--------------  恋のマホウ -------------- 「ん……」 薄暗がりの中、僕は目を覚ました。 こんな夜中に目を覚ますなんて珍しいな、と思いつつ布団から起きあがると奇妙な感覚に捕らわれる。 何かを忘れているような、そんなもやもやしたものが心に引っかかった。 それになんだか酷い気怠さを感じる。 (…なんだろう?) 電気をつけて手近にあった時計で時間を確認するとまだ午後8時前。 思ったよりもずっと早い時間だった。 それよりも電気をつけたことによって自分がコートを着たまま寝ていたことにようやく気がつく。 (アレ…? えーと、確か今日は…) 嫌な予感を感じて、今までの経緯を思い返す。 (確か、珠実ちゃんにつき合わされて学校に行ったんだっけ…そこで確か…) そこまで思い出して、ようやくわだかまりの正体に気付く。 (オカルト研究部の部室に…連れて行かれたんだっけ……) 僕は、そこから先の記憶がすっぽり抜け落ちていることに気づき、愕然となった。 あれからどうなったのか? いや、それよりもなんのために連れて行かれたのか? それにどうやって帰ってきたのか…。 不安がはっきりとした形になって僕の心を支配した。 「おや〜、白鳥さん、ようやくお目覚めですか〜」 呆然としている僕のそばにいつの間にか彼女は立っていた。 いつものようにのんびりとした口調だが、今の僕には小悪魔的な含みを感じることが出来た。 「おはようございます、白鳥さん〜。 と言っても今は夜ですけど〜」 「おはようございます、じゃないって珠実ちゃん! 僕はいったい…」 「あ〜、大変だったんですよ〜。 ここまで連れて帰ってくるのは〜」 僕は慌てて彼女に詰め寄ったがクスクスと笑い、はぐらかすような答えを返してきた。 「そうじゃなくって! さっきのアレはなんだったの!?」 「あんなこと頼める人、白鳥さんくらいしかいなかったんですよ〜」 「いや、だから…」 「最初は私も信じられなかったんですけどねぇ〜」 のらりくらりと質問をかわして珠実ちゃんは楽しそうに笑った。 「まぁ、私が口で説明するよりも自分の胸に手を当ててよ〜く確かめてみればいいと思いますよ〜?」 「胸に、手を当てて…」 考える、じゃなくて確かめる…? 僕は言葉に違和感を覚えながら言われたままに自分の胸に手を当てて考えてみようとした。 ───ふに。 布越しに感じる柔らかい感触。 「……え…?……」 「部長のオカルト好きもバカに出来ないもんですねぇ〜」 ───ふに、ふに。 不思議な感触の正体を確かめるように胸に視線を下げるとそこには見慣れないふくらみが存在していた。 いや、正確にはまったく見慣れないわけではない。 これと似たようなものは何度か経験したことがある。 ───ふに。 でも、この感触はまったく、異質、だった。 「あの…珠実、ちゃん……?」 「ま、そういうわけです〜」 「えっと、これって、何……?」 「わかりませんか〜?」 珠実ちゃんはやれやれといった感じで僕の前に立つと躊躇なく上着のボタンを外してしまった。 「ちょっ、珠実ちゃ……、………っ!」 「は〜い、ご開帳〜ですぅ〜」 大きく開け放たれた僕のシャツの中には大きな2つのふくらみが存在していた───。 「な、な、なっ…………なにこれ!?」 絶句、と言うほかない。 広げたシャツの下にはたわわになった胸が揺れていた。 明らかに作り物の類では、ない。 「見ての通りですよ〜、白鳥隆子マーク2さん〜」 「はぃっ!? っていうか、マーク2ってなに!?」 「なんでしたら下の方も確かめてみたらいかがです〜?」 言われるまま慌てて下の方も確かめてみると19年間共に過ごしてきた僕の男の子も居なくなっていた。 大きくなった胸、居なくなった僕の男の子。 そう、いつもの女装、ではなく僕の体は本当に女の子になっていた。 「あらあら、そんなにみだらな格好して隆子マーク2さんってば意外と大胆ですねぇ〜」 「ちょっ、珠実ちゃん見ないでよ!」 「もう、どこから見てもばっちり完璧な女の子、ですよ〜」 確かめるためにはだけてしまった服を慌てて直したが、動揺は隠せない。 ていうか、ぶっちゃけあり得ない…。 「と言うわけで、ご協力感謝します〜」 「と言うわけで、じゃないって! どうなってんの、これ!?」 「まあ、かいつまんで説明するとですね〜 『珠実部員、実は新しイ魔術書が手に入ッタので試シテみたイのデスが』 『えぇ〜、またですか〜?』 『まァマぁ、そうイワずに。 コレなどは面白そウデスよ。 クッ』 『マ゛〜…。 …『民明書房刊・変幻秘法百選』ですか〜? なんだか胡散臭いですね〜』 『と言ウわケで被験者が必要ナノデスよ。 協力シテ頂キますよ、珠実部員』 『え〜…』 『珠実部員が断ルとイうのナら仕方ナいデスね。 梢部員に声をかけてみマしょウ』 『! すぐ実験体を連れてくるです〜!』 『感謝しマスよ、珠実部員。 クッ』 ───というわけで、白鳥さんに協力してもらったわけなのですよ〜」 「…………」 そこまで聞いてようやくやっと納得いった。 つまり、学校までつき合わされたのはこういう目論見があったわけだ。 オカ研に連れて行かれた時点である程度は覚悟していたけど、さすがにこれは予想外だった。 いや、予想出来るわけがない、か…。 「でも、なんで女の子になってるの…?」 「あ〜、それはですね〜。 『変身』のイメージが一番簡単だったからですね〜」 「『変身』…?」 「白鳥さんはよく女装してるでしょう? 姿が変わる、つまり変身です」 「いや、好きでやってるわけじゃないんだけど…」 桃乃さんや珠実ちゃんにイタズラされたり、千百合ちゃんにつき合ったりはしてるけど 決して望んでいるわけじゃない、と思う。 っていうか、そう思いたい。 「そういうわけで実験は無事に成功ですぅ〜」 「はぁ…。 珠実ちゃん、なんだかんだ言って楽しんでるでしょ?」 「どうせやるなら楽しまなきゃ損ですから〜」 楽しそうな笑顔の珠実ちゃんとは対照的に僕はどどんよりとなった。 鏡に映る僕は確かに『変身』してしまっている。 しかも、外見は女装させられたときの『白鳥隆子』とも違う。 カツラは着けてないけど、なんだか少し髪も伸びているし、胸だって詰め物じゃない。 元から中性的だったといっても、それはあくまで「近い」というレベルだった。 でも、いまは完全に女性のそれになってしまっている。 自分から見ても明らかにもう”女装”と言えるレベルじゃなかった。 珠実ちゃんが言うようにまさに『白鳥隆子マーク2』っていうところなんだろう。 「…自分の体だからって変なこと考えちゃダメですよ?」 「か、考えてないよ!」 「ホントですか〜? まあ、貴重な体験だと思って諦めてください〜ですぅ〜」 「ひ、人ごとだと思って…」 「状況を楽しんだ方が得ですよ〜?」 他人事のようにマイペースな珠実ちゃんのリアクションにガックリうなだれた。 「…で、いつまでこの姿なの?」 「さぁ? 私も詳しい本の内容までは読んでませんから〜」 珠実ちゃんは事も無げに即答した。 「まぁ、一生そのままって事はないと思いますよ〜、多分」 「それって慰めになってないよ……」 彼女の返事は僕をますます不安にさせるのだった。 とにかく、いつまでも悄気ていても仕方ないので現状をどうにかする必要があった。 三人寄れば文殊の知恵と言うし、まずは桃乃さんの部屋に行くことにする。 珠実ちゃんはいつもの調子だし、他に頼りになりそうな人がいなかったからだ。 「あら〜? 白鳥くん起きたの…っていうか、どうしたの!?」 ドアから顔を出した桃乃さんはすぐに僕の変化に気がついていた。 そこまで衝撃が大きかったのか、ぽかんと口を開け呆然としている。 改めて僕は変わってしまったと言うことを痛感させられた。 桃乃さんでさえ、これだけのショックを受けてしまったんだ。 いま梢ちゃんに会えばどういう事になることやら───。 「実はかくかくしかじかで〜」 珠実ちゃんが桃乃さんにかいつまんで事情を説明している。 ああ見えて意外と非現実的なことは嫌いな桃乃さんだったけど、僕の状況を見てとりあえずは納得していた。 というか、信じざるをえない、というべきか。 まぁ、そこは梢ちゃんの多重人格だって受け入れた桃乃さんだからこそなのかもしれないけど、 とにかく事情は察してくれたようだ。 「状況はだいたいわかったけど…。 まったく、このエロ珠もろくなことしないわね〜」 「私だってまさかうっかりしっかり成功するなんてこれっぽっちも思ってなかったんですけどねぇ〜」 「まったく、白鳥くんも災難ねえ…。 それにしても……」 といって、桃乃さんは呆れたように僕の全身を見回す。 「ホントに”完璧な女の子”になっちゃったわねえ」 「です〜」 「いや、それはもういいです…」 放っておくと雑談になりそうな雰囲気だったので僕はまず着替えを頼んだ。 桃乃さんの部屋に来た理由の一つはそれだったからだ。 「はいはいっと。 あっ、今はパット要らないのね。 珠ちゃん、白鳥くんどれくらいだった?」 「………。 ……でー……ななじう………です…」 「D70!? は〜、望んでも全然成長しない人もいるってのにね〜…」 「…も〜も〜さ〜ん〜?」 「にゃはははっ、ゴメンゴメン♪ あっ、白鳥くんが使わないから貸そうか?」 「うーふーふーふーふー」 「あ、いや、冗談だからっ」 …………。 しばらくそんなやりとりが続いた後、桃乃さんは着替え一式を揃えてくれた。 「はい、これで全部っと」 「ありがとうございます…って、あの、これ…」 僕は手渡された着替えの一番上にあるものに視線を落とした。 それは小さくて可愛らしいリボンのついた…。 「ん? パンツがどうかしたの? ちゃんと新品だから大丈夫よ?」 「いや、そうじゃなくって…」 「だって白鳥くん、今ついてないんでしょ? 下のアレ」 「そ、そうです、けど……」 「だったら、女の子のパンツじゃないとダメよー? いつもみたいにトランクスのままってわけにもいかないでしょうに」 さすが桃乃さんと言うべきか、割り切りが早かった。 しかし、僕の方はまだ抵抗があった。 今まで何度か女装させられていたけど、これだけはいつも断っていたからだ。 いわば最後の防衛線、男としての最後の意地…だったわけなんだけど…。 「もう女の子になっちゃったんだからいいじゃない?」 「機能的に考えても男物じゃダメですよ〜」 「トランクスじゃ食い込んじゃうわよ〜?」 「桃さん、卑猥です〜」 「にゃにおー!」 と言う至極真っ当な理由で結局押し切られることになってしまった。 するすると今まで着ていた服を脱いでいく。 なんだか本格的に男を卒業するような気がしてやるせない気持ちになった。 それでも現状を受け入れないわけにはいかない。 とは言え…。 「…あのさ〜、白鳥くん」 声をかけられて衣擦れの音がぴたっと止まる。 「な、ななんですか?」 「そんなに恥ずかしそうに着替えられるとこっちも意識しちゃうからさ、もっと自然にね?」 「そ、そ、そうですか? 自然に…自然に…」 なるべく意識しないようにしていたけど、さっきから二人にじーっと着替えを見られている。 見せ物になっているような、と思ってしまうとどうしても意識してしまう。 「しっかし、ホントになくなっちゃったのねぇ」 「だから、見ないでくださいってば!」 「白鳥さん、綺麗です〜…」 なっているような、じゃなくて実際見せ物状態だったけど…。 「なるほどね〜、千百合ちゃんが見境無くすわけだわ」 「う゛〜、神様は不公平です〜…」 居心地が悪いなんてものじゃないです…。 そんなこんなでなんとか着替えを済ませた僕だったけど、本題はこれからだった。 「…で、どうするの? 白鳥くん」 「どうする、って言われても…」 「とりあえず、現状の問題と対策を考えるです〜」 僕たちはさしあたって当面の問題を考えてみることにした。 まず、性別が変わってしまったこと自体に対して。 「そうねえ…。 やっぱり男の子とはいろいろ勝手が違うから大変だと思うわよ」 「女の子はデリケート〜っていいますしね〜」 「まあ、あたしらも男の子の事情は知らないけどさ」 「その辺は何かあったらみなさんに聞くことにします」 「ウブな白鳥くんじゃ知らない女の子の秘密がいっぱいあるだろうしね♪」 「手取り足取りいろいろ教えてあげるです〜」 「は、はい、お手柔らかに…」 (ふ、不安……) 次に、この事実を他の人にどう知らせるべきか、これが難点だ。 「バラさんや沙夜ちゃんたちならなんとかなるだろうけど、問題は梢ちゃんよね…」 「ですねぇ〜…。 さすがにどうなるか予想出来ないです」 「あっ、学校が…」 「そっちはいざとなったらサボっちゃいましょ〜」 「うぅ、折檻が……」 「となると、やっぱり問題は梢ちゃんね。 まさか、彼氏がいきなり女の子になるなんて夢にも思わないだろうし」 「千百ちゃんは喜びそうですけど〜」 「いや、それもちょっと…」 最後に、一体いつまでこのままで居なければならないのか、だ。 「こればっかりは部長に聞いてみないと何とも言えませんね〜」 「珠ちゃんはなんか知らないの?」 「無茶いわないでください〜。 オカルト知識なんて部長にかなうわけないじゃないですか〜」 「へぇ〜、意外ね〜。 じゃ、いまから連絡とかつけられない?」 「部長のプライベートのことなんて知りませんよ〜。 っていうか、知りたくもないです〜」 こっちは考えても無駄ってことらしい。 とりあえず、さしあたっての問題のメドは立ったけど…。 「梢ちゃんがどう反応するか、か〜…。ちょっと、対策しづらいわね」 「都合良く千百ちゃんが出ていてくれれば説明もしやすいのですが〜」 「説明しやすい相手一人を納得させればみんなに伝わる、ってこと?」 「です〜。 でも、そんなに都合良くいくものじゃないですし」 「う〜ん…」 仮定で話しているけど、そもそも千百合ちゃんだって簡単に受け入れてくれるかどうかわからない。 梢ちゃんたちは僕と恋人関係になったことで改善の兆候を見せたんだ。 その僕が男じゃなくなってしまったら、それは関係の消滅を意味しないだろうか? それが一番の心配事だった。 「常に最悪の事態を想定しておいた方がいい、とは言いますがこればっかりは考えたくないですね〜」 「とは言え、具体的な対処法がないからねえ」 「じゃあ、いつもの逆に男装するっていうのはダメですか?」 女の子でダメなら、男にしてみよう、という逆の発想だ。 「…ダメね。 普段なら通用するけど、ほら今は完全に女の子顔だし」 いい案だと思ったけど、ダメ出しは早かった。 確かに桃乃さんが言うように鏡に映る顔はどう見ても女の子そのものだ。 「やっぱり、正面切って話しちゃった方がいいんじゃない?」 「うーん…」 「そうですね〜。 元に戻るまで顔を合わせない、っていうのも話がこじれそうですし〜」 「でも、知られないならそれに越したことはないよね…」 結局、具体的な解決策は出ずに、話は平行線を辿るばかりで 今日のうちは絶対に梢ちゃんと顔を合わせないようにする、という消極案で話はまとまった。 君子危うきに近寄らず、ということだ。 「とりあえず、明日部長に聞いてみることにしますね〜」 「そうね、元は言えば珠ちゃんのせいでもあるんだからしっかり頼むわよ」 「はい〜、白鳥さんのせいで梢ちゃんが落ち込むところは見たくないですから〜」 「僕のせいなの!?」 3人寄っても文殊の知恵、と言うわけにはいかないようでした…。 「は〜……」 湯船に浸かり、深くため息をつく。 「ふたりとも強引なんだもんなぁ…」 話がまとまった後、急にふたりは僕にお風呂に入るように言ってきた。 『さぁ〜て、白鳥くん。 まずはお風呂よ、お風呂!』 『お〜いえ〜』 『なんですか、いきなり!?』 『なーにいってんの。 こういうシチュエーションじゃお約束でしょ?』 『ダメですよ、そんなの!』 『こ、これが僕の体? どうなってるんだろう、ここ、うわぁ〜…って感じ〜?』 『初めて見る女の子の体にドキドキ〜、ですぅ〜』 『やがて行為はエスカレートしていって…。 ああん、もうダメぇ〜』 『ふ、ふたりとも勝手に変な想像しないでくださいよ!』 『と、いうことで行きなさい、隆子マーク2!』 『嫌ですってばぁー!』 着替えたばかりだって言うのに有無を言う暇は与えて貰えず…。 ……………。 結局、なし崩しでこうなっちゃうんだけどね……。 (女の子、かぁ……) 視線を下げてちらりと自分の体を見る。 「はぁ〜……」 水面に揺らぐ凹凸がはっきりした輪郭。 裸になることでそれをはっきりと思い知らせてくれた。 「確かに、桃乃さんたちの言うとおり早く慣れなきゃダメなんだろうけど…」 (これからどうなるんだろう…) 一人になって再確認した漠然とした不安。 はっきり言って、今の事態は普通じゃない。 ひょっとしたらこのままずっと女性として生きていかなきゃいけないのか? こんな風になってしまった僕を梢ちゃんはどう思うのか…。 「はぁ〜……」 (いくら考えたって意味がないとはわかってるけどさ…) ざばっと浴槽から出て、浴室に取り付けられた大きな鏡の前に立つ。 「はぁ〜……」 鏡に映る深いため息をつく見慣れない女の子の姿。 その子は手を振れば同じように手を振り替えし、笑顔を見せればほほえんでくれる。 (…これが今の僕、なんだ…) 受け入れたくなくても、受け入れざるをえない現実。 「どうなっちゃうんだろう……」 その問いに答えてくれる人はいなかった───。 「はぁ〜…」 勝手の違う体に悪戦苦闘しながらなんとか入浴を済ませ浴室を出る。 「確かに、桃乃さんの言うように慣れるまで大変かも…」 バスタオルで体を拭きながらまたため息一つ。 でももう体に関してはもう割り切るしかない、これが現実なんだから。 「よし、いつまでも落ち込んじゃいられないぞー!」 事情はどうあれ、事実は受け入れなきゃならない。 沈みがちになる気持ちを奮い立たせ、鏡の中の自分にカツを入れた。 しかし、運命はもっと意地悪だった。 鏡の前でグッと気合いを入れているとがちゃっ、と扉の開く音。 入るときに脱衣所の鍵を閉めていなかったのだろうか。 「あっ、ごめんなさい。 お先に入ってました…か……」 「えっ……?」 扉を開けてしまった人物は 「……………」 「こ、梢、ちゃん………」 いま、一番会ってはいけない人だった。 「あっ………」 時間が停止する。 バスタオル1枚の姿の僕。 ドアノブを握ったまま硬直している、彼女。 僕もそのままの姿勢で動けないでいた。 梢ちゃんは、僕の頭から足先をゆっくりと視線を向ける。 「あ、あの………」 そしてまた足先から視線を戻し、僕と目を合わせた。 見られた!? 見られた!? 見られた!? 見られた!? 見られた!? 見られたの!? どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうすればいい!? 見られちゃった! 見られちゃった! 見られちゃった! 見られちゃった! 見られちゃったかも! 梢ちゃんに!? 梢ちゃんが!? 梢ちゃんは!? 梢ちゃんを!? 梢ちゃんと!? 考え得る最悪の状況。 (どうする!? どうやって乗り切ればいい!? なんとか誤魔化さないと! いや、でも全部見られちゃってる!? 上から下まで隅々と見られちゃってるよ! ここは他人のふりをする!? あ、でも梢ちゃんって呼んじゃってる!! えーと、えーと、えーと…… ああああ、どうしよう!? どうしよう!? どうすればいいんだ!?) 万事休す、四面楚歌、袋小路、絶体絶命……… 「………さ………で…か………」 最悪だ、梢ちゃんに見つかっちゃうなんて……。 「……し…と…さん……なん……か………?」 ああ、また梢ちゃんが倒れて大変なことになっちゃう……。 「……らとり…さ……なんで…ね……?」 梢ちゃんがショックで意識を失って…。 ごとっ、と人が倒れ込む音。 「…っ、白鳥さん!?」 あれ? なんでだろう、やけに視線が低いような…。 「白鳥さん! 白鳥さんっ!!」 急に梢ちゃんの顔が見えな…… 「珠実ちゃん! 桃乃さん! 誰か、誰かーー!!」 …………。 目の前が暗くなり、僕の意識は深い闇の中に落ちていった───。 「……と、言うわけなのよ」 2号室に集まった鳴滝荘の面々は布団で眠る白鳥を囲むようにして桃乃と珠実から事情を説明されていた。 それぞれが複雑な表情でそれを聞き、白鳥の寝顔を見守っている。 結局、解決策が見つからぬまま全員に知られることになってしまったが、白鳥は静かな寝息を立てたままだ。 「あの…白鳥さんは大丈夫なんでしょうか…?」 一番心配しているであろう梢が沈黙を破って口を開いた。 梢は意外にも白鳥の変貌を目の当たりにしてもショックで倒れずにいた。 いや、普段とは逆に白鳥が先に倒れたことで理性を保ったのかもしれない。 とにかく、梢の人格が変わることはなかった。 「詳しいことまではわかりませんが気を失ってるだけだと思います」 桃乃に変わって珠実が答える。 「のぼせただけかもしれませんし、別の理由があるのかもしれませんが…」 「ふーむ…。 ま、それはともかく白鳥はホントに女になってるのか?」 灰原がまとめるように珠実に質問する。 「それは…間違いありません」 「なんてこったい…。 こいつはちっとばっかり非現実的過ぎるゼ」 「魔法って本当にあるのね…」 「お兄ちゃん…」 珠実の念の押すような返答に皆ため息をついた。 「お兄ちゃん、大丈夫なんだよね?」 「身体的な悪影響はないと思いますからそれは大丈夫です…多分」 事が大きくなりすぎてしまったためか、さすがの珠実も罪悪感を感じているようでいつもの覇気はない。 具体的な解決策が未だ見つかっていないことや、間接的にも梢を傷つけてしまったことに負い目を感じているせいだ。 「梢ちゃん、ごめんなさいです。 私が白鳥さんを巻き込んだばっかりに…」 「うぅん、珠ちゃん、それはもういいから」 そうはいってもやはり梢に元気はなかった。 「責任の一端は私にありますから、私も全力で白鳥さんを元に戻す努力をするです」 「うん…」 「それにしても、なかなか目を覚まさないわねぇ」 桃乃は沈みがちな雰囲気を払うように話題を切り替える。 それを合図にして『変身』した白鳥を肴にし、問題を忘れるように話の花が咲くことになる。 しばらくして、梢と珠実以外の住人たちはそれぞれの部屋に帰っていった。 部屋に残ったふたりは白鳥の目覚めを待ち続けている。 「白鳥さん……」 「………」 心配そうに白鳥を見つめる梢。 そんな梢を見守る珠実もまた葛藤していた。 白鳥が梢とつき合うことを容認したのは白鳥が決して届かないところにいたからだ。 つまり、性別の壁がそこにあったからこそと言える。 しかし、いまその壁が取り払われ白鳥と自分は同じラインに立っている。 ひょっとしたらこれはチャンスなんじゃないだろうか? (…なんてことあるわけないですよね) 少しでもそう思ってしまった自分に嫌気がさした。 「梢ちゃんは…」 「え…?」 「梢ちゃんは本当に白鳥さんのことが大切なんですね…」 そんな自分を敢えて抑えるための、愚問。 「…うん。 白鳥さんは私の…恋人だから…」 「そう…ですね」 悔しさと寂しさを感じるのは未練なのだろうか。 そして、こんな自分だからこそ、白鳥に勝てなかったと痛感することになる。 「白鳥さん……」 「う……ん……」 どれくらい時間が経過しただろうか。 とっくに日付も変わった頃、ようやく白鳥に反応があった。 「あっ…!」 梢はすぐさまそばにかけより白鳥の顔をのぞき込む。 「よかった…白鳥さん…」 「あれ……? 梢ちゃん、どうしたの…?」 「心配したんですよ、本当に…」 涙ぐむ梢の様子にあっけにとられたように白鳥は布団から身を起こした。 「…わたし、なんかあった?」 「お風呂場で倒れてしまって…なかなか目を覚まさないから心配したんですよ」 「お風呂場で…? 確かにお風呂に入ってたような気も…」 「は〜、白鳥さん、ようやくお目覚めですか〜」 「あ、珠実ちゃんもいてくれたの?」 ようやく緊張が解けたのか、ふたりの顔に笑顔が戻る。 「私はおまけ扱いですか〜?」 「あっ、ゴメンゴメン。 ひょっとしてふたりともずっとわたしのこと看ていてくれたの?」 「はい」「です〜」 「そっか…心配かけてゴメンね」 ちらりと時計を見て、どれくらい心配させてしまったのか察した白鳥はふたりに深々と頭を下げる。 「それより白鳥さん、あのこと全部みなさんにばれちゃいましたよ」 「あのこと…?」 「白鳥さんの体のことですよ〜。 忘れちゃったですか?」 「えっ…? わたし、なんかあったの…?」 「何って…部長の実験で女の子になっちゃったんじゃないですか」 ようやく白鳥の様子におかしいことに気付いた珠実は少し真面目な口調で改めて言い直したが。 「何言ってるの、珠実ちゃん…? わたし、前から女なんだけど……」 「……え……?」 「ど、どうしたの、ふたりとも…。 わたしなんか変なこと言った?」 きょとんとした顔で白鳥はふたりの顔を見回した。 「白鳥さん、冗談は時と場所を選んだ方がいいですよ?」 「えっ? 」 「そういう冗談はつまらないです」 呆然とする梢を察して、真顔の珠実が白鳥に詰め寄った。 「…えと…なにいってるの?」 豆鉄砲を喰らったような顔で驚いている。 その顔に演じているような素振りは、ない。 「…あなたは白鳥隆士さん、ですよね?」 「隆士…って、それ男の格好させられたときの?」 「!?」 「わたしは、白鳥隆子、ですよ…?」 「なっ……」 そう言い切る白鳥には冗談を言っている様子は感じられない。 突然の出来事に、梢と珠実は言葉を失うしかない。 「珠実ちゃん…? なんでそんなこと聞くの?」 「…っ!」 「あっ…!」 ついに耐えきれなくなったのか梢は部屋を飛び出していってしまった。 「梢ちゃん!?」 「白鳥さん! 待ってください!」 「何よ、珠実ちゃん!」 慌てて立ち上がり追いかけようとした白鳥を珠実は制する。 「あなたにお尋ねしたいことがあります」 「……?」 「梢ちゃん?」 しばらくして白鳥の部屋から出てきた珠実は梢の姿を探していた。 「梢ちゃん…」 程なくして、縁側に座りうつむく梢の姿を見つけることが出来た。 「あ……珠実ちゃん」 「梢ちゃん…」 振り返る梢の瞳は潤み、頬には涙の跡が残っていた。 「………」 「……梢ちゃん」 そんな親友の悲痛な面持ちを見て歯噛みする。 珠実は梢の隣に座り、しばらく沈黙の時間が過ぎた。 重い時間が流れたが梢は意を決したように口を開いた。 「…話して、珠実ちゃん」 「…いいんですか、梢ちゃん?」 「うん…白鳥さんのことはちゃんと知っておきたいから…」 「…そう…ですか…」 珠実はしばし天を仰ぎ思案した後、ゆっくりと話し始めた。 「端的に言いますと…今の白鳥さんは記憶が入れ替わっているんです…男女の」 「記憶が…入れ替わる…?」 「そうです…今まで生きてきた記憶の全てが『女として生きてきた』記憶に置き換わっている…ようなんです」 「そんな……」 「原因は……わかりません」 「…………」 しかし、珠実には思い当たることがあった。 白鳥の記憶が入れ替わった理由…おそらくそれは変わってしまった自分を守るための記憶の補完…。 つまり、梢と同じ、だったのだ。 「ただ……」 「……?」 「梢ちゃんへの想いは変わっていないようです」 「そう…ですか」 梢は一瞬嬉しそうな顔を見せたがその顔はすぐに複雑な表情に変わった。 「それで、白鳥さん今は?」 「お疲れでしょうからもう休むようにいいました」 「そうですね…」 「私たちももう休みましょう、考えすぎてもよくありませんから」 「うん…そうだね…」 立ち上がる珠実に促され、梢も立ち上がる。 しかし、その視線はまだ2号室の方へ向けられていた。 (白鳥さん…) 翌朝───。 白鳥が起きてこない時間を見計らって鳴滝荘の全員が食堂に集まっていた。 珠実が中心となって白鳥に起こった変化を皆に説明している。 記憶の補完、と言うことを聞き全員がちらりと梢の方を見るが本人は考えにふけったままだった。 「なんだか…面倒な事態になってるナ」 「事情はだいたいわかったけど…」 桃乃は珠実を捕まえて耳打ちした。 (つまり梢ちゃんと同じって事?) (多重人格ということはないと思うですが、近い症状だと思います〜) (あちゃ〜…) 厄介なことになったといわんばかりにため息をつく桃乃。 「まー、あたしらに出来ることは特にない、か…」 「解決策が出るまで白鳥さんを女の子として扱う、くらいですかねぇ〜」 「女として扱うったってナァ…」 やれやれと言った感じで皆ため息をついた。 それからしばらくして、ようやく白鳥は食堂に現れた。 「みなさん、おはようございます」 「あ、うん、おはよう、白鳥くん」 「…? どうしたんですか? 変な顔して」 「あ、ううん、なんでも」 不思議そうな顔をしている白鳥を皆はじっと見つめた。 桃乃から借りた女物の服も普通に着こなしている。 昨日よりも髪が伸び───腰の下くらいまでの長さがあるだろうか、それを軽く三つ編みで結っていた。 そこには鈴のついた髪飾り。 皆が知る“白鳥隆士”とはあまりにもかけ離れた女の子がそこにいた。 「おに…お姉ちゃん、お、おはよう」 「おはよう、朝美ちゃん」 「う、うん…」 「どうしたの、朝美ちゃん? どっか調子悪いの?」 「う、うぅん、なんでもないよ!」 「…?」 自然…あまりにも自然体だった。 まるで昨日のことはなかったかのような白鳥の振るまい。 それはずっとそうであったかのような自然な振る舞いだった。 (本当に変わっちゃってるのね、白鳥くん…) (自分が男だったこと、まったく覚えてないんです) (はぁ、厄介ねえ…) 桃乃たちも白鳥の変貌を目の当たりにしてさすがに複雑な表情になった。 これにはさすがの住人たちも声もない。 ただひとりを除いて。 「白鳥さん、すぐ朝ご飯食べますか?」 「あ、うん、梢ちゃん。 なんかお腹空いちゃって」 「じゃ、すぐ用意しますね♪」 一番心配しているであろう梢が、何事もなかったかのように朝食を用意している。 鼻歌を口ずさみすっかりいつもの梢に戻っていた。 「白鳥さん、夕べはご飯食べていませんでしたからいっぱい食べてくださいね」 「あ、いや、お腹空いてるっていっても朝からはそんなに食べられないよ」 「そうですか?」 「でも、ちょっと多めにしてくれる?」 「はい♪」 自然な、自然すぎるふたりの会話。 他の住人たちは唖然とするしかなかった。 (梢ちゃん、どうしちゃったの? まさかもう慣れちゃったとか?) (いえ、白鳥さんを気遣ってるんでしょう…) (え…?) (…耐えてるんですよ) (お姉ちゃん…) 梢が取った選択…それは気丈にも『変わってしまった“彼女”を受け入れる』こと。 しかしそれは…白鳥以外の全員に痛々しさを感じさせるものでしかなかった。 「あっ、そういえば桃乃さん。 また、わたしの服隠したんですか?」 「へっ…?」 「着替えようと思ったらタンスのなかは男物ばっかりだし…。 そういういたずらは止めてくださいよね」 「えっ? あっ、うん、ゴメン…」 平然と男であったことを否定するような発言をする白鳥。 皆、そんな“彼女”を前に戸惑いを隠せずにいた。 「どーしたもんかしらねえ…」 白鳥の変貌を目の当たりにして、さすがの住人たちも動揺していた。 「どうもこうもあるかヨ。 梢のときもそうだったが白鳥も変わりすぎだろ」 「胸、大きいし…」 「いや、そこはツッコミどころじゃないだろ…」 学生たちが学校に行っている頃、鳴滝暇人3人組は緊急会議を開いていた。 「ともかく、今のまんまじゃ落ち着いてらんないゼ」 「今日は土曜日だから梢ちゃんたちも早く帰ってくるけど…早めに対処法を考えたいところね」 「そうね…」 「まー、梢と違って性格まで変わってるわけじゃないから楽かもしれんがナァ」 3人はちらりと2号室の方を見遣る。 渦中の人物は自室で課題に取り組んでいるようだった。 「白鳥くんの学校が休講でよかったわ。 そうじゃなきゃ平然といってただろうし」 「問題を余計に大きくするのは避けたいところだしナ」 「最初は白鳥くんが男に戻ればいいだけだと思ってたんだけどねえ…」 「魔法って不思議…ぴぴるぴるぴるぴぴるぴ〜……」 「はぁ、やれやれだわ…」 会議と言っても積極的に意見を出そうとしない灰原とそもそも論外の沙夜子が面子では、 名前ばかりでほとんど愚痴大会になっていた。 そんなこんなで昼時を過ぎ、学生たちの帰宅時間。 縁側で駄弁っている桃乃たちのところへ下校した朝美がやってきた。 「ただいま〜…」 「朝美、おかえり」 「おっ、朝美ちゃん、お帰り。 …どうかしたの?」 「えっとね…」 桃乃は朝美が少し困惑したような表情に気付いたがその理由はすぐ判明した。 「おぅ、帰ったぞ〜」 「この声…」 「あははは…」 「おっ、ここにいたのか」 梢と声と容姿は同じだが、その中身は別物。 朱い瞳とポニーテールが印象的な少女だった。 「早紀ちゃん、お帰り〜」 「おぅ、帰ったぜ」 「あれ? 珠ちゃんは一緒じゃなかったの?」 制服姿のところからすると学校にいるときに変わったらしい。 しかし、人格が入れ替わったときはいつもそばにいるはずの珠実の姿は見あたらなかった。 「ああ、なんでも部活に出るとかいってたな。 先に帰ってろなんて言われたの初めてだぜ」 「あ〜、そっか…。 そうだったわね」 「…? それにしても腹減ったなぁ。 朝美、昼にしようぜ」 「あ、うんっ」 「は〜、喰ったくった」 「ごちそうさま〜」 「ところで桃、隆子はどこだ?」 少し遅めの昼食を終えた早紀は突然桃乃に尋ねた。 「へっ? 早紀ちゃんなんで知ってるの…?」 「はぁ? なにいってんだ、アタシが知ってちゃおかしいか?」 「いや、おかしくは…ない…かも?」 「それより部屋にいるのか?」 「あ、うん、出かけてないから、多分」 気圧されるように素直に答える桃乃。 その場にいた皆が早紀が白鳥に起こった変化を知っていることに驚く。 と、いっても最近は記憶の一部が繋がりはじめているし、 これだけ衝撃の大きいことは覚えていても当然と言えるかもしれない。 「そうか…。よし」 「よしっ、ってどうしたの!?」 「おぅ、ちょっと行ってくるぜ」 ただならぬ雰囲気に何かを感じた桃乃だったが、早紀はグッと拳を握り部屋から出て行ってしまった。 「あっ、ちょっ、早紀ちゃ…!」 「ど、どうしちゃったんだろう…」 「さぁ…」 「………」 ここは2号室の前。 彼女───赤坂早紀は硬直していた。 (落ち着け、落ち着けよー。 アタシらは恋人だ、これが当たり前なんだ!) しかし、ドアを叩こうとする手は一向に動かない。 (えぇい、ここまで来て何迷ってんだ、アタシは!) すぅっと大きく深呼吸して意を決した後、早紀は扉を叩いた。 「ぉ、おーい、隆子ー。 いるかー?」 しかし、返事はない。 もう一度戸を叩いてみてもやはり返事はなかった。 「…? 寝てんのか…?」 ドアノブを握ってみると鍵はかかっていない。 「おーい、入るぞー…」 一応断りをいれてから入ると部屋の主は机に向かって黙々と作業をしていた。 早紀が部屋に入ってきたことも気付かずに夢中でキャンバスにペンを走らせている。 (なんだよ、いるじゃねぇか…驚かせやがって) 早紀はほっとしたと同時に心配させたお返しにと気付かれないように隆子に近づいていった。 すぐ後ろに立ってキャンバスをのぞき込むとそこにはデフォルメされたたくさんの動物たちが描かれている。 (ふぅん、相変わらず女々しいもん描いてんなぁ───) 気付かずにキャンバスと格闘する隆子。 (でも…いい顔してんじゃねぇか) 早紀はすっかり毒気を抜かれて、隆子が気付くまで待つことにした。 「……っ!?」 「おっ、ようやく気付いたか」 隆子が気付いたのはそれから10分後のことだった。 「えっ、あっ、いつからそこに!?」 「んー、ちょっと前。 お前があんまり熱中してるんで話しかけるのも悪くてな」 「ビックリしたぁ…っていうか、早紀ちゃん!?」 「おぅ、早紀ちゃんだぜ」 隆子はいきなり現れた早紀に驚いたのかし、どろもどろになりながらも居住まいを正した。 「もぅ、ドアくらいノックしてよ!」 「したけどおめーが気付かなかったんだっての。 まっ、いいもん見られたからいいけどさ」 「え? そうだったんだ…って、いいものって?」 「あ、いや、それよりお前、飯も喰わずにずっと絵描いてたのか?」 「えっ? あ、もうこんな時間!?」 言われて初めて気付いたのか、隆子は時計を見て驚いている。 「気付いてなかったのかよ…。 大した集中力だなぁ」 「いやぁ、筆が進んじゃって、つい、アハハ…」 「まあ、いいけどな。 …それよりこれから時間あるか?」 「え…?」 「こんな昼間っから部屋に籠もりっぱなしじゃ体に悪いだろ。 たまにゃぱーっと遊びに行こうぜ!」 「ええっ!?」 「なんだよ、ひょっとしてそんなに忙しかったか…?」 突然の提案に驚く隆子。 しかし、それもつかの間、早紀の意図を感じ取ってすぐに了承した。 「ううん、いいよ。 丁度行きたいところもあったし」 「おし、決まりだな!」 「おやおや…そういうことなのね」 「デートだぁ…オトナだなぁっ」 こっそりつけてきて物陰で見ていた桃乃たちは予想だにしない展開に燃えていた。 「なんだか気張ってると思ったら思いがけない行動に出るナ」 「しかしまー、早紀ちゃんもこんな時に大胆ねえ…でも…」 今朝の梢の様子を思い出し、納得するところもあった。 「早紀ちゃんも早紀ちゃんなりに頑張ってるのね。 ふふ、これは目が離せないわっ」 「尾行ね…」 「お母さん、私たちは内職だよっ」 「〜っ…」 「ところで早紀ちゃん、行き先決めてあるの?」 「ん〜、いや、特には決めてない」 出かける準備を手早く済ませ、ふたりは鳴滝荘を後にした。 早紀も隆子も久しぶりのふたりきりの外出にすっかり浮かれている。 こっそり尾行者がついてきていることなど知るよしもない。 「いい加減だなぁ…」 「ま、いーだろ。 お前、行きたいところあったんだろ?」 「あっ、うん。 着るものとか買いたかったから」 「それじゃ、前に行ったデパートがいいな」 「デパート…そういえば、前のデートの時もそうだったね」 「バッ、バカヤローッ!! デデデデッ、デートとか言うなっ!!」 「あっ、ゴメン…」 「い、いや、謝るなよ…実際そうなんだし…」 「あ、あの…」 「ん……?」 ふざけあうふたりのそばにいつの間にか小学生くらいの男の子が立っていた。 華奢な印象を受けるその男の子はおどおどしながらふたりに話しかけてきていた。 「ん? なんだ、ボウズ?」 「あ、あの……」 「あれ、キミは……」 「お姉ちゃん…あの時はありがとう!」 「ん〜…? おめーはあんときの弱虫ボウズじゃねーか」 相変わらず歯に衣着せぬ物言いの早紀だったが、この少年のことは覚えていたようだ。 「オゥ、久しぶりだな! あれから頑張ったか?」 「うん! 親戚のおじーちゃんから合気道を習い始めたんだよ!」 「へー、合気か。 護身にゃぴったりだな」 「それでね、健一くんたちにいってやったんだ。『もうおまえらなんかに負けないぞって』って!」 よっぽど嬉しかったのか、少年は目をキラキラさせながら武勇伝を早紀に報告していた。 早紀もそれをうんうんと聞き、まるで我が身のように喜んでいた。 「…でもな、ボウズ。 お前に一つだけ言っておくぞ」 「うん、なに、お姉ちゃん?」 「自分の力を振りかざすんじゃないぞ。 無闇に力を誇示すればあいつ等と同じになるからな」 「……」 「もしそういうことに気付いたら、自分がイジメられたときの気持ちを思い出せ。 あんな気持ちは嫌だろ?」 「うん…」 「それを知ってるお前ならわかるな? 後はお前の気持ち次第って事だな」 「うん…わかったよ、お姉ちゃん!」 「よし!」 そういうと笑顔で笑い合う早紀たち。 少年は早紀と約束すると元気に手を振りながら帰っていった。 「早紀ちゃんって、やっぱり優しいんだね」 「べっ、別にそんなんじゃねーよ!」 少年とのやりとりを見守っていた隆子は素直な感想を言った。 途端に早紀は真っ赤になってしまう。 「でも、早紀ちゃんのそういうところは好きだなぁ」 「なっなななななななななっ!!!???!?」 「あっ、いや、これは、その、えと」 「バッ、バカヤローッ!! エロいことゆーなッ!!!」 「ええっ!?」 「あらあら、早紀ちゃんったら相変わらずねえ」 相変わらずの小学生カップルっぷりに尾行する桃乃も苦笑していた。 真っ赤になった早紀のゲンコツが隆子に飛んだのは言うまでもない。 デパートに到着したふたりはとりあえず軽い食事を済ませてからショッピングを楽しむことにした。 「んーと、洋服買うんだったか?」 「うん、服だけじゃなくて下着もだけどね」 「ああ、そか」 衣料品売り場にやってきた隆子は適当に手に取ったものを買い物かごに放り込んでいる。 黙ってその様子を見ていた早紀だったがとうとう見かねて口を出した。 「…なぁ。 前々から思ってたんだけどさ、お前もうちょっと服に気を遣った方がいいぞ?」 「えっ…?」 「えっ、じゃねーよ。 だいたいなー、お前は服に無頓着すぎるんだ」 「そ、そうかなぁ…?」 突然、千百合みたいなことを言い出した早紀を見て思わず目を見つめてしまった。 しかし、その瞳は朱く早紀のままなのは間違いない。 「今だって、桃の服借りてるからマシなんだろうがそのかごに入れた服はなんだっての」 「うぅ…」 「こんな地味地味した服じゃ一緒にいるアタシが恥ずかしいだろーが!」 「そ、そんなぁ…」 「おめーだって、作家の端くれだろー。もうちょっと外見にも気を遣えって」 「う、うん…」 「だーっ!! ウジウジすんなっての!!」 隆子本人も気にしていたのだろうか、すっかりどんよりした表情になっている。 「ホレ、アタシも一緒に選んでやるからちゃんと見て回ろうぜ」 「え…?」 「ホラ、こっちだこっち、さっさと行くぞ」 「あ、う、うん」 「こっちはどうだ?」 「え、ちょっと派手じゃない?」 「そか? じゃ、こっちだ」 「こ、これスカート短いよ!?」 「注文の多いヤツだなー…。 これなんかどうだ?」 とっかえひっかえ服を合わせていく早紀。 「なんだか子供っぽいような…」 「そーだなー。 お前背もあるしスタイルもいいから、意外と難しいな」 「あっ、これなんかどうだろう?」 「い、いや、それはちょっとエロくないか?」 「そ、そう?」 なんだかんだ言いつつ隆子もすっかり楽しんでいた。 「うーん、じゃ、こいつでキマリだな」 試着室に持ち込んだいくつかの服合わせがようやく終わった。 「ふぅ、ありがと、早紀ちゃん」 「気にすんなって」 「うーん…せっかくだから、この服着ていっちゃおうかな」 「なに、着て帰るのか?」 「うん、そうするよ。 すいませーん、会計お願いします〜」 「まっ、いいけどな」 早紀も自分の選んだ服を気に入ってもらってまんざらでもないらしい。 程なくして会計員がやってきた。 いつぞやの怪しい口調の店員ではなかったがテキパキと仕事をこなしていく。 「これとこれ、あとこっちも。 それとこの服は着ていきます。 あと…」 「結構な量になっちまったなぁ」 「うん。 じゃ、早紀ちゃん、はい、これ」 「へっ?」 そういって渡してきたのは上下揃いになった洋服だった。 「今日、誘ってくれたお礼」 「な、ななななっ!? いいって、いいっての!」 「受け取ってよ、わたしが早紀ちゃんにって選んだんだから」 「えっ? あ…、そ…そうか…? あ、ありがとな」 真っ赤になりながらも隆子から受け取った服を鏡に向かって合わせている早紀は何となく嬉しそうだった。 「…おし、アタシもこれ着て行くよ」 「ええっ!?」 「へへっ、これで、おあいこだな」 「あ、あはは…」 「ふふっ、早紀ちゃんったらすっかり上機嫌ねえ」 物陰から覗いていた桃乃もふたりのバカップルぶりには苦笑するしかなかった。 「さて、一応珠キチにも連絡いれておきますか、っと」 「さーって、買い物も終わりだな」 「うん、つきあってくれてありがとね、早紀ちゃん」 「気にすんなって、元々アタシが誘ったんだし」 買い物を終えてデパートを後にしたふたりはおろしたての服に袖を通し上機嫌だった。 「なあ、ゲーセン寄ってくか?」 「えっ…でも」 手荷物の多さと沈みかけた陽に目をやりながら躊躇する隆子だったがすぐ答えは決まった。 「…うん、いいよ。 久しぶりだしね」 「おっし、めいっぱい遊ぶぞー!」 「お、お手柔らかにね」 「おし、そこ気をつけろよ!」 「う、うん!」 「いけ、アクセル全開でインド人を右に!」 …。 「なにこの弾!? 避けられないよ!」 「あははは、大往生して死ぬがいい!」 「わわわっ?! え〜い、もう自棄だー!」 「っ!? 8の字避けだとぉ!?」 ……。 「リズムに合わせてボタンを…って、早紀ちゃん、これバーが消えちゃうんだけど…」 「ああ、そういうもんだからな」 「ええっ!?」 「考えるな、感じるんだー!」 「そんな無茶苦茶なー!?」 ………。 楽しい時間が過ぎていく…。 「おーし、じゃあ次は格ゲーだな」 「でも早紀ちゃん、もうやってる人がいるんだけど…」 隆子が見る筐体の反対側には人が座っているのが見えた。 「いーんだよ、格ゲーはそういうもんなんだから」 「そ、そうなの?」 「元々、知らない者同士でやるもんなんだぜ?」 「へぇ…」 早紀ちゃんは指で弾いてコインを投入すると意気揚々と席に着いた。 ちらりと反対側を見るといかにもガラの悪そうな学生連中が陣取っていた。 (うわ、早紀ちゃん、なんか相手の人たちまずそうだよ!?) (あぁん? 格ゲーにんなこと関係ねーだろ。 これは勝負なんだから) (えぇ!? でもっ) (まー、見てろって) そうしているうちにゲームは始まる。 が、早紀も相手も様子を見てなかなか動かず、心理戦が続いた。 「ケッ、そんなごついキャラ使って待ち戦法かよ。 みみっちいことしやがるなぁ」 しびれを切らしたのか、早紀が先手を打ち、それを待っていたかのように相手も動いた。 しかし、それは早紀のフェイク。 反撃しようと動いた相手に早紀のカウンターが見事に決まり、勝敗は決した。 「へっ、どんなもんだ。 アタシに勝とうなんざ百万光年早いぜ!」 (ひぃ〜、こっち睨んでるよぉ!?) 「ったく、弱ぇぇくせにしつこいヤツらだなぁ」 それから早紀の快進撃は続いた。 が、すでに早紀はあまりに手応えのない相手に飽き飽きしていた。 それに反比例するように反対側からは悪態をつく舌打ちや機械を殴るような音がして険悪な気配が漂ってくる。 (さ、早紀ちゃん、そろそろ帰ろうよぉ) 「あぁん? なんだよ、あいつら追っ払わないと一緒に遊べないだろ?」 (も、もういいってばぁ) 「ん? なんだ、おめービビってんのか?」 (ほ、ほら、もう時間も遅いしさ…) 「んー…。 そか?」 ちらりと時計を見ると確かに午後7時を回っている。 早紀はふむ、と納得すると席を立った。 「んじゃまー、雑魚と遊んでてもつまんねーし帰るか」 「う、うん…」 早紀が席を離れたことにより、早紀のキャラは一方的に倒されていた。 帰ろうとするふたりの後ろでひときわ大きく筐体を殴る音が響いた。 「オイ、ねーちゃん…勝ち逃げかよ…!?」 「あん? アタシがいつ帰ろうがアタシの勝手だろ?」 「んだとぉ!?」 「アタシらはもう帰るから好きなだけやってりゃいいじゃねーか」 「ふざけんなぁ!!」 たむろしていた不良連中は早紀の傍若無人な物言いにすっかり気色立っていた。 「さ、早紀ちゃ〜ん……」 「ん、ああ、行こうぜ、隆子」 「待てよぉ!!」 すっかりブチ切れた不良たちは早紀立ちの前に立ちふさがった。 「このまんまじゃ俺たちの面子は丸潰れだ! もう一度勝負しやがれッ!」 「ったく、あれだけやったんだ。 もう結果は見えてんだろ?」 「まだだ! 俺が本気になりゃおめーなんざ…!」 「本気出してないのにそんなに頭に血を上らせてんのか? やめとけっての」 「〜〜〜〜〜〜ッッ!!!」 「ちょ、ちょっと、早紀ちゃ〜ん………」 「な、なんかやばい雰囲気ね。 とりあえず珠ちゃん呼ばないと…」 物陰で見守っていた桃乃は急いで珠実に連絡を取っていた。 桃乃が応援を呼んでいる頃、早紀たちは一触即発のムードになっていた。 「お、お客様、店内でのもめ事は…ピッ!」 慌てて止めに入った店員さえも不良たちに一撃K.Oされていた。 野次馬が群がりすっかり騒ぎは大きくなっている。 「ちっ…」 「ねーちゃんよぉ、逃げられると思ってんのか?」 「ったく、めんどくせーなー…」 「てめぇ! ちゃんと話を聞きやガッ…!?」 掴みかかってきた男の動きが止まる。 よく見ると踏み出してきた男の足の甲に早紀のつま先が突き刺さっていた。 早紀が足を離すと男は大げさに悲鳴を上げ屈み込んだ。 「オィ、やめよーぜ。 つまんねーことでケーサツの世話になりたくないだろ?」 「やろぉ!!」 「ちっ、隆子、下がってな」 「う、うん」 「ダッシャァ!!」 早紀は殴りかかってくる相手を華麗にかわし、カウンター気味にアゴに反撃をいれる。 よろける男をそのままもうひとりの不良に投げつけた。 「ぐぼぁ!」「うごッ」 「いまだ、隆子! 逃げるぞ!!」 「あ、うん!」 不良たちが怯んだ隙にふたりは店を飛び出した。 しかし、相手も余程執念深いのかしぶとく追いかけてきた。 「待ちやがれぇ!」 「ケッ、しつこい野郎共だな…!」 「さっ早紀ちゃん〜」 「走れ、隆子、全力ダッシュだ!」 「う、うん!」 が、町中での逃避行は前を走る方が不利なもの。 しかも、動きづらい女物の服を着てたくさんの荷物を持っているとなればなおさらだ。 ついに早紀たちは路地裏の袋小路に追いつめられてしまった。 「ちっ、行き止まりか…」 「ハァハァ…さ、早紀ちゃん、どうしよう…」 「ふぅぅぅぅ、鬼ごっこもおしまいだなぁ、ねーちゃんたち…」 「やるしかないか…ッ」 「ハァ…ハァ…しぶといヤツらだ…な…」 「さ、早紀ちゃん…」 「大丈夫だ…4人までならいけるぜ」 屈強な不良を相手に早紀も善戦しているが体力的な差がじわりじわりと彼女を追いつめていた。 「キャオラァッ!!」 「くっ…たりゃぁ!」 「ぐぼっ!」 カウンターでの鳩尾への正拳、崩れる相手へのハイキックでまたひとり沈める。 しかし、早紀の疲労の色は目に見えて濃くなっていた。 「よう、ねーちゃん、そんなに足を上げたらパンツ丸見えだぜー」 「てめぇ、何言って…!」 ジャッ! 「く、しまった…!」 一瞬の隙を突かれ、早紀の右腕が鎖で絡め取られた。 続けざまにもう一本の鎖が飛んできて早紀の左足を絡め取ってしまった。 「ちっ、ドジったぜ…!」 「ククク、待ってたぜぇ、この時を! この“鉄鎖のジャック”様の頭脳プレーの勝利ってことさ」 「や、やったぜ、石丸くん!」 「鉄鎖のジャックって呼べっていってんだろ!」 ジャックことリーダー格の男が鎖を操り、早紀の動きを封じる。 「これで年貢の納め時だなぁ、ねーちゃんよぉ!」 「俺たちをコケにした罪…たっぷり味合わせてやるぜぇ…へへっ」 「くそっ、いい気になるなよ!」 ひとりの不良がナイフを片手に早紀ににじり寄る。 「やっ………やめてぇぇぇぇっ!!」 早紀の危機に堪らず飛び出した人影が奔る。 「隆子っ!? バカ、出てくるなッ!」 「な、なんだ、てめぇ!」 隆子はナイフを手にした不良の腕にしがみつく。 「はっ離せっ!」 「早紀ちゃんに手は出させないんだから!!」 「隆子ッ!下がってろッ!」 「いやッッ!!」 「こ、こいつっ、離しやがれっ!」 「離さないッッ!!」 それでも必死にしがみつく隆子。 ふたりがもみ合ううちに手が滑ったのだろうか。 引き裂かれる衣服───。 ───飛び散る鮮血。 「…ッ!!!!」 ナイフにしたたる朱い血───。 ───ドサリ、と人が倒る音。 その場の空気が凍り付く。 「りゅ……隆士いいいいいいいいぃぃぃぃ!!!!!!!!」 「てっ……てめえらぁぁぁぁ!!!!」 「なっ…!」 早紀は己を縛っていた鎖ごとジャックを引き寄せ、顔面に鉄拳を叩き込んだ。 一瞬の出来事に呆気にとられる不良たち。 気勢の殺げた相手など激情した早紀の敵ではなかった───。 「隆士…隆士、しっかりしろよぉ…!」 不良共を撃退した早紀は白鳥の元へ駆け寄った。 「…ッ!」 急所は外しているが右腕が大きく傷つき、出血が真新しい服を染めていた。 「バッカヤロー…こんな無茶…するから…!」 早紀は自分の着ていた服の袖を破り、ぐったりする白鳥に応急処置をする。 その手も白鳥の血で濡れていく…。 「ちくしょう…ちくしょう……ッ!」 早紀は混乱しながらも必死で白鳥に処置を続けた。 「うっ…」 「隆士…!?」 「あ、早紀ちゃん…」 荒い息を立てながらも白鳥は目を覚ました。 「早紀ちゃん…怪我は、ない……?」 「バッ……バカヤローッ!! てめえの心配しろよ!!」 「ぼ、僕は…男だから…。 彼女を守るのは…男の…役目…だから…」 「隆士、お前…っ!」 玉のような汗を浮かべながらも白鳥は笑っていた。 「早紀、ちゃんが、無事…なら…僕はいいんだ…」 「バカッ、もういい! しゃべんなっ!」 「あ、でも、こ、この体じゃ男なんて…言えない、かな…はは……」 「バカ野郎……ッ」 白鳥の左手を握る手に零れるしずく。 早紀の目には涙が溢れていた。 「な、泣かないで…早紀ちゃん…」 「泣いてなんて…ねぇよ…!」 「僕、は…へいき…だ、か…ら……」 握り返す手の力がだんだんと抜けていく。 「な、か…ない…で……」 「おい…隆士ッ! 目を開けろッ!」 「……」 「目を開けてくれよッ!」 「………」 「アタシをひとりにしないでくれよぉぉぉぉ!!」 その後───。 駆けつけた桃乃たちによって白鳥は病院に担ぎ込まれることになった。 さいわい、命に危険はなかったが傷は残ってしまうかもしれない、とのことだった。 「アタシ…バカだ…」 白鳥の眠る病室に早紀、珠実、桃乃が集まっていた。 重い空気に包まれたそこで早紀はぽつりぽつりと話し出した。 「あのボウズに…力を誇示するななんて言っておいて…このざまだ…」 「早紀ちゃん…」 「アタシが調子に乗っちまったばっかりに…隆士を…」 「早紀ちゃん、もういいから」 「なにがいいもんかっ!!」 立ち上がり頭を振る早紀の瞳から零れる大粒の涙。 「アタシがっ、アタシが隆士を巻き込んだばっかりに隆士は…ッ!」 「早紀ちゃん、もうやめて!」 「全部アタシが悪いんだ……」 力無く崩れ落ちる。その胸には自責の念。 「アタシが隆士を誘ったりしなければ…こんな事にならなかった…誰も傷付かなかった…」 「……」 「やっぱり慣れないことはするもんじゃなかったのかな…。 アタシ、バカだからさ…暴力奮うしか脳がない女だから…」 その視線の先にはボロボロになったプレゼントの服───。 「アタシ…アタシは……」 「そんなこと、ないよ」 「───っ!」 ベッドに泣き伏す早紀に語りかける、優しい声。 「だから、泣かないで…。 早紀ちゃん」 「隆士っ!」 「僕は気にしてないから…もう泣かないで」 「隆士…りゅぅしぃぃぃ!!!」 早紀は隆士の笑みを見ると弾かれたように抱きつき、声を上げて泣き始めた。 しかし、その涙の意味は先刻までのものとは変わっている───。 抱きしめ合うふたりを残して桃乃たちは病室から立ち去った。 「…早紀ちゃん、落ち着いた?」 「ん…ぐすっ」 「心配させてゴメンね…」 「ゴメンじゃねーよ、バカ…」 早紀は隆士の腕に抱かれて、涙声のまま悪態をついた。 その言葉とは裏腹に早紀はとても嬉しそうだった。 「早紀ちゃんには辛い思いさせちゃったね…」 「ん、いい、気にしてないから」 「うん…」 そう言ってグッと抱き寄せる。 怪我をした右腕は包帯まみれで動かせなかったが自由な左腕で強く抱きしめた。 「隆士…ちょっと恥ずかしいな…」 「うん、僕も…」 「でも、もう少しこのままいさせてくれないか…?」 「うん、僕も」 抱きしめる腕の力が強くなる。 「ゴメンな…服、ボロボロになっちまったよ…」 「いいよ、服はまた買えばいいんだから」 「その傷、一生残るかもしれないって…」 「傷は男の勲章っていうじゃない? それに早紀ちゃんを守って出来たならむしろ誇らしいよ」 「バカヤロー…かっこつけやがって…」 隆士は右腕を見て小さく笑う。 「作家の卵なんだから利き腕は大事にしなきゃダメだろーが…」 「うん…だけど、今は左手にあるものの方がもっと大事だから」 「…バカ」 「バカでいいよ…」 「ん……」 見つめ合うふたりは、やがてその唇を重ね───。 病室から出てきた桃乃は安堵のため息をつく。 とりあえず、心配の種が一つ片づいたからか急に肩の力が抜けたのだろう。 「…あ〜あ、なんか妬けちゃうわね」 「早紀ちゃん…」 閉じた扉の向こうを見てうつむく珠実。 「珠ちゃん…」 「いえ、わかってるんです…梢ちゃんの幸せは私の幸せ…だからいいんです」 「珠ちゃん、無理すんなって」 その頬を伝うひとしずくの涙。 「こうなることは…わかってましたから…大丈夫、です…」 「珠ちゃん…。………。 …笑顔だ!」 「え…?」 突然の言動に驚いた珠実は桃乃の方を振り向いた。 「祝福するなら笑顔! 喜ぶなら笑顔! でしょ?」 「……。 ハァ?」 いきなり意味不明な発言をしだした桃乃にぽかーんとする珠実。 「そんな泣き顔で幸せを願ってどうするのよ? だから笑顔!」 「……。 人が落ち込んでるっていうのに何いってんですか〜? このエロメガネは〜」 「にゃにおー! 人が心配していってやってるのにー!」 「そういうのを追い打ちっていうんですよ〜。 桃さんはデリカシーがないですね〜」 「え〜…そーかなー」 ───親友が教えてくれたこと。 辛いときも、悲しいときも、うつむかずに前を見よう。 だから、笑おう───。 翌朝───。 僕は病院のベッドの中で目を覚ました。 「ん……朝…か」 視線を動かすとベッドの脇ではポニーテールの少女───早紀ちゃんが眠っている。 (きっと目が覚めたときには梢ちゃんに戻ってるんだろうな…でも…) 左手でその髪を撫でる。 右手はまだ痛むけど、それは今は心地よいものだと言ってもよかった。 (僕たちの思い出はみんなのものだよね、早紀ちゃん…) 「白鳥くん、おはよーうぉっとぉ!?」 「あっ…!」 そばで眠る彼女に気を取られている隙に桃乃さんたちがやってきた。 「ひゅーひゅー、朝からお熱いねえ」 「白鳥さんのえっちー」 「お、大人だね!」 いつも思うんだけどこの人たち、タイミング見計らってるんじゃないだろうか…。 「ん…あれ、ここは…」 「おっ、眠り姫のお目覚めね」 目覚めた梢ちゃんはしばらくあたりの状況をキョロキョロと見回した。 「あれ…私…ここは…」 「おはよう、梢ちゃん」 「…。あっ!」 僕と目のあった梢ちゃんは途端に涙目になってしまった。 「白鳥さん! 大丈夫ですか!?」 「うん、もう平気」 「よかったぁ…。 すっごく心配したんですよ…」 「ゴメンね、心配させちゃって」 「よかった…本当に…」 「あー…ふたりの世界に入ってるところ悪いんだけどさ…」 「あっ、ごめんなさい」 呆れたような桃乃さんが話しかけてきた。 どうも最近、こういうパターンが増えてる気がする…。 「珠ちゃんがさ、いろいろ調べてきてくれたんだってさ」 「あっ、なんかわかったの?」 「はいです〜。 っていうか、まずご自分の体を見てください〜」 「体…? あっ!」 言われたままにシャツの隙間から覗いてみると大きな胸がなくなっていた。 注意してみると下の方も何となく戻っている感触はあった。 「元に戻ってる!?」 「です〜。 どうやら元々長続きするような術じゃなかったようです〜」 「そうだったんだ…」 「なので白鳥さんも安心してくださいです〜」 「よかったですね、白鳥さん!」 「うん、ありがとう、梢ちゃん、珠実ちゃん!」 「おめでとう、おにいちゃん!」 「うん!」 それから───。 検査を終え、退院してきた僕を労うためささやかな宴会が開かれた。 傷は痛むけど、みんなの笑顔が僕を何より元気にさせてくれた。 辛いことも、楽しいことも、 大切な人たちといるとき、 何よりも大事な人がいるとき、 その一つ一つが僕を作る大切な思い出になるんだ───。 <恋のマホウ> Fin. 「あー、白鳥さん〜」 「えっ、なに、珠実ちゃん?」 「一つ言い忘れていたのですが〜」 とそこで言葉を切り、なにやらもごもごと呟いた。 「この術は持続時間は短いのですが潜在的には効力を持ち続けますので〜」 「へっ…?」 という彼女の言葉に呼応するかのように───。 「呪文を唱えるとこの通り〜」 「えっ? えええええ…っ!?」 みるみる僕の体は女の子になってしまった───。 「いつでも女の子になれちゃいま〜す」 「えええぇぇ〜〜〜〜〜〜っ!?!?!?」 <恋のマホウ> …ミンナニハ ナイショダヨ? 551 名前: 恋のマホウ 後書き [sage] 投稿日: 2005/06/10(金) 01:06:35 ID:jNuALjoP と言うことで、紆余曲折のTSものサイドストーリー<恋のマホウ>でした。 何度か書きましたが最初は邪な発想から生まれた話なんですがねえ。 気付いたらシリアスものになる、これがまほらばクオリティ? とにかく書きだしたら止まらず、ロケットで突き抜けるように書ききってしまいました。 いや、ホントは千百合スキーなんですけどね。 物書きの神が「早紀にしろ」って囁いてきてこうなってしまいました。 まあ、楽しんで頂けたのなら幸いです。 なんかあちこちで大変評判がよかったのでビクビクものでしたが。 概ね好評で頑張った甲斐があったと思います。 ではでは。 PS.あ、Z隆子の鈴リボンの伏線消化し忘れた…。