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尖閣諸島の領有権問題      「参考資料(1) 論文・書籍04」



中央公論7月号
特集  日本国領土の範囲
   尖閣列島領有権の根拠
  1970年以前において中国と台湾は、明らかに、尖閣列島を日本領土と認めていた。
古文書を持ち出して主張するよりも、このことを説明すべきだ。
                       奥 原 敏 雄
                              (国士舘大学助教授・国際法)

 尖閣列島の考え方
 尖閣列島の領有問題を考えるにあたっては、次のことを明確にしておく必要があると思う。
 まず第一に尖閣列島をめぐる領土紛争は、この領土の権利、帰属をめぐる紛争であるということである。言い換える
ならば、この問題は政治的紛争ではなく、法的紛争であるということである。
 第二に、この問題は私的な紛争ではなく、台湾を含む中国と日本との間の国家間の法的紛争であるということであ
る。
 第三に、それが国家間の法的紛争であれば、当然のことであるが、国家の間を律する法、すなわち国際法に従っ
て問題を解決しなければならないということである。歴的見地から尖閣列島の領有権を主張することと、そのような主
張が法的に認められるかどうかとは、一応別個の問題であるという点を区別する必要がある。
 第四に、ただし今までに述べたことは、国際法が歴史的事実を無視するということを意味していないということであ
る。領土紛争が発生したとき、紛争の当事国はしばしば古文書の存在を理由にして、自国の領有権を主張してきた。
領土紛争に古文書が持ち出されることは、別段珍しいことではない。問題は領土紛争を解決するにあたって、紛争の
当事国によって提出された古文書が、国際法上に意味のあるものかどうかということである。
 第五に、実行的支配を要件とする先占の法理というものは、現代の国際法のもとでも有効なものであるということで
ある。学説、国際判例のいずれもこの法理の効力を否定していないということである。先占の法理が成立した動機、
すなわちヨーロッパ諸国による植民地獲得の過程において、その獲得手段として、この法理が使われたということ、
それを理由にこのような法理を認めないと主張するのは、法の成立動機と、その法の効力とを混同した議論といわな
ければならない。もしそうした主張が法的に無効としての効果を与えられ、かつ現実の国際社会に通用するとするな
らば、アメリカ合衆国、カナダ、ラテンアメリカ諸国、オーストラリア、ニュージーランドなどは国家としてさえ法的存在を
認められないということにならざる得なくなる。
中国もまた台湾、チベット、内蒙古、東北地方(旧満州)のかなりの部分、同じように日本も北海道、千島、小笠原諸
島などに対する領有権を認められないということにならざるを得ない。
 第二次大戦後、アジア、アフリカ地域の大部分は旧植民地国の支配から脱して、主権国家としての独立した地位を
獲得したが、旧植民地国との主権譲渡協定によって決定された領域の範囲は、若干の例外はあるけれども、旧植民
地国が先占の法則に従って取得し、行政的な範囲を定めていたところに準じられている。
 もしアフリカ地域に対して適用された先占の法理が無効であるというのであれば、旧オランダ領、旧イギリス領、旧フ
ランス領、旧ポルトガル領、旧スペイン領(旧植民地国のアフリカにおける領域、範囲は人為的なものであり、先占の
法理に従ったものである)の区別なく、独立したアフリカ諸国自身によって、その国家の境界が決定されなけばなら
ないということになる。
 だが、こうした主張は、とうていアフリカにおける国際法秩序の安定にとって耐えられるものでないことは、一見明ら
かであろう。アジア,アフリカ諸国自身、そうした主張をおこなっていない。反対に中印紛争にみられるごとく、インド
は旧植民地国本土であったイギリスの行為、たとえばマクマホン・ラインを理由にして、自国の領有権を主張してい
る。ここで先占の法理をやや長々と説明したのは、ともすれば先占の法理無効論が、植民地の否定という現代的な
正義の思潮と安易に結びつけられるばかりでなく、ある種の説得力をもっているからである。
 第六に、歴史的見地に立つ中国領有論の大部分は、これを法的な観点から分析するならば、いわゆる発見、命
名、領有意思の存在だけで、領有権の帰属が決定されると主張するにひとしこととなろう。だが、このような主張の歴
史的淵源自体は、初期の先占の法理にも存在したものである。発見(国家による領有意思を必要とする。単純な発
見、私人による発見を含まない)優先の原則は、ポルトガルとスペインが海上の支配権を握っていたヨーロッパ近世
初期から十八世紀の後半まで有効であったといえよう。そしてこの原則はアフリカ大陸を除く大部分の地域(アメリカ
大陸、東南アジアおよび中東地域)に適用されてきた。ただしこの場合の発見というのは、実際には地域的に限定さ
れたものであり、大陸の一部を発見したことにより、大陸全体の領有権を取得し得るというものではない。たとえばア
メリカ合衆国の独立以前において、同大陸はフランス,イギリス、スペインなどによって分割されてきたし、またその
領域範囲も、初期においてはすべての地域に及んでいたわけではない。その意味において、土地の現実的な占有と
いう、その後に国際法上必要とされる実効的支配の原則が、すでに暗黙のうちに妥当とされてきたともいえよう。した
がって歴史的見地から領有意思の存在を指摘し、その事実のみよって領有権が確定すると主張しうるためには、今
日においてそれが妥当しないにせよ、かっての先占の法理(そしてその成立動機は先に述べたとおなじである)の効
力をみとめなければならないことになる。


  明治二十八年における尖閣の位置

 尖閣列島をわが国が領土として収得するに至った国際法上の手続きは、先にも述べたように、先占の法理に基づ
くものである。ところで先占の法理の前提として、先占の対象となる地域がいかなる国の領土にも帰属しない無主地
であったということが必要となる。明治二十八年にわが国は尖閣列島を領土編入していたから、それ以前はわが国
の領土でなかったことはいうまでもない。もっともそのことは尖閣列島に対してわが国が全く領有意思をもたなかった
とか、その地域に領土的関心をもたなかったということではない。間接的なわが国の領有意識の表明は、明治十二
年ごろから始まっているといえよう。内務省の地理局によって公式に作成された地図のなかには、尖閣列島の島々
が沖縄県の行政管轄区域に入る島として記載されている場合もある。
 もっとも当時の我が国の公式地図における尖閣列島の島々の記載は断片的であり、記載されている場合もあれ
ば、そうでない場合もあるといった具合であった。また明治十七年ごろから古賀辰四郎が人を派遣して、列島のアホ
ウ島の羽毛の採取、海産物の採取などをおこなってきている。ただ、この時期における古賀辰四郎の尖閣列島にた
いする行為はあくまでも私人の行為であり、国家の意思の介在されたものではない。したがってその当時における尖
閣列島に対する古賀氏の行為をもって実効的支配の証拠とすることはできない。
 他方、明治十八年になると、沖縄県令が尖閣列島の所轄を明確にすることと、そこに国標を立てたい旨の上申が
太政大臣宛なされるようになる。そうした上申は明治二十三年と明治二十六年にもなされる。当時政府は尖閣列島
の島々が大東島諸島などと異なり、清国との国境にも近いため、また清国の新聞などにも、そのことについてとかく
の風評が立っているということを考慮し、国標をたてることは時期尚早である。適当な機会に国標の設置などはおこ
なうべしという結論に達し、ただ沖縄県例によって上申されていた大阪商船の出雲丸による列島の実地踏査のみを
許可するにとどめた。ここで国標の建設、所轄の明確化について政府は一応の見送りをおこなったが、しかし出雲丸
による列島の調査事実について、日本政府がこれを認めた事実は、その結果として出雲丸による実施踏査が国およ
び地方公共団体としての沖縄県による公的な行為であり、その意味においてわが国は、領土編入以前に、すでに実
行的支配として性格づけられ得るような統治権を行使してといえよう。
  ただ、ひとつここで問題になるのは、尖閣列島の国標建設などを見送った背景についてである。これは前述のよう
に、清国との国境に近いことと、清国の新聞などでもとかくの風評を立てていたことも配慮した結果によるものである
が、しかしそのことは決してわが国が尖閣列島の領土帰属について疑いをもち、中国の領土であるかもしれないとい
うことを考慮したものではない。無主地であっても両国の国境に近い島々をいずれかの国が編入するということに無
関心である国はない。
 しかも当時は無人のきわめて小さい島々であり、経済的価値も取るに足らないものと考えられていたから、そうした
島の問題をめぐって、清国との間に大きな政治的問題を抱えたくないと考えたとしても、それは同じような性質の問
題について、どこの国もとるような行動様式として、別段に異とするようなものではないといえよう。
 ただそれにもかかわらず、そうした懸念がなかなか消えないという見方がでてくるのは、わが国が尖閣列島を領土
編入した時期が問題となるからである。つまりわが国が尖閣列島を領土編入した明治二十八年一月十四日(閣議決
定)と言う時期は、すでに日清戦争において日本の勝利が確定的となり、講和予備交渉がまさに始まろうとしてた時
期である。政府がそうした時期に尖閣列島の沖縄県編入を認めるに至った背景に、台湾をも失うことを認めた清国
が,無主地のごく取るにたらない尖閣列島の帰属をめぐって、まず争うことはないであろうという政治的判断があった
ことは想像にかたくない。
 しかしながらそうした微妙な時期における領土編入が、ともすればわが国が尖閣列島の領土編入を見送ってきた
背景、あるいはそれを編入するに至った時期に、とかくの疑惑を生じさせ,日本は尖閣列島が中国領土であると思っ
ていて、ひそかに時期を狙い、日清戦争の結果として、日本が勝利を確定的なものとするに至った時期に、これを処
理したのではないかと疑問を持たせる余地を残すことになる。そしてこれは一般的にもっともな懸念だと思う。
 しかしながら重要なことは、そうした疑念はわが国が尖閣列島を領土編入する以前における尖閣列島の法的地位
が、中国領であったということが前提になっていることがある。もし尖閣列島が中国領であったと仮定した場合、わが
国の立場はたしかに不利になる。台湾の付属諸島として尖閣列島を扱った場合、日清講和条約第二条は,台湾お
よびその付属諸島を日本に割譲しているから、第二次大戦後わが国が台湾を放棄した結果として、尖閣列島もまた
サンフランシスコ平和条約,日華平和条約上,放棄したことになろう。
 また仮に台湾の付属諸島として扱わなかったとしても、中国領である尖閣列島の領有権をわが国が取得するため
には,時効の法理による以外にないということになる。ところが時効の法理は日清戦争といった事実が存在しない場
合に使い得る議論であって、もし日清戦争の存在を前提として、この問題を考える場合に、この法理によってわが国
が尖閣列島の領有権を取得したとする主張は論理としていいうるとしても、主張としてはきわめて弱いものにならざる
を得ない。なぜならば時効の法理を持ち出す以前に、中国領である尖閣列島をそうした時期に、わが国が領土編入
したという行為そのものが、日清戦争の結果として、そういった行為を可能ならしめたということにならざる得ないから
である。
 なぜならば日本は、カイロ宣言における日清戦争の結果として、清国から盗取した地域を日本に放棄せしめるとす
る内容をもった宣言を、ポツダム宣言で受諾し、かつそれと一体をなすサンフランシスコ平和条約にも署名しているか
らである。少なくとも尖閣列島が中国領であるという前提に立つ限り、それが台湾の付属諸島であろうとなかろうと、
日本が日清戦争の結果として、初めて取得が可能になった地域ということになるからである。
 したがって、尖閣列島の領有権帰属をめぐる問題の本質は、わが国が領土編入した明治二十八年以前における尖
閣列島の法的地位が、わが国から見れば無主地であったということ、中国および台湾から見れば、それが、中国領で
あったということのいずれかでなければならない。そうしてそのいずれかの結果として、尖閣列島の領有権帰属が決
定されることになる。
 私はあらゆる角度から問題を検討した結果、わが国の領土編入以前に、尖閣列島が中国領であったという事実を
見出すことはできなかった。あるいは立証できなかった。そのことを言い換えるならば、その地域は国際法上に無主
地であった。
 他方、尖閣列島が無主地であったということになれば、わが国が列島を編入した時期が日清戦争の勝敗の時期と
密接に関係していたとしても、そのことを理由にわが国の領土編入措置を非難することは当を得ていないということに
なろう。問題はきわめて簡単である。
明治二十八年以前における尖閣列島の法的地位をはっきりさせればよい。わが国が領土編入するにに至った政治
的背景だけを取り出して議論することは、法の問題をはなれた政治的な価値の選択を前提にした議論の展開に陥る
危険がある。

  中国領有権の根拠

 そこで次に中国領有論の論拠であるが、それらは実にさまざまな理由によってなされており、全体として、一つにま
とまった主張とはいい難いということである。尖閣列島の島々を記載する古文書の持つ性質(公的なものか否か)に
対する評価もまちまちである。ただ、それでも、中国領有論の論拠を強いて分類すれば、次の七つに大別できるかと
思う。そのうち一つは、国際法の観点からなされるもの(発見、命名、国家による領有意思の確認、実行的支配)であ
る。あとの六つは、歴史的観点からなされるものである。
 まずその第一は、琉球領の久米島に最も近い赤嶼をもって、中国と琉球との界をなすとする解釈(井上清氏、楊仲揆
氏ほか)であり、そうした解釈のよりどころとして、陳侃の『使琉球録』(一五三四年)と郭汝霖の『重編使琉球録』など
を指摘する。
 その第二は、魚釣台などが台湾の付属諸島であったする見方(方豪及び井上清など)であり、鄭舜功の『日本一
艦』(一五五六年)をその例としてあげている。
 第三は、汪楫の『使琉球雑録』(一六八三年)などにおける「中外之界」記載を、中国と外国との界であると解するこ
とによって、赤嶼と久米島との間の水城に中国・琉球の境界があったする説である。
 その第四は、林子平の『三国通覧図説』(一七八五年)における『三国通覧興(?)地路程全図』(一七八五年)の地
図の「色」を問題にし、中国大陸と魚釣台などが同色の「赤」とされているところから、これをもって魚釣台などが中国
領であったとする見方(井上清氏及び丘宏達氏など)である。
 その第五は,鄭若曾の『籌海図編』(一五六二年)巻一の「福建沿海山沙図」に魚釣台などの記載のあることをもっ
て、これらが中国領であったとする説(井上清氏)、あるいは、これによって当時魚釣台などが、明朝の海坊(倭寇取
締り)の範囲に置かれたことを立証しているとする主張(中華人民共和国)である。
 最後に、第六に,台湾の中華民国によって主張されている琉球が歴史的に中国領であったとの立場(現在でもな
お公式には、この主張を放棄していない)から、尖閣列島に対する領有権主張の正当性を強調する。


 台湾が中国領有なった年代

 1 陳侃及び郭汝霖使録 陳侃使録においては同書の『一一日夕、古米山が見えた。これすなわち----琉球に
属する----もの他』が問題にされる。古米山とは琉球領の久米島のことであるが、楊仲揆氏は、この部分から、それ
より手前の島々が中国領であったことが側面的に説明されているとする。また、郭汝霖使録については「赤嶼は琉
球地方とを界する山也」の部分が問題にされる。楊仲揆氏は、この文言から、赤嶼が中国と琉球との接する山(島)
であると解されるとする。井上清氏は、陳侃、郭汝霖使録の問題の部分をもって。魚釣台などの手前にある台湾を
「まぎれもない中国領である」とし、また花瓶嶼、彭佳嶼などを『自明の中国領』であるとされる。台湾や彭佳嶼など
が当時中国領あったか否かについては後でのべるとして、そうした前提を置かないかぎり、赤嶼が中国と琉球との
界をなすと主張することは困難である。
 井上清氏はそのことを十分承知して、あらかじめ上述したような前提を置いたのであろう。ただ楊仲揆氏は、この前
提に対して完全に沈黙している。そうして、そのことは、沈黙自体に意味があるといえる。なぜならば、台湾や彭佳嶼
などが当時中国領でなかった場合、そうした解釈自体が成り立たなくなるからである。楊仲揆氏は台湾の歴史学者
であるから、井上清氏の指摘されるような前提が、そもそも最初から存在してないことに着付かれたことであろう。
 台湾が中国の版図に編入された年については、一六九六年の高拱乾撰『台湾府志』によれば、康熙二十年とされ
ている(台湾自康熙二十年始入版図)、康熙二十年は、一六八一年にあたる。もっとも『台湾府志』が康熙二十年と
したことは後に訂正され,一七六五年の余分儀?『続修台湾府志』以後の清潮公文書は、康熙二十二年としている。
したがって台湾が中国領になったものは、一六八三年ということになる。このことは、郭汝霖が冊封使として渡琉して
百二十一年後に台湾がはじめて中国の版図に入ったことを意味する。陳侃に至っては、さらに百四十九年後のこと
になる。井上清氏が台湾を『紛れもない中国領』とした前提は、これによって崩れたことになる。
次に、綿花、花瓶、彭佳三嶼の台湾への行政編入の時期についてであるが、第二次世界大戦後の一九五四年に台
湾で刊行された基隆市文献委員会編『基隆市志』によれば一九〇五年(光緒三十一年)のことで、この年、轄区の
再調査が日本政府によっておこなわれ、これらの島々が行政編入されたことをあきらかにしている。この点は一九六
五年の『台湾地方自治誌要』によっても、確認されている。
 このように花瓶、彭佳などの島嶼が台湾に行政編入されたのは日清戦争以後のことであり、しかも、台湾を統治下
においていた日本になされたものであるということを、台湾側の公文書によって明らかにされている。言い換えるなら
ば、中国によって彭佳嶼などが台湾の付属諸島として法的に扱われたことは、第二次世界大戦以前に一度もなかっ
たということになる。


 「釣魚嶼は台湾の小嶼也」

 それでは、清国が台湾を版図に編入した後の台湾の北側の限界はどこであったか。先の『台湾府志』、『続修台湾
府志』とともに、一七一二年の周鐘?撰『諸羅県誌』、一八七一年の陳培佳撰『淡水庁誌』のいずれも、台湾の北限
又は極北を大鶏山(社寮島)としていた。これによって、井上清氏が、花瓶、彭佳などを「自明の中国領」であるとした
前提も崩れたことになる。それとともに,台湾の歴史学者楊仲揆氏が、この点にあえて触れなかったことの意味が理
解される。  
 2 鄭舜功『日本一艦』 同書「桴海図系」巻一に見える「釣魚嶼は小東祈祝の小嶼也」をめぐって、問題が展開
される。鄭舜功が『小東』が小琉球であるであることを指摘しているところから、この部分は「釣魚嶼は台湾の小嶼
也」となる。したがって、釣魚嶼が台湾の付属諸島であるであることがこれによって立証されたと主張する(方豪及び
井上清氏)。
『日本一艦』が台湾の小嶼として、魚釣台にのみしか言及していないことはは、ひとまずおくとしても、この書物が出
されさた一五五六年に、台湾がいまだ中国の版図に編入されていなかった以上、先の文書の意味は、当時、釣魚
嶼を地理的にそのよなうなものとして理解していたことを示唆する以外の何ものでもないといえよう。
 また『日本一艦』は当時の明朝の公文書ではない。鄭舜功は、かつて密偵としての任務を持つ者であったが、『日
本一艦』をまとめた当時は、胡宗憲の前任総督の失脚とともに、配所のうきめをみていたわけであるから、公文書を
書き得る地位になかった。しかも、鄭舜功は『日本一艦』をまとめるにあたって、寧波に館をかまえていた多数の日本
人から,海上知識の大部分をを得たことを明らかにしている。鄭舜功はそのよにして得られた知識から「魚釣魚嶼が
小東の小嶼」であることを知ったにすぎない。明朝が公的に魚釣嶼をそのように扱っていたから、そのように記述した
ということではない。鄭舜功が依拠した文献が『陳侃使禄』であったことも、陳侃の理解の域を出るものではなかっ
た。台湾の陶龍生氏は、国際法の観点から、同書この部分をもって、魚釣嶼が中国人によって発見、命名された証
拠としているが(『日本一艦』以前に釣魚嶼の名前を記した中国側の古文書、たとえば陳侃使禄があることから、こ
れを発見・命名の証拠として扱うことに問題はあるが)、魚釣嶼が台湾の付属諸島であったとする証拠として引用し
ていない。また,陶龍生氏は、『日本一艦』を公的なものとはみておらず、したがって中国政府による公的な確認が
必要であるとしている。
 丘宏達氏も『日本一艦』に言及するが、そこでは「小東」が台湾を意味するとのべるにとどめ、台湾の付属諸島云々
に直接言及することをさけている。井上清氏は『日本一艦』のこの部分に言及する一方、小東(台湾)は明朝の行政
管轄では、澎湖島巡検司に属し澎湖島巡県検司は福建に属しているが、その台湾の付属の小島が釣魚であると、
鄭舜功が明記しているをもって、釣魚嶼の中国領であることが明確であるとしている、だが澎湖島巡検司が台湾を管
轄に置いたとする主張が、歴史的事実に反するばかりでなく、かつ、澎湖の巡検司制度そのものが、『日本一艦』の
百六十八年前(一三八八年)に廃止されていたのである(澎湖の住民を強制的に退去させ福建省の?省泉二府の間
に置いた)。


  『三国通覧図説』の地図の色

 3 汪楫『使琉球雑禄』 汪楫使禄にみられる「中外之界」は、当時一般に「溝」(黒水講)と呼ばれていたところ
を、船上で「郊」と呼ぶものがおり、そこで汪楫が「郊」とはどういう意味かを問い、これに相手が「中外之界」と答えた
ところに出てくる。舟子たちが「溝」を「中外之界」と名づけていたことは、汪楫以前の二人の冊封使禄−夏子陽『使
琉球禄』(一六〇六年)及び張学礼『使琉球記』(一六六三年)にも明らかにされていた。そうしてこの二つの冊封使
録では、舟子たちが「中国からもはやそんなに遠くない」あるいは「大洋に入った」「分水洋を過ぎた」とのべていると
ころで「中外之界」が出てくることから、それが東シナ海の浅海(?海)と、琉球の西方沖を南北に流れる黒潮との境に
あたる潮の流れの段差を示す部分を指すことは明らかである。この点は、後に周煌が『琉球国志略』(一七五六年)
で「琉球の周囲は皆海であり、西方の海は、黒水溝によってへだてられており、黒水溝は?海との界をなしている」と
のべることによって十分明らかにされている(李鼎元『使琉球記』でもこの点が明らかにされている)。
 汪楫は、舟子との問答をそのまま記述するかたちで、「中外之界」に触れているだけであって、汪楫自身の考えを
のべたものではない。汪楫はむしろ「何をもって界とする」かを疑問に思い、相手に問い、その相手が懸揣(けんた
ん)するのみ」(推定するだけである)と、答えにならない答えをしたことをも客観的に記述している。いずれにせよ、
「中外之界」をめぐる汪楫と舟子との問答は、冊封船の往路でなされたものであり、その時期台湾は、まだ清朝の版
図に入れられていなかった(台湾の版図編入は翌年の汪楫帰国の年)。したがって、この点からも、「中外之界」が
領域界を意味するはずがなかった。
 4 林子平『三国通覧図説』  同書で問題とされたところは、そのなかにみられる「琉球三省并三十六島之図」
と「三国通覧嶼地路程全図」である。この二つの地図に釣魚台などが示され、かつ、その色が中国大陸と同色の
「赤」とされている。井上靖氏と丘宏達氏はこれらの地図の色を領土に識別したものとして、そのことから、釣魚台な
どを中国領と結論づけている。これに対して、楊仲揆氏は地図における註記、とくに宮古、八重山について「支配権
が琉球に属する」と説明しているが、魚釣台などにそうした註記がないことを指摘し、釣魚台などが琉球に属さないこ
とを側面的に説明しているとする(しかし、そのことは、ただちに、魚釣台などが中国に属することを、結論づけうること
ににはならないはずだが、楊仲揆氏はこの点には触れない)。
 だが、『三国通覧図説』の地図の色は、決して領土の帰属を識別したものではない。仮にそのように理解した場
合、魚釣台などは中国領となるが、同様に、旧満州(緑色)が日本領、北海道(褐色)は琉球領になってしまう。この
書物が出された時期台湾はすでに清朝の版図に正式に編入されていたにもかかわらず、朝鮮領(黄色)ということに
なる。林子平が出鱈目な知識しか持っていなかったか、地図の色が領土を識別したものでないかのいずれかでなけ
ればならない。もし前者であれば、魚釣台などを中国領としたことの信憑性もきわめて怪しいこととなる。
 林子平が『三国通覧図説』をまとめるにあたって依拠した原典が、除葆光の『中山伝信録』(一七一九年)であった
ことは、子平自身が「題初」の中で明らかにしている。その『中山伝信録』には二枚の地図が付されている。一つは
「針路図」(巻一)であり、いま一つは「琉球三十六島之図」である。林子平「琉球三省并三十六島之図」が、右の二
枚の地図を参考ににして作られたことは、一見して、明らかである。しかしながら、同書の『針路図』は、福州と那覇と
を往復するにあたって、航路目標とされる島嶼の大体の位置と名称、島嶼間の所要時間、次の島嶼にいたる針路方
向を記載することにとどまる。針路図には「琉球三十六島之図」に示されている馬歯山(慶良間諸島)、姑米山(久米
島)なども記載されているが、これらの島嶼が琉球に属するとのべているわけではない。もちろん「色」分けを行なっ
ているわけでもない。『中山伝信録』からは、いかなる意味においても、釣魚台が中国領に属することは明らかにされ
ていない。」

 『順風相送』書から西太后御墨付まで

5.鄭若曾『籌海図編』  井上清氏は同書巻一の「福健沿海山沙図」をもち出して、その中に釣魚台などの見出さ
れることをもってこれらが中国領の島嶼とみなされていたとされる。しかし、『籌海図編』における右の事実を中国の
領有論拠だとすることは、陳侃、鄭汝霖使録よりもさらに劣るといってよいであろう。大体、沿海図といった性格のも
のは、かならずしも、自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めるものであって、たとえば、日本の沿
海図であれば、朝鮮半島の南端の一部がふくまれることもあるし、台湾省の沿海図では、与那国島や石垣島なども
示されるのが普通である。むしろ、『籌海図編』を引用するのであれば、同書巻一の十七「福健界」が当時の福建省
の境界を示すものとして適当であるといえよう。
 だが、この地図に示されているのは、澎佳山までであって、小琉球(台湾)釣魚台などは描かれていない。『×海図
編』は台湾が中国の版図に初めて編入された一六八三年よりも百二十一年前に書かれたものであるから、台湾が
「福建界」の外に置かれていたのは当然であった。それだけでなく、魚釣台などが「福建界」のなかに描かれていな
いことは、魚釣台などが当時中国領でなかったことを明らかにしているとさえいえるのであろう。
 6 発見・命名・領有意思(国際法の頂点1)  台湾国立政治大学客員教授の丘宏達氏は、発見・命名が中
国人であったことの証拠として、『順風相送』書をあげる。丘宏達氏によればこれが十五世紀のもとされているが、そ
のことにはかなり疑問があるといえよう(詳細は省略)。ただ、同書に見られる「福建往琉球」の三通りの針路のうち、
第三の針路について「梅花からの開洋」としていることから、一六六三年以前のものであることは確かなようである。
(それ以後は土砂などの流入によって梅花からの開洋が困難になったため、五虎門に移る)。
 もっとも『順風相送』書がいつ出されたのかは、あまり重要ではない。十六世紀に陳侃の冊封使録があり、魚釣台
などを記載した最古の文書としてこれを扱っても、それ以前に魚釣台などを記載した琉球側の古文書はないからであ
る。ただ、魚釣台などを記載した最初の古文書が中国側にあることは、かならずしも、釣魚島が中国人によって発見
されたとか、中国人によって命名されたことにはならない。ま、た単に釣魚台などの文字が文書に残されていることを
もって、中国の領有意思を証明するものでもない。たんなる事実の記載である場合もある。しかしながら、ここでは、
これ以上この問題に深入りすることを避けたい。
 魚台釣りなどが中国人によって発見、命名されたとするのは丘宏達氏だけでない。陶龍生氏もまた同様の立場を
とる。ただ、陶氏は一五五六年の『日本一鑑』をその歴史的証拠とする。陶氏が陳侃使録をそうした証拠として扱わ
なかった理由は明らかではない。もっとも、陶龍生氏は発見・命名の事実だけでは不十分であり、中国政府の確認を
要するとする。このことから、陶氏が『日本一鑑』の「魚釣嶼は小東の小嶼也」をもってしても、魚釣嶼に対する中国の
領有意思は証明されていないとみていることが分かる。陶氏がそうした考えを持った理由は、同書が公文書でないと
する認識があったのだろう。他方、陶氏は、中国政府による確認の事実ととして、慈×太后(西太后)が魚釣台など
を盛宣懐に下賜したと称する文書をあげている。 
7 実効的支配(国際法の観点2) 丘宏達氏もまた西太后の御墨付を問題にする。ただし、丘氏は、この文章を
陶龍生氏のように単に領有意思確認の証拠としてではなく、清朝による魚釣台などに対する統治行為−実行的支
配の証拠として扱っている。丘氏は、西太后が魚釣台などを、盛宣懐に下賜した行為をもって、『魚釣台列島に対し
て清朝が統治にいたらざるとはいえない』証拠とし、ごくわずかな行政行為しかおこなっていなかったとしても、このよ
うないくつかの無人の小島に対し、多くの統治権を行使することが事実上不可能であると、やや弁解じみた主張も展
開される。
丘宏達氏が西太后の御墨付を実効的支配の証拠としたのは、丘氏が発見それ自体は一種の原始的権利(日本で
は一般に未成熟権原と呼ばれている)を取得せしめるにすぎず、領域に対する完全な主権を得るには、それだけで
不十分であることを認識していたことによろう。
 ただ、発見・領有意思の表現から、合理的期間内に実行的支配を及ぼすことを国際法は求めている。いいかえれ
ば、合理的期間を過ぎても実行的支配を及ぼさないときは、対象となる地域に対する未成熟権原自体が消滅し、そ
の地域は再び無主地にかえるのである。ところで『順風相送』書から西太后御墨付まで五百年を経ている。それ故、
そうした期間を合理的期間と考えうるか否かが、ここでは問題になろう。


  中国領土の立証は疑わしい

 他方、陶龍生氏は、一九三三年のクリッパートン島事件(フランス対メキシコ)の仲裁裁定を引用し、完全に人の住
んでいないような土地に対しては、領有意思だけで十分であるとしている。しかしながら、そのためには、最初に領有
意思を表明した国が、後に占有を行うとした国に対してすみやかに抗議を行う必要があるのであって、日本が尖閣列
島を領土編入・実効的支配を行ってから八十年間もこれを黙認してきた場合にあてはまるものではない。陶龍生氏
が発見・命名の証拠とされる『日本一鑑』の時代から数えても、中国が実行的支配を及ぼすまでに四百三十七年も
過ぎている。したがって、西太后の御墨付よりかなり以前に魚釣台などが無主地に戻っていたと考えるべきであろ
う。クリッパートン島事件では、フランスが実効的支配を及ぼさなかった期間は、たかだか四十年である。釣魚台など
の場合とは比較にならないほどその期間は短い。
 西太后の御墨付を丘宏達氏及び陶龍生氏が重要視すればするほど、中国側がいかに釣魚台などに実効的支配を
及ぼしてこなかったかが分かる。西太后御墨付の証拠としての信憑性が失われるようなことがあれば、国際法上
に、中国が尖閣列島の領有権を主張する論拠は完全に失われることになる。西太后の御墨付は将に台湾にとって、
手放せない証拠ということになる。だが、それだけに、かえって、この文書の信憑性に疑いをもたざる得ない。丘氏も
西太后詔書の信憑性を問題にし、期待と疑念を持ちながら、慎重に目下調査中であると断っている(ただし、丘宏達
氏によってこの点が指摘された論文は一九七三年のものである。したがって、同文書に対する丘氏のその後の評価
は分からない)。
 このようにみてくると、歴史及び国際法のいかなる観点からも、明治二十六年(西太后御墨付)以前に尖閣列島が
中国領であったことが証明されないばかりでなく、明治二十八年以前においても、その立証はきわめて疑わしく、さら
にその後八十年に及ぶ間、いかなる抗議をも日本に対して行なわなかったことから、一九七〇年(中国と台湾が日本
に対して尖閣列島の領有権に異議を称えた)時点で、中国側から尖閣列島のわが国の領有帰属に懸念をはさむ余
地はまったくなかったというべきであろう。


 「日中平和友好条約」の後まで
 一九五二年一月八日の『人民日報』は『琉球群島人民の米国占領に反対する闘争』と題する重要な評論記事を記
載した。そうしてこの記事の冒頭で琉球群島を定義しているが、その中に明示的に尖閣列島を含めている。この『人
民日報』記事が掲載された五年後の一九五八年十一月、北京の地図出版社編集部の作成した地図の「日本の都」
においても、尖閣諸島は明らかに日本の一部として示されている。この地図では、魚釣台と赤御×だけが、名称(い
ずれも原文通り)を付されており、また全体として尖閣群島という名称を用いている。一九六四年に中国大陸で出版
された「中華人民共和国分省地図」では、台湾省の最北端を彭佳嶼としている。一九六五年十月に出版された台湾
国防院と中国(台湾)の地学研究所編の「世界地図集第一冊」(東亜諸国)においても、尖閣列島は、「尖閣群島」の
名称を与えられ、個々の島嶼名も付されている。釣魚台は日本名の魚釣島と記され、わざわざ、和音をローマ字で
綴っている。赤尾嶼はそれぞれカッコの中で日本名で大正島と併記している。久場島、大正島ついても和音をローマ
字ナイズしている。尖閣尖閣群島もまたSENKAKU GUNTOと正確に和音を綴っている。その他、一九七〇年の中華
人民国国民中学校地理の教科書においても、尖閣群島(原文通り)は、明らかに大琉球群島の一部とされ、魚釣台、
北小島、南小島といった和音を付している。
 一九七〇年以前において中国と台湾は、明らかに、尖閣諸島を日本領と認めていた。自国の領土を他国の領土とし
て記載するなどということは、ありうることではない。領土の境界に鋭敏な中国や台湾においては、なおのことであ
る。中国や台湾は古文書を持ち出して尖閣列島の自国領を主張するよりも、このことの説明をまず行うべきであろう。
尖閣列島の問題は、この点において、竹島の場合ときわめて異なるといえよう。「日中友好平和条約」の締結はは必
要である。そのために尖閣列島の問題をひとまず置くことも仕方がないであろう。だが、真の日中友好は、それから
後の問題に対して、中国がいかなる姿勢を示すかにかかっいるといえよう。




以上は、 奥原敏雄(国士舘大学・国際法)教授の「尖閣列島領有権の根拠」中央公論7月号、特集「日本国領土
の範囲」を書き写したものである。書き写しは武内氏、校正は馬場です。上記文章における誤字脱字に対しての責
任は一切管理者の馬場にあります。
文中の◆は文字コートになかったために変換できなかった漢字です。?や??は、私が使用しているジャストシステム
の日本語変換ソフト・「一太郎」では変換できても、、マイクロソフト社の「ワード」等の文字コードにないために変換さ
れなかった漢字です。たとえば、門(もんがまえ)に虫と書いて「びん」と読みますかが、これは変換できません。





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動かぬ尖閣列島の日本領有権