んではいたが、だれも相手にしなかった。外資の
のりこみで、はじめた足元の海に注目を寄せるスタートの遅れ。あわてた通産省は「まとめて民族資本で開発した い」意欲を尖閣に向けてきた。別名「尖閣公団」といわれる石油開発公団が動きだした(「いんさいど・れぽーと」『週 刊東洋経済』一九七一年七月二十六日号参照)。
(1)Niino,H.,Emery,K.O.”Sendiment of Shallow Portions of East China Sea and South China Sea”Geol.Soc.of Am.
Bull.V72,1961
(2)動きだしたエカフェ
一九六六年、エカフェ(ECAFE、国連アジア・極東経済委員会)はCCOP(アジア沿海鉱物資源共同探査調整委員会)
を設け、アジア東海岸の海底鉱物探査を援助することにした。このCCOPのメンバーは日、韓、「台」、フィリッピンで、 そのご米、英、仏、西独が顧問として参加した。そして、それからのちにタイ、南ベトナム(一九六七年)、カンボジア (一九六九年)、マレーシア、インドネシアが参加した。
(3)こっそり調査を始めたアメリカ
一九六七年六月に、エメリー氏と新野教授は、さらに「東中国海と朝鮮海峡の海底地質層および石油展望(1)」とい
う論文を発表した。
するとアメリカは、この論文にもとづいて、一九六七年から六八年にかけて、こっそり調査にのりだした。この調査
は、アメリカ第七艦隊所属の調査船によっておこなわれた。
(1) Emery,K.O.,Niino,H.”Stratigraphy and Petroleum PXX Prospects of Korrea Strait and the East China Sea”,
Geol,Survey of Korea,Report of Geophysical Exploration,V.1,No.1,1967
(4)ようやくのりだした日本
一九六八年六月に、アメリカはエカフェからの依頼というかたちをとって航空磁気探査をおこなった。その結果、中国
の黄海、南中国海の大陸棚に豊富な石油埋蔵の可能性を確認した。
七月には、日本政府総理府もまた、こっそりと調査団を尖閣列島に派遣した。団長は高岡大輔氏(沖縄問題等懇
談会専門委員)で、使用した船は琉球政府水産研究所所属の図南丸(一五九トン)であった。
九月には、エカフェの斡旋というかたちで米、日、韓、「台」の共同調査をおこなった。この調査には水産大学の海
鷹丸が使用されたが、調査の主役になったのは、アメリカのウッズホール海洋研究所で日本からは石油開発公団の 技術者が参加した。
十月十二日から十一月二十九日のあいだ、アメリカはCCOPの名を使って海軍の海洋調査船ハント号(F.V.Ifunt’
八五○トン)で調査をした。この調査には、日、韓、「台」およびアメリカの科学者が参加した。
(5)大見謝恒寿氏の出願
一九六九年二月二日、三日、沖縄県の大見謝恒寿氏は、尖閣列島周辺海域の石油に対する鉱業権五、二一九件
の出願をした。大見謝氏が琉球政府にだした採掘許可願のコピー一枚をみると、試掘箇所は石垣市魚釣り島北東 方水域六二四万三、七五○平方メートルとなぅっている。海は広くて大きいから法定鉱区面積は、一区画一○○万 坪(三三○万平方メートル)となっている。大見謝氏の申請鉱区は約二倍の広さであった。
大見謝恒寿氏は那覇市牧志町の人で、宝石や貴金属の店を経営している。同氏のいうところによると、一九六一
年ごろから沖縄、宮古、八重山等周辺海域の石油天然ガスについての調査に着手し、一九六六年三月に「八重山 竹富島を中心とする石油、天然ガス鉱床調査報告書」をまとめて、沖縄の三カイリ内の領海に四三○件の石油掘権 出願を、琉球政府に提出している。六九年三月には「先島(尖閣列島を含む)石油調査報告書」をだしたが、これに は尖閣列島周辺海底地質については、ほんの少ししか触れておらず、一九六九年三月にアメリカの『ニューズ・ウィ ーク』誌が、東中国海に一兆ドル以上の油田が眠っていると報じたのと符合していた。さらに、大見謝氏は一九六九 年一二月に「尖閣列島周辺海域大陸棚に於ける石油鉱床説明書」をだしたが、これにはエカフェ調査の資料が使わ れている。
二月十一日、石油開発公団は、沖縄県籍の社員古賢総光氏の名義で、七、六一一件の鉱業権を琉球政府に出
願した。つづいて、やはり沖縄の新里景一氏が一万一、七二六件の鉱業権を出願した。新里氏の出願は、大見謝氏 の採掘許可願の不備をついたもので、申請鉱区は大見謝氏のそれと重複していた。
四月には、この海域について、アメリカが、ハント号の調査結果を「慎重に期するように」とのアメリカ海軍当局の注
意書をつけてバンコクで発表した。調査報告書の概要はつぎのとおりである。
(A)調査海域=アメリカならテキサス、オクラホマ、ニューメキシコ州を併せたものが、アジアならばベトナム、ラオス、
カンボジア、タイ国を併せた広さに相当する。
(B)船跡=一万二、○○○キロメートル。
(C)調査結果=この海底には、ほとんど平行して発達した一連の海底隆起地形があって、それぞれが、広大な中国
大陸から長江(揚子江)、黄河等の流れによって運ばれてきた堆積物にとって、堰堤の役割を演じて堆積がおこなわ れたようである。最北の隆起は山東半島に沿っており、黄河によって運ばれたものは、この隆起部で捕捉されて堆 積がおこなわれた。つぎの隆起は黄海を通過する地塊で、この地塊によって二○○万立方キロメートルの堆積が捕 捉された。また台湾と日本を結ぶ大陸棚の縁辺に沿う隆起が、長江の流れによって運ばれてきた堆積物を捕捉して いる。東中国海の大陸棚下底と黄海下にある堆積物には、石油と天然ガスが保留されている可能性が大きい。台 湾省の広さに数倍する広い地域が、台湾省の北方に広がり、そこでの堆積層の厚さは、二、○○○メートル以上に 達している。あるいは九、○○○メートルの厚さに達するかもしれない。黄海海底の堆積層の厚さは二、○○○メート ル以内であるが、東中国海のそれより多くの有機物を含んでいる。台湾と日本とのあいだに横たわる浅海底は、将 来一つの世界的な産油地域になるであろうと期待される。しかし改めて詳細な地震探査が必要である(『朝日アジア レビュー』一九七二年第二号参照)。
一九五五年七月三十日に中国の人民代表大会で採択された「黄河の水害を根絶し、黄河の水利を開発する計画に
ついて」によると、黄河が毎年?県を経て下流と河口に流している土砂の平均は、一三億八、○○○万トン、体積九 億二、○○○万立方メートルとなっている。ホールマン(J.N.Holeman)は、黄河の毎年排出する沈積物は二○億八、 ○○○万トンで世界第一位、長江は五億五、○○○万トンで世界第四位となっている。
『人民中国』誌一九七八年九月号三七頁によれば、?県水文観測所の測定では、そこを通って下流に流される泥砂
は毎年平均一二億八、○○○万トン(現在の即定数では一六億トン)となっているが、一二億八、○○○万トンはお そらく一三億八、○○○万トンの誤りであろう。そして尖閣列島周辺海底の石油埋蔵量については八○○億バーレ ル(一バーレルは約一五九リットル)と推定された。まさに兆ドル級の大油田である。
五月、石垣市は行政区域を明確にする必要があるとして尖閣列島に標準を建てた。
一八九五(明治二十八)年一月十四日の閣議で九場島(中国名、黄尾?)と釣
魚島)に標杭を建ててもよいと決定し、沖縄県知事に通知されたが、これは日本の主権下では実行されず、標杭県
立は、七四年後にアメリカの施政権下で、しかも石垣市長の命令ではじめて実行された。一九六九年五月十五日付 で石垣市長に提出された『尖閣群島標柱建立報告書』によれば、建立責任者の石垣市議会議員新垣仙永氏は、出 発にさいして、(尖閣群島)は交通の便がないため、普通の人びとが行くことのできない、彼方の夢の島であり無人 島であると職員、船員に語っている。
六月から七月にかけて、日本政府総理府は、「尖閣列島周辺海域の海底地質に関する学術調査」をおこなった。
予算九四三万五、○○○円、団長は新野弘当会大学教授。「学術調査」と称したが、これは石油を探るための海底 地質調査であり、八月二十八日に報告書がだされた。
この年の春から一九七○年二月までのあいだに、韓国は三八度線以南の周辺海域を六つの鉱区に分けて、第
一、第五鉱区権をカルテックス、第二、第四鉱区権をガルフ、第三、第六鉱区権はロイヤル・ダッチ・シェルにもあた えた。その海域は黄海、東中国海の大陸棚で、中国と協議せずに区分を決めてはならないところである。しかも朝鮮 からの堆積は発達していない。韓国は日本に対しては、大陸棚は陸地領土の自然延長と主張したが、中国との関 係では中間線をとって自然の大陸棚としている。
(6)日・韓・「台」三つどもえの紛争
一九七○年三月二十九日から四月十日まで、琉球大学尖閣列島学術調査団(池原貞雄団長)が魚釣島(中国名、
釣魚島)、黄尾嶼(沖縄でいう九場島)、南小島、北小島の島自体の地質、植物、鳥類の調査をした(『沖縄タイム ス』一九七二年二月二十九日号)。
六月に総理府は第二次調査「尖閣列島海底地質調査」をおこなった。予算は三、一二七万八、○○○円で、団長
は東海大学教授星野通平氏であった。その報告書は七月十七日に総理府長官に提出された。第一次、第二次調 査とも調査船は東海大学丸二世を使った。沖縄県民は尖閣の海底地質調査に、本土政府の予算がついたと喜ん だ。一方、アメリカのガルフ社も調査をすすめていた。
おなじ六月に、韓国はアメリカのウェルデン・フィリップ氏に開発権をあたえる契約をした。ここに日・韓大陸棚紛争
が起こった。韓国が新たに設定した第七鉱区は、日本石油開発(株)(三菱グループとシェル石油の共同出資会社) が通産省に申請していた鉱区と重複することになったからである。
この日・韓大陸棚紛争は、大陸棚主権をめぐっての自然延長論と等距離中間線論との争いであった。日本政府は
国際的にもごく少数派の一律距離中間線論を主張し、韓国側は済州島からの海底傾斜はゆるやかだが、日本の男 女群島からは急傾斜しており、陸地の自然の延長である大陸棚は、日本側からは発達していないと主張した。日本 側は大陸棚の境界を決めるのに、中間線は慣習国際法だと主張したが、境界線画定の規定は慣習国際法ではな く、関係国が協議して決めなければならないのである。
国連海洋法会議は、一九五八年四月二十六日に「大陸棚に関する条約」を賛成五七、反対三(日本、西独、ベル
ギー)、棄権八で採択した。日本がこの条約に反対したのは、この条約に大陸棚に属する天然資源として8「定着種 族に属する生物」という定義が含まれており、タラバガニの漁獲に影響するからであった。ところが東中国海に石油 があるとなると日本は、大陸棚条約の大陸棚境界線画定は慣習国際法だと主張した。大陸棚条約では、関係国が 協議し合意によって決定する。合意がない場合には、特別の事情により他の境界線が正当と認められない場合に、 中間線といっているのである。日本政府は、タラバガニでは大陸棚条約に反対し、石油では大陸棚条約に賛成する という首尾一貫した態度をとっている。
七月七日から十六日にかけて、米陸軍省琉球列島米国民政府民政官室の勧告で、尖閣列島に警告板を設置し
た。魚釣島に二本、南小島に一本、北小島に一本、黄尾嶼に二本、赤尾嶼に一本。警告板は英語、中国語、日本 語で書かれた。
警告板の中国文と日本文はつぎのとおりである。
この警告板が建てられたのは、一九六八年六月頃から台湾省のサルベージ会社が南小島で、クレーンを二基ももち
こんで、四五人の作業員に沈没船解体をやらせていたためである。八月十二日に八重山警察と米国民政府渉外局 次長らが現地に調査に行ってこれを確認した。久場島(黄尾?)でも一四人の台湾省の労働者が、沈没船解体をや っているのを琉球政府出入管理庁の係官が確認している。七月七日、「第一五回日華協力委員会総会」の政治部 会は「日・韓・台」の連絡委員会を創立することで合意に達した。七月末、「台」は東中国海の大陸棚の鉱区権を、ガ ルフ石油会社(アメリカ)の日本法人であるパシフィック・ガルフ社にあたえたため日・「台」紛争が始まった。ガルフ社 は十二月から探査開始の予定だった。
八月一日、愛知外相は参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会で、尖閣列島はわが国南西諸島の一部で
あり「台」とガルフ社との契約は無効と言明した。
おなじ八月、石垣市に「尖閣列島の石油を守る会」が発足し、「世界的な沖縄油田を守ろう」と訴えた。この沖縄油
田というのは、いわゆる尖閣油田のことである。会長は桃原用永石垣市長で、この運動はたちまち全県にひろがっ た。
「尖閣列島の石油を守る会」の訴えの要旨はつぎのとおりである。
@米海軍および国連のエカフェの調査で、ペルシャ湾にも匹敵する大油田が沖縄の尖閣列島周辺で発見され、世界
の注目をひいている。
Aこの大油田めがけて、巨大な国際資本が開発にのりだそうとしており、日本の石油開発公団は鉱業権を確保して
開発しようとしている。
B沖縄県民の権利が、世界的巨大な資本に侵犯されようとしていることは由々しい、問題である。経済的価値がなく
自立などの問題にならないとされていた、その沖縄の海底にある資源が、持ち去られようとしている。
C尖閣列島油田開発のため、百万人県民に代わって、その鉱業権を守るために、大見謝?寿氏は、一九年間も苦
闘をつづけてきた。ところが本土の日本石油開発公団は「挙国一致の体制」で、新たな立法措置を講じてでも、地元 沖縄から尖閣油田の鉱業権を奪取するようになった。
D復帰を前提とした本土のこのような不当な圧力に抗して、地元尖閣石油資源の死守と沖縄サイドによる開発のた
めに、県民自身が、今こそ自らの権利を守るために起ちあがらなければならない。尖閣油田とその開発の県民の権 利を守り、自立と自治と繁栄の沖縄の新しい時代をつくる県民運動を起こそう。
八月十七日、日本政府は沖縄に対する潜在主権者として三つの方針を固めた。根拠をあげて領有権の主張をした
わけではない。
@流球の米民政府を通じて、尖閣列島が現在米民政府の統治下にあり、沖縄とともに日本に返還されることを再確
認する。
A琉球政府に対し、尖閣列島の領有権を表明するよう要請する。
B現在、琉球制府に対し、鉱区権を申請している石油開発株式会社に、早急に調査権を認めるよう働きかける。
八月十八日、琉球政府屋良主席は記者会見で、「尖閣列島は石垣市に属する日本領であり、これを内外に明らかに
するため、早急に琉球成否の公式見解をまとめたい」と語った。
八月三十一日琉球政府立法院は「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」(決議第十二号)を可決。また同日「尖
閣列島の領土防衛に関する決議」(決議第十三号)を採択。
九月二日、「台湾」の水産試験所所属の海憲号が、魚釣島に「青天白日旗」を立てた。慌てた琉球政府は、米民政
府の指示をとりつけ、琉球警察がこれを撤去した。
九月十日、衆議院外務委員会での愛知外相の答弁。
「尖閣列島の領有権につきましては、いかなる政府とも交渉とか何かとか持つべき筋合いのものではない、領土権と
しては、これは明確に領土権を日本側が持っている、こういう立場をとっておる次第でございます」
九月十二日、沖縄及び北方問題に関する特別委員会での愛知外相の答弁。
「尖閣列島の主権の存在については、政府としては一点の疑いも入れない問題であり、したがって、またいかなる国
との間にもこの件について折衝をするとか話し合いをするとかいう筋合いの問題ではない」
九月十七日、琉球政府は「尖閣列島の領土問題について」という声明を発表した。それは、尖閣列島は、国際法で
いう「無主地の先占」によって日本領になったという主張にもとづいていた。これは南方同胞後援会がつくった尖閣列 島研究会の「尖閣列島と日本の領有権」および国士舘大学の奥原繁雄教授の主張とおなじものである。
九月十八日、「沖縄県尖閣列島の石油資源等開発促進協議会」の結成大会が、四六団体が中心になり、那覇市の
婦連会館で開かれた。会長は沖縄市長会会長平良良松氏であった。
十月十三日、朝鮮民主主義人民共和国は、朝鮮の大陸棚発見について、朴政権と米日独占資本を非難した。
十一月四日、日韓大陸棚境界線についての交渉がソウルで始まった。
十一月十二日、「日・韓・台三国連絡委員会」がソウルで開かれた。尖閣列島の領有権と大陸棚主権をめぐって日・
「台」間に、大陸棚主権をめぐって日・韓のあいだに紛争があり、それぞれ設定した鉱区が重複しているので、矢次 一夫氏は大陸棚を相互に開放して東中国の石油開発をやろうと呼びかけ、これに応じて「三国委員会」が開かれ た。十四日には原則的に合意に達したと発表された。「三国委員会」の下部機構である海洋開発特別委員会も十二 月下旬に東京で会議を開いて、具体的にそのすすめ方を決めることとした。日本の財界首脳は「三国出資」による 「海洋開発会社」を、年内に設立することで合意に達したことを明らかにした。
十一月二十二に日、琉球政府と石油資源開発株式会社は、尖閣列島周辺の海底石油開発のため、「沖縄石油開
発」(仮称)を設立することでごういしたと発表した。
十二月二日、新聞報道によれば日本石油開発鰍ヘ、男女群島沖の東中国海にひろがる海底石油資源を、アメリカ
のテキサコ、シェブロン両社と共同開発することでこのほど同意し。年内に契約のうえ、ただちに探鉱に着手すること になった。日本石油開発五〇%、シェブロン・オイル・ジャパン二五%、テキサコ・ジャパン二五%の比率で、資金負 担ならびに利益配分をおこなう。探鉱、試堀費三六億円はアメリカの二社が負担し、日本石油開発は鉱区を提供す る。
十二月三日、中国は新華社の報道を通じて、「共同開発は日本の海賊行為であり、また米日は中国の広大な大陸
棚で、船による大規模な海底資源調査や空中からの調査もやり、わが国の上空と海上で長時間調査を繰り返してい る。かれらの調査範囲はわが国の周りの黄海、東海、台湾海峡、南海などの海域にわたっており、今もなお続けら れている。これは中国の海底資源を略奪するものであり、新たな中国侵略行為だ」(要旨)と非難し、台湾省にふぞく する魚釣島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島は中国の領土だと言明した。十二月四日、外務省は、尖閣列島周辺 の大陸棚の帰属をめぐって「台湾」とのあいだでおこなわれている交渉には、「双方とも問題の海域での開発や探査 は、話し合いがつくまで見合わせる」方針を明らかにした。
十二月四日、『人民日報』は、北京化工第三工場の労働者評論組の書いた「米日反動派は侵略の手を引込めねば
ならない」と題する一文を掲載した。「台湾省とその付属島嶼の周辺の海域およびその近隣の中国の大陸棚の海底 資源は、完全に中国の所有に属するものであり、この石油資源を強奪することは、中国の主権侵犯である」というも のであった。
十二月四日、閣議会後の記者会見で、愛知外相は、尖閣列島は沖縄の一部であり、日本領土の一部であることは
明白であり、どこの国とも話し合う筋のものではないと考える、と語った。また保利官房長官は「沖縄が返還されれ ば、当然日本のもので、疑問の余地はない」と語った。
中国が尖閣列島の領有主張と同時に、わが国などによる東シナ海の大陸棚開発を非難したことは、いまでさえ日・
韓・「台」が三つどもえの紛争を続けているこの海域“油田探し”競争に大きな影を投げかけている。中国をなかば無 視したかたちでの大陸棚開発に「いずれは中国が口を出してくるだろう」と「覚悟していた」せいか、当事者の石油開 発業者は「予想どおりの働きで、開発計画に影響はない」(帝国石油)と表面は落ち着いている。しかし中国が本腰を 入れて東シナ海での「権利」を主張し、具体的な行動にでてくるならば、日・韓・「台」それぞれの開発計画は土台か ら崩れるのは目に見えており、その意味でこの中国の物言いは、ブーム東シナ海石油開発に、心理的ブレーキをか けるのは確実である。
日・「台」共同事業として?湖島を含む台湾海峡一帯を開発する計画は大きなショックを受けた。東シナ海の石油の
「共同開発」に対する中国の反応は明確になったわけで、共同事業を強行すれば、中国が軍事力を行使する事態も 考えられるとあっては、日本側当事者もニの足を踏むことになりそうだ。
「共同開発」は、「中国をなかば無視した」のではなく、公然と全く無視したのである。
国連の大陸棚に関する条約第二条によれば@沿岸国は、大陸棚に対し、およびその天然資源を開発するための主
権的権利を行使する。A前項にいう権利は、沿岸国がその大陸棚を探索していないか、またその天然資源を開発し ていない場合にも、他のいかなる国も、その沿岸国の明示な同意なしにはこれらの活動をおこない、またその大陸棚 に対して権利を主張することができない、という意見で排他的である、としている。
また一九六九年二月二十日の北海大陸棚事件の国際司法裁判所の判決は、あらゆる場合に義務的な境界線策定
の唯一の方法はない(筆者注 境界線画定は習慣国際法ではない)とし、各当事国がその陸地の海底に向かっての 自然の延長をなす大陸棚を、同様に他の国のそれを侵害することなく、できるだけ多く確保しうるよう、すべての関連 ある事情を考慮に入れて、合意によって決定されるべきである、としている。そして、その交渉にあたって考慮に入れ るべき要素としては、@当事国の沿岸の一般的な地形および特別あるいは異常な形態の存在、Aすでに知られて いるかあるいは十分に予測される限りは、当該大陸棚の物理的、地質学的形状および天然資源、B公平の原則にし たがっておこなわれる境界確定が、沿岸国に属する大陸棚地域のひろがりと沿岸線の一般方向ではかられる沿岸 の長さのあいだにもたらすべき合理的なつりあい、この三つをふくむものと裁判所は判示している(小田滋著『海の国 際法』有斐閣、下巻二〇六―一三、一四項)。
国際司法裁判所は、大陸棚が沿岸国に従属する根拠を、大陸棚と陸地の地質学的一体性に求め、大陸棚に対する
沿岸国の権利は、陸地領土に対する主権にもとづいているとした。この判決は中間線原則に対決するものとなった。 これからすれば、中国の存在を無視することはできない。
わが国にはまた、二〇〇カイリ経済水域制度は世界のすう勢であり、中国に対して一方的に宣言すれば、その水域
の魚と海底鉱物資源は、排他的に日本のものになると主張する人たちがいる。そうすれば「日韓大陸棚共同開発」 区域は、日本の経済水域のなかに含まれてしまうから、日韓協定は「国を売るに等しい暴挙だ」というのである。
なるほど、ラテン・アメリカ諸国は大陸の横暴に反対して、二〇〇カイリ領域を宣言してアメリカの漁船を撃退した。と
ころがこんどは、アメリカやソ連のような大国が、二〇〇カイリ経済水域を宣言し、また、いくつかの国も自国の利益を 守るために同様の宣言をした。そして、これまでの世界中の魚を獲りまくってきた日本の漁船は、あちこちで締出され た。
東中国海の分割については、日本が一方的に二〇〇カイリ経済水域宣言をしても、それは決してすんなりと通るも
のではない。むずかいしい問題をひき起こすだけである。まず大陸棚問題については、中国の自然延長論と対決し なでればならないし、日中漁業協定の区域は、ほとんど日本の二〇〇カイリの外にあり魚を獲れなくなる。
第三次国連海洋法会議の大きな問題は、二〇〇カイリ経済水域をめぐって、沿岸国と内陸国および地理的不利益
国との対立、深海海底資源(マンガン団塊=ニッケル、コバルト、銅、鉄などが含まれている)採取をめぐっての対立 があり、また大陸棚問題では大陸棚の外縁をどうするかがまだ決まっていないのである。かつて糸川英夫氏は、太 平洋の真んなかに境界線をひいて、マンガン団塊などの鉱物資源を、日・米で分けあうことをワシントンで提案したこ とがあった。しかし、太平洋の沿岸国は日本とアメリカだけではなく、深海海底開発問題は、第三次海洋法会議の重 要な課題であり、意見が対立しているものである。
パーク(Choon―ho park)は「中・日・韓の海洋資源論争と二〇〇カイリ経済水域の仮説」(一九七五年)のなかで、
「国際司法裁判所の判決(自然延長論)によって中間線原則の土台が侵食された」といい、「ついで、この自然延長論 も、今度は経済水域制度の前に同じ運命にある。そして中間線の原則は、二〇〇カイリ経済水域案に容易に組み入 れられる唯一の選択であるので、この原則が再び採用される可能性がもたらされるであろう」と述べている。経団連 海洋開発懇談会もまた、大陸棚は経済水域制度に包含させ律せられるべきものとの立場をとっている。だが、パーク の仮説は中国が二〇〇カイリ経済水域制度を採用しない限り現実のものとはなりえない。
一二月六日から十五日まで、九州大学と長崎大学の探検隊の合同学術調査が、尖閣列島の地質、生物調査をし
た。隊長は松本長崎大学教授。魚釣島をベースキャンプにして尖閣列島の主な島そのものの調査をした。このような 本格的調査は初めてのことであった。
一二月二十一日、東京で、「日・韓・台三国委員会」の「海洋開発研究連合委員会」は会議を開き、領土の領有問
題、大陸棚主権問題を棚上げにして、共同で東中国海の石油資源を開発することを決めた。
一二月二十二日、新華社は、「二十一に東京で、いわゆる日・蒋・朴『連合委員会』の『海洋開発研究連合委員会』
を開き、米帝国主義とぐるになって、中国と朝鮮の大陸棚の石油資源とその他の鉱物資源を略奪することを公然と決 定した」と非難する報道をした。
十二月二十九日、『人民日報』は「米日反動の中国海底資源略奪は絶対に許さない」という評論員の論説を揚げ
た。要旨はつぎのとりである。
@日・蒋・朴「連合委員会」の「海洋開発研究連合委員会」は、わが国台湾省とその付属島嶼海域およびわが国、朝
鮮に近い浅海海域の海底資源とその他の鉱物資源にたいし、「調査、研究、開発」をおこなうことを公然と決め、わが 国の海底資源を略奪しようといており、これはわが国と朝鮮民主主義人民共和国に対する露骨な侵犯だ。
A釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの島¥は台湾と同様、大昔から中国の神聖な領土である。
ところが日本は、わが国の海底資源を計画的に略奪しようとしているばかりでなくでなく、魚釣島などの中国に属す
る一部の島¥や海域を、日本の版図に組み入れようとしている。
B日・蒋・朴「連合委員会」の「海洋開発研究連合委員会」は、わが国台湾省とその付属島¥海域およびわが国、朝
鮮に近い浅海海域の海底資源を略奪しようとしており、これはわが国と朝鮮民主主義人民共和国に対する露骨な侵 犯だ。
Cわが国の領土と主権を侵犯し、わが国の海洋資源を略奪する罪悪行為を即時停止し、侵略の手をひっこめなけれ
ばならない。
(1)有名な鉱区ブローカーである。氏は通産省に、日本の石油開発会社との共同開発を申し入れたが拒否された。
(2)一九七〇年八月号『別冊週刊読売』の「特集海洋開発──海底はだれのものか」は、「問題なのは、この大陸棚
資源のうちどこまでが日本ものかということである。東中国海大陸棚は、中国大陸が伸びている大陸棚で、琉球列島 との間には深いミゾがあって(筆者注 沖縄舟状海盆)そこで切れている。尖閣列島や男女群島は、その大陸棚の 先端にある。距離からいえば日本(琉球列島)に近いが、中国大陸から伸びた大陸棚だけに、日本に所有権がある かむずかしい。中国が黙っているのが不気味である」と書いている。
(3)中国の国営通信社新華社の報道は、国際的に権威を認められている。現在日中貿易でもちいられている決済通
貨の中国の交換レートは、新華社報道を公式なものとしており、中国銀行から日本の各銀行に連絡するということは ない。
7 どこへゆく中国ぬきの「共同開発」
一九七一年一月八日付け『日本経済新聞』の報道は、要旨つぎのように述べている。
石油業界が一日明らかにしたところによると、「台」はこのほど米国ガルフ・オイル社の日本法人であるパシッフィッ
ク・ガルフ社に対し、沖縄の尖閣列島周辺海域を含む東シナ海の大陸棚について石油鉱区権をあたえた。石油資源 開発鰍燉ョ球政府に鉱区権申請をしているため、領有権をめぐる争いが避けられない情勢となってきた。ガルフは東 シナ海に地質調査船を派遣してきており、近く石油開発にとりかかるものとみられている。大陸棚の領有権につい て、一九五八年四月二十九日にジュネーブで調印された「大陸棚に関する条約」に二本は加わっていないが、「中間 線」説は、条約に加盟していなくとも有効なのが国際的常識であるというのが日本のいいぶんである。
一月二十五日、日中国交回復促進議員連盟(藤山愛一郎会長)は衆議院第一議員会館で、同年初の常任理事
会を開き、尖閣列島の海底資源を日・韓・「台」で「共同開発」をすることは好ましくないので、議員連盟の名で政府に 申し入れるべきだとの意見が出され、藤山会長は政府に申し入れることにした。
一月二十六日、参議院本会議において佐藤首相は、「尖閣列島がわが国の領土であることは、全く議論の余地の
ない事実で、現在、平和条約第三条に基づき、米国の施政権野本に置かれている地域であります。政府としては、 尖閣列島の帰属問題に関しては、当面いかなる国の政府とも交渉することは考えておりません」と答弁した。
三月一日、日中覚書貿易の会談コミュニケと新貿易取決めが北京で調印された。このコミュニケで、中国側は「日
蒋朴連合委員会」が中国に近い浅海海域の資源を「共同開発」することを決めたが、これは中国の主権に対するあ からさまな侵犯であり、容認できないものであると強調し、日本側は、中国の厳正な態度を理解するとともに、いわゆ る「日・韓・台委員会」は日米共同声明の路線にそって結成した反動的組織であることを認めた。この「連合委員会」 が中国に近い浅海海域の資源の開発を決定したことは、中国の主権に対する侵犯である。日本側はこれらすべての 反動的な活動に対し、断固反対することを表明した。
このコミュニケに調印した岡崎嘉平太氏は、雑誌『世界』一九七一年五月号に「障害と展望と確実――日中覚書交
渉を終えて」という一文を載せているが、そのなかで岡崎氏はこう書いている。「中国に近い浅海海域の資源開発の 問題は、わが国の一部では尖閣諸島海域に関することだと早飲み込みして、われわれのとった態度を非難する向き もあったようだが、われわれも中国側の問題提起が直接尖閣諸島海域に関するものであった場合には、意見対立の ままにする外ないと決めていたのである。ところが中国側の提議には一度も尖閣諸島に触れたことはなく、終始中国 に近い浅海海域という表現であった。換言すれば中国の大陸棚といえる」。
また、このコミュニケに調印した松本俊一氏も「浅海海域の共同開発問題は、中国の主権が侵犯されていることを
非難したもので、会談中もコミュニケの中にも尖閣列島の領土権にふれた個所はない」(『朝日新聞』一九七一年三 月三日号)と語った。
中国は日本の民間人に、領土問題というやっかいな問題をだすことを避けた。
三月二日、日本国際貿易促進協会は、中国側は、尖閣列島など中国近海の大陸棚における「三国共同開発」を中
国の主権に対する新たな侵害として、これに酸化する日本企業に対して、きびしい姿勢で臨む方針をうちだそうとし ていることを明らかにした。
三月五日、佐藤首相は参議院予算委員会で、「沖縄尖閣列島の石油資源を長らしくねむらせておくのはまずい」と述
べ、早期開発を示唆した。
三月六日、参議院予算委員会で、沖縄選出の稲峰一郎議員(自民)が、日中覚書貿易会談コミュケによる「日・韓・
台共同開発」について愛知外相に質問したが、愛知外相は、尖閣列島は日本の領土であり、国際通念からみて、動 列島の開発は一国だけでやるべきでなく、友好国に共同開発の相談をもちかけているとし、中国の批判を「一方的な 権利主義」と非難した。
三月六日、藤山愛一郎氏覚書貿易交渉団とともに中国より帰国し、羽田空港の記者会見で、日中国交回復の基本
方向について、台湾は中国の領土であり、一つの中国を代表するのが中華人民共和国政府であることを、まず理解 ることが根本だと語った 。
三月八日、参議院予算委員会で愛知外相は、中国のいう「三国委員会」に政府は何ら関与していないと答弁。
三月十一日、政府筋は、政府、石油開発業界が、台湾海峡の石油資源開発をすすめてきたが、台湾海峡における
日・「台」共同開発を当分見合わせる方針を固め、事実上開発を断念した。
四月四日、外務省は、尖閣列島は沖縄返還協定のなか「変換区域内」に含めることで、日米間の合意が成立したこ
とを明らかにした。変換区域を線引きして、尖閣列島の名を表面にださない方針を日本側は支持し、アメリカ側も異論 を示していないという。
四月九日、米国務省は「尖閣諸島の施政権は一九七二年に沖縄とともに日本に返還されるだろう」と言明した。また
「領有権をめぐる紛争については、当事者間の話し合いによるか、あるいは当事者間が希望するなら、第三者によっ て解決するのが望ましい、というのが米国の立場である」との見解を表明した。
四月九日、米国務省は中国の正式の申し入れを受けて、中国の黄海、東中国海での海底石油探査活動を中止す
るよう、アメリカ系石油開発会社に要請したことを正式に表明した。尖閣列島付近で調査中のガルフ・オイル社の調 査船ガルフ・レックス号は、佐世保に引き揚げることにした。
四月九日、政府は、尖閣列島周辺の石油開発を、沖縄返還まで凍結することにした。
四月十日、北京放送は、同日の新華社報道として「日本軍国主義者は、米帝国主義の支持のもとに、中国台湾省
付近の島を軍事占領して、中国の領土侵犯をする準備を開始している。日本の新聞が五日伝えることによると、米日 反動派は、沖縄 “反還”のペテンをもてあそぶなかで、釣魚島などを返還区域の中にいれ、このペテンが実現したの ち、日本反動当局は、釣魚島を日本の空軍管区に入れようとしている」と非難した。
四月十日、ワシントンで二、五〇〇人の中国系アメリカ人による、日本の尖閣列島領有権主張に反対するデモが
おこなわれた。彼らは、釣魚島はわれわれのものだ、釣魚島を守れ、日本軍国主義を打倒せよと叫んだ。このデモ 隊は日本大使館などにおしかけた。
また同日、ロス・アンゼルスの日本領事館に二〇〇人の中国系アメリカ人が押しかけた。
四月十九日、『東京新聞』の報道によると、政府は、三、八〇〇万円の予算で魚釣島無人気象観測所を設けて「無
言の領有宣言」をすることを、当分見送ることにした。
四月二十三日、日本石油開発鰍ヘ東中国海の石油開発を、当分見合わせると発表した。これは米国務省がアメリ
カ系企業に対し、「黄海および東中国海における採鉱活動の中止」を申し入れたのに呼応したもので、通産、外務省 もこれを支持した。
5月一日、『人民日報』は「中国の領土主権の侵犯を許さない」と題する評論員の論文を発表し、「わが国の台湾省
の東北海域にある釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの島じまは、台湾と同様に、昔から中国の神聖な 領土で、その帰属については論争の余地がない」と領有権を主張し、甲午戦争(筆者注 日清戦争)のあと「一国が 他国から一時的に切り取った領土を、勝手に一方的に不法に自分のもとからの版図に組み入れることが許されるだ ろうか」、「日本がどんなへりくつをこねても、また虚偽を弄しても、中国の領土を日本領にかえることはできない」とき びしく抗議した。
五月十六日、新華社報道によれば、日本の共同通信は十一日つぎのように報じた。「沖縄本島西部の尖閣列島
(即ち釣魚島などの島々)に在沖縄米海軍の射爆場が二ヶ所あることが、このほど明らかになった」、「尖閣列島に在 沖縄米海軍の空対地射爆場があることを明記しているのは、米第二九工兵大隊が昨年一月に作成した『琉球諸島 における米国設備および施設』と題する六色彫りの地図である」。佐藤政府はこの「新発見」に有頂天になっている。 「さらに有力な裏付けが出できた」としている。日本政府がアメリカ軍の軍用地図に、その「有力な裏付け」なるものを 求めるにいたったということは、日本政府の領有主権の根拠のなさを証明するだけである。
五月二十七日、総理府は六月一日から「沖縄周辺大陸棚石油・天然ガス資源基礎調査」をおこなうことにした。尖
閣列島周辺という名称は避けて沖縄周辺とした。団長は東海大学星野通平教授で、使用調査船は東海大学丸二世 であった。尖閣列島の領有権をめぐって国際紛争のあるときに、あえて政府が地質調査に踏み切ったのは、公海上 の「学術調査」であれば国際的な習慣から問題ないし、この調査は石油開発会社がおこなうような地質調査ではな く、尖閣列島には上陸させないから問題はないとした。
五月三十一日、政府は六月一日からおこなう予定であった尖閣列島周辺の海底地質調査を、沖縄返還協定調印
まで延期することを決めた。
六月三日、韓国商工部関係者は、先にアメリカ政府の要請で一時中断していた韓国西南部海域大陸棚(東中国
海)の石油資源調査を、アメリカ政府の関係のないオランダ、西独などの探査船をチャーターして、再開することを明 らかにした。
六月九日、『日刊工業新聞』の報道によると、日本石油開発鰍ヘ、六月三日韓国商工部が明らかにした事態に対
処するために、アメリカのマンドレル社(物理炭鉱専門会社)から西独など第三国の炭鉱会社に切り替えることを明ら かにした。
六月十七日、沖縄返還協定(琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定)が、東京と
ワシントンで同時に調印された。
同日、米国務省は、沖縄返還とともに尖閣列島に対する施政権は日本に返還するが、主権と施政権は別で、こん
ど日本に返還するのは施政権だけで、主権をめぐる問題には、アメリカはいっさい関与しないという立場一層明確に した。
六月二十日、『人民日報』は沖縄返還協定は論評したが、協定のなかで「中国の領土釣魚島などの島々」を返還
の範囲に入れていることに抗議し、「中国の主権を侵犯する行為を、中国の政府と人民は決して許さない」と警告し た。
六月二十七日、『人民日報』は、沖縄返還協定によって、日本航空自衛隊の沖縄を中心とする防空範囲の拡大
は、中華人民に対する重大な挑戦であるという新華社電を掲載し、中国領である釣魚島を日本の防衛範囲に入れ、 台湾省と舟山列島上空に接近する防空識別計画をたてていることに警告した。
六月から七月にかけて、政府は東海大学に委託して「沖縄周辺大陸棚石油・天然ガス資源基礎調査」という「第三
次尖閣列島周辺海域地質調査」をおこなった。そしてこの報告は一九七二年二月に政府に提出された。この調査に 当たって外務省は、尖閣列島二〇〇キロメートル以内に立ち入らないよう要望。政府は学術調査と称したが、報告 書は沖縄舟状海盆(通称琉球海盆)北西部には厚い?積があり、石油、天然ガスの有望な鉱床になっていると指摘 しており、これはまぎれもなく東中国海での石油探しであった。
七月十五日、ニクソン大統領は来年五月までのあいだに中国を訪問すると発表した。
七月二十日、米上院外交委員会は、全会一致で「台湾決議」破棄を採択した。この「台湾決議」は一九五五年一
月に米会議が採択したもので、台湾および?湖島地域を防衛するため、必要な軍事力を使う権限を大統領にあたえ たものだった。
十月二十六日、国連総会は「国連における中華人民共和国政府の合法的権利を回復し、蒋介石一派を追放する」
二三カ国決議案を七六対三五で可決した。
十一月二日米上院外交委員会は、沖縄返還協定を全会一致で承認したが、この協定は尖閣列島の帰属問題に
は無関係との立場を明らかにした。
十一月五日、エカフェは、十二日からバンコクで開かれる貿易拡大委員会に出席するよう、中国に招請電を打った
ことを明らかにした。
十一月九日、福田外相、西村防衛庁長官は、九日の参議院予算委員会で、沖縄の復帰後、尖閣列島はわが国
の領土であることははっきりしているので、わが国は防空識別圏に入れると言明した。また佐藤首相は「尖閣列島の 領土がわが国にあることについては、与野党一致で当たることにしたいと」と述べた。
十一月十日、米上院は本会議で沖縄返還協定を承認した。
十一月十一日、中国の主席国連代表一行がケネディ空港に到着した。
十一月十二日、衆議院議員楢崎弥乃助氏が政府に質問していた、日本政府の尖閣列島領有権主張の根拠につ
いて、政府は「答弁書」を提出した。
十一月二十三日、飛鳥田一雄横浜市長を団長とする日中国交回復国民会議の訪中団が帰国。記者会見で飛鳥
田氏は、「日台条約」を破棄し、台湾の帰属未定論や台湾独立運動に反対する具体的行動を起こさなければならな いと、日中国交回復運動のあり方を指摘し、尖閣列島問題は、日中政府間交渉がおこなわれる場合には、この間題 は避けて通れないとの印象を受けたと語った。
十一月二十四日、衆議院本会議で沖縄返還協定の承認確定。
十一月三十日、米、中両国政府は、ニクソン大統領の訪中は、来年二月二十一日から開始されると発表。ホワイ
ト・ハウスはニクソン大統領の訪中日程は、二月二十一日から二十八日までの一週間と発表した。
十二月二日、太平正芳氏は政党政治研究会で、「日中間の戦争状態は、まだ凍結してないという意見が国内にも
国外にもある以上、それを解決するのが政治の責任だ」と公式に発言した。
十二月二十五日、日中覚書貿易共同コミュケが北京で発表された。中国側はこのコミュケのなかで、「台湾はかつ
て五〇年の長きにわたって、日本軍国主義に侵略占領されたが、第二次大戦後、カイロ宣言、ポツダム宣言に基づ いて、既に一九四五年十月二十五日、中国に返還された」と述べている。
十二月二十二日、参議院本会議は沖縄返還協定を承認。
十二月三十日、中華人民共和国外交部は要旨つぎのような声明を発表した。
釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの島嶼は台湾の付属島嶼である。これらの島は台湾と同様、昔か
ら中国の領土の不可分の一部である。日本政府は甲午戦争を通じて、一八九五年四月「台湾とその付属島嶼」およ び?湖列島の割譲という不平等条約――「馬関条約」(筆者注 下関条約)に調印させた。米日両国政府が沖縄「返 還」協定のなかで、魚釣島などの島嶼を「返還区域」に組み入れることは全く不法なものであり、釣魚島などの島嶼 にたいする中華人民共和国の領土の主権を、いささかも変えるものではない。中国はかならず台湾を開放し、釣魚 島など台湾に付属する島嶼を回復する。
(1)西独、デンマーク、オランダが争った北海大陸棚事件において、大陸棚条約に反対で批准していない西独が、等
距離線(隣接する沿岸をもつ国との)は習慣国際法ではないとして、国際司法裁判所に問題をもちこんで勝訴してい る。
8 中共同声明と尖閣列島問題の棚上げ
一九七二年二月二十一日、ニクソン大統領は、北京に到着した。
二月二七日、上海で米中共同声明が発表された。「平和共存」の項で、ニクソン大統領が提案し覇権反対をうたっ
た。台湾問題では、アメリカ側は台湾海峡をはさむ両方のすべての中国人が、中国はひとつであり、台湾は中国の 一部であると主張していることを確認した。アメリカ政府はその立場に意義をとなえるものではない、と述べている。 ニクソン大統領は上海で「この一週間は世界を変えた一週間であった」と語った。
三月三日、国連の海底平和利用委員会で中国の安致遠代表は「海洋権問題にかんする中国の立場」について演
説し、そのなかで「私は中華人民共和国政府を代表して、つぎのことをかさねて言明する――わが国の台湾省およ び釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの島嶼をふくむそのすべての付属島嶼は、中国の神聖な領土であ る。これらの島嶼周辺の海域と中国近隣の浅海海域の海底資源は、すべて完全に中国の所有に属し、いかなる外 国侵略者といえども、これに手をつけることは絶対に許さない」(『北京周報』一九七二年一一号)と強調した。安致遠 代表の演説に対して日本の小木曽大使は、尖閣列島に対しては、日本以外のどの国も領有権を主張することはで きない、と反論した。
三月八日、尖閣列島について外務省は基本見解を発表した。その見解は、「無主地の先占」をしたもので、日清戦
争によって中国から奪ったものではない、したがって領有権は日本にあり、カイロ宣言やポツダム宣言にもとづいて 中国に返還すべきものではない、というものではない。
五月五日、アメリカは沖縄を日本に返還した。
六月十七日、佐藤首相は、引退を表明。
七月五日、田中角栄氏が自民党総裁に選出される。
七月七日、田中内閣発足。
九月二十五日、田中角栄首相北京に到着する。
九月二十九日、覇権反対をうたった日中共同声明が調印され、日中国交回復が実現した。日本の「台湾」との外
交関係が九月二十九日をもって終了し、「日台条約」は失効した。尖閣列島問題は棚上げにした。
九月三十日、太平外相は朝日新聞社江崎論説主幹とのインタービューで、江崎氏が尖閣列島についてはどうかと
ただしたのに対して、太平外相は、「こんどの中国との話し合いは、そういう区々たる問題にはふれずに、あくまで日 中国交回復という荒仕事が中心だった」(「太平外相に聞く」『朝日新聞』一九七二年十月一日号)と語った。
十月一日、田中首相はゴルフ場で記者会見し、日中会談で、田中首相が「尖閣列島の領有問題はっきりさせた
い」ともちだしたが、周総理は「ここで論議するのはやめましょう。地図にものっていないし、石油ができるというので 問題になっているというわけですがね」と正面から議論するのを避けた、と語った。十月五日、六日両日、日・韓両国 の実務者会議は、東中国海に両国が、石油、天然ガス開発のために設定した鉱区が重複して紛争となっていたが、 世界に前例のない大陸棚主権棚上げの共同開発方式で、開発に臨むことを決めた。
この共同開発は、自然延長を主張する韓国と一律中間線を主張する日本との妥協の産物である。この東中国海の
大陸棚は、中国大陸の自然の延長であるから、中国と協議せずに日・韓両国で勝手に決められるものではない。十 一月六日、太平外相は衆議院予算委員会で正木良明議員(公明)が、「日中平和友好条約で領土問題に触れるの か」という尖閣列島問題の質問に対し、「後ろ向きの問題処理は終わった。平和友好条約は前向きに両国の友好関 係を規定する指針であるというところから判断してほしい」と述べて、間接的に尖閣列島問題の「凍結」ないし「棚上 げ」をする方針を示唆した(『読売新聞』一九七二年十一月七日号)。
9 「日韓大陸棚共同開発協定」と中国の声明
一九七四年一月三十日、ソウルで、中国を全く無視して「日韓大陸棚共同開発協定」が調印された。これは正式に
は「日本国と大韓民国との間の両国に隣接する大陸棚の南部の共同開発に関する協定」である。この協定で日本 は韓国の主張する自然延長論を認めてしまったことになる。したっがて中国の主張する自然延長論に対抗できない 立場になった。
二月三日、中国外交部スポークマンは権限を授けられてつぎのように声明した。
中国政府は、大陸棚は大陸の自然なひろがりであるという原則に基づき、東中国海における大陸棚をどう区分する
かは、当然中国と関係諸国の間で協議決定されるべきであると考える。現在、日本政府と南朝鮮当局は中国をさし 置いて東中国海の大陸棚に、いわゆる日韓「共同開発区域」を画策したが、これは中国の主権を侵犯する行為であ る。中国政府は決してこれに同意することはできない。もし日本政府と南朝鮮当局が、この区域に勝手に開発を進め るならば、これによってひき起こされるすべての結果にたいして全責任をおわなければならない。
一九七七年四月七日、「日韓大陸棚共同開発協定」は、民社党を除く野党の反対を押切って衆議院で可決され
た。この協定は衆議院段階で二度も廃案となり七度も継続審議扱いにされてきたものである。
六月九日午前零時、延長国会の参議院外務委員会の審議途中のまま「日韓大陸棚共同開発協定」が自然承認
された。福田内閣は、この協定批准を第八〇通常国会の最優先課題としていた。
六月十三日、中国外交部は、日本政府が「日韓大陸棚共同開発協定」を国会で強引に「自然承認」させたことにつ
いて声明を発表した。声明要旨はつぎのとおりである。
東中国海の大陸棚は中国大陸の領土の自然延長であって、中華人民共和国は東中国海の大陸棚に対して、侵
すべからざる主権をもっている。東中国海の大陸棚のうち、ほかの国にかかわりのある部分をどう区別するかについ ては、中国と関係国とが話し合いを通じて画定するべきである。日本政府が南朝鮮当局と、中国をさし置いて一方的 に調印したいわゆる「日韓大陸棚共同開発協定」は完全に不法なものであり、無効である。いかなる国、いかなる個 人といえども、中国政府の同意なしに東中国海の大陸棚で勝手に開発行動を進めてはならない。さもなければ、こ れにより引き起こされるすべての結果にたいして全責任を負わなければならない。
一九七八年六月三日、日本と韓国は「日韓大陸棚共同開発協定」の批准書を交換した。
六月二十六日、中国外交部は日・韓批准書交換に対して、日本政府が中国を全く無視して批准書を交換したこと
は中国の主権を侵犯する行為だと抗議し、「日韓大陸棚共同開発協定」は不法であり、無効であると重ねて声明し た。
九月二十日、河本通産相は「日韓大陸棚共同開発協定」にもとづいて、日本側の開発権者として、日本石油開発
鰍ニ帝国石油鰍フ両社に探査権を認可した。
以上の経緯のなかで、沖縄県民の切実な願望と中国の主張について、比較的詳しく述べたのは、これといった産
業をもたない沖縄県民の本土復帰後の生活に対する不安と尖閣油田について知っておく必要があるし、また、わが 国では与野党とマスコミが一致して尖閣列島の領有権を主張しており、新聞報道だけでは十分な理解ができないと 考えたからである。国士舘大学の奥原敏雄教授は、一九七〇年九月二日から『沖縄タイムス』に連載した「尖閣列 島」の冒頭に、「尖閣列島は沖縄本島を離れること二三〇マイル(筆者注 三七〇キロメートル、約二〇〇海里)に所 在する無人島なので、一般にはほとんど知られなかった。ところが一昨年(筆者注 一九六八年)エカフェの沿岸鉱物 資源共同調査が、同列島周辺の大陸棚に、豊富な天然ガスおよび石油資源の埋蔵されている可能性があるとの報 告を発表して以来、同列島に対する関心が急速にたかまってきた」と書いているが、まさにそのとおりである。
米、日、韓が東中国海の石油という宝を手に入れようとして、中国の前庭で、なりふり構わず勝手に縄張りを競い
あって、宝探しのテンヤワンヤの大騒動を演じたわけである。わが国には、そこに石油があるから中国は尖閣列島の 領有権を主張したと考えている人たちがいる。たとえば一九七二年三月五日付『日本経済新聞』は社説でこう述べ ている。
「問題なのは、この尖閣列島諸島につらなる大陸棚の地下資源、石油をめぐる鉱業権である。大陸棚の問題は本
来領土主権とは別個のものであるが、中国が最近になって尖閣諸島の領有権を急に主張し始めるようになった背景 には、大陸地下資源の開発に密接な関係を持つため推測される」
しかし、問題は全く逆である。
わが国は、尖閣列島を起点として、広大な東中国海の大陸棚に食いこもうとしたのである。通産省海洋開発室長
花岡宗助氏は、「われわれは無人島であっても当然、大陸棚の中間線をひく場合の起点となしうるとの立場をとって います」(座談会「大陸棚問題はなぜ重要か――海底資源と主張をめぐって」『週刊エコノミスト』一九七〇年十月二 七日号)と明言している。わが国政府マスコミも尖閣列島の領有権問題と大陸棚問題は別だといっているが、わが国 政府は、実際には尖閣列島の領有権問題を主張することによって、東中国海の大陸棚の半分を、しかも兆ドル級の 石油のありそうなところを、手に入れようと企図したことは明白な事実である。「日韓大陸棚共同開発区域」について も太平外相は中国の抗議に対して、中国との中間線以内にあるから問題はないとした。
U 尖閣列島とは何か
(1) 尖閣列島はどこにあるのか
一九〇〇(明治三十三)年九月十一日に閣議に提出された「無人島所属にかんする件」は、北緯二四度三二分三
〇秒、東緯三一度一九分、南大東島の南約八七海里の無人島を起き大東島島名を確定し、沖縄県島尻郡大東島 の区域に編入することに決定された。
ところが、尖閣列島については、わが国政府はいまだに経度、緯度でその位置を公式に確定していない。もちろん
わかっていないわけではない。魚釣島は北緯二五度四六分三〇秒、東緯一二三度二九分の位置にあり、久場島 (黄尾嶼)は北緯二五度五五分、東緯一二三度四〇分にある。わかってはいるが、わが国政府はそれを公式にいわ ないのである。
一九七一年四月二十二日付『日本経済新聞』は、政府は尖閣列島の島名、経緯度は沖縄返還協定に明記しない
ことにしたと報道した。同誌によると、その理由は「沖縄施政権返還に際し、どの地域が返ってくるのかは返還協定 の主要な柱であり、外務省には協定文中返還される区域はもとより、具体的島嶼まで盛り込むべきだとの意見もあ った。そうなれば尖閣諸島の返還についても明記しなければならいわけで、同諸島の領有主張する中国が改めて強 く反発してくることが予想される。さらに具体的な島嶼を明記し、かりに地図の上の書き違いなどが発見されたときは 国際紛争のタネになりかねない。このため協定には返還地域だけを明らかにするにとどめることになったのである」と いう。
尖閣列島が、わが国のものであることは、一点の疑いも疑いも入れない問題と主張する政府の態度としては頼りな
い限りである。領有主張の根拠が確かであれば、中国の反発を懸念する必要は全くない。ところがわが国政府は、 沖縄返還協定で尖閣列島を隠してしまった。
第7図は海上保安庁水路部の海図にもとづいて描いた尖閣列島の位置である。この海図には黄尾嶼、赤尾嶼とい
う中国の島名をそのまま使っている。この二島だけは沖縄返還協定の了解覚書のなかに、米軍施設としてあげられ ている。
(2)尖閣列島名の由来
著者は、『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号に、「いわゆる尖閣列島は日本のものか」という小論を発表した
が、わが国では尖閣列島、尖閣群島、尖閣諸島、尖閣諸嶼などとその呼称は、地図、海図によってまちまちであり、 人によってまちまちである。陸軍陸地測量部では尖閣列島と呼び、海軍水路部の海図では尖閣諸嶼と読んだ。そし ていま,わが国政府は列島なのか、群島なのか公式呼称を確定してない。だから、「いわゆる尖閣列島」といわざる をえない実情なのである。
尖閣列島なる呼称は、一九〇〇(明治三十三)年五月に沖縄師範学校教諭黒岩恒氏が、古賀辰四郎氏に頼まれ
て本土から調査のためやって来た宮島幹之助工学士について、沖縄島と清国福州との中央に位す「渺たる蒼海の 一栗」である無人島に行ったときに、「批列島には未だ一括せる名称なく、地理学上不便少からさるを以って、余は 窃かに尖閣列島なる名称を新設することと」したものである。黒岩氏はおそらく『英国海軍水路誌』にPinnacle group とあるので、尖閣列島としたものであろう。黒岩氏が尖閣列島に入れたのは、@釣魚嶼、A尖頭諸嶼、B黄尾嶼で あり、これは一八九七(明治三十)年帝国海軍省出版の海図のよったものである。そして、尖頭諸嶼に、南小島、北 小島と「数箇の挙石」(沖の北岩、沖の南岩)を入れた。このなかには赤尾嶼ははいっていない。
黒岩氏は、無人島に渡る前に釣魚嶼、黄尾嶼などについて、いくつかの文献と調査報告を読んでいたようであ
る。『英海軍水路誌』、『琉球国略史』、一八八五(明治十八)年九月に沖縄県庁にだした報告にある「魚釣島(ヨコ ン)」。同年十月に西表島に調査のために渡った沖縄県管吏石浜兵吾氏の報告、」また同年十一月に共同運輸会社 汽船出雲丸林鶴松船長が沖縄県庁にいだした「魚釣島は一島六礁」という報告を読んでいた。
K岩氏は、「尖閣列島探検記事」のなかに、おおよそこのように書いている。
黒岩恒氏は、宮島幹之助氏が黄尾嶼にとどまって調査しているあいだに、釣魚嶼の探検をやった。永康丸が迎え
に来るまでの、まる二日とない短時間の探検なので、黒岩氏は「地質を見んか、動物を採集せんか」と迷い、地質を 見ることにした。一九〇二(明治三十五)年十二月に臨時沖縄県土地整理事務局が、最初の実地測量と地図の作 製をした(尖閣列島研究会)というが、もしその地図が『季刊沖縄』第五十六号九六項に掲載されているものであれ ば、これは黒岩氏の探検記と符号するところがある。黒岩氏はこの探検で山や渓流にいろいろと名を付けた。釣魚 嶼の最高峰を奈良原岳(奈良原繁沖縄県知事の姓)、北面の東に道案渓(八重山島司野村道安氏の名)、安藤岬 (沖縄師範学校安藤喜一郎校長の姓)、南小島の西岸を伊沢泊(伊沢弥喜太氏の姓)、南小島の東部にある岩に 「新田の立石」(黒岩氏の同僚新田義尊氏の姓)、北小島と釣魚嶼とのあいだの西よりの水道を佐藤水道(長康丸 の佐藤和一郎船長の姓)などと新しく名を付けたのである。
とにかく、尖閣列島というのは一九〇〇(明治三十三)年に「地理学上不便」だとして、沖縄と福州とのあいだに散
在せる無人島に、黒岩氏が「窃かに」尖閣列島という名をつけたもので、これは日本政府が公式に決めたものでもな く、また正式に追認したものでもない。
(1)ヨコンというのは、首里方言ではユクン、八重山方言ではイーグンではないだろうか。
(2)大城永保氏の報告には、魚釣島には流水があったというし、石浜氏の報告では、魚釣島は周囲おそらくは三里と
いっているから、これは現在の島の周囲一万一、一二八メートルと一致するし、林鶴松氏の報告では、魚釣島は一 島六礁からなっておりその最大の島を魚釣島と書いているから、この三つの報告には誤りはない。
(3) 尖閣列島の島名
尖閣列島の島名は、全く確定していない。一九六九年五月に、アメリカの施政権下で、石垣市長の命令により、尖
閣列島に建てられた標柱は、島名を魚釣島、久場島、大正島、南小島、きた小島、沖の北岸、沖の南岸、飛瀬とし ているが、これは日本政府が公式につけた島名ではない。この中で公式名称を付けたと思えるのは大正島である。 大正島は沖縄で久米赤島と呼ばれ、中国の島名は赤尾嶼であるが、一九二一(大正十)年七月二十五日に始めて 国有地として地籍が設定され、島名を大正島としたものである。赤尾嶼は中国の古文書には赤嶼とも書かれてい る。魚釣島の地質系統の主体は砂岩層で堆積岩からできている。大正島=久米赤島=赤尾嶼も水溶岩であるが樹 木はほとんどなく、わずかに雑草が生えている程度で、その岩肌から中国は赤嶼、赤尾嶼といい、沖縄では久米赤 島と読んだものであろう。尖閣列島の島々は硫黄島や沖大東島のように勅令できちんと島名を付けたものではな い。だからわが国政府は、尖閣列島問題が起こっても、列島の個々の島名をあげて領有を主張したことはなく、尖閣 列島とか尖閣諸島などで一貫している。中国は釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの島嶼は中国の神 聖な領土だと主張しているのに、日本では尖閣列島である。ただ一九七二年五月の外務省情報文化局のパンフレ ット『尖閣諸島について』にはじめて島名を挙げている。しかしこれも公式に決めたものではない。
一九七八年十月二十五日、東京記者クラブでの記者会見に出席した中国のケ小平副総理は、尖閣列島について
の質問に答えて、「私どもは『尖閣列島』を釣魚島と呼んでいます。この島についての私たちの間の呼称はちがって おり、双方の見方が食い違っていますので、中日国交正常化を実現するとき、私たち双方はこの問題に触れないこ とを申し合わせました。今度の中日友好条約交渉のときでも、双方はこの問題に触れないことを申し合わせました」 (『北京周報』一九七八年第四三号)と語った。
石油があるというので尖閣列島が問題になったとき、中国の石油を研究していた著者が、まず疑問に思ったのは、
実は島名の問題であった。これは、はなはだ素朴な疑問であるが、調べていくうちに、たいへん重大な問題であるこ とがわかった。
シマという字には、州、洲、島、嶼などがあり、礁はかくれ岩である。和名(日本名)のシマには島という字が使われ
ており、日本には嶼というシマはない。福建省、澎潮列島、台湾省には嶼というシマが二九もあり、中国の古地図で はもっと多い。ところが尖閣列島のなかには黄尾嶼があり赤尾嶼がある。しかもこの黄尾嶼、赤尾嶼は、アメリカ施 政権下の琉球政府の公文書に、そのまま使われている。一九六九年五月一日の「米軍の射撃練習の地域と範囲」 にはKumeJima、Kobi Sho、Sekibi Shoとなっている。また一九六八年十二月二十三日に、琉球政府農林局長から 八重山地方長官にだされた「爆撃演習について」の通知は,場所を「黄尾嶼を中心に半径一海里」となっており、一 九七〇年四月四日の通知にも演習場所を黄尾嶼としている。一九七〇年七月七日から十六日までのあいだに、琉 球政府は、「不法人域防止警告版」を尖閣列島の五つの島に建てたが、それは黄尾嶼(久場島)や赤尾嶼(大正島) に建てられた。そして、その建立複命書には出張先として黄尾嶼、赤尾嶼となっている。一九六八年のアメリカ軍の 八重山群島の面積と人口調査によると、Sekibi、Kobiは無人島で面積は書いてない。無人なのはあたりまえである。 ここは、アメリカ軍の射爆撃演習に使われてたのだから。
どうして沖縄のアメリカ軍も琉球政府も、黄尾嶼、赤尾嶼という中国の島名を使ったのか。
その理由は簡単であるように思う。敗戦後、日本が非公式に連合国司令部に提出した尖頭列島は、赤尾嶼、黄尾
嶼、北島、南島、魚釣島となっておったし、日本海軍水路部の海図にも、赤尾嶼、黄尾嶼となっていたからである。
琉球政府が公文書に使った尖閣列島の島名は、魚釣嶼、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島であり、中国では釣魚
島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島で、魚釣島と釣魚島が異なるだけである。中国語で釣魚というのは魚を釣ること である。岩波新書に西園寺公一著『釣魚迷』があり、同氏は釣り狂いといっているが、これは釣り気違いということで ある。中国語の釣魚島が、日本語で魚釣島と呼ばれるようになったと考えることは、至極当然なことである。
尖閣列島にはこの五つの島のほか、沖の北岩、沖の南岩、飛瀬があるが、これらは栗粒ほどの小さな岩礁で、その
面積ははっきりしない、というより計りようがない。これらの岩礁が、日本水路誌にはじめて現れたのは、一九一九 (大正八)年刊行のものからで、それ以前のものにはない。
では、沖縄の人たちはどう呼んだのか。
牧野清氏の「尖閣列島小史」によると、八重山の古老たちは、現在でも、尖閣列島のことをイーグンクバジマと呼んで
いるという。イーグンとは魚釣島のことであり、クバジマは久場島である。イーグンとは魚を突いてとる銛のことで、島 のかたちからきたものと思われるし、クバジマはクバ(ビロー樹)が生い茂っていたので、そのように名づけられたもの であろう、と書かれている。
ところが、奥原敏雄教授は、「釣魚台と黄尾嶼は、古来からユクン・クバジマの名で親しまれていた。ユクンとは魚島
の意であるから、魚釣島が当時から(日中両国)の好漁場として知られていたのであろう」(「尖閣列島」『沖縄タイム ス』一九七〇年九月三日号参照)といっている。
また、藤田元春氏は、「ユクン」とは「ユークの」という語の約で、つまり「琉球(ユーク)のクバ島」の意味だといってい
る。
沖縄ではクバは、単なる樹木ではなかった。それは、宗教信仰と結びついた木であった。そしてその宗教信仰は社
会生活を律した。また日常生活のなかにもクバの葉があった。うちわ,笠、敷物、つるべ、カマンタと呼ばれる釜のふ たなどにも使われたし、クバの繊維でロープやブラシ、サバニの帆などもつくられた。そして飢えたときにはクバのし んを食べたし、その繊維は古代琉球の衣服にもなった。
では、与那国の人たちは尖閣列島のことをどう呼んだのか。
彼らは北の国と呼んだ。沖縄方言では北のことをnisiという。西は、iriであり、南はhwee、東はagariである。与那国の
漁夫がいか釣りをしていて尖閣列島に流されたということもあった。石垣島から村吏が来てはいたが、与那国の人た ちは、石垣では尖閣列島のことをイーグン・クバシマと呼んでいることを知らなかったのだと思う。与那国から台湾ま では七二キロメートルで、与那国は沖縄のさい果ての島であった。一八九三(明治二十六)年八月に、青森県士族笹 森儀助氏が与那国島を探検したが、そのときの人家は三八一戸、人口はニ、一二〇人であった。そして一戸当り少 ない者で一〇俵、多い者で六〇俵の租税(貢米)の未納があった。海上保険などない時代であったから貢米を積んだ 船が沈むと、その分は未納となったからである。
筆者は石垣の人に、沖縄では北小島のことをどう呼んでいるかと聞いたことがあった。その人はけげんな顔をして、
キタコジマだといった。そうすると、キタコジマといわれるようになったのは、琉球に廃藩置県が強行されて沖縄とな り、本土から学者や役人が赴任し、探検などがあったのちのことと思われる。一九〇〇(明治三十三)年の黒岩恒氏 の「尖閣列島探検記事」には、南小島、北小島があり、沖縄の人たちのあいだでは「シマグワー」で通っていると書か れている。北小島のことはニシ・シマ・グワー(nisi sima gwaa)である。グワー(gwaa)は接尾語で小さいということであ る。
沖縄出身の著名な歴史学者東恩納寛惇氏(一八八二〜一九六三年)は、その著書『概説沖縄史』のなかで、領有
権問題についての島名の重要さを強調している。一八七九(明治十二)年に、明治政府が武力を背景にして琉球処分 をしたときに琉球王(沖縄では御主がなし)は、朝貢冊封の関係にあった中国に助けを求めた。そこで何如璋駐日公 使は琉球を助けるために、琉球は中国のものだと主張した。東恩納寛惇氏はこの主張に対して島名をあげて反論し ているのである。
東恩納氏は「おきなわ」というのは「沖の島」という意味で、これは九州の南端から順々に「口の島々」、「沖の
島々」、「先の島々」といい、そして極南の「はての島=波照間」となっており、沖の永良部などとともに、沖の系列の 属する島だからこのように命名されたものだと書いている。そして「このように固有の名称が和名であって唐名(筆者 注 中国名)でないという事に注意されねばなりませぬ」といっている。
沖縄の島々の名は「沖」の名のつくものをはじめ伊江島、水納島、瀬底島、与那国島、西表島、来間島、久高島と
いうように明らかに和名である。しかし、尖閣列島のなかの沖の北岩、沖の南岩、飛瀬は和名であるが、これは一九 一五(大正四)年の海軍水路測量班によって、けし粒ほどの岩礁につけられた名称(『日本水路誌』一九一九年刊)だ から、東恩納氏のいっていることとは別問題である。
では、黄尾嶼、赤尾嶼は和名(日本名)だろうか、それとも唐名(中国名)だろうか。これらの島々の固有の島名は明
らかに中国名である。そして台湾省の付属島嶼である花瓶嶼、綿花嶼、彭佳嶼と一連の位置に存在している。一八 九五(明治二十八)年六月十日付けで、古賀辰四郎氏は「官有地拝借御願」を政府に提出して久場島全島を借りた が、写真を見ると、古賀氏が久場島に立てた票柱は、「黄尾島古賀開墾・・・・・・」(開墾の下の文字は人の陰になっ ていて見えない)であった。古賀氏は久場島は沖縄でいうところの島名で、島の固有の名称は黄尾だと考えたからに 相違ない。琉球政府が公文書に黄尾嶼、赤尾嶼という島名を使ったのも、それが固有の名だと考えたからではない のか。
とにかく、わが国政府は、尖閣列島の領有権を主張しているのだが、列島を構成する島々の島名を確定していな
い。これはたいへんおかしいことである。だが、よく考えてみると、これはすこしもおかしくはない。東洋のビスマルクを もって自認した、明治軍国主義のローダー伊藤博文総理は、日清戦争で大勝して澎湖列島から台湾まで奪ってしま ったのだから、尖閣列島のちっぽけな島々の島名など確定する必要がなかった。まさか、一九四五年にポツダム宣 言を受諾して、大日本帝国が連合軍に無条件降伏をするなどということは、夢想だにしなかったことだし、一九六〇 年に尖閣列島が、石油にからんで大問題になるだろうなどとは、予想もできなかったからである。
(1)沖縄に「くばの葉世」、「くばの葉の世」という言葉がある。沖縄のひとたちにとってクバは今でも特別の意味をもっ
ている。沖縄の神話によると、沖縄の島々を造ったのはアマミキヨが天帝の命を受けて天降ってみると、沖縄はまだ 島にはなっていなかった。そこで天から土石を運び、草木を降らして数々の島をつくり、神聖な森や御岳(御岳を「おた け」といっている人がいるが、沖縄方言の母音はア、イ、ウの三個で、エ、オは特殊の場合にだけ使われる。だから 「おたけ」は「うたき」となる)をつくった。つぎに、天帝は御子の男女ニ神を降下させたが、この二人は陰陽和合せず、 吹きかよう風によって女神は身ごもり、三人の男、二人の女を産んだ。長男は天孫氏と称して国の主のはじめ、次男 は諸候つまり按司のはじめ、三男は百姓つまり庶民のはじめ、長女は宮廷の神官のはじめ、次女はのろ(祝女)のは じめとなった。
御岳はたいてい部落の高い所にあって、樹木が生い茂って小さな森をつくっていた。その中にクバやマ―二
(クロッグ)の生えた一部があって、ここに神が、天または海のかなたから現れると信ぜられた。御岳は血縁集団の集 った部落の共同の神をまつる神聖な森であった。部落が社会生活の単位であった。
古代琉球社会には部落の間に貧富、強弱の差があり、部落の中でも知恵と力のある者が部落を指導して、そ
の利益を守った。そのような者は結局支配者になったなり、他部落を侵略して支配し権力を拡大していった。このよう な支配者を按司といった。按司が発生してから間切りが社会生活の単位になった。間切りは十数部落を併せた一按 司の支配する地域のことである。按司は武力をたくわえて、石城を築いた。また宗教によって精神的に領内を支配す るために、一村または数村の根神(部落の神につかえる女、神聖が乗りうつって神となると信じられていた)の上に新 たにのろをおいた。のろは神の言葉を宣るということからきているといわれる。沖縄では女が神をまつるである。一二 年に一度の神事といわれる久高島の神事「イザイホ―」が一九七八年十二月十四日から行われたが、この神事にも クバの葉は使われていた。神の小屋の壁はクバの葉の壁であり、神女の資格をえたナンチェ(成人)はクバの葉でつ くった扇を持っている。
まさに按司の時代は石城の時代だった。古代琉球からこの時代までも含めて「くばの葉の世」と呼ばれた。ク
バは神の依代と見なされていて、琉球のあけぼのを伝えにふさわしい木であった(『風土記日本』平凡社刊、一九七 〇年、二六二〜六頁)
(2)領海一二カイリ、漁業専管水城二〇〇カイリの海洋新時代を迎えたなかで、三日、自民党の領土・領海調査特別
委員会(玉置和郎委員会)は、日本の「実効的支配」がなお不完全な無人島が、海図にあるだけでも南方諸島、九州 西岸付近などに三二一島、海図にも載っていない無人島が約一、〇〇〇島、岩礁が約二、七〇〇ヵ所ぐらいあると 発表した。名前のないものには当面、仮称を命名、所属すべき地方公共団体に編入し、国有財産台帳に記載するな どの対策を打ち出すという。そして無人島、岩礁の「実効支配」については、有事立法に関係して、野党との論争を呼 びそうだという(『朝日新聞』一九七八年十月四日号)。
(4)尖閣列島の地籍
魚釣島(中国名、釣魚島) 石垣市登野城 (2)二、三九二番地 (3)。面積=四・三二平方キロメートル。島の周囲=一
万一、一二八メートル。最高峰=海抜三六二メートル。地質=水成岩。
久場島(黄尾島) 石垣市登野城二、三九三番地。面積=一・〇八平方キロメートル。島の周囲=三、四九一メート
ル。最高峰=海抜一一八メートル。地質=火山岩。
大正島(中国名、赤尾島) 石垣市登野城二、三九四番地。最高峰=海抜八四メートル。地質=水成岩。
南小島(中国名、南小島) 石垣市登野城二、三九〇番地。島の周囲=二、五〇九メートル。最高峰=海抜一四八
メートル。地質=水成岩。
北小島(中国名、北小島) 石垣市登野城二、三九一番地。島の周囲=三、一六四メートル。最高峰=海抜一二九
メートル。地質=水成岩。
沖の北岩 石垣市の土地台帳に記載なし。海抜二四メートル。上陸できず (4)。
沖の南岩 石垣市の土地台帳に記入なし。海抜五メートル。上陸できず。
飛瀬 石垣市の土地台帳に記入なし。海抜三・四メートル。上陸できず。
V 日本国内公文書上の尖閣列島
V 日本国内公文書上の尖閣列島
(1)清国ト関係ナキニシモアラス
日本外交文書にはじめて尖閣列島が現れたのは、外務省蔵版『日本外交文書』第一八巻のなかであり、それが
公表されたのは一九五〇年(昭和二十五)年三月である。もちろん尖閣列島とは書かれていない。黒岩垣氏が便宜 上ひそかに尖閣列島と名付けたのは、一九〇〇(昭和三十三)年のことだから、それは当然のことである。この初め ての文書について詳しく述べる。
この内務卿から外務卿への文書は、一般扱いであったが、外務卿からの回答は、「親展」文書になっている。
井上馨外務卿は、山形はしょうがない奴だと思ったに違いない。一八八二(明治十五)年十一月には天皇が地方長
官に軍備拡張の詔勅をくだし、朝鮮から清朝の勢力を一掃して、朝鮮を日本の支配下におくために、「清国ヲ撃ツ」計 画をすすめていることも忘れて、中国との国境の島沖縄に近い久米赤島(赤尾嶼)、久場島(黄尾嶼)、魚釣島(釣魚 島〉などに、国標建設をしても別に差支えなかろうと、一般の文書擾いで照会してくるのだから始末におえないと考え たと思う。これらのことをはじめ大東島のことも、官報に載せたり、新聞に書きたてられないようにと注意されてみれ ば、山県内務卿も、これははまずかったと思ったのであろう。つぎの山県内務卿から井上外務胸あての文書は「秘」 扱いとなっている。
一八八五(明治十八)年九月二十二日付で、沖縄県令が内務卿に上申した文書を読むと、「先般東京駐在の沖縄県
森本大書記に内命された趣旨により調査しましたところ」とある。この趣旨とはどんなものであったのか。このところ がよくわからない。明治軍国主義は、小さな無人島であってもこれを版図に入れようとしたのか。それとも沖縄県令 が、東京駐在の大森大書記を通じて、バカ島のいる島について内々に意向を打診したところ、内務省に調べてみろと いわれたのか。明治政府は殖産興業を国策としたから、おそらく後者のように思われる。
(1)「下ケ札」とは下紙、符箋ともいわれ、主として官庁で上官から指令する場合にもちいられ、意見または理由を別
紙に書いて、文書に貼り下げたその紙のことである。
(2)明治十八年と二十八年との違い
『日本外交文書』第十八巻版図関係雑件のなかに、以上の内務卿、外務卿、沖縄県令の往復文書のほかに「久米
赤島久場島及魚釣島版図編入経緯」がある。
そして一八九五(明治二十八)年一月十四日の閣議決定ということになる。この閣議決定は、わが国の尖閣列島領
有主張の根拠としてしばしば使われている。一九七二年三月八日の外務省の「尖閣諸島の領有問題について」で も、「明治二十八年一月十四日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入する こととした」といっており、一九七二年五月の外務省情報文化局の「尖閣列島について」も同様である。
では、その閣議決定とはどんなものであったのか。
前述の「久米赤島久場島及魚釣島版図編入経緯」のなかに、明治二十七年十二月二十七日に内務大臣と外務大
臣が協議したとあるがその文書はつぎのとおりである。
傍点は筆者によるが、このところが重要である。内務大臣は閣議提出の見込みだが、一応外務大臣と協議するとい
うのである。主導権は外務大臣に移ってしまった。また一八八五(明治十八)年当時と一八九四(明治二十七)年十 二月二十七日の事情はどう異ってしまったのか。中国ではすでに島名もつけているという懸念は、どこにいってしまっ たのか。国際問題から内政問題に移ってしまったのはどうしてか。
この内務大臣の協議に対して、外務大臣には異論はなかった。そこで閣議提出となる。なおこの文中にある別紙
甲号は、明治十八年九月二十二日付けで西村拾三沖縄県令が山県有明内務卿に出した「久米赤島外ニ島取調ノ 儀ニ付上申」であり、乙号は同年十月九日付けで内務卿から大政大臣宛の上申案である。
一八九五年(明治二十八)年一月十四日、閣議はこれをうけて、「内務大臣請議沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位ス
ル久場島魚釣島ト称スル無人島ヘ向ケ近来漁業等ヲ試ムルモノ有之為メ取締ヲ要スル付テハ同島ノ儀ハ沖縄県ノ 所属ト認ムルヲ以テ標杭建設ノ儀同県知事上申ノ通許可スヘシトノ件ハ別ニ差支モ無之ニ付請議ノ通ニテ然ルッヘ シ」と決定し、一月二十一日付にて「標杭建設ニ関スル件請議ノ通」と沖縄県知事に指令した。これが、わが国が、 尖閣列島を無主地の先占によってわが国領土に編入したということの実態であり、これが、わが国政府の領有主張 の」国際法的根拠である。この閣議決定は、上奏して天皇の勅令となっていないし、沖縄県知事に対する指令は官 報で公示されなかった。そしてまた沖縄県の告示もだされなかった。だから国民は知らなかったのである。ましてや 外国が知りえようはずがない。
西村拾三沖縄県令が、久米赤島、久場島、魚釣島などは『中山伝信録』にも載っている釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼と
おなじものではないかという疑いがあり、清国との関係がないとはいえないと心配し、井上馨外務卿も清国ではその 島名も付いていることを懸念した。そしてまさに沖縄でいうところの久米赤島、久場島、魚釣島は、中国の赤尾嶼、黄 尾嶼、釣魚島であった。
ところで、この閣議決定は、明治十八年の「国標」から「標杭」に変わり、明治十八年の「沖縄県ト清国福州トノ間ニ
散在セル無人島」から明治二十三年には「八重山群島ノ内石垣島ニ接近セル無人島」となり、閣議決定では「沖縄 県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ト称スル無人島」と変わった。これは明治軍国主義が軍備を拡張し て、自身を強めていった過程を物語るものである。
ここで注意しなければならないことは、これらの尖閣列島に関する文書は、一九五〇年(昭和二十五)年三月にな
って、『日本外交文書』第十八巻が出版されて初めて、国民は知る機会をもったということである。だから、沖縄県知 事に、標杭を建ててもよいと指令したと書かれている
「一月二十一日」という日付について、奥原敏雄教授は、閣議決定原本を見せてもらって直接確認しなければならな
かったのである。
(1)この文書は『季刊沖縄』第五十六号、一一二項所収のもので、知事より内務卿大臣宛となっているから、提出文
書の控えかもしれない。
W 日本政府の領有権主張
わが国政府は国会答弁で、尖閣列島はわが国南西諸島に属するわが国の領土で、ソノ領有権は一点の疑う余地
もないほど明確だ、と繰り返し述べた。政府が文書で領有権主張の根拠を明らかにしたのは、衆議院議員楢崎弥之 助氏の質問に答えたものが最初である。
資料・一(一九七一年)
答弁第二号
内閣衆質六七号二号
昭和四十六年十一月十二日
内閣総理大臣 佐 藤 栄 作
衆議院議長 船 田 中 殿
衆議院議員楢崎弥之助君提出尖閣列島に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する
衆議院議員楢崎弥之助君提出尖閣列島に関する質問に対する答弁書
尖閣列島は、歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成し、明治二十八年五月発効の下関条約
第二条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。
したがって、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣列島は、同条約第二条に基づきわが国が放棄した領土
のうちには含まれず、第三条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政権下におかれ、本年六月十七日 署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄反還協定)によりわが国に施政 権が返還されることとなっている地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣列島の地位 を何よりも明瞭に示すものである。
右答弁する。
じつは、わが国政府は、尖閣列島の領有権が中国とのあいだに問題になると、アメリカの考えを求めていた。
資料・二(一九七〇年)
尖閣諸島領有にかんする米国務省マクロフスキー報道官の質疑応答
外務省仮訳
(昭和十五年九月十日)
問 琉球列島の一部として米国の施政権下にある尖閣列島に中華民国の国旗がたてられたという報道があるが、
尖閣諸島の将来の処置に関し、米国はいかなる立場をとるのか。
答 対日平和条約第三条によれば、米国は「南西諸島」に対し施政権を有している。当該条約中のこの言葉は、第
二次世界大戦終了時に日本の統治下にあって、かつ、同条約中ほかに特別の言及がなされていない、北緯二十九 度以南のすべての島を指すものである。平和条約中におけるこの言葉は、尖閣諸島を含むものであることが意図さ れている。
当該条約によって、米国政府は琉球列島の一部として尖閣諸島に対し施政権を有しているが、琉球列島に対する
潜在主権は日本にあるものとみなしている。一九六九年十一月の佐藤総理大臣とニクソン大統領の間の合意によ り、琉球列島の施政権は、一九七二年中に日本に返還されることとされている。
問 もし尖閣諸島に対する主権の所在をめぐり紛争が生じた場合、米国はいかなる立場をとるのであるか。
答 主張の対立がある場合には、右は関係当事者間で解決さるべき事柄であると考える。
アメリカは、沖縄返還の際、尖閣列島を含めて施政権を日本に返すが、施政権と領有権とは別で、もし領有権につ
いて主張に対立があるなら、当事者間で解決せよといった。アメリカのこのような態度に、わが国政府はいらだった。 そして福田外相はアメリカに抗議すると啖呵を切った。
一九七二年三月八日、外務省は「尖閣諸島の領有権問題について」を発表した。
資料・三(一九七二年三月八日外務省発表)
尖閣諸島の領有権問題について
尖閣諸島は、明治十八年以降※(1)政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行な
い、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、明治二十八年 一月十四日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定※(2)を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたもの である。
同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、明治二十八年五月発効の下
関条約第二条※(3)に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。
従って、サン・フランシスコ平和条約※(4)においても、尖閣諸島は、同条約第二条に基づきわが国が放棄した領
土のうちには含まれず、第三条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、昨年六月十七日 署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄反還協定)によりわが国に施政 権が返還されることとなっている地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位 を何よりも明瞭に示すものである。
なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第三条に基づき米国
の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであ り、中華民国政府の場合も中華人民共和国政府の場合も一九七〇年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表 面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものである。
また、従来中華民国政府及び中華人民共和国がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠として上げている諸
点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足国際法上有効な論拠とはいえない。
資料・四(一九七二年五月、外務省情報文化局)
尖閣諸島について
一 急に起こった問題
尖閣諸島は、わが国の領土である南西諸島西端の八つの島、すなわち、魚釣島、北小島、南小島、久場島(黄尾
嶼)、大正島(赤尾嶼)、沖の北岩、沖の南岩、飛瀬の総称です。尖閣諸島の総面積は約六・三平方キロメートル で、箱根の芦の湖を少し小さくしたくらいの面積です。そのうち、一番大きい島は魚釣島で約三・六平方キロメートル あります。
この尖閣諸島には、昔カツオブシ工場などがあり、日本人がある時期住みついたこともありますが、現在は無人島
となっています。また尖閣諸島には、天然肥料になるグアノ(鳥の糞)以外には、とくにこといった天然資源は無いと されていました。
ところが、昭和四十三(一九六八)年秋、日本、中華民国、韓国の海洋専門家が中心となり、エカフェ(国連アジ
ア・極東経済委員会)の協力を得て、東シナ海一帯にわたって海底の学術調査を行なった結果、東シナ海の大陸棚 には、石油資源が埋蔵されている可能性のあることが指摘されました。これが契機になって、尖閣諸島がにわかに 関係諸国の注目を集めることになりましたが、さらに、その後、中国側が尖閣諸島の領有権を突然主張しはじめ、新 たな関心を呼ぶことになりました。
昭和四十五(一九七〇)年になって、台湾の新聞等は、尖閣諸島が中国の領土である旨主張し始めるとともに中
華民国政府要人も中華民国の総会等で同様の発言をしている旨報道されましたが、中華民国政府が公式に尖閣諸 島に対する領有権を主張したのは昭和四十六(一九七一)年四月が最初であります。他方、中華人民共和国政府も 同年十二月以降尖閣諸島は中国の領土であると公式に主張し始めました。
このように、尖閣諸島の領有権問題は、東シナ海大陸棚の海底資源問題と関連して急に注目をあびた問題であ
り、それ以前は、中国を含めてどの国も尖閣諸島がわが国の領土であることに異議をとなえたことはなかったので す。
二 わが国領土に編入されたいきさつ
(1) 慎重な編入手続き
明治十二(一八七九)年、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県としましたが、明治十八(一八八五)年以来数回に
わたって沖縄県当局を通じて尖閣諸島を実地に調査した結果、尖閣諸島が清国に所属する証跡がないことを慎重に 確認した後、明治二十八(一八九五)年一月十四日の閣議決定により、尖閣諸島を沖縄県の所轄して、標杭をたて ることをきめました。
このようにして尖閣諸島は、わが国の領土に編入されたのです。
(2) 戦前におけるわが国の支配
このようにしてわが国の領土に編入された尖閣諸島は、その後、八重山郡の一部を成すことになりまし
た。 他方、明治政府は、尖閣諸島八島のうち、魚釣島、久場島、南小島、北小島の四島を国有地に指定しました が、明治十七(一八八四)年頃からこれらの島々で漁業などに従事していた福岡県の古賀辰四郎氏から、国有地借 用願が出され、明治政府は、古賀氏に対してこれら四島を三十年間無料で貸与しました。
古賀辰四郎氏は、これらの島々に多額の資本を投下し、数十人の労働者を送りこみ、桟橋、船着場、貯水場などを
建設し、また、海鳥の保護、植林、実験栽培などを行ない、開拓事業を発展させました。
この古賀辰四郎氏が大正七(一九一八)年に亡くなった後、その子息である古賀善次氏は、父の開拓事業を引き
継ぎ、とくに魚釣島と南小島でカツオブシ、海鳥の剥製などの製造を行っていました。
昭和元(一九二六)年、古賀氏に無料で貸与していたこれらの国有地四島の貸与期限が切れたために、政府はそ
の後一年契約の有料貸与にきりかえましたが、昭和七(一九三二)年、古賀氏がこれら四島の払い下げを申請して きたので、これを有料で払い下げ、今日にいたっております。
(3) 戦後における支配
(イ) 米国政府の施政上の取扱い 終戦後尖閣諸島は、南西諸島の一部としての地位はそのままにして、米国の
施政権下に置かれてきました。その間、沖縄において米国政府が発した諸法例(群島組織法(5)、琉球政府章典 (6)、琉球列島の地理的境界(7))は、琉球列島米国民政府、琉球政府等の管轄区域を緯度、経度で示しています が、尖閣諸島は当然のことながらその区域内に含められています。
(ロ) 久場島、大正島の射爆撃場設置 在沖縄米軍は、尖閣諸島の久場島(黄尾嶼)および大正島(赤尾嶼)に
射爆撃場(8)を設置していましたが、沖縄返還交渉の際の日米両国政府間の了解に従い日米両国政府は、これら 射爆撃場を、復帰後安保条約および地位協定に基づき、施設・区域として日本政府から在日米軍に提供することと なりました。
(ハ) 南小島における台湾人の沈没船解体の工事 昭和四十三(一九六八)年八月、琉球政府法務局出入管
理庁係官は、南小島において数十名の台湾人労務者が不法に上陸し、同島沖で座礁した船舶の解体作業に従事 していたのを発見しました。同係官は、その入域が不法であることを説明して退去を要求するとともに、入域を希望す るのであれば正規の入域許可証を取得するよう指導しました。これらの労務者たちは、いったん南小島から退去し、 同年八月三十日付および翌(筆者注 一九七〇)年四月二十一日付をもって琉球列島高等弁務官の許可を得、再 び同島に来て上陸しました。
(ニ) 領域表示板および地籍表示標柱の建立 前期(ハ)のような台湾人の不法入域事件にもかんがみ、琉球
政府は、琉球列島米国民政府の援助を得て、昭和四十五年七月七日より十六日にかけて尖閣諸島に領域表示板 (9)を建立しました。この表示板は、魚釣島(二カ所)、北小島(二カ所)、南小島、久場島および大正島の五島七カ 所に設置され、日本語、英語および中国語の三カ国語で「琉球列島住民以外の者が高等弁務官の許可を得ずして 入域すると告訴される」旨を高等弁務官の命によるとして述べ、琉球がこれを建立したことを明記しています。
また前述の領域表示板とは別に、石垣市は昭和四十四年五月十日と十一日、地籍表示のための標柱を魚釣島、
北小島、南小島、久場島および大正島の五島に建立しました。
なお、専科諸島の地籍は、石垣市字登野城に属しています。
(ホ) 日本政府による学術調査 政府は、前述のエカフェによる東シナ海一帯の海底学術調査の結果にもかんが
み、総理府が中心となって尖閣諸島およびその周辺海域の学術調査を実施することとし、昭和四十四年以降毎年一 回東海大学に委託し、調査を実施しています。
以上のことから、戦後においても、通常は施政権者である米国政府によって、また場合によっては米国政府の了承
の下に直接わが国政府によって、尖閣諸島に対する有効な支配が行なわれてきたことが理解して頂けたと思いま す。
三 わが国はこう考える
(1) 先占による領土編入
尖閣諸島がわが国の領土に編入されることになったいきさつは、すでに述べましたが、これは国際法的には、それ
までどこの国にも属していなかったそれらの諸島の領有権を、わが国が、いわゆる「先占」と呼ばれる行為によって 取得したのだということになります。
国際法上、ある国は、どの国にも属さない地域(無主地といいます)がある場合、一方的な借置を取ることによっ
て、これを自国の領土とすることが認められています。これが先占と呼ばれるもので、たとえばイギリス、フランスなど が太平洋の島々を領有するに至ったのも、大部分これによったと言われています。
それでは、先占が有効であるためには、どのような要件が充たされなければならないかということになりますが、一
般には、その地域が無主地であること、国家がその地域を自国の領土とする旨〜明らかにすること、および、実際上 もその地域に有効な支配を及ぼすこととされています。
尖閣諸島については、すでに述べましたように、わが国は明治十八年以降沖縄県当局を通ずるなどの方法で再三
現地調査を行ない、これらの島々が無人島であるだけでなく、清国を含むどの国の支配も及んでいる証跡がないこと を慎重に確認した上、明治二十八年一月十四日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の 領土として沖縄県に編入しました(それ以来、尖閣諸島は一貫して南西諸島の一部として取扱われてきました)。
また、その後の支配についても、政府は、民間の人から尖閣諸島の土地を借用したいとの申請を正式に許可し、
民間の人がこれに基づいて現地で事業を営んできた事実があります。これらの事実は、わが国による尖閣諸島の領 土編入が、前述の要件を十分充たしていることを示しています。従って尖閣諸島が国際法上も有効にわが国に帰属 していることは問題がありません。
(2)明確なサン・フランシスコ条約
以上の説明から明らかなように、尖閣諸島は先占という国際法上の合法的な行為によって平和裡にわが国の領土
に編入された(10)ものであって、日清戦争の結果、明治二十八年五月に発効した下関条約の第二条で、わが国が 清国から割譲を受けた台湾(条約上は「台湾全島及びその附属諸島嶼」となっています)の中に含まれるものではあ りません。
ところで第二次大戦中、一九四三(昭和十八)年には、英・米・華の三主要連合国は、カイロ宣言を発表し、その中
でこれら三大同盟国の目的は、「満州、台湾及澎湖諸島ノ如キ日本国カ中国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民 国ニ返還」することにあるという方針を明らかにしていましたが、わが国も、一九四五(昭和二十)年八月十五日ポツ ダム宣言を受諾し、九月二日降伏文書に署名したことにより、これを方針として承認するところとなりました。
カイロ宣言において示された主要連合国のこのような方針は、やがてわが国と連合国との間の平和条約の締結に
当り、実際の領土処理となってあらわれ、戦前のわが国の領土のうち、戦後も引き続きわが国の領土として残される ものと、もはやわが国の領土でなくなるものとが、法的に明らかにされました。
即ち、サン・フランシスコ平和条約においては、カイロ宣言の方針に従ってわが国の領土から最終的に切り離され
ることとなった台湾等の地域(第二条)と、南西諸島のように当面米国の施政権下には置かれるが引き続きわが国 の領土として認められる地域(第三条)とが明確に区別されました。
尖閣諸島が条約第二条でいう台湾等の地域に含まれず、条約第三条でいう南西諸島に含まれていることは、先に
詳しく述べた同諸島の領土編入手続及びカイロ宣言の趣旨から見て明らかであり、このことは前述した講和後の同 諸島に対する米国政府の一連の借置によっても確認されています。
また、サン・フランシスコ平和条約に基づく右のような領土処理は一九五二年八月に発行した日華平和条約第二
条(11)においても承認されています。なお、尖閣諸島が第二次大戦後も引き続きわが国の領土としてとどまること になったことに対しては、後で詳しく述べる通り、中国側も従来なんら異議をとなえませんでした。(12)
このように尖閣諸島を含む南西諸島は講和後も引き続きわが国の領土として認められ、サン・フランシスコ平和条
約第三条に基づき二十年間にわたり米国の施政の下に置かれてきましたが、昨(筆者注 一九七一)年六月十七日 に署名されたいわゆる沖縄返還協定により、昭和四十七年五月十五日をもってこれらの地域の施政権がわが国に 返還されることになったわけであります(同協定によって施政権が返還される地域は、その合意された議事録におい て緯度、経度で示されていて、尖閣諸島がこれに含まれていることは疑問の余地がありません)。
以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位をきわめて明瞭に物語っているといえましょう
(3)中国側の文書も認めている ※(13)
逆に、中国側が尖閣諸島を自国の領土と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第三条に基づいて米
国の施政の下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実(昭和二十八年十二月二十五日の米国民政府布告第 二十七号により緯度、経度で示されています)に対して、従来なんらの異議をとなえなかったことからも明らかです。 のみならず、先に述べましたように、中国側は、東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目されるようになった昭和 四十五年(一九七〇年)以後はじめて、同諸島の領有権を問題にしはじめたにすぎないのです。げんに、台湾の国 防研究院と中国地学研究所が出版した『世界地図集第一冊東亜諸国』(一九六五年十月初版)、および中華民国の 国定教科書『国民中学地理科教科書第四冊』(一九七〇年一月初版)(別添1)においては、尖閣諸島は明らかにわ が国の領土として扱われています(これらの地図集および教科書は、昨年に入ってから中華民国政府により回収さ れ、尖閣諸島を中華民国の領土とした改正版が出版されています)(別添2)。また、北京の地図出版社が出版した 『世界地図集』(一九五八年十一月出版)(別添3)においても、尖閣諸島は日本の領土としてとり扱われています。
※(1)一八八五(明治十八)年十月、共同運輸会社汽船出雲丸(林鶴松船長)による調が最初。その報告では「魚
釣島は一島六礁」としている。
※(2)本書V日本国内公文書上の尖閣列島、七三頁を参照。
※(3)下関条約第二条「清国ハ左記ノ土地ノ主権並ニ該地方ニ在ル城塁兵器製造所及官有物ヲ永遠日本国ニ割
与ス 一、(略)遼東半島の割譲 二、台湾全島及其ノ附属諸島嶼 三、澎湖列島即英国グリーンウィチ東経百十九 度乃至百二十度北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼」。
※(4)日本国との平和条約(サン・フランシスコ条約、一九五二年四月二十八日発行)「第二条(b)日本国は、台湾
及び澎湖諸島に対するすべての権利、塩原及び請求権を放棄する。」、「(イ)日本国は、新南郡島及び西沙群島に 対するすべての権利、塩原及び請求権を放棄する。」、「第三条(信託統治)日本国は、北緯二十九度以南の南西諸 島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、そうふがん孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含 む。)並びに沖の島島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に 対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含む これらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するも のとする。」。
※(5)群島組織法、米合衆国軍政府布令第二十二号(一九五〇年八月四日公布、同年九月一日施行、一九五二
年三月十五日廃止)第一条で「第十軍本部一九四五年九月七日付降伏文書所定の琉球列島及び北緯三十度以南 近海を四区域に分ち、各区域は爾今、これを群島と称する。」として奄美群島、沖縄群島、宮古群島、八重山群島を 経緯度で囲った。
※(6)琉球政府章典、米国政府布令第六十八号(一九五二年二月二十九日)第一章総則、第一条「琉球政府の
政治的及び地理的管轄区域は、左記境界内の諸島、小島、環礁及び領海とする。北緯二八度東経一二四度四〇 分の点を起点として北緯二四度東経一二二度北緯二四度東経一三三度北緯二七度東経一三一度五〇分北緯二 七度東経一二八度一八分北緯二八度東経一二八度一八分の点を経て起点に至る。」
※(7)琉球列島の地理的境界、米国民政府布告第二十七号(一九五三年十二月二十五日)これは「一九五一年
九月八日調印された対日講和条約の条項及び一九五三年十二月二十五日発行の奄美諸島に関する日米協定に 基づき、これまで民政府布告、布令及び指令によって定められた琉球列島米国民政府の地理的境界を再指定」した ものである。その境界は「琉球政府章典」と全くおなじである。
※(8)アメリカ軍は、一九五五年十月以来黄尾嶼を、一九五六年四月以来赤尾嶼を射爆撃場として使った。一九六
九年三月十七日付の「米軍の射撃演習の地城と範囲」には、Kobi Sho,Kume Jima,Sekibi Sho となっており、最後 に注として、I should also known as “Raleigh-Rock”Akaojima,and Ta-isho Jima. と書いている。ラレー岩は、一八 八六年三月刊行の海軍省水路部の水路誌に爾勤里岩と書かれているもので、一八三七(天保八)年、英艦ライラ号 が発見して海図に記入したといわれている。ちなみに天保八年には大塩平八郎の乱が在った。一九五八年七月一 日に琉球政府と古賀善次氏とのあいだで結ばれた「久場島の軍用基本賃貸借契約書」によれば、一九五九年六月 三十日までの一年間の使用料は、五、七六三ドル九三セントであった。それが一九六七年度では年間一万五七六 ドルとなり、古賀善次氏は、四,九一一ドルの源泉徴収税を差引かれ、五、六六五ドルを手にした。
※(9)領域表示板、琉球政府では警告板は、沖の北岩、沖の南岩にも建てるはずだったが風波が高く危険で上陸
することも、船が停泊することもできなかった。この警告板設置の出張復命書には、出張先として尖閣列島(@魚釣 島、A南小島、B北小島、C黄尾嶼、D赤尾嶼)となっている。
※(10)傍点は筆者。
※(11)「日台条約」(一九五二年八月五日)第二条(領土権の放棄)「日本国は、一九五一年九月八日にアメリカ
合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下サン・フランシスコ条約という)第二条に基づ き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承 認される。」。この中の新南群島は一九三九(昭和十四)年三月三十日に「先占」によって日本領として高雄市の管 轄に編入されたものである(宮崎繁樹著『国際法』日本評論社刊、二一二〜三頁)。「先占」による領土取得をしたの に放棄した理由は何か。それは「無主の地」ではなく中国領土であったからである。西沙群島については中国とフラ ンスとのあいだに領土権についての糾争があった。西沙群島には燃鉱石があった。「従って日本としては領土権とい うものを特に主張したことはございませんけれども、」いろいろな意味で、ある場合には、これは事実こっちのものであ るということを言ったこともないことはない」(一九五二年五月二十八日「日台条約」についての衆議院外務委員会に おける岡崎勝男外務大臣答弁)という西沙群島も放棄した。西沙群島もまた中国領である。日本が領土主権をとくに 主張したことのないこの群島も放棄してしまった。無主地の先占をしたのだから返す必要がないということが通用しな い実例である。
※(12)一九四九年十月一日、中華人民共和国と同時に、「中華人民共和国中央政府のみが中華人民共和国を
代表する唯一の合法的政府」であることを全世界に宣言した。一九四九年十一月十五日、周恩来外交部長は、「い わゆる『中国国民政府代表団』の国連における合法的地位」を否認した。一九五〇年六月二十八日、中国はアメリカ の台湾に対する武力行使も非難した。すなわちアメリカのトルーマン大統領が六月二十七日、中国の台湾解放を武 力に訴えても阻止すると声明したことは中国領土に対する武力侵略であり、国連憲章に対する徹底的破壊であると 非難したもの。一九五〇年十二月四日、対日講和問題についての周恩来外交部長の声明(要旨)では、中華人民 共和国中央人民政府は、中国を代表する唯一の合法政府であり、この政府が対日講和の準備、起草、調印に参加 しなければならないことを声明する。もし中華人民共和国の参加がないならば、その内容と結果がどうであろうとも、 中央人民政府は、それらをすべて不法なもの、したがってまた無効なものと認めるものである。(中略)と述べ、琉球 列島と小笠原諸島については、カイロ宣言でもポツダム宣言でも、どこにも信託管理という決定はないし、さらに「アメ リカをその管理人とする」というようなことは、どこにもいわれていないのである。一九五一年九月十八日、サン・フラ ンシスコ対日講和条約締結に関する周恩来外交部長の声明(要点)では、中華人民共和国中央人民政府は、もう一 度声明する。サン・フランシスコ対日講和条約は、中華人民共和国がその準備、起算および締結に参加していないこ とから、中央人民政府は、それが不法のものであり、無効であると認め、従って絶対に承認できないものであると述 べている。一九五二年五月五日、周恩来総理兼外交部長は、サン・フランシスコ条約と「日台条約」を不法かつ無効 と否認した。対日講和の準備、起草、調印は米、英、ソ、中の四カ国によっておこなわれることになっていた。それゆ え、中華人民共和国の唯一の合法的な中央人民政府が参加していないサン・フランシスコ条約を、中国は不法かつ 無効とし、琉球列島と小笠原を米国の信託管理下におくことは不法だし、「日台条約」は不法かつ無効であると宣言 した。外務省が尖閣列島はサン・フランシスコ条約第二条、第三条および「日台条約」第二条においても承認されて います、といっているが、中国はサン・フランシスコ条約、「日台条約」そのものを不法かつ無効と宣言したのだから、 これはもっとも根元的な否定である。「中国側も従来なんら異議をとなえませんでした」というのは誤りである。
※(13)別添1の「琉球群島地形図」は、魚釣島、黄尾嶼、北小島、南小島、赤尾嶼となっており、確かに日本領と
して海域に線引きされている。それを別添2の改訂版で釣魚台、黄尾嶼、北小礁、南小礁、赤尾嶼となっており、線 引きも改められている。別添3の地図「琉球群島」には魚釣島、尖閣列島、赤尾嶼となっているが、これは別添1図 のように明確に琉球の範囲に入っているものではなく、台湾と与那国島とのあいだに短い線が引かれているだけで ある。しかし魚釣島という日本名が書かれており釣魚島ではない。この「琉球群島」一頁には九州、四国、本州、北 海道と神津島、三宅島、御蔵島、、八丈島、明神礁もともに書かれている。このような北京で出版した地図があるの だから、外務省はどうしてこれを有力な資料としてもっと強く領有権を主張しないのか。沖縄返還協定に尖閣列島を どうして明記しなかったのか。どうしてこの地図を「尖閣諸島について」の最後にもってきたのか。じつは、尖閣列島 問題はこのような地図だけで解決するような問題ではないのである。一九七二年五月一日発行の現代中国語会話 教室編訳『釣魚台事件の真相』爾同教室調べの「日本地図の面から見た尖閣列島の真相」がある。その付表に日 本の学校で使っている地図のうち、尖閣列島の記載のあるもの、ないものを挙げている。本書九二頁の代2表は、こ れをもとにして作製した。『高等地図帳』(二宮書店刊、一九六六年一月十五日)の「日本の位置、地形、地質」の頁 には尖閣列島は載っていない。ところが一九七二年四月十日発行のものには尖閣列島が書き加えられ、日本領と なるように台湾とのあいだに長い線引きがされている。ところがこの改訂された地図帳のうち「南西諸島」の部には、 尖閣列島は全く書かれていない。政府は、尖閣列島は南西諸島の一部だと繰り返し主張してきたが「南西諸島」の 部に、尖閣列島は書かれていないのである。しかも尖閣列島が問題になったあと改訂出版された地図帳にである。 そして外務省にとって何よりも弱い点は、「無主地の先占」をしたと主張しても、わが国では尖閣列島の個々の島名 を公式に確定しておらず、中国がつけた島名を沖縄返還協定の附属文書にも使っているということである。「無主地」 であれば、当然島名を公式に確定して、地図にも名記すべきである。外務省情報文化局の「尖閣諸島について」も、 「わが国はこう考える」という見解を述べている。しかし国民が知りたいのは外務省がどう考えるかということでなし に、事実はどうであったのかということなのである。
第2表 日本地図における「尖閣列島」記載の実態
X 中国の領有権主張
中国は、わが国の尖閣列島領有主張に対して繰り返し抗議したが、そのなかから一九七一年十二月三十日付「中
華人民共和国外交部の声明」(『北京周報』一九七二年第1号)と北京周報編集部の『釣魚島などの島嶼は昔から 中国の領土である』(『北京周報』一九七二年第1号)の全文を紹介する。
中華人民共和国外交部の声明
日本佐藤政府は近年らい、歴史の事実と中国人民の激しい反対を無視して、中国の領土釣魚島などの島嶼にた
いして「主権をもっている」と一再ならず主張するとともに、アメリカ帝国主義と結託してこれらの島嶼を侵略・併呑する さまざまな活動をおこなってきた。このほど、米日両国の国会は沖縄「返還」協定を採決した。この協定のなかで、米 日両国政府は公然と釣魚島などの島嶼をその「返還区域」に組み入れている。これは、中国の領土と主権にたいす るおおっぴらな侵犯である。これは中国人民の絶対に容認できないものである。
米日両国政府がぐるになってデッチあげた、日本への沖縄「返還」というペテンは、米日の軍事結託を強め、日本
軍国主義復活に拍車をかけるための新しい重大な段取りである。中国政府と中国人民は一貫して、沖縄「返還」の ペテンを粉砕し、沖縄の無条件かつ全面的な復帰を要求する日本人民の勇敢な闘争を支持するとともに、米日反動 派が中国の領土釣魚島などの島嶼を使って取引をし、中日両国人民の友好関係に水をさそうとしていることにはげし く反対してきた。
釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域のな
かに含まれており、それは琉球、つまりいまの沖縄に属するものではなくて、中国の台湾の附属島嶼であった。中国 と琉球とのこの地区における境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある。中国の台湾の漁民は従来から釣魚島な どの島嶼で生産活動にたずさわってきた。日本政府は中日甲午戦争を通じて、これらの島嶼をかすめとり、さらに当 時の清朝政府に圧力をかけて一八九五(筆者注 明治二十八)年四月、「逮捕湾とそのすべての付属島嶼」および 澎湖列島の割譲という不平等条約―「馬関条約」(筆者注 下関条約)に調印させた。こんにち、佐藤政府はなんと、 かつて中国の領土を略奪した日本侵略者の侵略行動を、釣魚島などの島嶼にたいして「主権をもっている」ことの根 拠にしているが、これは、まったくむきだしの強盗の論理である。
第二次世界大戦ののち、日本政府は不法にも、台湾の附属島嶼である釣魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリ
カ政府はこれらの島嶼にたいしていわゆる「施政権」をもっていると一方的に宣言した。これは、もともと不法なもので ある。中華人民共和国の成立後まもなく、一九五〇年六月二十八日、周恩来外交部長は中国政府を代表して、アメ リカ帝国主義が第七艦隊を派遣して台湾と台湾海峡を侵略したことをはげしく糾弾し、「台湾と中国に属するすべて の領土の回復」をめざす中国人民の決意についておごそかな声明をおこなった。いま、米日両国政府はなんと不法 にも、ふたたびわが国の釣魚島など島嶼の授受をおこなっている。中国の領土と主権にたいするこのような侵犯行為 は、中国人民のこのうえない憤激をひきおこさずにはおかないであろう。
中華人民共和国外交部は、おごそかにつぎのように声明するものである―釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小
島、北小島などの島嶼は台湾の附属島嶼である。これらの島嶼は台湾と同様、昔から中国領土の不可分の一部で
ある。米日両国政府が沖縄「返還」協定のなかで、わが国の釣魚島などの島嶼を「返還区域」に組入れることは、ま ったく不法なものであり、それは、釣魚島などの島嶼にたいする中華人民共和国の領土の主権をいささかも変えうる ものではないのである、と。中国人民はかならず台湾を解放する!中国人民はかならず釣魚島など台湾に附属する 島嶼を回復する!
釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である
日本の首相佐藤栄作は日本国会に、いわゆる沖縄「返還」協定を強行採決させる過程で、中国の釣魚島などの島
嶼は「日本の領土」であると狂気のようにわめきたてた。これは日本軍国主義とアメリカ帝国主義が互いに結託し て、中国領土併呑の陰謀に拍車をかけていることを物語っている。
共同通信の伝えるところによると、佐藤は十一月九日の参議院予算委員会で「尖閣列島(訳注―すなわち中国の
釣魚島などの島嶼のこと、以下同じ)は、琉球列島の一部分として、アメリカの施政権のもとにおかれている地域で あり、今回の協定に日本への返還が明記されている」と語った。日本の外相福田赳夫も同じ席で「この列島は日本 の領土であり」、「その防衛問題ももちろん含まれている」とのべた。
歴史の事実を変えることはできない
釣魚島などの島嶼が、昔から中国の領土であることは、もともとなんら疑問の余地のないことである。佐藤の手合
は理不尽にも、さかんにさわぎたてているが、いちはやく中国の釣魚島などの島嶼を奪いとろうとする日本反動政府 の侵略的野望を暴露するだけであって、いささかも歴史の事実を変えうるものではない。
中国の明朝は倭寇の進入・攪乱に対抗するため、一五五六年胡宗憲を倭寇討伐総督に任命し、沿岸各省におけ
る倭寇討伐の軍事的責任を負わせた。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などの島嶼は当時、中国の海上防衛範囲に含まれ ていた。中国の明、清両王朝が琉球に派遣した使者の記録と地誌についての史書のなかでは、これらの島嶼が中 国に属し、中国と琉球の境界は赤尾嶼と古米島、すなわち現在の久米島との間にあったことが、いっそう具体的に 明らかにされている。
一八七九(筆者注 明治十二)年、中国の清朝の北洋大臣李鴻章は、日本と琉球の帰属問題について交渉したと
き、中日双方は琉球が三十六島からなり、釣魚島などの島嶼は、全然そのうちに含まれていないことを認めている。
釣魚島などの島嶼が中国に数百年も属してきたのち、日本人はようやく一八八四年になって、これらの島嶼を「発
見」した。日本政府はただちにその侵略・併呑をたくらんだが、当時はあえてすぐさま手を着けようとせず、一八九五 年、甲午戦争で清朝政府の敗北が確定的となったときに、これらの島嶼をかすめとった。つづいて、日本政府は清朝 政府に圧力をかけて「馬関条約」を締結させ、「台湾とそのすべての付属島嶼」および澎湖列島を日本に割譲させ た。
以上にのべたいくつかの歴史的事実が十分に立証しているように、釣魚島などの島嶼はむかしから中国の領土で
あり、中国の台湾に付属する島嶼である。いわゆる「尖閣列島」は「琉球列島の一部分である」などという謬論は、日 本反動派の野望を暴露するだけである。
米日反動のむだな策動
アメリカが沖縄「返還」協定にもとづいて、かれらに占領されていた中国の領土釣魚島などの島嶼を「返還区域」の
なかに入れるというにいたっては、いよいよデタラメもはなはだしい。第二次世界大戦後、日本帝国主義は台湾と澎 湖島を中国に返還した。ところが台湾に付属する島嶼である釣魚島などの島嶼は日本によってアメリカの占領にゆだ ねられた。これはもともと不法である。アメリカは第二次世界大戦後、日本の沖縄を占領した。かれらが沖縄を全面 的かつ無条件に日本に返還することは、当然なことであるが、かれらが不法に占領していた中国の領土釣魚島など の島嶼を「返還区域」のなかに入れる権利はまったくないのである。
佐藤政府は中国のこれらの島嶼を手に入れようとして、歴史の事実をねじまげ、強盗の論理をふりまわすほかに、
これらの島嶼の「領有」という既成事実をつくりだすために、さまざまな陰謀活動をおこなっている。一九七〇年七月、 一隻の琉球沿岸巡視艇(筆者注 一五〇トンの傭船第三白洋丸)が釣魚島などの島嶼におもむき、
不法にもこれらの島嶼が琉球に属することを示す標識を立てた(筆者注 琉球列島住民以外の者が入域すると告訴
されるという日、中、英文の警告板)。同十一月、日本反動派は蒋介石一味とグルになって、これらの島嶼の領有
権をめぐる論争を一時「タナ上げ」して、先に「協力開発」なるものをおこなうという陰謀をたくらみ、先手をうってこれら
の島嶼付近の海底石油を略奪しようとした。
一九七一年いらい、アメリカから沖縄「返還」協定の調印にともなって、佐藤政府は、釣魚島などの島嶼は「日本の
領土」であると再三叫び、アメリカから沖縄の「施政権」が「返還」されると同時に、武力で「尖閣列島を守る」と揚言 し、また釣魚島などの島嶼を日本の「防空識別圏」内にくみ入れることを公然と決定した。これは日本軍国主義がふ たたび武力で中国の領土を不法占領しようとしていることを物語っている。
米日反動派が中国の領土釣魚島などの島嶼にたいしてやっていることのすべては、沖縄「返還」協定が大ペテン
であり、アメリカ帝国主義にひきつづき沖縄を不法占領させ、日本全体を「沖縄化」させるだけでなく、日本軍国主義 の対外侵略、拡張を励まし、支持するものであることを、いま一度雄弁に物語っている。
中国人民は、沖縄の即時、全面的、無条件返還を要求する日本人民の闘争をだんこ支持し、日本軍国主義者がこ
の機に乗じて中国の領土を侵略・併呑することを絶対に許さないし、米日反動派がこの機に乗じて中日両国民のあ いだに水をさすことも絶対に許さない。中国人民はかならず台湾を解放する。中国人民はまたかならず釣魚島など台 湾の付属島嶼をも回復する。米日反動派がどんな手管をもてあそぼうとも、それはすべて徒労である。
一九六九年十一月の佐藤・ニクソン会談はアメリカ軍の軍事基地付き、表面は核抜き返還が話しあわれ、アメ
リカが日本に返すのは施政権だけで、沖縄のアメリカ軍基地はそのまま使用されることになった。共同声明では、台
湾の安全は、「日本の安全にとってきわめて重要な要素」であり、また朝鮮は「日本の安全にとって緊要である」と述 べた。この共同声明は、中国、北朝鮮はもちろんアジア諸国に日本軍国主義の復活として厳しい警戒心をもってうけ とられた。中国は日本軍国主義復活に警告を発した。
ハリデイ(Jon Halliday)とマコーマック(Gavan McCormack)著『日本の衝撃』(実業の日本社刊、一九七三年、原著
Japanese Imperialism Today)は、帝国主義という概念を、先進資本主義諸国のブルジョアジーが、その政治的、 経済的利益のため、第三世界の政治、経済、社会、文化に介入する全過程に適用して使っているが、この本の急進 的な著者たちの目的は、かつて軍事的に維持できなかったアジア支配の試みを、日本のブルジョアジーがどのよう にして、かつ、どの程度まで再現しようとしているのかという点を明らかにすることであったとしている。湖の本のなか に、釣魚列島にねむる宝≠ニして尖閣列島周辺、台湾海峡の石油の問題をとりあげている。一九七一年十月に発 表された日本政府の『資源白書』は「約二億ニ、○○○万ドルを投じて、それまでに合計二一の開発計画がすすめら れたが、このうち、いま商業ベースで石油生産をおこなっている会社は、アラビア石油一社にすぎない」と述べてお り、このような日本は黄海から東中国海にある石油、釣魚列島の石油になみなみならぬ関心をよせているが、中国 は、釣魚列島の運命におこりつつある現実を、完全に把握しており、けっしてこれを黙認しないという決意をはっきり 表明した、として一九七〇年十二月四日の新華社電をあげている。
Y 南方同胞援護会の見解と問題点
(1)「尖閣列島と日本の領有権」
尖閣列島問題について、なんとも不思議に思えるのは、南方同胞援護会の活躍である。この援護会は総理府の外
郭団体でる。一九七一年三月二十五日発行の同会機関誌『季刊沖縄』は尖閣列島を特集し、会長大浜信泉氏の 「尖閣列島特集号の発行にそえて」という発刊の辞を巻頭に載せている。
尖閣列島については、尖閣諸島と呼んでいる文献もあるが、ここでは一般にしたしまれている尖閣列島の呼称を用
いることにする。ともあれ、この列島はいまや天下の視聴を集め、国内的にも国際的にも大きな問題を提起している。 地図のうえでは、その所在をつきとめるのに苦労するほどの粟粒にもたとうべき小島の群にすぎないが、それが急に 脚光を浴びて国際舞台に登場して来たのである。その理由は、一言にしてつくせば、海洋資源の調査開発の技術が 飛躍的に進歩発達したお陰であるが、とにかくこの列島の海底には、良質かつ豊富な油田が埋蔵されているとの公 算が大きくなったからである。
沖縄と中国のとの間には、古くからいわゆる朝貢貿易が行われ、船舶の往来が頻繁であったが、尖閣列島はその
航路上に点在しているので、当時の航海者にとっては絶好の標識の役目を果たしたとみえて、、沖縄側の文献にも 中国側の文献にも、古くからこの島にふれた記事を散見する。しかし明治年間に、これを日本の領土に編入する行政 措置がとられるまで、これを自国の領土とし宣言した国もなければ、実力的にこれを支配した国もなく、またわが国の 領土に編入されてから、これに対して意義を唱えた国もかつてない。
因みにこの列島は、行政区域としては八重山群島中の石垣市に属し、土地台帳のうえでは、同市登野城の地番
が附されている。当初はむろん国有地であったが、明治二十九年に古賀辰四郎氏が資源開発のために払下げを受 け、現在登記簿面では、その相続人古賀善次氏の所有地になっている。
このように尖閣列島が日本の領土であり、その所有権の帰属も疑いをさしはさむ余地のないほど歴然としている
が、この近海の油田の問題が浮かびあがって来ると、寝た児が呼び覚まされたかのように台湾の中華民国政府は、 非公式ながらも領土権を主張し、さらに日台両国の協力による開発計画が噂にのぼると、条件反射のよううに中共 側からも横槍がさし出されている。尖閣列島は幸か不幸か、中国大陸に接続するいわゆる大陸棚の片隅に位置して いる。このことは、日本にとっては有力な足掛かりであるが、大陸棚理論との関連においては、いい掛かりをつけら れる可能性を内包している。要するに尖閣列島近海の海底資源の問題は、一面においては領土権の問題と関連 し、地面においては大陸棚理論とからみ。将来国際的論議を招く形勢にある。
南方同胞援護会はこのことを憂慮し、日本の立場を有利にするためには、一日も早く調査を進め、実績をみあげて
ておく必要を痛感し、このことを政府に進言し、その結果三年来日本政府の事業として、巨額の資金を投じて科学的 調査が継続的の実地されている。
それと同時に援護会は、尖閣列島の領土権の裏付けとなるべき資料を可能な限り手びろく各方面から収集すると
ともに、大陸棚理論その他の関連問題についても、あるいはそれぞれの専門家に研究を委託し、あるいは研究会を 組織して討議の形式により問題の究明につとめて来た。
本号は、これらの調査研究の成果の集大成ともいうべきものであるが、それが尖閣列島近海の開発事業の推進に
寄与するとともに、他日これをめぐって国際的紛争が生じた場合には、もっとも有力な参考資料になるであろうことを 信じて疑わない。
こと国家領土問題については、日本政府自らが、領土権主張の根拠を直接的に示さなければならないのに、どうし
て南方同胞援護会は約一年もかけて、「尖閣列島の領土権の裏付けとなるべき資料」を集めなければならなかった のか。」どうして「尖閣列島研究会」をつくったのか。援護会は「埋づもれた資料の収集のため、沖縄本島及び現地石 垣島へ、奥原敏雄国士舘大学講師(筆者注 現在教授)を派遣して」、「約二百点、予想以上の多数の資料と、思いも よらない貴重な公文書・古文書等が入手できた」と『季刊沖縄』第五十六号の編集後記に書いている。しかし、その 貴重な文書のなかには、領土権主張の根拠とならないもの、または根拠としてはならないものがいくつもある。ま た、もし、奥原教授と別の立場に立てば、苦心して集めた領土権主張の根拠としての資料は、その価値を失ってしま う(「尖閣列島領有権の根拠」『中央公論』一九七八年七月号参照)。
尖閣列島研究会(以下研究会と略する)は、約一年もかかって基礎資料の収集に当たった。研究会は研究の結論と
して、「尖閣列島と日本の領有権」(『季刊沖縄』第五十と六号、一九七一年三月二十五日発行)を発表した。これは 奥原教授が書いたものであるから、同教授前掲『中央公論』論文を若干加味して要旨を述べる。
この研究会の論文は、序説、一、領土編入、ニ、領有権原確定までの経緯、三、第二次大戦後の法的地位、四、
アメリカ民政府及び琉球政府による施政権行使の状況、五、結論、から成っている。この論文からすると、一九七〇 年九月十七日に琉球政府が声明した「尖閣列島の領土権について」もおそらく奥原教授の手になるものであろう。
研究会の研究成果の要旨は、つぎのようなものである。
序説
尖閣列島は、国際法上の先占いもとづいて日本領土に編入されたものである。
尖閣列島の領土編入について、世界のいかなる国からも抗議を受けたことはなく、
平穏裡に領有してきた。
尖閣列島に対するわが国の領有権を立証するため、これまで一年間にわたって基礎
資料の収集をおこなてきたが、その作業も完了したので研究会の結論を発表する。
領有意思
日本が尖閣列島に対して間接的に領有意思を持ち始めたのは、一八七九(明治十二)年頃
からである。すなわち同年に刊行された英文の『大日本全図』(松井田忠兵衛編)には、すでに尖閣列島が個々の島
嶼の名称を付されて、日本の領土としてあらわれている(注 この地図では和平山、黄尾嶼 赤尾嶼といった名称を 用いている。また南北ニ小島及び附近の岩礁は、総称として凸島とされている。なお和平山は魚釣島のことであ る)。また一八八一(明治十四)年内務省地理局編纂の『大日本政府県分轄図』にも、同諸島が沖縄県のなかに見出 される。一八八五(明治十四)年沖縄県知事は大城永保氏から尖閣列島についての事情を聴取し、出雲丸を派遣し て実地調査をし、一八九二(明治二十五)年には軍艦門によって実地調査がおこなわれた。
編入措置
同諸島を沖縄県の所轄とし、国標を建設したいとの沖縄県知事の上申は、一八八五年一八九〇年と一八九三
年の三回にわたっておこなわれたが、一八九四(明治二十七)年十二月二十七日、内務大臣は沖縄県知事の上申に ついて外務大臣と協議したところ、外務大臣も閣議提出について同意した。ついで翌一八九五年一月十四日の閣議 は沖縄県知事の上申どおり尖閣列島を同県の所轄とし、標杭を建設することを承認、政府は一月二十一日沖縄県 知事に通知した。
領有権原確定までの経緯
一 沖縄県知事は、一八九六(明治二十九)年四月尖閣列島を八重山郡に編入し、国内法上の措置を完了。その
後一九〇二年十二月、さらに石垣島大浜間切登野城村に所属させた。
政府は尖閣列島中の魚釣島、久場島、北小島、南小島の四島を、八重山郡へ編入後国有地に指定し国有地
台帳に記載した。魚釣島及び久場島は農林省所管、南北ニ小島は内務省所管とされた。久米赤島は面積も小さい こともあって(周囲約二○○メートル――正木任氏)国有地への指示が遅れ、一九二一(大正十)年七月二十五日に内 務省所管とされ、島名も大正島と改称された。
ニ 一九〇三(明治三十六)年十二月に、臨時沖縄県土地整理事務局によって、最初の実地測量と地図の作製
がおこなわれた。
尖閣列島に対する実地測量は、一九一五(大正四)年日本水路部、一九一七年海軍水路部、一九三一(昭和
六)年に沖縄県営林署によっておこなわれている。一九〇〇(明治三十三)年に古賀辰四郎氏に頼まれて、黒岩恒、 宮島幹之助氏らの学術調査には、野村道安八重山島司が同行しており、一九三二年農林省の資源調査団が尖閣 列島に渡っている。これらは国家もしくは地方行政機関としての調査である。一八八四ごろ古賀辰四郎氏は人を派 遣して、尖閣列島のアホウ鳥の羽毛の採取、海産物の採集などやっているが、この時期の古賀氏の行為は私人の 行為である。
三 一八九六(明治二十九)年九月、政府は古賀辰四郎氏に対して魚釣島(釣魚島)、久場島(黄尾嶼)、南小島、
北小島の四島を期間30年の無料貸与を許可した。古賀辰四郎氏は一八九七年以降大規模な資本を投じて、尖閣 列島の開拓に着手した。彼は、魚釣島と久場島に家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構築し、海鳥の保護、実験 栽培、植林などをおこなった。一八九七年に五〇人、一八九八年に二十九人の労働者を尖閣列島に派遣し、さらに 一九〇〇年には男子十三人、女子九人を送り込んだ。古賀氏は開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ (鳥糞)の採掘をした。そして開拓殖産の功績によって一九〇九年に古賀氏は藍綬褒章を受けた。
四 一九一八(大正七)年、古賀辰四郎氏死去し、息子の善次氏が後を継ぎ事業を続けた。善次氏は魚釣島と南
小島でカツオブシ製造及び各種海鳥の剥製製造、、森林伐採、フカのひれ、貝類、べっ甲などの加工、海鳥の缶詰 製造などをやり、カツオブシ製造のため漁夫八〇人、剥製作りの職人七〜八〇人が魚釣島と南小島に居住してい た。アホウ鳥の鳥羽採取は乱獲と猫害(注 ペットとして飼っていた猫は二、〇〇〇匹にも増えていまい、猫に食わ れた海鳥が大分あったそうである)などのため一九一五年以降中止した。グアノの採集も第一次世界大戦で船運賃 が高騰し、採算が取れなくなって中止した。
五 一九二六(昭和元)年、国有地四島の無料使用期間が切れたので、政府は以後一年ごとの契約にしたが、古
賀善次郎氏は有料払下げを願い出て、政府は一九三ニ年三月三十一日に国有地を古賀氏に売った。売買価格は 魚釣島一、八二五円、久場島ニ四七円、南小島四七円、北小島三一円五〇銭であった。
六 一九一九年中国福建省恵安県の漁民男女三一人が魚釣島附近で遭難し、同島に避難した古賀善次氏らは
これを救助し、石垣村に収容し、全員を中国に送還した。これに対して中華民国駐長崎領事より石垣村長と古賀善 次氏ら四名に感謝状が送られたがその感謝状のなかで、漁民の遭難場所を、日本帝国沖縄県八重山尖閣列島内 和洋島と明記している。和洋島とは和平山とも呼ばれ魚釣島のことである。
アメリカ民政府及び琉球政府による施政権行使の状況
一 サン・フランシスコ平和条約第三条のしたにおかれた尖閣列島に対しアメリカは、米民政府及びその管理化
にある琉球政府を通じて、施政権を現実に行使してきた。同列島中の唯一の国有地であり大正島を一九五六(昭和 三十一)年四月十六日以降、また久場島を一九五五年十月以前から米軍の実弾演習地として使用してきた。大正島 は米海軍によって、久場島の場合は一九五五年以前は米空軍によって、その後は米海軍によって使用された。米 民政府は琉球政府を代理人として、久場島の使用について古賀善次氏と賃貸借契約を結び、使用料を払った。
ニ 一九六九(昭和四十四)年五月、石垣市長も同行して、尖閣列島五島に行政標識を建立した。
三 一九七〇年七月、米民政府の資金で、不法入域者を処罰する警告板を大正島を含む五島に建てた。
四 一九六八年以降巡視船チトセがパトロールしている。一九六八年十月二日南小島に、一九七〇年七月十一
日に久場島にパトロールをおこない、台湾の労働者が沈没船解体などやっているのを発見し、ただちに退去を命じ た。しかし、米民政府は台湾から正規の入域を申請してきたので、これを許可した。
結論
以上のことから明らかなごとく、日本の平穏かつ継続的な実行支配は、わが国の領有権原を国際法上確定さ
せるのに、十分なものであると結論しうるのである。
研究会のこの「尖閣列島と日本の領有権」は極めて重要なものなので、これに対する疑念をひとつひとつ提出するこ
とにする。
(1)『季刊沖縄』第五十六号、九六頁に、平和山という島名で、島の輪郭と川と家屋と港などを簡単に書いた地図が
載っているが、おそらくそれはこのときに作製されたものであろう。平和山は中国名であり、これは魚釣島のことであ る。
(2) いくつかの問題点
先占について
研究会は、「尖閣列島は、国際法の先占にもとついて日本領土に編入されたものである」と述べている。ところで国
際法では、国家の行為による領土取得の原因として、つぎのものをあげている。
(1) 国家間の合意による領域の取得として、割譲と併合がある。明治軍国主義が台湾を手に入れたのは割譲によ
ってであり、朝鮮を手に入れたのは併合によってであった。
(2) 国家の一方的行為による領域の取得としては、征服と先占がある。征服とは、国家が実力で相手国を屈服さ
せて、その領域全部を取得することである。
(3) このほかに添付がある。自然現象によって領域が取得されてることである。海岸、河岸、湖岸が堆積によって
面積を増した場合である。
先占というのは、いずれの国にも属していない地域―無主の地―に国家が支配をおよぼすことによって、領域とし
て取得することである。この先占の制度は、欧州列強が、欧州以外の未開地を植民地として獲得するために機能し たもので、十九世紀前半以降アメリカ大陸やアフリカ大陸は、この先占によって強国の植民地とされた。この制度は もっぱら、強国の強盗的行為を隠蔽するために奉仕したものである。
先占の用件は、国家が領有の意思をもって、無主の土地を実効的に支配することが必要である。国際法上の無主
の地というのは、未だいかなる国家の領域にも属していない土地ということであって、そこに人が住んでいても、国家 の領土でなければ先占できる。先占の用件は具体的にいうとこうである。
(1) 先占の主体は国家である。国家の意思をもっておこなわなければならない。
(2) そして領有意思は、当該地域を国家の版図に編入する旨の宣言、立法上または行
政上の措置、他国への通告などによって表示される。他国への通告が先占完成のための必須条件であるかどうか
だが、通説は通告以外の手段で領有意思が表明されておればよいとしている。
(3) 無主の地に対して、実効的な占有をおこなわなければならない。無人島を発見し、て、そこに国旗を掲揚する
などの象徴的な領土編入行為を行っただけでは、有効な先占とはならない。実効的占有の意味について、アメリカ 政府は、土地の現実の使用、または定住といった物理的占有を指すと解しているが、国際司法裁判所判例は、土地 を支配する地方的権力の確立を意味すると解している。それゆえ、定住人口がっても、国家の支配が及んでいなけ れば有効的占有とはならないが、逆に無人島でも、軍艦や公船による定期的巡視などの方法で、国家機能をその地 に及ぼすことで、これを先占しうる。人間の居住の困難な極地でも、これを先占によって取得することができる。
研究会は、尖閣列島は先占によって、わが国の領土に編入したものだとして、国際法における先占の用件を満た
そうと苦心していることが、ありありちわかる。たとえば、一九〇〇(明治三十三)年に私人古賀辰四郎氏に頼まれて 宮島幹之助氏がおこなった調査に、八重山島司が同行したことを公式調査としていることである。
わが国政府は、研究会の成果にもとづいて、尖閣列島は先占によってわが国領土に編入したものだ、と公式に発
言し始めたと思う。あるいは、先占の裏付けとなるべき資料を、研究会がまとめたことによって、先占による領土編入 を主張し始めたと思う。
(1) 研究会がその研究成果を発表し、尖閣列島は先占によってわが国領土に編入したものだという主張をしたの
は、一九七一年三月二十五日である。
(2) 楢崎弥之助衆議院議員の質問に答えて、佐藤栄作内閣総理大臣が、尖閣列島は下関条約第二条にもとづい
て中国から割譲を受けたものではない、という答弁書を出したのは、一九七一年十一月十二日である。
(3) 外務省が記者会見をして、「尖閣列島の領有権問題について」という印刷物を配り、尖閣列島は先占によって
わが国の領土に編入したものだと発表したのは、一九七二年三月八日である。
(4) さらに、外務省情報文化局が、「尖閣列島について」という印刷物で、わが国は一八九五(明治二十八)年一月
十四日の閣議決定により、尖閣列島を沖縄県の所轄として、標杭をたてることを決めた。これは国際法的には先占 によって取得したものだ、といったのは一九七二年五月である。
それまで、わが国政府は、尖閣列島は、歴史的に一貫してわが国南西諸島の一部で、領有権問題については一
点の疑念もないほどに明白だ、と繰り返していってきた。それが先占による領土編入に変わった。
石油で、尖閣列島問題が燃え上がるまでは、国民のほとんどが、そういう列島のあることを知らなかった。それは
当然のことであった。明治政府は全くこれを発表しなかったからである。これが公表されたのは、『日本外交文書』第 十八巻と第二十三巻においてである。『日本外交文書』は外務省編纂、外務省蔵のもので日本国際連合協会が出 版した。第十八巻は一九五〇(昭和二十五年)十二月、第二十三巻は一九五二(昭和二十七)年三月刊行である。そ れまでは、尖閣列島の編入経緯について、これらの文書の原本を見ることができた人以外には、誰れも知らなかっ たといえる。また、出版されても、その実費領布価格が七、〇〇〇円、八、000円というものだから、誰れでも手軽に 買えるものではない。当時の大学卒の初任給は七、〇〇〇円から一万円ぐらいであった。
研究会の先占の主張は、『日本外交文書』にもとづいて、先占の法理をくみたてたものと思う。研究会の目的はは
っきりしており、その活動は、「尖閣列島に対するわが国の領有権原を立証する」ためであったからである。そして、 領土取得の原因としては先占を主張する以外にはない。先占か譲割かなどという選択の余地はない。譲割であれ ば、一九四五年十月二十五日に中国に返還せれてしまっている。
では、先占の手続きはキチンとおこなわれたのであろうか。
勅令はないし、閣議決定は公示されない。沖縄知事に、魚釣島および久場島に標杭を建ててもよいと政府が指令
したことも、公示されていない。また地方庁である沖縄県の告示もない。だから国民は誰も知らない。あったのは魚 釣島(釣魚島)、久場島(黄尾嶼)、
南小島、北小島を古賀辰四郎氏と息子の善次氏が政府から借りて、大正中期ごろまで事業をやったという事実だけ
である。奥原教授が、実効的支配こそ最も重要な先占の要件だと主張するのはこのためである。しかし、実効的支 配などと声を大きくしていう必要はない。日清戦争によって沖縄と台湾とのあだには国境がなくなり、台湾全島とその 付属島嶼と彭潮島まで、日本の版図に入れてしまったのだから、尖閣列島を実効的支配するのになんの遠慮もいら なかった。事実は無主地の先占ではなかった。
一八九五(明治二十九)年に無人であった尖閣列島は、一九三二(昭和七)年ころには、ふたたび無人島になってし
まっていた。それから四〇数年間無人のままである。
尖閣列島は第二の竹島(朝鮮では独島)かなどといわれるが、竹島の日本領土編入についても勅令は出されてお
らず、一九〇五年一月二十八日の閣議決定によってなされていた。大熊良一著『竹島史稿』によれば「閣議決定の 領土編入についての公示が、直ちに国の主権に及ぶという手続きは、明治初年以来明治政府によってとられてきた 慣行であり、こうした事例によって無主の島嶼が日本領に編入された事例が多くある」(井上清著『尖閣列島』現代評 論社刊、一三二頁)というのだが、この竹島についての閣議決定は、二月十五日付けで内務大臣より島根県知事に 「北緯三十七度三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島ヲ竹島ト称シ、自今其ノ 所属隠岐島司ノ所管トス。此ノ旨管内ニ告示セラルベシ」(大熊前掲書)と訓令した。そして島根管知事は二月二十二 日付島根県告示第四〇号をもって、その内容を公表した(上地龍典緒『尖閣列島と竹島』教育社刊、一二九頁)。
尖閣列島の領土編入以前、一八九一(明治二十四)年に小笠原の南々西の元無人島を先占によって領土編入をお
こなったときには、国際法の関係もあると思うので協議するとして、内務省から外務省に「小笠原島南々西沖合、北 緯二十四度零分ヨリ同二十五度三分、東経百四十一度零分より同二十五度三十分、東経百四十一度零分ヨリ同百 四十一度三十分ノ間ニ散在スル三個ノ島嶋」に硫黄島、北硫黄島、南硫黄島と島名を確定し、小笠原島の所属とす ることを相談し、閣議決定を経て一八九一年九月九日付勅令第一九〇号が官報に公示された。当然、勅令には位 置、島名、所轄地方庁が明確にされていた。さらにさかのぼれば、小笠原群島の領有については、一八七六(明治 九)年十月、政府は各国公使に通告した。
また、一九〇〇年九月十一日に閣議に提出された「無人島所属に関する件」は経緯度でその位置を明確にし、島
名を沖大東島と確定し、島尻郡大東島の区域に編入するとキチンと書いている。
ところが先占によって領土編入をおこなったという尖閣列島に対しては、このような手続きは全くとられていない。中
国とは関係のない島に対しては、キチンとした手続きをしたが、中国との関係を心配した尖閣列島に対しては、その ような手続きはなされなかった。それは、そのような必要が全くなかったからである。その理由は、日清戦争で日本 が大勝利をおさめたということである。これ以外に理由はない。
領土編入について
研究会は、尖閣列島の領土編入について「世界のいかなる国家からも抗議をうけたことはなく、同列島を平穏裡に
領有してきた」と述べている。
世界のどの国家からも抗議を受けなかったというが、問題は一八九五(明治二十八)年いまも日中間の問題であっ
て、対米問題や対ソ問題ではない。そして一八九四年から一九四五(昭和二十)年まで五〇年間、中国にとって日本 はもっとも凶悪な敵であったことをどう考えるのか。下関条約で沖縄と台湾とのあいだには国境はなくなったし、一九 三一年九月十八日柳条溝事以降、日本軍国主義は中国東北に対する本格的軍事侵略を開始し、一九三七年七月 七日の芦溝橋事件から日中戦争という日本の全面的な中国侵略戦争が大々的に開始されたのである。国際法が 侵略戦争を阻止したことはいまだかつてない。侵略の結果を割譲か、併合かなどと解釈するだけである。
領有意思について
研究会は、「日本が尖閣列島に対して領有意思をもち始めたのは、明治十二(一八七五)年頃からである」と述べて
いる。
その理由として、同年に発刊された英文の『大日本全図』(松井忠兵衛編)には、すでに尖閣列島の個々の島嶋名
が付されて、日本領土としてあらわれているからだというのである。そして、個々の島名とは和平山、黄尾嶋、赤尾 嶋だという。ところがこれらの島名はみな中国名なのである。海図、水路誌などには和平山Hoa pin su またはHoa pin san と書かれている。一八七九(明治十二)年刊行の地図を著者は見ていないが、地図だけから、日本が尖閣 列島に対して領有意思をもち始めたというのは誤りである。著者の手元にある一八九五(明治二十八)年三月に出版 された『地図選集三都市四十三県三府一庁大日本管轄分地図』(人文社刊)には尖閣列島は載っていない。そしてこ の地図の解説に「明治二十八年三月は、下関の春帆楼で日清講和談判」が開かれた時にあたり、日本の国土が、 すなおなたたずまいを、東海に見せているときの記録でもあって、これ以降日本地図は文字どおり塗り替えられてい った」と喜多川周之氏は書いている。この地図の久場島があるが、これは現在の島尻郡の久場島である。もし研究 会の論法でゆくなら、一八七九年にもち始めた領有意思を一八九五年には捨ててしまったことになる。
いったい明治十二年というのはどんな年だったのか。
明治政府が武力を背景にして、琉球に廃藩置県を強行した年であり、日中間で沖縄分島論がもちあがった年であ
る。尖閣列島どころではなかった。このような歴史的、政治的背景を無視して、同年に、わが国が尖閣列島に対する 領有意思をもち始めたということは、全く誤りである。奥原教授自身も「国際法が歴史的事実を無視するということを いみしていない」といっている。
また、一八八一(明治十四)年の内務省地理編集纂局の『大日本府県分轄図』にも沖縄県のなかに和平山、黄尾
嶼、赤尾嶼などの諸島が見出されるといっているが、それならどうして、尖閣列島はわが国のものであると単純明快 に主張できないのか。なぜ領有意思などというのか。
領土編入措置について
研究会は、尖閣列島の日本国領土編入について、「閣議も::これは決定し」、一八九六(明治二十九)年四月国内法
上の」領土編入を完了したとしている。
はたしてそうであろうか。
一八九五年(明治二十八)年一月十四日の閣議決定で、一八九〇(明治十八)年、一八八五(明治二十三)年、一八
九三(明治二十六)年の三回にわたって、沖縄県知事から上申のあった標杭建設を許可し、一月二十一日に政府は 沖縄県知事に対して、その実施方を指令したことによって編入措置を完了した、というわけだが、これはどうもおかし い。
尖閣列島が石油をめぐって大きな問題になったとき、尖閣列島は一八九六(明治二十九)年三月五日付け勅令第十
三号によって、日本領に編入されたとする主張がたくさんあった。それは、無主地の先占じゃ、まず国家の意思をもっ ておこなわなければならず、旧憲法では公式には勅令によらなければならなかったからである。
そこで勅令第十三号が登場する。
(1) 明治二十九年に日本領に編入されて以来、中国はもちろんどの国も主権の申し出、それに伴う争いはなかっ
た(『沖縄タイムス』社説、一九七〇年九月七日号)。
(2) 明治二十九年日本政府が尖閣列島の領有宣言をしていらい::(『琉球新報』社説、一九七〇年九月十三日
号)。
(3) 一八九六(明治二十九)年わが国の領土へ編入され、沖縄県に所属することになった(『毎日新聞』社説、一九
七〇年十二月六日号)。
(4) 一八九五(明治二十八)年一月十四日同列島が日本領であるとの閣議決定をおこなった。勅令第十三号はこ
の閣議決定を受けたもので、同列島は名実ともに日本領土となり、沖縄県八重山郡石垣村(現在の石垣市)に所属 することが決った(「尖閣列島解説記事」『東京新聞』一九七一年四月五日号)。
(5) 一八八一(明治十四)年、当時の政府内務省地理局の手により沖縄県下に表示されるなどの一連の「領有意
思」の表明を経て、一八九六(明治二十九)年四月、正式に日本領土として沖縄県八重山郡に編入されて以来・・・・ (『月刊社会党』一九七二年三月二十四日号)。
(6) 日本の主張は、一八九五(明治二十八)年の閣議決定を経て、一八九六(明治二十九)年の勅令第十三号によ
り領土=沖縄県の一部として公式に編入された事実にもとづいている(皆川洸論文「尖閣列島」)。
(7) 明治二十九年(一八九六)勅令第十三号によって日本政府が尖閣列島の領有宣言をおこなっている(新城利彦
論文「尖閣列島と大陸棚」)。
(8) 明治二十八年一月十四日の閣議を経て、翌二十九年四月一日勅令第十三号にもとづき日本領土と定めら
れ・・・・(金城睦論文「尖閣列島問題の周辺」『法律時報』一九七〇年十月号)。
(9) 明治二十八年(一八九五)年一月十四日閣議決定にもとづいて明治二十九年四月一日勅令第十三号を沖縄県
に施行されるのを機会に、国内法上の編入がおこなわれた(琉球政府声明「尖閣列島の領土権について」一九七〇 年九月十七日)。
これに対して、一八九五(明治二十八)年一月の閣議決定で日本領土に編入した、とする主張はつぎのようなもので
ある。
(1) 先占という国際法上合法的な行為で、明治三十九年一月十四日の閣議決定で翁を野一部として編入した(外
務省)。
(2) 国際法上から言えば先占の法理によって明治二十八年一月わが国は領土主権を確立してこれを沖縄の八重
山郡に属するものとし(当時の総理大臣伊藤博文、外務大臣睦奥宗光)、それ以後この事実は国際的に認められ何 らの講義を受けたこともなかった(「経済気象台―尖閣諸島の帰属問題」『朝日新聞』一九七二年五月十九日号)。
(3) 明治二十八年の日本編入以前は、国際法上の無主地だった。・・・明治二十八年に編入措置が閣議によって
おこなわれ・・・・(『朝日新聞』社説、一九七二年三月二日号)。
(4) 日清戦争の勝負が事実上決した明治二十八年一月の閣議決定により尖閣列島は国際法のもとづく先占の法
理を根拠に領土主権を確定した(『日本経済新聞』社説、一九七二年三月五日号)。
そこで、研究会の奥原茂雄教授は考え込んでしまう。
この閣議決定にもとづいた同列島に対する措置は、明治二十九(一八九六)年四月一日、勅令第十三号が沖縄県
に施行されるのを機会(傍点は筆者)におこなわれた。もっともこの勅令は、元来、郡編成に関する―沖縄県を五郡 (島尻、中頭、国頭、宮古、八重山)に画し、各郡に行政上属する地域を定めた―勅令であって、尖閣列島を直接の 対象とし、これを国内法上正式に領土編入すべく定められたものではない。しかし沖縄県知事は、勅令十三号の「八 重山諸島」に同列島が含まれるものと解釈(傍点は筆者)して、同列島を地方行政区分上、八重山郡に編入させる措 置をとったのである。沖縄県知事によってなされた同列島の八重山郡への編入措置は上述したごとく、行政区分譲 の編入を目的としたものであったが、尖閣列島に対する国内法上の領土編入措置は、八重山郡への行政編入以前 におこなわれていなかったから、同列島の八重山郡への編入措置は、たんなる行政区分上
の編入にとどまらず、どうじにこれによって国内法上の領土編入措置がとられたことになる(奥原茂雄論文「尖閣列島
その法的地位」『沖縄タイムス』一九七〇年九月四日号)。
勅令第十三号には尖閣列島の影も形もみえない。このとき行政区分上ソノ属する地域を明確にしたのは大東島で
ある。この勅令によって島尻郡の管下に入れた。大東島は一八八五(明治十八)年十月二十一日に、井上馨外務卿 が親展文書で山県有朋内務卿に回答した「沖縄県ト清国トノ間ニ散在スル無人島ニ国標建設ハ延期スル方然ルヘ キ旨回答ノ件」という文書のなかで、さきに踏査した大東島のことも官報や新聞に掲載しないようにしてくれといって いる島であり、古賀辰四郎氏が一八九一(明治二十四)年十一月二十日に丸岡莞爾沖縄県知事から開墾の許可をと ったものである。
奥原教授が『沖縄タイムス』に書いているところは、勅令第十三号は尖閣列島の領土編入をきめたものではない。
また国内法上の領土編入もなされていなかった久場島、魚釣島を、沖縄県知事という一地方長官の解釈(傍点筆者) で八重山郡に入れてしまったということである。尖閣列島もついては大東島のような勅令による措置は全くとられな かった。
また奥原教授は、編入された尖閣列島の範囲について頭をひねってしまった。
明治二十八年一月の閣議決定は、魚釣島と久場島に言及し、沖縄県の所轄と定めたが、尖閣列島はこの島の
ほかに南小島、北小島と、沖の北岩ならびに沖の南岩、飛瀬と称する岩礁、それに久米赤島からなっている。そうし てこれらの諸小島及び岩礁について、上述した閣議決定はまったくふれていない。このことは明治二十八年一月の 閣議が、これらの諸島についての領有意思をもっていなかったと解すべきなのだろうか(奥原教授前提論文)。
奥原教授が列島構成に苦心したときは、日本の領海は三カイリであった。そこで奥原教授は考えた。
久米赤島を除きこれらの小島、岩礁は魚釣島付近にすべて散在している。しかも南、北ニ小島と沖の北および南岩
は魚釣島の領海外一マイルから三マイルのところにある。したがって魚釣島に対してわが国が領有意思をあきらか にしたからといって、それだけで、これらの小島および岩礁にわが国の領有意思がおよんだことにはならない(奥原教 授前提論文)。
わかりやすく整理するとつぎのようになる。
(1) 幸なことに魚釣島の領海内約〇・八マイルのところに飛瀬という岩礁がある。
(2) 飛瀬は高潮時にも海面上に露呈しているから、国際法上島といえる。
(3) 飛瀬もまた三カイリの領海をもつ。
(4) 北小島は、この飛瀬の領海内約二・七マイルにあるから北小島にも領有意思が及んでいることになる。
(5) 北小島の領海内約二〇〇メートルに南小島があり、約二マイルのところに、沖の南岸がある。
(6) 沖の南岸の領海内二マイルのところに沖の北岸がある。
(7) このようにして飛瀬という岩礁を基点として考える場合には、魚釣島に対するわが国の領有意思は、これらの
小島、岩礁にもおよんでいることがわかる。
ところが、問題なのは、久米赤島(大正島・赤尾嶼)である。そこで奥原教授はまた考える。
久米赤島は久場島(黄尾嶼)から約九〇キロメートル、魚釣島から約一〇〇キロメートル、石垣港からは約一九五キ
ロメートルの位置にある。閣議決定では「八重山群島ノ北西ニ位スル九場島魚釣島ト称スル無人島」に標杭建設を 認めたわけだが、久米赤島は宮古島の北北東約七〇マイル、石垣島北北西約一〇五マイルにあって、閣議決定が いっているように「八重山群島ノ北西」にはない。日本外交文書によると一八八五(明治十八)年には「沖縄県ト清国 福州トノ間ニ散在セル無人島久米赤島ニ島」であった。それが一八九〇(明治二十三)年には「魚釣島外二島」であっ た。この経緯からすると、久米赤島を閣議決定がとくに除外するいしがなかったとしても、閣議決定に久米赤島が含 まれていると断定することはできない。したがって久米赤島については、一八九六(明治二十九)年の勅令十三号に より沖縄県知事の解釈で、同島を含めた尖閣列島全体が八重山郡に編入されたときに、領土編入されたと考えるべ きである(奥寺教授前提論文参照)。
久米赤島(赤尾嶼)もまた、沖縄県知事の解釈によって八重山郡に編入されてしまったのである。この久米赤島が
国有地に指定されたのは、一九二一(大正十)年七月で島名を大正島と改められたが、これは、沖縄県知事の解釈 による編入後二十五年目のことである。この大正島(赤尾嶼)に対して日本が領有意思をもったとしても先占の具体的 要件が欠けている。
ある島を領有する意思をもち、その島に国旗を揚げ、また何国領有と記した碑を建て、または諸外国に向かって
領有意思を通告しても、領有の実を挙げないときは、先占の効力は生じない。・・・・ことに先占の対象が無人島また は不毛の地で、国家機関を常置することは不可能であり、具体的要件として、ただ臨時的に派遣される国家機関の 巡視によってのみ実現される場合には、先占の意思が除外国に通告され、抗議が生じないのを確かめてめておくこ とは、後日の紛争を避けるために実際上重要である(岡田良一著『国際法』勁草書房刊、一二五〜七項)。
奥原教授の論法でゆけば、無主地の先占をしたという久米赤島には実効的支配がおこなわれていないから、現在
でも無主地だということになる。
むかしから中国や沖縄の歴史的ぶんけんにもあらわれ、欧州諸国にも知られていた赤尾嶼(赤嶼)、黄尾嶼、魚釣
島(釣魚嶼、和平山)先占したとすれば、なおさら先占の意思を諸外国に通知すべきであった。ところが、そのような心 遣いはまったく必要でない政治情勢があった。それは、日本が日清戦争に勝利したということである。
大正島に対して初めて標柱が建てられたのは、一九六九(昭和四十四)年五月で、尖閣列島が石油で大騒ぎにな
ってからであり、米国の施政権下の石垣市長の命令によってである。軍事演習地として砲爆弾を空と海からこの島ニ たたきこんだのは米国であり、それまで日本の実効的支配はまったくなかった。明治六年三月に外務省は琉球藩に 大中七流の国旗を私、沖縄の孤島の環境が明らかでないと外国から略奪される憂いもあるから、日の出より日没ま で久米島、宮古島、石垣島、西表島、与那国島に国旗を掲揚しなさいと申し渡したが、日本政府は尖閣列島のどの 島にも国旗を立てたことはなく、国標を建てたこともなかった。
しかし、あまり細かく先占の法理に引き込まれてしまうと、本筋を見失ってしまう。下関条約で澎湖諸島、台湾など
を奪ってしまい、沖縄と台湾とのあいだにまったく国境がなくなってしまったのだから、勅令をだそうがだすまいが、沖 縄県知事が標杭建設を実行しようがしまいが、そんなことは必要でなかったのである。
このことについて、奥原教授はこう書いている。
明治二十八年一月十四日(閣議決定)という時期は、すでに日清戦争において日本の勝利が確定的となり、講
和予備交渉がまさにはじまろうとしていた時期である。台湾を日本に対して割譲することについて、列強の承認も取 り付けていた時期である。政府がそうした時期に尖閣列島の沖縄編入を認めるに至った背景に、台湾も失うことを認 めた清国が、無主の地(傍点は筆者)のごく取るに足らない尖閣列島の帰属をめぐって、まず争うことはないであろう という政治的判断があったことは想像に難しくない::。
しかしながら重要なことは、そうした疑念はわが国が尖閣列島を領土編入する以前における尖閣列島の法的地
位が、中国領であったということが前提になっていることである。もし尖閣列島が中国領であったと仮定した場合、わ が国の立場はたしかに不利になる。台湾の附属諸島として尖閣列島を扱った場合、日清講和条約第二条は、台湾 およびその附属諸島を日本に割譲しているから、第二次世界大戦後わが国が台湾を放棄した結果として、尖閣列島 も・・・・放棄したことになろう・・・。
また仮に(尖閣列島を)台湾の附属諸島として扱わなかったとして、中国領である尖閣列島の領有権をわが国が
取得するためには、時効の法理による以外にはないということになる。ところが時効の法理は日清戦争といった事実 が存在しない場合に使い得る議論であって、もし日清戦争の存在を前提として、この問題を考える場合に、この法理 によってわが国が尖閣列島の領有権を取得したとする主張は論理としていいうるとしても、主張としてはきわめて弱 いものにならざるを得ない。なぜならば時効の法理を持ち出す以前に、中国領である尖閣列島をそうした時期に、わ が国が領土編入したという行為そのものが、日清戦争の結果として、そういった行為を可能ならしめたということにな らざるを得ないからである・・・・。
少なくとも尖閣列島が中国領であるという前提に立つ限り、それが台湾の附属諸島であろうとなかろうと、日本が
日清戦争の結果として、初めて取得が可能になった地域ということになるからである(奥原敏雄論文「尖閣列島領有 権の根拠」『中央公論』一九七八年七月号)。
国際法での国家の行為による領土取得の原因として、割譲、併合、征服、先占、添付などがあることは、まえにも
述べたが、日清戦争とポツダム宣言の受諾ということがある以上、わが国としては、尖閣列島の領有主張の根拠と しては、先占ということを主張する以外には道がない。領土取得の原因を割譲にするか、征服にするか、あるいは併 合にするかなどと選択する余地は全くないのである。だから、奥原教授は「私はあらゆる角度から問題を検討した結 果、わが国の領土編入以前に、尖閣列島が中国領であったという事実を見出すことは出来なかった。あるいは立証 できなかった。そのことは言い換えるならば、その地域は国際法上の無主地であった」(前提奥原『中央公論』論文) ことを強調する。そしてまた奥原教授はいう。
無主地を先占するにあたっての国家の領有意思存在の証明は、国際法上かならずしも閣議決定とか、告示と
か、国内法による正規の編入といった手続きを必要とするものではない。先占による領有取得にあたって、もっとも重 要なことは実効的支配であり、その事実を通じ国家の領有意思が証明されれば十分である::。
尖閣列島の自然環境や居住不適正を考えるならば、現実的占有にまでいたらなくとも国家の統治権が一般的
に及んでいたことを立証することができれば、国際法上列島に対する二本の領有権を十分に主張しえよう(奥原敏雄 論文「尖閣列島と領有権帰属問題」『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号)。
奥原教授は開き直ってしまったようである。いわゆる尖閣列島は各国によく知られた島々であり、一八八五(明治
十八)年に井上馨外務卿は、中国ではその島名もつけているのだからと、ただちに国標を建てることに反対し、西村 拾三沖縄県令も「清国トノ関係ナキニシモアラス」と懸念した島々である。それなのに編入措置をキチンとやらなかっ た。琉球政府もそうであったが、中国が付けた島名を今でもわが国政府は外交文書にまで使っていて、日本の島名 を公式に確定していない。島名も付けずにおいて、無主地の先占などというのはおかしくはないか。どうして閣議決 定とか告示とか、国内法による正規の編入を必要としないのか。この主張は奥原教授が一九七〇年九月四日付の 『沖縄タイムス』に書いていることとおおいに異なる。『沖縄タイムス』に書いた同教授の論文「尖閣列島 その法的地 位」では、沖縄県知事は勅令十三号の「八重山群島」に尖閣列島がふくまれているものと解釈して、行政区分上、八 重山郡に編入したものといい、この沖縄県知事の措置は同時に国内法上の領土編入措置をもかねたものだといっ て、勅令も否定しなかったし、国内法上の措置も否定していない。ところが一九七二年になると、勅令とか閣議決定 とか国内法による正規の手続きや公示などは必要としないという。これは奥原教授の研究の発展なのだろうか。そう ではあるまい。先占を主張しなければ日本領と主張できないのに、わが国政府が先占の手続きを何もしていなかっ たから、開き直ってしまったといってよい。奥原教授は尖閣列島に対する実効的支配を主張する為に、一九三二(昭 和七)年の農林省の地質調査、一九四〇(昭和十五)年の定期航空便阿蘇号が魚釣島に不時着したとき、八重山 警察が救助に向かったこと、一九四三(昭和十八)年の石垣測候所の調査、一九四五(昭和二十)年に台湾へ疎開 途中の沖縄県民が、米空軍の空襲に遭い漂着したのを、警察と軍関係者が救助に行ったことなど、公的行為を細か に挙げている。これは、無人島に対して国家機能を及ぼしていることを立証するためのものであろう。しかし、日清戦 争で沖縄と台湾の戸のあいだに国境がなくなったのだから、このような立証は不要である。
また、尖閣列島は日本のものであることは、中国も認めているとして、一九二〇(大正九)年に中国福建省漁民
男女三一人を救助したことに対して、中華民国駐長崎領事から豊川喜佐石垣村長、古河喜次氏外二名に感謝状が 贈られ、それには「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と書かれていることをも挙げている。しかし、これはあたりま えのことである。繰り返していうが、日清戦争後、沖縄と台湾とのあいだには国境はなく、尖閣列島は、先占か割譲 かという論議をひとまずおいて、実質的に日本領となっていたからである。そして、そのことを中国が認めたとしても 何の不思議もない。
第二次世界大戦後の法的地位について
また、奥原教授ばかりではなく琉球政府も日本政府も、米国民政府が木俣琉球列島の
地理的環界のなかに、尖閣列島が含まれているから、日本に領有権があることは明白だ
と主張するが、これはアメリカ軍の戦略上の必要から勝手に決めたものであるから、こ
れを領有権主張の根拠にしてはならない。
米民政府および琉球政府の施政権講師の状況について
大正島(赤尾嶼)、久場島(黄尾嶼)をアメリカ軍が軍用演習地として使用し、久場島
の使用料を古賀善次氏に支払ったこと、一九六九(昭和四十四)年五月に石垣市長も同
行して、尖閣列島に石垣市の行政標識を設立したこと、米民政府は一九六八(昭和四十
三)年以後軍用機による哨戒をおこなったこと、一九七〇(昭和四十五)年に尖閣列島
への不法入域者を罰する警告板を設置したことなどをあげているが、これらのことも尖
閣列島の領有主張の根拠にはならない。石垣氏が行政区域を明確にする必要があるとし
て、「八重山尖閣群島」に標柱を建てたのは、石油で尖閣列島の領有権が問題になってか
らである。これは尖閣列島がふたたび無人島になってから四〇年もたってからであり、
公表されていない一八九五年一月の閣議決定後七四年もたってからであった。わが国政
府はアメリカに対して尖閣列島の領有権を支持するように求めたが、アメリカは施政権
は日本に返還するが、領有権について主張の相違があれば当事者間で解決すべきだとい
う立場をとった。アメリカに頼って尖閣列島領有権を支持してもらおうとした日本政府
の企図は、拒否されてしまったのである。
(1)田畑茂三郎・石本泰雄『国際法』高文社刊、五四〜五項。宮崎繁樹著『国際法』日本評論社刊、二一三項。香西
茂・大寿堂鼎・高林秀雄・山手治之著『国際法概説』夕斐閣双書、一〇九〜一〇項。田岡良一著『国際法』頚草書 房刊、一二五項以下、を参考とした。
(2)奥原教授がマイルといっているのはカイリ(sea mile)のことである。
(3)海抜三・四メートル。
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クロソフト社の「ワード」の文字コードにないために変換されなかった文字です。「◆」は文字コートになかったために変 換できなかった漢字です。
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