-------------- 終わりの始まり -------------- 梅雨も中盤にさしかかったある夜。 隆士は期末課題に手をつけ始めていた。 「…ですよ。隆士さん。」 「うん、分かった。」 からになった夜食の器を手に、梢が白鳥の部屋の前を後にする。 その姿を見送りながら、ふと (…そういえば、あれからもうどれだけ…) 隆士は考えた。 隆士と梢が恋仲になって、すでに幾月か。 梢は恥ずかしいのを押し切って、ようやく下の名前で隆士を呼ぶ事に慣れてきた。 隆士はといえば、珠実の嫉妬と恵の冷やかしに、ひたすら耐える日々。 でも、することは済ませているし、これから先、余程の事がない限り一緒に居るんだろうなとか思える雰囲気になっていた。 と、ここまでは、若く初々しい「一生やってろおめーらw」的な恋人同士である。 だが、隆士はそう気楽にしてもいられなかった。 (…他の「娘」たちはどうなっちゃったんだろう) 隆士は、梢の病を我が身の如く心配している。といっても、梢自身は病の存在をも知り得ない訳だが。 その病が、ここ数ヶ月でやんわりと激変しているのを、隆士はとても気にかけていた。 (早紀ちゃんは1ヶ月、魚子ちゃんは2ヶ月、千百合ちゃんに至ってはもう3ヶ月半も出てきてないってことか…) 他の人格が現れにくくなったのだ。 今までのように、多少のショックを与えられたとしても、人格が変わる事は少なくなった。 本来、梢の身を案じる上で、これは喜ぶべき事なのかもしれない。 ここまでを見ただけでは、「症状の改善」と取っても良いぐらいだ。 でも、隆士は逆に心配の度合いが濃くなっていった。 他の人格に会えない事を、憂いでいる訳ではない…。 数十分経って、 「…隆士くん、いる…、かも?」 隆士の部屋を、誰かがノックする。 「…棗ちゃん?」 隆士がドアーを開けると、そこには棗(梢)の姿があった。 (…まただ)と、隆士は心の中で呟いた。 梢の病は悪化していると取らざるを得なかった。 早紀たちが現れなくなった代わりに、棗がかなり頻繁に現れるようになったのだ。 それも、ショックを与えられることなく突然に、だ。 しかし、棗の元々の性格なのか、鳴滝荘の外ではそういうことはあまり無い。 その分、鳴滝荘の中では、むしろ棗の人格で居る方が、多いような気もする。 先日などは、鳴滝荘の玄関を閉めた瞬間に、棗の人格に変わってしまうということもあった。 それくらい、梢の病は急変しているのである。 「棗ちゃん、どうしたの?」 隆士は、できるだけいつもの笑顔を見せた。 「(ぽんっ)…なんでもない…、かも……」 一本だけ花を咲かせて、棗はうつむいた。 「…中、入る?」 「うん…。」 棗は、少しだけ顔をあげて、頷いた。 棗を部屋の中に招き入れる。ほんのりと梅の香りがした。 部屋に入ってもうつむき加減のままでいる棗が、 「棗ちゃん?どうかした?」 「…」 「黙ってちゃ分かんないよ…。ね、どうしたの?」 「うん…」 棗は少しづつ話し始めた。 「あのね。…。また、変な夢みたの。男の人と女の人が、喧嘩をする夢。それを見てると、何だか悲しくなるの…」 「…いつも見る夢?」 「うん…」 棗の顔が、どんどん下を向いて行く。 「…大丈夫?」 「だ……じょう……う…、か……」(大丈夫、かも…) 言っている事とは裏腹に、棗は下降状態にある。 「でも…、ね。なんか、見てると、悲しくなるし…、なんか、「ごめんなさい」って…、気持ちになるの…。」 今にも棗は泣き出しそうな顔をしていた。そんな顔を、隆士に見せまいと、棗は顔を背けた。 だから隆士は、棗にいつもしてあげてる事をした。後ろから、身体を左手で抱きしめ、右手で頭を撫でてやる。 「はぅ…、隆士…くん…」 「こうして欲しいんでしょ?ね?」 「…隆士くん…(ほう」 棗はほっとしたのか、頭を隆士に預けた。 「隆士くん…」 「なに?」 「しばらく…、こうしてて…、良い…かも?」 「いいよ」 「……………(ほう」 病状が悪化しているのだとしても、棗が頻繁に現れる事自体を、隆士は悪く思ってはいない。 棗が頻繁に現れてくれる事で、棗とのコミュニケーションの取り方も分かってきた。 棗も隆士を恋人ととして受け入れる事ができた。正面向いて話す事に支障もなくなり、棗自身、隆士を信頼している。 隆士に対してなら、会話する事も苦ではなくなり、少しづつではあるが、すらすらと話すようになった。 肌と肌が触れあう事も許容できるようになり、実際に棗の状態で何度か肌を重ねてもいる。 でも、隆士には気になる事があった。 棗の人格が現れるたび、棗は決まって「いつもの夢」の話をする。それを話す棗は、何だか今にも折れてしまいそうな感じなのだった。 その夢が一体何を意味するのか、どんな意味を持つのか、隆士には分からないし、棗は他の誰にもこの事を話していないため、他の住人に相談する事も躊躇われる。 隆士は、一人で悩んでいる状態だった。 しばらく隆士は、棗を抱きしめていた。ぽつりぽつりと話をしながら。その中で、ふと棗は切り出した。 「隆士くん…?」 「なんだい?棗ちゃん」 「…課題、途中なのに…、よかった…かも?こう…してて…」 夜食を持ってきたという記憶はない物の、とりあえずレポート用紙の散らばった室内の状況から、それは容易に想像できた。 「いいよ。提出はかなり先なんだ。でも、ちょっとアイデアが浮かんできたから、それをまとめようと思った、それだけだよ」 「そう…なんだ…。」 「それに、僕はこうして棗ちゃんを抱きしめてるの、好きだからね」 棗が顔を紅くし、隆士の腕を抜け、二人は顔を見あわせた。 「だから、そんな心配はしなくていいんだよ。棗ちゃん」 「…うん」 少し沈黙…。破ったのは隆士だった。 「課題…、ね。筋書きできたら、棗ちゃんにも読んでもらおうかな?」 「…いい…、…かも?」 「うん。いろんな人の感想を聞きたいからね。ぜひ棗ちゃんの感想も聞きたいな」 「…うん、わかった。待ってる。がんばって…ね」 棗は嬉しそうな笑顔を見せる。その笑顔は、梢の笑顔に負けないくらいの破壊力を持っていた。 「…棗ちゃん!」 まだ10代後半の若い男、その笑顔には耐えられなかった。気付けば棗に隆士が覆い被さっていた。 「…」 「…ごめん、いきなり。…その、なんていうか…」 「…嫌…、とは…、言ってない…、かも」 棗の顔が、思いっきり紅くなる。 「棗…、ちゃん」 「隆士くん…、…、キス…、してほしい…」 そのまま、二人の影は重なった。 隆士が気が付いたのは、ちょうど「サングラスの熟年男と色黒の高視聴率男がデットヒートを繰り広げる時間帯」だった。平たく言えば12時頃だ。 今までも課題の関係で、昼まで寝ていた事があった。 そんな時は、決まって梢が電子レンジで暖められる料理を作り置きしてくれていた。 今日はというと、銀先生の都合で全て休講だった。最近睡眠時間が短かった事もあり、起こさないでおいてくれた梢の配慮に感謝をする隆士。 「とりあえずお腹空いた…」 そう呟いて部屋を出ようとする。…あれ?と隆士は止まった。 どうして全裸だったのに服を着ているんだろう…。っていうか、局部がなんか違和感…。 「…ま、、、まさか梢ちゃん、昨日のゴム…!」 外されていた。つまり梢(恐らく元に戻った)は、朝起きた時にそれを外し、服を着せて出かけていったと言う事になる。と言っても、湿度が高かった故の配慮か、上はシャツ一枚という格好だが。 それだけならまぁ、問題はなかった。しかし最大の問題はその先にあった。 「お酒!へっ、へっ、変な事件さ〜(へっへっ)…、」 「おはようございます…、桃乃さん…」 ばったりと、妙な歌を口ずさみながら歩く恵に会う。 「おはよ〜って、もうこんにちはだわよ〜?」 「ええ、今日は休みですから。昨日も遅かったですし。」 頭をぽりぽりと掻く隆士。 「ほほ〜う、さては梢ちゃんと…」 「あああ、あや、あ、い、いやぁ〜、っそそそっっそっっっそおそそlそsぉそそsぉぉsっlそおsss、そういうわけじゃなくて、あの、ピザが、実質三千円で、いやっっぁ、っそお、そんなの関係なくって、あのぉおおおぉんおのlんlんぉんlのおお……。」 ぶんぶん手を振りながら否定する隆士が、恵には思いっきり笑えた。 「あはははは、な〜にあわててみさくら語になってるかな……、って…あんた」 恵が隆士のうなじに目を止めた。恵はちょっと驚き、ニヤリとしつつ、 「…ふーん、なるほどね。そういう事ね…、ふーん…」 「え?桃乃さん、それってどういうk…」「ニブチンさんはシャツを脱いで鏡を見てきなさーい」 (  )ノシ 「ボスカ-ボスカ-ユ-ヴィギ-リア゙ンディィ-ザァン…、うーん、オンドゥル語じゃしまらないわねぇ〜…」 隆士の発言を遮って、それだけ言い放って去っていった。また変な歌を口ずさみながら。 恵がそういった理由は、言われたとおりにしてすぐに分かった。 「!!!!!!!!!!!」 首筋には歯形と唇の形が、うっすら赤みを帯びて残っていた。 昨日、棗が寝るまでそんな事はされなかった。つまり…。 (こっっっ梢ちゃんっ!?) そういう事だ。 (白鳥くんも飼われてるね〜。しかし、梢ちゃんがああまでやるか…) 恵にも、梢の本性は案外見抜けなかったりした。 隆士は、休講と言う暇をどうにかしようと思うも、課題に手をつける気にもなれなかった。 梅雨の晴れ間、これから数日は天気が保つという。何となく公園に出てみる。 時間は大体「筋骨隆々の男がワイドショー番組をやってる時間帯」、そういえば梢の帰宅時間は…、 (そういえば今日は…、帰る時間が早いとかなんとか…、5限までって…、) そう台所の冷蔵庫にメモが貼ってあった。時計を確認する。経験上、5限までというと、帰宅はもう少し。珠実は最近、部長に捕まえられて何かをしているようだ。 (…たまには、途中で捕まえるのも良いかな?) お出迎えより帰り道でばったりの方が、どこかへ連れて行くのにも気分が違って良いかもしれない。 (それに、たまに学校まで行くと、意外と周囲の目線が…) 穏和な女子校として名高い梢の高校。それ故か、そんなところで仲睦まじく歩く二人に向けられる乙女たちの羨望の眼差しは、優しく重い。 (…よし。)と、尻ポケットの財布を確認する。そこそこ。時間もちょっと出かけるのに良い感じ。 そうして隆士は、梢を探して歩き始めた。 「あれ?隆士さん?」 ちょうど交差点を渡ったところで、梢を見つけた。 「こーずえちゃん、ん?珠実ちゃんは?」 「あ、はい、今日も部長さんと。部長さんが抱えていきましたよ」 その構図を想像し、吹き出しそうになる隆士。 「珠実ちゃんも大変だね」 「なんか最近部室から、変な歌が聞こえてくるんですよ。一寸法師を無くしたら大変だとかなんとか」 「…分かんないからいいや(何でこんなに妙な歌ばっかり…)」 「踊り念仏かなにか…、でしょうか?」 「…梢ちゃん、それ和風すぎるよ」 もう深くつっこむのは止めようと、隆士は話を切り出した。 「ところでさ、梢ちゃん。時間は平気?」 「え?あ、はい。お夕飯までは、だいぶ時間はありますし。」 きょとんとする梢。実は隆士、この顔がちょっと気に入ってたりする。 「じゃあさ、どっか行かない?この時間だと、近場くらいしか行けないけど。」 「え?今からですか?でも、今からどこへ行くんですか?」 隆士はちょっと困った顔をする。 「うーん、そうだなぁ…。じゃぁ、梢ちゃんの行きたいところ、なんてどう?」 「え?私ですか?うーん、そうですねぇ…」 しばらく梢は考えて、 「…海」 「え?」 「海が見たいです。何となくですけど」 隆士は少し考えた。 「今ここからだと、あの電車の終点まで行けるかどうか…」 「あ、無理そうなら良いんですよ?私は隆士さんと一緒なら、どこでも…」 二人とも、ちょっと照れくさくなった。 「…大丈夫じゃないかな?時間は無い訳じゃないし」 「でも、でも、夕方までには帰らないと、皆さんが…」 隆士はほほえんで、 「大丈夫だよ、ちょっとくらい遅くなっても。ね」 「…はい。じゃあ、お言葉に甘えて」 「そ。ちょっとくらい甘えても罰は当たらないって」 二人は駅に向かった。 電車が終点一つ手前に着く。東京の西側にあるここは、内海ではある物の、外洋に近い為が、そこそこきれいな海岸である。しかし、梅雨時の平日とあって、人はあまり見あたらない。 「きれいですねぇ…」「きれいだなぁ…」 きれいにハモって、思わず顔を見合わせて笑う二人。 それからしばらく二人は、海を見たり、歩いたりしていた。 ふと、梢が呟いた。 「実は…、私、ここに来た事があるんですよ」 「そうなの?…もしかして、他が良かったとか」「いえ、そういう訳じゃないんですけど」 梢は隆士の発言を、慌てて否定する。 「小さい頃なんですけどね。数少ない、お父さんやお母さんとの記憶です」 「…そっか」 「あの頃から、二人ともいろいろ大変だったみたいで、お出かけに連れて行ってもらえるのも久しぶりで。はしゃいでずぶ濡れになっちゃったりして」 梢の顔は笑顔のまま。でも、言葉の調子は少し低い。 「お父さんもお母さんも、あの時は笑ってました。あんまり笑わなかったお父さんも、笑ってました」 笑顔のまま、段々言うのが辛くなってきたのか、下を向き始める。 「でも…、でも…、」 「もういいよ」 隆士が梢の顔に手を添える。 「梢ちゃん、あんまり無理に話さなくて、良いよ。つらそうじゃない」 「…はい」 「…大丈夫?」 「…大丈夫です」 努めて明るく振る舞おうとする梢が、痛々しかった。 何となく、棗をなぐさめるときと、同じ事を梢にしてみた。 「…りゅ、隆士さん」 少しくすぐったそうに、でも、どこかほっとしたような梢。どうやら落ち着いたみたいだ。 「落ち着いた?」 隆士は優しく聞いた。梢は少し服を引っ張って、 「ごめんなさい。もう少しこのまま…」 隆士はそのまま梢を抱き続けた。 何分経っただろうか。梢が呟く。 「…すいません。何だか気を回させちゃったみたいで…」 「別に気にしないの。梢ちゃんさえ良ければ、それで、ね」 隆士は優しい顔で梢に言った。 日の色が変わり始める。少し遠いところに来ているため、時間が気になり始めた。 「あの、隆士さん。そういえば時間は…」 「あ…、日が…、」 言いかけて少し微笑み、隆士は優しく言った。 「もうしょうがないね。日暮れまで、いようか」 梢もこのときばかりは、そのままでいたいと思ったのだろう。 「はい」 安心しきった表情で、そう言った。 日暮れを見て、それから紅い電車に乗る。鳴滝荘にたどり着いたのは、結構経ってからだった。 どうやら夕食は、朝美ちゃんが超格安サバイバル料理を、みんなに振る舞っていた。暖めて食べたが、結構おいしかった。 夕食をすっぽかした事で、梢はあまり気負いしている訳ではなかった。住人も何となく了承と言った感じだった。 ただ…、隆士はそうでもなかった。どうも引っ掛かる事があった。それは…。 (梢ちゃんは一体…) どういう過去を持っているのか。 海岸で話してくれたときのあの感じ。それは…、棗ととても重なる感じ。 折れてしまいそうな弱々しさ。どこか心細そうな声。 当たり前だが、二人とも共通の過去を持っているのだろう。 なら、その過去はいったい何なのだろう。それが棗の「いつもの夢」とも繋がるのではないか。そう思った。 その夜、夜も更けた頃。 梢はどうやら疲れたようで、早めに寝ていた。 しかし、白鳥はどうにも眠れなかった。何だか、いろいろ頭の中に回っているからだ。 昨日の棗と、今日の梢、別人格だが、どうも何だか引っ掛かる。 (そう言えば、僕は梢ちゃんの事、詳しく知らないなぁ…) そう考えていると余計に、梢の過去、梢自身について、知らない事が多すぎると実感し、同時にそれを知りたいと思う心が強くなる。 (どうすれば、梢ちゃんの事を…、本人に聞くってのは野暮だし…) そう考えていると、ドアーの外に人の気配がした。 (誰だろ。こんな時間に)「…どなたですか?」 そこには梢の姿。いや、今は棗の人格だ。 伊達に恋人をやっている訳じゃない、隆士は雰囲気の違いから人格が変わっている事を読み取った。 「…棗ちゃん?」 「…………」 何も言わず、隆士に抱きついた。しがみつくと言っていいくらい強く。 「棗ちゃん?どうしt」「……………りゅ………ぃ…ん(隆士くん…)」 か細い声で呟く棗。明らかに様子がおかしい。 とりあえずそのまま棗を中に引き込み、ドアーを閉めた。 「棗ちゃん、どうしたの?何かあった?」 敷いてある布団の上に座る。既に灯りは落としてあり、月明かりのみが部屋を照らす。 「………、隆士くん……。」 「…どうしたの?何かあった?」 そう優しく声を掛けると、棗が堰を切ったように話し出す。 「…変な夢…、見たの。…お葬式、…誰のかは…、分からないけど…、二人。何だか悲しくて…、それで…、…あたしに、変なおじさんが…、言うの。 『君のような子供がいるのに、あんな事をするなんて。でも、君さえいなければ、もっと違っていたかもしれないのに』って。 よく分からないけど……、なんか…、胸が…、胸がきゅーって……、痛くなるの…」 そこまで言って、棗は隆士を抱きしめる力を一層強くした。 その顔は、隆士が見た中で、一番痛々しくゆがんだ物だったように見える。 しかし、棗は泣かないように努めている、それが痛々しさを一層引き立たせていた。 隆士は、そんな棗を見ていられなかった。 「棗ちゃん…、悲しいときは、泣いても良いんだよ。僕はここにいるから。ずっとこうしていてあげるから、泣きたいだけ泣いて良いよ…」 「…隆士くん…、…隆士くん…隆士くん…」 そう言いながら棗は、こらえきれずに泣き出した。思いっきり泣いた。そして隆士は、そんな棗の頭を、撫で続けた。 そうしながら、隆士は考える。 棗が見た夢は、恐らく両親の葬式の時だろう。隆士にはその状況をすべて読めた訳じゃなく、分からない事だらけ。 ただ、一つだけ分かるのは、棗にとってその出来事が、相当な心の傷になっていると言う事。 棗を含む他の人格や、梢自身の両親との記憶の曖昧さも、もしかしたらその心の傷から来ているのかもしれない。そう思えた。 しかし、結局 (僕は…、梢ちゃんの事を知らなすぎる…。過去の事も含めて…) そこに尽きる。 棗の心の内を解き明かすには、それを知る必要がある。しかしそれをするにはどうすべきか、それが問題だった。 「うっ……、え……ぐ……、あ…ぅ………ぐす…」 いま目の前で泣きじゃくっている少女を救ってあげたい。なのに自分には頭を撫でてあげるしかできない。 そんな歯痒さを、隆士は味わっていた。 「すぅ………すぅ…、んぅ…………、すぅ………」 棗は泣き疲れて眠ってしまった。でも、隆士の思考は止まらない。止められない。 これまでの梢の立ち居振る舞い、表情、ここ最近の棗の言葉、現れなくなってしまった他の人格たち、鳴滝荘に来た日、鳴滝荘の人々、珠実の嫉妬、学校の仲間との談笑、梢に告白した日、両親、旧友、かすかに覚えている梢との出会い…。 死ぬ間際には、これまでの人生が走馬燈のように甦るという。まるでそんな感じ。 自分の腕の中で泣き、そのまま寝てしまった少女。何かその発言の中に彼女の過去にまつわる手がかりを掴めないかと思い出すうち、こんな状態になってしまった隆士。 (もう疲れた…。頭痛い…。…こんなので知恵熱がでるの?僕は…。ホント情けない…) 我に返った隆士。錯乱しそうになるも、それより先に疲労と虚しさが募る。 身体は火照る。文字通りに知恵熱だろうか…。にしては汗が出すぎている。上半身がぐっしょりと濡れていた。 (…もういい) その場は何もかもを放棄した。横になったまま、器用にシャツを脱ぎ捨てる。投げたシャツは、重そうに床へ落下していった。 汗で冷えた身体に、寝間着越しの棗の体温が心地よい。 『私って、子供体温なんですよね』 『平熱が36.8℃もあるんですよ』 いつだったか、そんな事を梢が言っていた。 胸の辺りに、寝息がかかる。そこにあるのは、髪を下ろした少女の姿。今起こすと、どっちの人格が現れるのだろう…。 でも、いまここにあるのは、涙の跡が乾いて、その涙と一緒に悲しみも乾ききった、心地よさそうな「彼女」の寝顔。 そんな風にしているうちに、隆士は乱れた心に平静を取り戻していた。 (…君には敵わない。いつも、誰をも和ませる、この顔には…ね) 何となく頭を撫で、頬をさすり、顎をくすぐる。そのまま猫のように咽を鳴らして少しまるまる「彼女」。 ふと思う。「彼女」は薬だ。半分は荒れる心の痛みを鎮め、もう半分は包むような優しさで出来ている。 (我ながら巧いかも…。少なくとも今の僕にはそう作用したし) 程なく襲いかかる眠気。そんな「薬の副作用」に身を任せ、隆士は眠りに落ちていった。 「………さん…、……うs……さn……」 隆士の耳に、聞き慣れた声。身体の下の方から聞こえてくる。 目を開けると、腕の中には、既に目覚めた梢の姿。 「隆士さん、そろそろ起きないと…」 「ん…、よく眠れた?」 遠慮無く欠伸をしながら聞く。 「はい、とっても。…あれ?」 梢が首を左側に…、つまり横になっている状態で、部屋の上の方に捻る。 「ん?梢ちゃん?」 その意味がよく分からず隆士が尋ねた。 「…ごめんなさい。短針を見間違えてました…。まだ6時前です…」 壁に掛かった時計を見ていた。 「早く起こしちゃいましたね…」 「いいんじゃない?遅く起きるよりマシだよ」 まどろみつつ隆士は言う。もはや呻くと言った方があってるくらいに眠そうに。 … … … 「…隆士さん?なんか違和感が」 梢が惚けた顔で言ってくる。寝ぼけ眼の隆士にはなんの事か分からない。 「何が?」 「足の付け根の辺りになにか…」 (足の付け根…?) まどろむ隆士をよそに、梢が手をその部分に持っていく。 隆士は、鎖骨の辺りに頭がくるように、梢を抱いている。身長差20cm弱。隆士は寝起き。そして梢は…。 「…あら、隆士さん。どうしたんですか?」 「!!!梢ちゃんっ!?」 梢は、手に持った硬いモノを、先端を重点に「にぎにぎ」する。 「ちょっっちょ、こずえちゃっ!ぅは!痛いって…、あっ!」 実際感覚としては痛いのだが、触ってるのが胸の中にいる恋人なら、別の話だったりする。 「なぁんにもしてないのに、こんなにかちかち…。…変な夢でも見ました?」 「いや、っそ、そんなっ!こっっこれは!男のせいっあはぁ!生理みたいなもので!」 「へぇぇ〜、生理の割には、相当感じちゃってますけど?」 「だっっd、だって、そんなにされれば…、」 「舐めたりとかしてないから、痛いんじゃないんですか?」 「…っ、な…、っ、なんか…、梢ちゃんにっ、触られるとっっ、なんっか…」 「痛いのに気持ちいいなんて変態さんじゃ、ありませんよね?隆士さん?」 「〜〜〜!」 …別にそういう教育をした訳ではなかった。そういう本を読んでる素振りもなかった。 普段の性格を考えても、そんな事あり得なかった。むしろ性格から考えれば、現代人においての年相応の性知識を備えているかすら、危ういと思っていた。 なのに、何故こういう事になったのか、隆士には見当もつかなかった。 でも、そう言ってももう遅い。目覚めてしまった物は止められない。 隆士と関係を持った梢が、少しづつその性格とは反対に、サドになっていくのが、隆士には不思議でたまらなかった。 それと共に隆士は、梢になされるままになればなるほど、マゾになっていく自分が少し情けなかった。 「こっっこ、こずえちゃ…、ぅん、梢ちゃん…」 「隆士さんの声、可愛い…。でも、そんな可愛い声を出してもやめてあげませんからね?」 隆士を見る梢の顔は、どことなく小悪魔的。絶対隆士以外には見せない顔だろう。 「この首の噛みあとは…、ぅぁ…、梢ちゃんがやったの?」 昨日の朝から気になっていた事。それを途切れ途切れに聞いてみた。今しか聞けないと思ったから。 普段の梢にそう言う事を言うのは、何だか気が引けた。こういう「えろえろモード」の時に聞くしか、手は無いと思ったから。 「ええ、だって隆士さんは、私の物ですから。名前を書いておかないと…。そうでしょ?隆・士・さ・ん?」 「へえぁ、梢ちゃん!」 そう言われてゾクッと来る隆士。つくづく堕ちたと思わずにはいられない。 「感じてる隆士さん…、あぁぁん可愛い…。でも、このままだとかわいそうだから、ちゃんと舐めてあげますね」 そう隆士に言う。 「あ…。そんな。朝なのに…。うぁぁ…」 そう言いつつ、可愛いと言う時の梢の表情、それが少し気になった。 (なんか、これって…) 「まさか朝から…」 ほどよく疲れていたため、授業中に爆睡気味だった隆士。銀先生に折檻を受ける事になるのだが、そのときに言われた言葉。 『女は、エクスタシーを覚えると、変わっちゃうんですよ〜。でも、それに甘んじて毎晩毎晩そっちにうつつを抜かしてると、単位は取れませんからね〜』 …さすが銀先生。なんでもお見通しだった。 (噛みあと…、消えてなかったかな…) さすがにそれはなかったのだが…。 帰宅途中。電車の中。ボケッと外を見る。 背の低い駅員が、一所懸命旗を振って合図をしている。高校生が続々乗ったり降りたり。学習塾や水泳に向かう小学生たち。買い出し帰りで袋をいくつか持った主婦。 でも、そんなの目には入らない。 結局隆士は、ほぼ一日(折檻されている間は除いて)梢の事が頭を離れなかった。 数日後…。 土曜日。焦る必要はない。のっそり起きる。時間は10時半くらいか。 …誰もいない。 (みんな出かけちゃった…?) とりあえず、台所に向かう。最近、何かあると梢は、書き置きを残していくようになった。 (普通はこういうの、メールでやるのかな…) 携帯を持たない二人。でも、逆にそれくらいの距離は合った方が、この二人にはちょうど良い気もしなくはない。 例によって書き置きがあった。どうやら梢は、朝美と買い出しに出かけたらしい。恵は大学に用があり、珠実も部長お出迎えで拉致されていったらしい。 (…そう言えば朝美ちゃん、今度友達と出かけるって言ってたっけ) 何故置いて行かれたか。鈍感な隆士には想像もつかないだろう…。女性に疎い隆士には。 と、そうなると、この家に居るのは灰原と沙夜子…。 (灰原さんが居て、他の人が居ないんだ…) 人間とは、突然いろいろ思い付く生き物だ。隆士も例外ではなく、突然、これまでの悩みに、光を当てる方法を思い付いた。 (そう言えば…。灰原さんって、かなりの間ここにいるんだよね…) ずっとここにいる住人なら、当然ながら梢を小さい頃から見ていることになる。 (そうなると、梢ちゃんのこと…。もしかして…。) 藁をもすがる思い…、なんて言ったら灰原に失礼か。でも、隆士がそれに近い感覚だったのも事実だ。手詰まりだったのも否定できない。 (…よし) 隆士は決めた。 何かが変われば、そう願っていた。でも、その願いより、何かが変わると言う予感の方が大きかった。 「灰原さん、ちょっといいですか?」 灰原は例によって、中庭の池の縁に腰掛けて、糸を垂らしていた。 「おう、なんだおめぇ、置いてかれたのか」 「えぇ、まぁ」 頭を掻きつつ、灰原の隣に座る隆士。 「で、なんか用か?」 「はい…」 聞こうと決めた。事態を打開しようと決めた。梢のためになろうと決めた。 だから躊躇わない…、つもりだったが、やはり何か、触れてはいけない絶対領域に触れようとしている気がして、二の足を踏む。 (…いつもこんな感じでダメだったんだよね) 一瞬過去を振り返り、深呼吸。 (…だから、それは繰り返したくないんだよ) と、覚悟を決めた。 「…梢ちゃんの事です。僕に、梢ちゃんの両親の事を、聞かせてください」 言った。もう戻れない。過去を知って、梢ちゃんをどう支えるか、決めるんだ。と、心に言い聞かせた。 「そう言う事か。…」 一瞬黙り込む。本体も手も、何か考えて…。 「…正直、あまり話したくねぇんだけどよぉ…。まぁ、いずれは知る事になるからな…」 言いづらそうに切り出す。でも、隆士は揺らがない。 「はい」 それだけ言った。 「ちょっと来い。日の下じゃ話しづらいからな」 覚悟はしていた。覚悟はしていた。そう、覚悟はしていた。そのつもりだった。 でも、梢の過去は、想像していた以上に凄まじかった。 「あいつはな…、半ば捨てられたも同然で育った…」 小学2年くらいの頃に一度、借金苦で両親は失踪した。そのとき、梢は置いて行かれた。古くからの友人であった灰原に、半ば押しつけるような形で。 誠実な人間だった梢の父親。その誠実さから、ある知人に借金を押しつけられ、逃げられてしまったのだった。額は1億以上。アパートの管理人が、どうにも返せる額ではなかった。 数年経って、灰原らが両親を説得し、何とか連れ戻したのが、それまでの間に何度も、梢は借金取りに襲われそうになっていた。 「相当傷ついたみたいだったな…。あのときは…」 両親が帰ってくる前は、生気を失ったようにうつむいた状態で、言葉も交わそうとはしなかった。 しかし梢は、親を気遣ってか、両親が帰ってからは明るく振る舞っていた。いつも以上に笑顔を作って、家事も母親の代わりに、いろいろとこなしていた。 しかし、どうやらそれが両親に新たな亀裂を生じさせた。 梢の父親は朝から深夜まで職を掛け持ちして、かなりの金銭を稼いで、借金の返済に充てていた。 母親も、パートや内職で、生活を支えていた。 でも、それが梢に負担を掛けていると、両親は心を痛めていた。しかし、それよりも先に、そんな生活への疲労が溜まっていった。 程なく酒におぼれる両親。そんな二人を心配そうに見つめるも、近づきづらかった梢。 次第に梢と両親との距離は離れていく。 梢はアパートの住人に支えられ、アパートの管理人の役割を担い、既に子ではなく、一人の人間となっていた。 両親は、二人ともパート先の賄いで食事を済ませ、帰宅したら酒を飲むだけと言う状態だった。 そうして、2年が過ぎ、梢が小学6年になったある日…。 「梢の両親は、やっと借金を返せたと、喜んで帰ってきたんだ」 どうやって返したのだろう…。1億以上あった借金は、既に手元から消えていた。 梢は何も知らず、両親を労う。でも、他の誰もがそれを怪しいと思い、疑った。 「で、次の日…。どうなったと思う?白鳥」 「…え?」 隆士は見当も付かない。 「日曜日だった。昼間、いきなり検察がガサ入れに来た…。何のことかと、俺は呆然としていた。そしたら、梢の両親のいた部屋から…」 梢の両親は、睡眠薬を大量に摂取した上でアルコールを飲み、既に息絶えていた。 そんな光景を、物事が分かり始めていた梢はそのままの状態で見てしまった。梢は錯乱したが、検察官が落ち着かせ、語りかけた途端に気を失い、2日間眠り続けた。 2日後、目を覚ました。事態を把握した直後に発した梢の言葉に、周囲の誰もがハッとした。 「『お父さんもお母さんも、頑張ったんです。だから、寝かせてあげてください』そう言ったんだよ。俺らに」 どうやら両親は、かなり危ない道に足を踏み入れていたらしい。適法か違法か、そのすれすれで、様々なことをやっていたらしい。 その頃から、梢の病は本格的に発症した。葬式が終わって、7日経たないうちだった。 「正直、俺らは『アレで済んでよかった』とか思ったよ。もっとひどい状態になると心配していたんだから。繊細な子供ほど、そう言う傷は深くなるからな」 それでも梢は、この鳴滝荘を支え続けてきた。 話は意外と短時間で済み、部屋を出ると、まだ日がさんさんと照っている状態だった。 部屋を出るとき、最後に言われたこと。 「さっき両親が帰ってくる前は、俯きっぱなしだったって言ったろ。どうもあの頃の梢は、棗と重なるところがあるんだ…」 その言葉を気にしつつ、自分の部屋にはいる。 隆士にとって、知らないことだらけだった…。でも、それを知った今、むしろ不安は増大していた。 (僕に梢ちゃんを支えられるのかな…) あまりに悲惨な過去。それを受け止めきれるかどうか。隆士には、不安でたまらなかった。 「…何か、あったの?」 珍しく沙夜子から声を掛けられる。縁側に座っていた灰原は、空をぼーっと見ていた。 「あ?…あぁ…」 灰原は、やる気なさげに返事をした。 「白鳥にな、梢の昔のことを話してやった…。思い出したくねぇ過去だがな…」 古傷がうずく。そんなところか。ちょっと苦い顔をして、空を見ていた。 「そう…」 沙夜子はその様子を見て、何となく灰原の隣に座った。 「なぁ、沙夜子…。一つ聞いてもいいか?答えたくなければ良いんだがな…」 「…え?」 沙夜子がキョトンとした顔で、灰原を見る。 「愛する人を失う気持ちって、どんな感じなんだ?」 「…。…」 灰原自身、何故そんな言葉を口にしたかよく分からない。でも、何だか変な予感がしていた。妙な感覚があった。それだけは分かった。 冷たい風が吹いてきた。 181 名前: 「終わりの始まり」 [sage] 投稿日: 2005/06/21(火) 06:12:30 ID:8LnAG14y ageちゃった〜〜〜〜〜〜〜〜〜!orz ごめんなさい…。 さて、ここまで書きました。あとどれだけ続くんだろう。そして、次はいつ投下できるんだろう…。 そんな不安を持ちつつ、仮眠を取ろうと思います。 「日本国憲法」ウザス。