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いつかは、クラウン

2002.9.8

 友人のたまTが生意気にもめでたく輸入車のオーナーになった。シルバーのボルボ。しかも人気のエステート(ワゴン)だ。最近のボルボは丸みを帯びたデザインになってきたが、たまTのは真四角。たしか940とかいう世代だったかな?私個人としては、ボルボらしいデザインで好感を持っている。「何が何でも最新モデル」という嗜好ならともかく、好きなモデルを手頃な価格で手に入れるのも、なかなか賢い選択かも知れない・・・けど、壊れんだろうね?

 このコラムに何度か書いてきたのでご存じの方もいるだろうが、最近の私は輸入車指向が強くなってきている。単に目立ちたい、というミーハーな気持ちもないではない。が、これまで日本人が造った、言い換えれば日本人の価値観に基づいたクルマに乗り続けてきたので、ちょいと違う価値観によるクルマ造りを味わってみたくなった、という理由が大きい。アメ車や英車も面白いし、ドイツ車も独特だ。フランス車もムードがある・・・しかし、今私のココロに刺さってくるのはイタリア車の魅力だ。

 日本人には無理だろうと思われるデザインの力はもちろん、クルマというものに対する考え方が根本的に違うのだろうと感じさせるドライビングの味付け。品質管理が怪しかったり、地方在住ではショップの対応に不安があったりはするが、「次はイタ車」が最近の口癖になっている。といっても、現在の愛車チェイサーに飽きたわけではない。特別速いわけでも、最新型でもないが、妙に飽きないのだ。まだまだモディファイしたい部分もあり、不完全さを数多く残しているが、「もうちょっと手を加えたい」という気になるのは相性がいい証拠だろう。なんというか、心の深い部分で通じ合っているかのような安心感があるのだ。

 さて、それにしても憎たらしいのは、たまTだ。メール1通送ってきて「ボルボ買った」だもんなー。そういえば、結婚するときも、そんな感じで驚かされたっけ。私がやりたいと思うことを、必ず私よりも先にやってしまうたまTは・・・私の噛ませ犬と言えないこともない。家を建てるときも、先行して建てたたまTの生活の様子を参考にして、ローンの額を決定したという実話もある。これからも私に先行して、人生の罠にはまってくれたまえ。これも一種の「弾よけ」かも。

 そんなこんなで、せっかく仲間内に輸入車オーナーができたことだし、少し味見をさせてもらうことにした。たまTは、奥方が出産のために家を空けていてヒマだったらしく「遊んでくれー」とうるさいので、100q離れた私のウチまで呼びつけた。翌日は往復250qの香川うどん遠征に行くのだ。たまTは、本当は風俗で遊びたかったらしいのだが、潔癖性の私は風俗には行かない。残念だったね。

 はるばるウチまでやってきたたまTのボルボを、普段は私の親父殿がクラウンを停めている場所に入れる。と、「で、でかい!」そうなのだ。平面的なデザインから、なんとなく小振りなクルマというイメージがあったが、実際にはかなり大きい。面が、マス一杯に張り出しているかのような感じなのだ。角張った外見はいかにも「剛」。シルバーというのも「らしくて」イイじゃないの。内装も、派手さはないが質実剛健で、好ましい。ダッシュボードもプラスティッキーな感じがして、直線的で、ちっともお洒落じゃないのだが、必要なものが必要な場所にちゃんとあって、なんとも落ち着く。

 この印象は、翌日の高速走行でも変わらなかった。エンジンは特にパワフルなわけでもなく、劇的な加速なんて期待できない。エキゾーストノートも、大多数の国産車より大きめだが(マフラー腐ってるだけかも)、特に官能的な音というものでもない。なのに、妙に心地いいのは、「必要なものが必要なだけある」からだろう。自宅にいるときに落ち着く、あの感じに近い。どこもかしこもトリムで入念に覆い、細かい部分まで神経の通った仕上げの日本車を高級中級ホテルとすれば、ボルボの内装はただの個人住宅だ。だからこそ素の自分でいられるし、落ち着くのだと思う。以前から、「ボルボというクルマは、人生のスタイルを感じさせるよなー」なんて感じていたが、虚飾に頼らないたまTの人柄によく似合っている・・・ちょっとホメすぎか。

 とまあ、こういう出会いがあって、私のボルボに対する好印象は確かなものになった。のだが、ウチの親父殿に言わせると、「ワシはクラウンの方がエエ」となる。親父はかなりのクラウンフリークで、なんだかんだと言いながら3台乗り継いでいる。無論中古。現在は昭和63年型ぐらいのヤツに乗っている。マジェスタが初登場した世代、といえばピンと来る人も多いのでは?

 私は、クラウンが嫌いだ。カローラと同じぐらい嫌いである。最近のカローラは妙に大型化して、変な高級志向にハマってしまった。その結果、クルマとしての基本性能を煮詰めることを怠り、緊急回避を要する場面では、ユーザーの命を奪いかねない危険なクルマになってしまった。無論、ユーザーの責任もある。が、自動車メーカーとしての最低の責任はあるはずだ。それは、家電メーカーや家具メーカーの責任とは異なる内容のハズだ・・・と思う。

 で、ようやく本題のクラウン。代表的な「オヤジ車」である。そんなイメージもいやだったし、実際に運転しても少しも面白くない。アクセルもブレーキもメリハリないし、ステアリングのフィーリングも曖昧だし。コーナーなんて、不愉快なだけだ。シートはやたらとフカフカしてるし。とにかく、自分がクルマに求めているものと正反対の要素が多すぎるわけだ。クルマは応接室の延長じゃないんだぞ!とかなり怒っていたわけよ。

 それが、ある日のこと。私は親父が運転するクラウンの助手席で、ウトウトしていた。仕事の疲れがたまっていたのだ。そんな時、クルマの振動や音は、最高の子守歌になる。半分眠った頭で、私はクラウンが信号で停車したのを感じた。青になり、するすると走り出した。思いの外、力強い加速。『速いな・・・本当は、走りの実力も侮れないんだな。なのに、優しいのは何故なんだろう』コーナーにさしかかると大きくロールするが、しなやかな大枝に支えられているかのよう。『こりゃ、疲れてるときには最高だね・・・ホッとするよ』と思って、ハッとした。

 ウチの親父も60歳を超えた。幼い頃に父を亡くし、中学を卒業してから色々な仕事を経験し、朝から晩まで働いて、妻や子どもを養ってきた。それは決して平坦な道ではなかったし、実際に体を壊したこともあったっけ。そんなふうにガムシャラに働いてきた男が「クルマにのるならクラウンだ」という時、クルマに求めるものはなんだろう?虚栄心や見栄を満たせる高級感?親父の場合は少し違うような気がする。数十年働き続けた自分自身に対する、ささやかなプレゼント。それは、身も心も優しく包んでくれるクルマでなければならない。疲れ切り、人生の最後が少しずつ見えてきたとき、自分の人生を振り返りながらハンドルを握るクルマ・・・そう考えたとき、クラウンの持つ「曖昧な」キャラクターが「優しさ」という意味を持ってくる。

 セルシオでもなく、ベンツでもない。ましてやポルシェなどでは決して持てない世界を、クラウンというクルマは持っていると思う。今はギラギラしている部分のある私も、人生の終わりには穏やかな気持ちになっていたいものだ。そういう意味では、「いつかはクラウン」というのは今でも通用するフレーズだと思う。そして、クラウンのようなキャラクターのクルマは、これからも残していくべきだと考えている。日本には自動車文化は存在しないと言われるが、数少ない日本の自動車文化の産物だ。・・・上から下までみーんなクラウンみたいなクルマになったんじゃ、つまんないけどね。

 ただし!その「優しさ」はあくまでキャラクター上のものでなければならないのは当然だ。走りの面や安全面に不安があるクルマの「優しさ」は、単なる「ひ弱さ」に過ぎない。大トヨタよ、クラウン・アスリートもいいけど、本筋のノーマルモデルをもちっと大切にしてやってもらえませんか?