---------------------- だから、笑いましょう ---------------------- 0/ 記念写真が嫌いだった。 いや、写真というモノ自体も写真を撮られる事も、私は別に好きでも嫌いでもない。 ―――ただ、写真を撮る時の、あの言葉。 写真屋のヒトも、 お母様も、 私に向かってカメラを構えると決まって口にする、あの言葉。 「笑って」 ―――その言葉が、私は大嫌いだった。 何が楽しくて、無理に笑わなければならないのか。 …笑う事の、何が楽しいのか。 笑わない事の、何がいけないのか――― ―――――――――………… ―――そして。 私は、それらの疑問を解決する糸口すら掴めないまま。 私の覚えている限り、一度たりとも笑う事が無いまま。 この世に生を受けてから、13年の歳月が流れた――― 1/ 「……こまった」 既に朱が差しかけている空を眺めながら、水無月まひるはぽつりと呟いた。 何が「こまった」のかと言うと。 端的に言えば―――彼女は今、穴の中に居る。 数分前。 何時ものように庭で一人でボール遊びをしていたら、 ふとした不注意から足を滑らせ、 すってんころりん。 ―――とまあ、至極簡潔に述べればこんな所なのだが、 何しろこの穴、狭いくせに意外に深い。 穴に落ちた時は「何故こんな所に穴が」と一瞬考えもしたが、 今はそれどころではない。 手を伸ばしても飛び跳ねてもギリギリで届かないと悟った時は自分の背丈の低さを呪ったりもしたが、 やっぱり今はそれどころではない。 事態は、意外に深刻だ。 こんな時に限って、唯一頼りになるタチバナは居ない。 母曰く、五日前からイタリアへ「訓練」に行っているのだそうだ。 何の訓練かは知らされていないが―――明らかに不必要な数の銃器類を抱えて家を出た所からしても、 その辺りの事は容易に想像が付く。 帰って来るのは今日の予定だが―――タチバナ曰く、 「空港で『敵』が襲って来るかも知れないので、もしかすると夜中までかかる」らしい。 「敵」については、私も母も知らない。 というか知らない方が良いような気がするので、触れない事にしている。 父もまた然り。 今日は彫刻作品の展示会があると言って、割方遠くにある美術館へ行ってしまったのが朝の事。 帰って来るのは、夜遅くになるそうだ。 母は陽が落ちるまで外に出られないし、 仮に私を見付けたとしても、母の力では私を引き上げる事は恐らく出来ないだろう。 「…………」 流石に、飲まず喰わずで夜中まで穴の中で一人―――というのは、 体力的にも精神的にもかなり辛いモノがある。 タチバナも×。 父も×。 母も×。 あとは――― 「…アイツ、か」 まひるはそう呟くと、淡い茜色の空をもう一度見上げた。 穴の縁でまるく切り取られたその空は、何時もより少しだけキレイに見えた。 2/ タチバナが水無月家に来たのは、私が小学校に入学して間もなくの事だった。 彼女自身も良家の出身で、頭も良く、運動も「運動以上の事」も万能。 当然ながらメイドとしての素質も文句無しで、一を聞いて十を知り百を行うような手際の良さで仕事を熟した。 一言で言えば、正に「何でも出来る奴」。 私はそんなタチバナを誰よりも頼りにしていたし、現に今だってそうだ。 寧ろ―――コレは本人には内緒だが――― 一種の憧れのようなモノを、私は彼女に対して抱いている。 我ながら、私はタチバナに良く懐いていたと思う。 子供のお守り同然の仕事でも、彼女は嫌な顔一つせず私に付き合ってくれた。 一緒に遊んでくれもしたし、学校の勉強を教えてくれたり(家庭教師は居たが、タチバナの方が教え方が上手かった ような気がする)ダーツの投げ方を教えてくれたり、拳銃の撃ち方―――は流石に教えてくれなかったが――― だけど、そんな彼女でも、ひとつだけ。 教えてくれない事が―――否、教える事が出来ないモノが、あった。 それは―――笑う、ということ。 同じだったのだ。―――彼女も、私と。 いや―――或いは、父が敢えて「そういう」人物を私に宛ったのかも知れない。 どちらにせよ、私にとってそれは実に有り難い事だった。 月日が経ち、年齢が二桁を数えても尚。 私は笑うという事を、一切しなかったから。 笑顔を強要される事が、何よりも嫌いだったから。 そして、何より。 自分と同じ人間が居るという事で、私は確固とした心の安息を手に入れる事が出来たから――― 「笑わない事の、何がいけないのか」。 ―――笑わなくても、楽しいじゃないか。 そんな時だった。 「そうですか? 笑った方がもっともっと楽しいですよ〜?」 ―――そんな私に、あいつがそんな事を言ったのは。 タチバナが来てから5年半後。 あいつが水無月家の門を叩いたのは、私が12歳になって間もなくの事だった。 3/ 陽が、沈んだ。 「…………」 ―――みんな、どうしているだろう。 母はそろそろ、私の帰りが遅いのを心配している頃だろうか。 もしかしたら父も今頃、私達の事を考えてくれているかも知れない―――アレで結構、家族想いな所があるのだ。 タチバナは―――もう、空港に着いた頃だろうか。 …いや、もしかしたら本当に「敵」とやらと交戦しているのかも知れない。 あのタチバナがそう簡単にやられる事は無いとは思うが―――心配していないと言えば、それは嘘になる。 ―――大丈夫だろうか。 怪我とか、していないだろうか――― 「……………ん」 ふと、鼻の頭に何かが触れる。 拾い上げてみると、桜の花びら。 既に星々が瞬き始めている空を見上げると、穴の縁の辺りから満開の夜桜の高枝が見え隠れしているのが見えた。 「……………」 ―――考えてみれば、今タチバナの身を一番案じているのは、あいつなのかも知れない。 何度説教をされて拳骨を喰らっても、尚も失敗を繰り返しながら慣れない手付きで熱心に仕事に取組んでいるのは、 あいつがそれだけタチバナを慕っている証拠でもあるのだろう。 あいつにとってタチバナは、 唯一人の仕事仲間であり、 仕事の伊呂波を教えてくれる先輩であり、 或いは目標であり、憧れでもあるのだから。 「………」 ―――それが、縱え「仕事」だとしても。 あいつは今から、私を捜しに来るだろうか。 穴に落ちた私を見付けて、慌てふためくだろうか。 無事に助け出された私を見て、何時ものように微笑うだろうか。 底抜けに明るいあの笑顔を、また私に見せてくれるだろうか――― 4/ 「お願いですからココで働かせてください〜!」 朝。 屋敷全体に響き渡るかと思う程の(事実そうだったと思う)その大声の所為で、 私の休日の贅沢、遅起きの清々しい目覚めは早くもぶち壊しになった。 「失礼します」 そこで丁度ドアがノックされ、タチバナが部屋に入って来る。 「…タチバナ、何だ今のは」 「申し訳ありません。直ぐに摘み出します」 「…いや、そうじゃなくてだな…」 「…?」 ―――タチバナの話によれば、"彼女"が此処を訪ねて来たのが凡そ1時間前。 たまたまドアを開けた母に、"彼女"は開口一番「ココで働かせて下さい!」と頭を下げたそうだ。 「…で、今もまだしつこく粘っている、と」 「はい。今は御主人様が取り合っておられます」 「…………」 ―――まあ、その根気は買うとして。 正直、雑用的な仕事はタチバナ一人で間に合ってしまっているのが現状だ。 父もその事は承知の上だろうから、本人には悪いが恐らく確実に断られるだろう。 階段を降りると、 居間のテーブルを挟んで、父と―――20歳くらいだろうか、栗色のショートヘアの若い女性―――が、向かい合って座っていた。 ―――いや、正確に言うと女性の方は身を乗り出して――― 「ぉお願いでぇすかぁらぁぁ〜!」 ……訂正、「泣き付いて」いた。 「お願いしますお願いしますお願いしますからぁ〜!でなきゃ私とヒロちゃんD.O.A.なのぉぉ〜!!」 それはもう、文字通りしっかりがっしりと。 「………………」 一方、泣き付かれている当人―――父は苛々と肩を震わせている、かと思うと。 「…えぇい解った!解ったから離れろっ!」 ガタンと大きな音を立て、痺れを切らしたように椅子から立ち上がった。 「タチバナ!」 「はっ」 返事をするや否や、タチバナは彼女をひょいと小脇に抱えてドアに向かう。 ―――と。 「待て。摘み出せとは言っとらん」 「…え?」 「……?」 振り向く二人の視線の先で、煙管の灰が甲高い音と共に灰皿に落ちた。 「…タチバナ、夕ちゃんを呼んで来い」 ―――結局その日から、彼女は水無月家に住み込みで働く事になった。 父曰く「確かに現時点ではタチバナ一人で十分に仕事を賄えているが、 それでも人数面の問題ばかりは拭えない」のが採用の理由らしい。 半分は本当の事だろう。 しかし、半分はきっと嘘だ。 何か、もっと―――別の理由がある。 子供心ながらに、私はそう直感していた。 そんな、小さく大きな出来事。 ―――それが、私とサクラの出会いだった。 5/ 姉妹共々、よく笑う奴等だった。 よく笑い、 よく泣き、 よく笑い、 よく笑う。 姉であるサクラは、特にそういう奴だった。 一言で言えば、騒がしい奴。 そのくせ、何も出来ない奴。 皿を割ったり、 バケツを引っ括り返したり、 その先に居るのが、例えば私だったり母だったり。 お陰で水無月家は、今迄より少し、賑やかになった。 ―――家の敷地の外へ出る事が滅多に無かった私にとって、 母よりよく笑う人間が身近に居る、という事実は少なからず私を驚かせた。 そして―――その事実が、私には欝陶しかった。 姉妹揃ってこんな性格なのだから、両親もさぞ賑やかな人間なのだろう。 ―――そんなつもりで、或る時私は、あいつに訊ねてみた。 帰国してから幾年も経っているのに、相変わらずの至らない日本語で。 「……お前、親は?」 ―――軽い気持ちだった。 「どんな人なのか」と、私はそう訊きたかっただけで。 だから、そんな返答は想定すらしていなかったし、無論望んでもいなかった。 ―――その時のあいつの表情は、今でも脳裏に焼き付いている。 私に訊ねられた瞬間の、笑顔が一瞬だけ消えたあいつの表情。 だけど、それは本当に一瞬の事で。 次の瞬間にはまた、あいつの表情は笑顔に戻っていて。 ―――でも、それは何時もの、満開の桜みたいな笑顔とは決定的に違っていて。 「―――両親は」 決して、無理に笑っていた訳ではない。 無理に笑顔を造っていた訳ではない。 本人と―――或いは、目の前で見ていた私が、一番良く解っていた筈、なのに。 なのに、 それは、 「…2年前に、亡くなりました。車の、事故で」 あまりに自然で、 どんな悲痛に歪んだ表情よりも悲しく、 それなのに、明るい所だけは何時も通りの、あいつの笑顔――― 6/ 「……!」 その瞬間。 あの時のあいつの言葉が、脳裏に甦った。 ―――でなきゃ私とヒロちゃんD.O.A.なのぉぉ〜!! 私は漸く理解した。 どうして父が、コイツを―――サクラを雇う事にしたのかを。 そして、後悔した。 自分を恥じた。 自分が情けなかった。 自分が、厭になった。 「……その、ごめ―――」 「だから」 蚊の鳴くような私の声を、あいつの言葉が掻き消す。 その声が暗に私を戒めているような気がして、私はハッと顔を上げた。 一瞬の沈黙。 一呼吸置いて、あいつは続けた。 「―――だから、こんな役立たずな私を拾って下さった御主人様に―――皆さんに、 感謝しきれないほど感謝しているんです。 …こうやって仕事をしていると、 ああ私生きてるって、 この2年間は無駄じゃなかったんだって、 父も母もかみさまも、私とヒロちゃんの事を見ていてくれたんだって、―――心の底から、そう思えるんですよ」 あいつはそう言って、もう一度、にっこりと笑った。 その顔はもうすっかり、元の何時もの笑顔。 満開の、爛漫桜花のそれだった。 …なんで。 ―――もう、限界だった。 なんで、そんな事を笑って話すんだ。 ―――赤い紅い水が、グラスから溢れ出すように。 なんで、そんな顔で笑えるんだ。 ―――自分でも訳の解らない感情が、ココロの許容量を超えて溢れて。 なんで、そんな悲しい顔で――― ――私は――――…… 「…それじゃあ、私はお掃…ってッお嬢様!? なっなっ何で泣いてるんですか!?もももしかして私また何か失礼なこ―――」 「―――なんで」 目を渦巻きにして混乱しているあいつの声を、今度は私の言葉が掻き消した。 静まりかえった屋敷の廊下に、その声は殊の外はっきりと―――不気味な程はっきりと、響き渡った。 7/ 「…え……?」 俯いていても、あいつの声の調子が変わる―――恐らく、表情も然り―――のが、私には解った。 胸が苦しい、そんな感覚。 心の堤防が崩れかけているのが―――ダムにヒビが入って、河水が、言葉が、或いは感情が―――行き場の 無くなった感情が、止めどなく溢れ出そうとしているのが、自分でも判った。 …判った時には、もう遅かった。 「なんで―――何で笑う?どうしてそうやって笑うんだ?笑う事に、何の意味がある? 楽しいから笑う?笑わなくたって―――無理して笑わなくたって、私は十分楽しい。 ……違う。笑う、なんて事…しない方が、私は―――」 「そうですか?」 ―――やられたら、やり返す。 闘争心というモノを知らない本人にはそんなつもりは破片も無かっただろうが、 「―――私は、笑った方がもっともっと楽しいと思いますよ〜?」 …その時の私にとって、その―――悪意の微塵も感じられない、無邪気な―――笑顔は最早、 私の感情を逆撫でするモノ、でしか無く。 ―――ソレを見た瞬間。 私は、 私を支える何かが、 音を立てて、 がらがらと、 崩れていくのが、 ―――見えた、気が、した。 8/ 「だったら!」 気が付くと、叫んでいた。 吐き出すように、吐き捨てるように。 「…だったら、なんでそんな話を笑ってするんだ?親が死んだ、なんて…どうして笑って言える?」 止まらなかった。 止められなかった。 暴れ狂う濁流をせき止める堤防―――理性、その類の感情―――などは、その時の私には到底縁遠いモノで。 なんでもいい。 手当たり次第、洗いざらい、とにかく何でもいいから、 吐き出したかった。 ぶち撒けたかった。 楽になりたかったのだ。 「どうして―――どうしてそんなカオで笑う…?悲しい時は笑えばいい。無理して笑わなくたって……」 違う。 何を言っているんだ、私は? あいつが無理に笑ってなどいない事は、他ならぬ私が一番理解っている筈なのに。 だけど、止まらない。 胸が苦しい。 たまらなく苦しい。 こうして喋り続けていないと、分裂してしまいそうで、仕方無い―――。 一方で、あいつは私の胸の内を知ってか知らずか―――あの様子では、恐らくは本当に知らなかったのだろうが――― うーん、と頬に指を当てて暫く考えると、 「わかりません、私も」 また、あっけらかんと、笑った。 「…気が付いたら、笑ってるんです。 笑えるとか笑えないとか、笑おうとか笑いたくないとか、そういう事じゃなくて」 ―――息をしているのと、同じだと思いますよ。 笑う。 そう言って、あいつは尚も笑う。 「……………」 ああ―――この笑顔は、毒だ。 毒。或いは、豪雨。 激流と化した感情に、拍車を掛ける、豪雨。 「…………ぃ…」 吐き出しても吐き出しても、楽になるどころか余計に苦しくなる一方で。 烈しく流れ続ける感情は、宛ら胃液の如く、己が壁を―――ココロの壁を、がりがりと削り、浸食していく。 自らが、自らを蝕んでいく――― 「………な…い」 …"わからない"? ふざけるな。 だったら、私だって――― 「……か…ら、ない」 …私、だって。 「…わからない」 わ、た…し――― 「わからない!!」 叫んだ。 叫ぶしか、なかった。 そうしないと、本当に自分が解らなくなりそうで。 ネジが外れて、バラバラに壊れてしまう―――そんな感覚さえ、覚えた。 「私だって、わからない!私は何で笑わない!?何で笑えない!?お前が笑えて、皆が笑えて、どうして私だけが笑えない!?」 何を言っているのか、自分でも解らなかった。 私は、最低だ。 こんな事をあいつに言った所で、何の意味も為さないのに。 自分が今している事は、自分の不自由を他人の所為にしているだけ。 押し付けているだけに、過ぎないというのに――― 「私は泣く事しか出来ない!怒る事しか出来ない!私だって…私だって―――!」 ―――いけない。 その先を言っては、駄目だ。 それを言ってしまったら、私は――― ―――ソレヲ、ミトメルコトニナルカラ。 ―――――、」 刹那、わたしがまっぷたつにこわれる一歩手前―――それは冗談でも無く、もしかすると比喩ですら無く。 ぽん、と。 正しく間一髪のタイミングで、私の両の肩にあいつの手が置かれた。 その掌の、確かな重さ、確かな温もり。 私は闇の中から引き戻されたような感覚を覚えて、ハッと顔を上げた。 ―――桜色の太陽が、其処にあった。 426 名前: 421 [sage] 投稿日: 2005/06/25(土) 00:55:24 ID:1XZje648 今回はここまでです 次回はサクラさん大活躍? 終わりも近いです、多分 では