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日本車には「華」がないのか

 唐突で申し訳ないが、イタ車が好きである。

 チェイサーのホームページを創っている身でありながら、イタ車を愛しちゃっているのである。昔は「イタ車に乗っているヤツはバカだ」なんて言っていたのに、すっかり毒気に当てられて、アルファ147か、その後継を購入することを真剣に考えている今日この頃なのだ。

 イタ車には、毒気にも近い「色気」がある。デザインひとつとっても、そうだ。グロテスクと紙一重のデザインは、実に奥が深い。パッと見「うげげ」、しかし一度はまると簡単には抜け出せない。わかりにくい分、心の深い部分を捕まれてしまうのだろう。確かに、イタリアンデザインには「華」がある。

 対する日本車は、よく「華がない」といわれる。いわく、「素っ気なくて面白くないデザイン」というわけだ。ちょっとデザインに凝ったものも「子供っぽい」と一蹴される。本当に、日本のクルマには華がないのか。

 というわけで、愛車チェイサーを見てみる。クリーンな面とエッジが、硬質で張りのあるボディを形作っている。以前のJZX90では優しい面構成が特徴だったのに、ずいぶんと緊張感のある造形になったものだと、今更のように思う。白いボディは、デザイナー泣かせだというが、この形にはよく合っているように感じるのは、オーナーのひいき目かな。私は白いチェイサーを見ると、なぜか険しい山に凛として咲く、草花を思い出す。イタリア車のような大輪のバラではないが、日本ならではの楚々とした華が、そこにはあると思う。チェイサーは地球連邦軍で、イタ車はジオン公国・・・この例えがわかるのは、立派なおじさんです。

 考えてみれば、JZX100はトヨタの旧世代セダンの、最後の世代だ。アルテッツァからは、アリストに始まった「世界基準」のパッケージングへと変わっている。たしかに、大型化したキャビンは、空間の活用方法として、実に説得力があるとは思う。機能美とでもいうべきものが、そこにはある。

 しかし、新世代のセダンたちは、ある意味で日本車ならではの「華」を幾分失ってしまったのかもしれない。JZX100までのマークU兄弟は、「美しいセダン」であることを重視してきた。そのための小さなキャビンであろうし、低いルーフであろうし、伸びやかな全体のフォルムであった。それは、乗員の快適性とは相反する要素を含んでいるだろう。が、「美しいセダンを創るのだ」という首尾一貫した信念のようなものが感じられた。だからこそ、クルマに関心が低い世代でさえも、こぞってマークUを購入したのだ。「美しく、乗って様になる」ことは、悪いことではない。

 私が以前愛用していた、トヨタ・マリノというクルマがある。トレノの4ドア版ともいうべきモデルで、大変狭苦しく居住性は低かった。が、コンパクトで滑らかなエクステリアは、ほかのどのクルマと比べても劣るものではなかった。おそらく、数多いトヨタ車の中でも、スタイルという点では、最も優れたモデルのひとつではないかと考えている。このクルマも、専門誌では「デザインだけのクルマ」と酷評されることが多かったのだが、オーナーとしては特に不満はなかった。

 「華」を求めるなら、どこかで我慢が必要だ。江戸っ子の「粋(いき)」だって、見栄や痩せ我慢と無縁ではなかった。だが、今の日本人が我慢を強いるクルマを求めるかといえば、私にも自信がない。

 不便なイタ車の欠点は「これがイタ車というものだ」の一言で「美点や味わい」に祭り上げ、美しいデザインにこだわった日本車は「欠陥車だ」の一言で切り捨てる。自動車ジャーナリストの方たちは、日本車に「華」が必要だと考えているのか否か。もし、「日本車は実用的でありさえすればよい。趣味性は輸入車でまかなえばいい」なんて思っているのだったら・・・一番クルマをナメてるのは、あなたたちかもしれないよ。