remove
powerd by nog twitter

―― 東西に分断されたユーラシア ――

かつて大西洋連邦とならぶ連合の雄だったユーラシア連邦。
しかしCE78年現在、その栄光は見る影もない。
何故こうも没落する羽目になったのか?
それはユーラシア連邦の持つ特異性と、時代の荒波に翻弄された結果でもあった。



―分断の背景―

第一次汎地球圏大戦において、連合はアラスカ基地で大量殺戮兵器『サイクロプス』を使用した。これは一種の自爆兵器であり、また大西洋連邦が独断で発動したものだった。
そのため軍を派遣していたユーラシア連邦は、大西洋連邦から大損害を被る形となる。
これによりユーラシア連邦と大西洋連邦の間には、埋まることの無い決定的な溝が発生することとなった。
この溝がユーラシア連邦内部の分裂を引き起こすことになっていく。



―ユーラシア連邦の独特な内部構造―

当時、ユーラシア連邦は特異な政治構造をしていた。
首都ブリュッセルを中心とする中央政府とモスクワを中心とするモスクワ州政府に事実上分かれていたのである。
ブリュッセルの中央政府は名目上ユーラシア連邦の中枢組織であるが、広大な国土を一つの中央集権組織で運営するには事実上無理が生じたため、実体としては西のブリュッセル中央政府、東のモスクワ州政府という形で東西に分かれて政府機能を分割運営していたのだった。

ここでポイントになるのが軍の組織構造だ。
当時ユーラシア連邦軍の構成は東と西の比率が6:4で東側の比率が高くなっていた。
つまりアラスカ基地壊滅での人的損害の多くが東側の出身者で占められていたのである。
アラスカ基地壊滅に伴うユーラシア連邦軍の著しい損害は、ユーラシア連邦東側の対大西洋連邦感情を著しく悪化させ、東側世論からは連合脱退すら公然と叫ばれるようになった。

しかしユーラシア連邦西側、ブリュッセル中央政府はこうした東側の世論には鈍感だった。
彼らは大西洋連邦に対し、あくまで外交カードとしてアラスカ基地壊滅を利用し、経済的援助を取り付けようと考えていたのである。
対して悪化する世論を受けたなモスクワ州政府は連合脱退を視野に入れた大西洋連邦への保障要求を軸とした強硬策を提示した。

ユーラシア連邦議会は大揺れに揺れた。
結果としてはブリュッセル中央政府案をベースとした融和路線での経済保障要求を大西洋連邦に求める形となる。
しかし実際には大西洋連邦からの保障は行われることは無く、この事がモスクワ州政府に独立を決意させるきっかけとなった。
以後、モスクワ州政府は、内々に独立に向けた準備を進めることとなる。



―ブレイクザワールドの被害―

第一次汎地球圏大戦終結後、プラントと地球連合との戦争は一時的な終結を見る。
しかしザラ派の暴走によるユニウスセブン落下事件、通称ブレイク・ザ・ワールドにより世界はまた戦乱の時代を迎えることになる。

ブレイクザワールドがユーラシア連邦に対して与えた影響は甚大なものであった。
カザフスタンやウズベキスタンに代表されるユーラシア大陸中央部に位置する穀倉地帯はコロニーの破片によって壊滅的な打撃を受けてしまう。

この穀倉地帯への打撃はユーラシア連邦のみならず、全世界的な食糧不足を引き起こし、その後の世界に深刻な影響を刻む結果となった。
本来であれば各政府が取るべき政策は決して戦争ではなく、食料政策の根本的見直しであったはずだった。

しかし、この大被害に対してブリュッセル中央政府の取った復興政策は、軍再構築を最重要課題にし大西洋連邦との結びつきを強化する方向となった。
これは当時大西洋連邦中枢を支配していたロゴスの経済力を目当てにしての事だったが、満足な支援は得られず逆にガルナハン等の地域に大西洋連邦(ロゴス)の軍事介入を招く事になる。

さらにロゴスの支援が得られないと見るや否や、当時戦況を優勢に進めていたプラントに取り入ろうとし、ベルリン近郊など欧州各地にザフトの駐留を認めてしまう。
こうしたブリュッセル中央政府の泥縄とも言える失政の連続は、モスクワ州政府に独立の正当性を裏付ける結果となっていく。



―デストロイによる西ユーラシア都市壊滅―

ザフトの欧州駐留を認めたユーラシア連邦の判断は、ロゴスから見れば裏切りとしかいえないものであった。
そこでロゴスの首魁ロード=ジブリールは、大量破壊MA「デストロイ」を全面投入し、主要都市を次々に壊滅させていく。
この事によりブリュッセル中央政府は、その政府機能を事実上失う事となる。
代わりにユーラシア連邦の政治機構を担う存在として、期待されたのがモスクワ州政府であったが、ブリュッセル中央政府がその実権を手放さない以上、モスクワ州政府がすぐに正常な統治を行えるはずも無く、ユーラシア連邦の西側は無政府状態になっていく。

もはや事態は一刻の猶予も無かった。
ブリュッセル中央政府から実権を奪わなければ、東西ユーラシアが破滅するのは時間の問題であった。
そこでモスクワ州政府は、まず東ユーラシアにおける政治基盤の確立と独立性の確保を図る事にする。
つまり西ユーラシアを切り捨てたわけである。
この決定はユーラシア連邦の東西分裂を決定的なものとしていった。

そしてついにCE74年、メサイア攻略戦の直後、モスクワ州政府率いる東ユーラシアは独立を宣言。
『東ユーラシア共和国』を名乗り、西ユーラシアに対して宣戦布告を行ったのである。



―東西ユーラシア内戦と分断―

東ユーラシア共和国の西ユーラシア侵攻の目的は、政治的実権と地域を奪うことにあった。
つまり単に独立しただけでは西ユーラシア地域を失い、国力が大幅減退してしまう。そのため西ユーラシアを実力で確保する必要があったのだ。

しかし当初、早々に陥落するかと思われた西ユーラシアであったが、プラント崩壊後に西ユーラシアに帰順した旧ザフト軍などを中心に激しい抵抗を見せ、侵攻は次第に難航していく。
この事が戦況の泥沼化を招き、ついには統一連合(オーブ)の介入を許す結果となる。

かくてCE75年、東ユーラシア共和国の目論見は頓挫した。
また旧ユーラシア連邦の西側は『西ユーラシア連邦』として一時独立するも、その後『西ユーラシア自治区』として統一連合から直接支配を受ける事となった。