----------------  いとしきもの ----------------  その日は、何か特別な出来事があったわけではなかった。  いつもと同じ。何も変わらない、平穏な日常。  整然と並んだ植木の横を、当てもなく歩いていく。 『…おお、さすがは我が娘だ!』  通う学校の成績簿を見、喜びを露わに唸る父。 『素晴らしいわ…本当、あなたには凄い素質があるのね』  幼い頃から習っているバイオリンを弾いて見せれば、手を叩いて褒めちぎる母。  両親は私に期待をかけ、私はそれに応え続けてきた。  二人が私に望む事を残らず具現化する力が、あの時の私にはあったから。  ――だけど。  私の『世界』は狭すぎた。  まるで童話に登場するお姫様のように。  私は、自由を手にすることを許されていなかった。  泉のへりに腰かけ、私は天を仰いだ。  蒼い空の中を、薄く小さな雲がゆっくりと泳いでいる。  それから、私の視線は正面の屋敷へと移動する。  今、家に父はいない。簡単な言い置きを残して、朝にどこかへ出かけていった。  母はいる。肌が荒れると言って、あまり日中は外に出たがらないけれど。  そして―― 「ねえさまー!」  愛らしい、幼い妹。私にはない、母譲りの金色の髪が春の日差しに映える。 「…どうしたの?」  ボールを小脇に抱え、輝くような笑顔で私の顔を見ている。 「いっしょにあそぼ!」  そう言って、ボールを差し出した。受け取り、私は彼女の頭を撫ぜてあげる。 「いいよ。向こうで遊ぼうね」 「うん!」  ――自由はなかった。  でも、私には妹がいた。それがどんなに幸福なことだろうか。  微笑ましい、先を走るその姿を見つめながら、私は胸をきゅっと締め付ける心地良い感覚に身を任せていた。 「…イタリア、に?」  予想もしなかった父の言葉。思わず、鸚鵡返しで聞き返してしまった。 「好奇心の盛んな今の時期、多くのことを見知っておかなければな」 「でも…」 「お前とあの子、それぞれに違う期待をかけたい。そのために、お前が学び、知ってきたこととはまた違う物を見せる必要がある」  昔から全く変わらない、何もかもを撥ね付ける凛とした声。  逆らうことを許さない父を前に、私は全てに従ってきた。  でも。 「まひるは…? それを望んでいるの?」  そう尋ねると、父は腕を組み、椅子から腰を上げて窓を見やった。 「知らせたところで、わかりはすまい。もう便の予約も済んだ。来月の末、まひるは日本を発つ」  愕然とした。まひるは何も知らされないまま、海外へ旅立たされようとしているのだ。 「そんなの、おかしいわ」  思わず口をついて出たその言葉に、父は私を振り返った。 「おかしい…だと?」  その語気は、わずかに荒い。 「血を分けた子を立派に育て上げることは、親の責務だ。おかしなところなど、何もない」 「まひるは絶対に嫌がるわ。私は、誰よりもあの子の気持ちをわかってあげられる」  言いながら、自分の行動に驚いていた。今まで一度も逆らうことのできなかった父に、自分の意見をぶつけていることに。 「沙夜子」  はっとするほどの力強い声に私の思考は中断され、現実に引き戻される。 「…一体、どうしたのだ。お前とて、まひるの立派な将来を望んでいるはずだろう」  それは――確かにそうだ。 「……でも、あの子が望まない未来なら、私も望まない」  さっきの言葉に、嘘はないのだ。父よりも、母よりも、誰よりもまひるは私になついてくれている。  そう思うと、考えずとも言葉は飛び出してくる。 「まひるが行くのなら、私も行くわ」 「馬鹿を言うな」 「私はまひるを、まひるは私を必要としているもの。離れ離れなんて考えられない」 「沙夜子!」  一喝。思わず体がびくんと縮こまる。 「我侭は大概にしろ! 互いに頼り切っているようでは何も得られないと知れ!」 「っ…!」  生来の大声で叱り飛ばされ、私は反論する気を失った。  一歩後ずさり、逃げ出すようにドアへ駆け寄る。  ――いつもこうだ。私は何を覆すこともできないまま、居たたまれずにその場から逃げ出すのだ。  無力な自分を呪い、くっと歯を食いしばった。右手をノブにかけたまま立ち止まり、左でぎゅっと拳を作る。  逃げたら、まひるは――  …そして私は、今まで出したこともないような大きな声で宣言した。 「……私は」  ――それは、 「絶対に、認めない」  この家に生きてきた私の、初めての反発だった。 569 名前: ↑書いた人 [sage 改行規制に泣きそうorz] 投稿日: 2005/06/10(金) 13:26:46 ID:W88Wabwz 最初の方、改行で失敗しましたが… はい、やたら丑三が悪役なシナリオです。 沙夜子がやや喋りすぎな気もしないでもないですが、今書いてるもうひとつの方だとほとんど喋らないので自分としては釣り合いが取れると(謎 次回は第一部・後編です。ちなみに二部構成となっています。