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一生そばにいて欲しい

2002.3. 7

 自分のメカ音痴が恨めしい。

 最近、愛車チェイサー“ルシファー号”が、不審な動作を見せるのである。走らない、止まらない、といった深刻なトラブルではない。ほんの些細な不具合なのだが、それだけに気になり出すとキリがない。

 私のチェイサーには、車速感知式のオートドアロックが装備されている。余計なおせっかい装備とも思えるが、状況によっては安全性を高めてくれる。機能をキャンセルすることもできるが、別に邪魔でもないのでそのままにしている。それが、時に奇妙な動きを見せるのである。

 例えば、リヤシートに荷物を放り込んで、自宅に戻った時。駐車場にクルマを停め、シフトをパーキングに入れサイドブレーキを引く。エンジンをかけたままで、運転席のドアを開け、おもむろに集中ドアロックのスイッチを「開」の方に押す。すると・・・「ガチョン」って音がして、全てのドアのロックが解除される。解除動作は1回のみ。これ常識。ところが、私のでは「ガチョン」が延々と繰り返されるのだ。文字にすると「ガチョンガチョンガチョンガチョンガチョンガチョンガチョンガチョンガチョンガチョンガチョンガチョン・・・」という感じ。つい小さい谷啓がいっぱいいるところを想像してしまうのは私だけではあるまい。

 とにもかくにも、気持ち悪いし、無限に動作が続いたのでは壊れてしまいそう。もう壊れてるか?ところが、いつも起こるわけではないのだ、この不具合。不定愁訴というやつよ。相手は電気もの、しかも気まぐれに起こる不具合と来れば、まさに「原因がわからないトラブル」のまま終わる条件がそろっている。しかも「直らないならもう乗らねぇ!」と言うほど深刻なトラブルでもない。要するに、オーナーの気分が非常によろしくないだけの話である。

 思いあまって、他のチェイサーオーナーの開設しているホームページ上で相談してみた。すると、結構経験者がいるみたい。中には「気温が高いとなりやすい」という情報もあったりして。そういえば冬になってからは起きていない。これは、もしかして大当たり・・・と思っていたら、つい先日も盛大に「ガチョン」が起きました。ありゃりゃ。でも、頻度は下がっているように思う。

 で、フロントサスメンバーの装着でディーラーに入れた時に、一応のチェックをお願いした。原因が判明する確率は、50パーセントとみていた。結果、やっぱりわかりませんでした!ドアロック機構そのものは、正常に働いているそうだ。となると、あとは車速の処理に不具合があるのかもしれない。走行中にドアロックを「開」にしようとすると(スイッチは使わずに)、自動的に「閉」になる。オートロックの働きなのだが、これがどうも停車後ドライバーがロックを解除しようとする操作とケンカしているような気がするのだ。

 もっともこれは私の感覚的なものなので、電気ものの中でケンカが起きたりするのかどうかは分からない。何しろ、純粋な文系なものですから。実際のところはどうなのか、そのうち明らかになるかもしれない。そんなわけなので、今でも時々思い出したように症状が出る。

 どんなに調子よく走っても、どんなにハンドリングが良くても。どんなに自分の好みに沿って入念に仕上げられたクルマであっても。些細なトラブルが気に障り、所有し続ける意欲に水を差すことがある。電気もの、というか便利な装備品の故障もそうだ。きちんと直るのならいい。1つ1つトラブルの原因をつぶしていけばいいことだ。だが、原因不明のトラブルが立て続けに起こったら?それを直す手だてがないとしたら?

 現代のクルマには、そうなる要素が満載されている。無数の電子部品。長大なケーブル、ハーネス類。クルマとしての基本的な機能も、コンピュータなしでは成立しないのが、今のクルマの現実だ。機械ではなく家電製品に近い部分がかなりある。一般の自動車整備工場にとってはブラックボックスの固まりだ。それらがトラブルを起こしたら?多くの場合、ユニットごと新品部品に交換してしまうのではないだろうか。基盤から問題のある部品だけを外して付け替えたりはしない。少なくとも基盤単位で交換すると思う。そういう修理方法を前提に、今のクルマは造られている。

 だが。交換するべき予備の部品が、入手できなくなったとしたら。たとえば、メインのコンピュータが故障した時のことを考えてみればいい。10年とか20年未来の世界。チェイサーをレストアしようという奇特な人物がいたとする。エンジンも、ボディも、細かいゴム製品に至るまで、必要な部品はそろえることができた。だが、肝心のコンピュータだけが見つからない。さて、どうする?

 どうしようもなければ、キャブでエンジンを回すしかないだろう。ATの制御も難しければ、マニュアルに換装して。それはそれで面白いクルマに仕上がるだろうが、選択の余地なくそうなってしまうというのはどうだろう。ただでさえややこしいトヨタのコンピュータ。簡単にワンオフ製作というわけにはいくまい。

 極端な例を挙げたが、このように現代のクルマは20年とか30年とか、「人生を共にする」のに向かない要素を最初からもっているのである。便利さや快適さとのトレードオフだといえばそれまでだが、私には寂しいことだ。

 クルマをパートナーと考えるなら、一生を添い遂げる相手に出会いたいと願うのは当然のことだ。特に、そういう風に1台のクルマと永く付き合う楽しみ方の諸先輩方に憧れて、この趣味に入ったものには。やはり、今の時代、クルマはただの耐久消費財。究極的には単なる消耗品にすぎないのだろうか。

 そこで、ハタと気が付いた。だから、旧車なんだ。よけいな飾りがないだけに、クルマの本質的な魅力を味わうことができる。だから、自動車趣味人は旧車に走るのだと思っていた。その分析は間違っていないと今でも思うが、同時に「永く生活を共にすることができる」からこそ、旧車を愛する人もいるのではないか。

 たしかに、性能的には今のクルマにはかなわない。つまらない故障もする。定期的にボディのレストアだって必要かもしれない。だが、直る。とにかく直るのだ。生産国や車種によっては、驚くほど昔のクルマの部品が安価に手に入ったりする。もしかすると、将来生き残るガソリン自動車は、旧車だけなのかもしれない。

 かつて誰かが、「旧車(名車)を大切に維持し、次のオーナーへ引き継いでいくことは、文化遺産を守っていくことに等しい」というようなことを言っていた。古いクルマは文化遺産。確かにイギリスなどでは、そういう考えがあるようだ。ならば、今我々が愛しているクルマは、一体なんだ!?我々愛好家自身が考える次期に来ているようにも思う。