ありがたいことに、身近に尊敬できる人が多い。それは、仕事上のことであったり、人柄であったりするのだが、ともかく「これは、かなわないな」と私が素直に認める人たちなのである。だが、その尊敬が簡単に崩れてしまうこともある。
たとえば。「酒を飲まなければいい人なんだけど」と言われる人がいる。私の業界だけに限らないだろうが、酒癖の悪い人が結構いる。泣く、笑う、怒るぐらいならまだしも、無関係の他人にいきなり絡んだりケンカを吹っ掛けたり・・・。基本的に酒を飲まない(飲めない)私は、ほろ酔い程度まででやめておくので、ほぼ正気である。その私にとっては、酔っぱらいの醜態は、見苦しいことこの上ない。いや、楽しく良い酒が飲める人の方が多いんだけどね。
そんな酒の席で、特に酒癖が悪くない人でも、私にとって不愉快な行動がある。それは、他人の悪口というか、批判というか、陰口というか。酒の勢いを借りて他人をこき下ろし、それを酒の肴にする行為である。常識人や人格者だと思っていた人でも、これを楽しむ人が多く、たまらなくイヤなものだ。
ところが、1人の先輩が全く他人の悪口を言わないのに気が付いた。聞けば、「酒飲んで他人の悪口を言うより、えっちな話でもしていた方がいいじゃない。」・・・なるほど。
ぼくはこれまであなたのことを、単なるえっち話好きな人だと思っていました。誤解だったんですね。これからはぼくも、そうすることにします。ということで、それ以来酔っていても素面でも、えっちな話をすることにしたのである。好きなだけなんですが。ま、人間関係の潤滑剤ということで。
そんなこんなで、酒に関するエピソードをお持ちの方も多いと思うが、酒の席での行為は人格の深い部分が出るものである。「酒の席での無礼講」は信じちゃいけないと思うよ、本当に。
それとは別に、ふとその人の深い部分が表面にまで現れることがある。無意識のうちに口にのぼる言葉などがそうだ。そういう言葉の1つに「運ちゃん」というのがある。どんなに仕事が出来る人でも、どんなに美しく人柄がよい人物であっても、「運ちゃん」と言う人を私は信用しない。
身近に、運転手を生業とする人がいる、というのも大きな理由ではある。タクシー運転手であるその人は、かつて私にこんなことを話してくれた。
「タクシーの運転手は、何百円かもらって走り回り、その積み重ねで生活できる。人に頭を下げる仕事だし、嫌な思いもする。それでも大もうけすることのないキツい仕事だ。だが、大雪や台風でどうしようもない時、最後まで動いている交通機関は、タクシーなんだ。だから、自分はこの仕事に誇りを感じているし、責任を持って全うしようと考えている。」
この話を聞いて以来、私自身は「運ちゃん」とは言えなくなった。どの運転手に対してもである。いや、直接言わないばかりでなく、どんな場合でも「運ちゃん」という言葉を使わなくなった。タクシーだろうとトラックだろうとダンプだろうと。
今や土木作業員のことを「土方」と言う人はいない。少なくとも私の周囲には。仲居を「女中」と言う人もいない。時代が変わった、と言う人もいるだろう。これまで気づかなかったり、見ないで済ませていたことを、そのままにはできなくなってきたのである。「まあ、エエやん。今までもこういう言い方してきたんやし。オレにとってはこれが普通なんやし」では、国際社会では通用しない(ちょっと偉そう?)。
職業に関することだけではない。障害者や高齢者、あるいは女性や子どもに対して、外国人、同和問題・・・などなど。いわゆる差別的発言も随分と改善してきたように思う。少なくとも、表面上は。
だが、ひどい差別表現を使わない人でも、ポロッと「運ちゃん」と言ってしまうのはなぜか?それは、強烈な差別語でないために、かえって「油断」があるからだ。
「油断」している時には無意識のうちに差別的表現を使ってしまう。そんな人を心から信用できるだろうか?私には、できない。そして、そういう人間にだけはなりたくないと、心から思うのである。大げさか?しかし、その人の本当の部分は、何気ない言動やしぐさに現れるのではないか?ともかく、私にとって大事な人たちが、私のこの思いを理解してくれることを願ってやまない。
それはそうと、運転手もピンからキリまであるな。本当に。プロとしての誇りを失ってしまったら、どんな職業でも駄目だ。私の同級生で、飲酒運転で捕まった奴がいる。彼は免許と共に運送業の職も失った。当然である。プロとして一般の人よりも遙かに長距離を走り回るのだから、人を殺さないうちに辞めるのが正解だ。「仕事だから」とばかりに大きな顔をして無茶な走りで、一般車を蹴散らしていく人も、中にはいる。
どんな分野でも、「当事者の自覚のなさが、どんどん自分の首を絞めていく」というのは本当だね。趣味にしろ仕事にしろ、覚えておきたい事柄である。
・・・久しぶりに真面目に語って、少々疲れました。