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彼方にて

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 笑い声、ざわめき、車の警笛、踏切の音…
 すべてがだんだんと遠くなっていく気がして、蔵馬は一度振り返った。
 不安を裏切るかのように、そこにはいつもの道が淡々と続いている。
 恐れるな。先へ進め。
 言い聞かせるようにまた歩を進め、また先を見つめる。
 コンクリートのきれいな舗装がなされているなだらかな坂なのに、土の匂いが一瞬鼻をかすめた…と思った。
 この坂を上り切ると、畑が広がっている……そんな気がする。
 もちろんそれは気のせいで、ここから見える範囲でも坂の両脇にはありふれた古都の土塀が続いている。
 しかし目の前にチラついた畑のイメージは、想像よりリアルな質感を持って頭の片隅から消えなかった。




 坂を上りきると土塀は一旦切れ、大きな坂の中腹へ出たようだった。
 右へはさらなる上り坂で、ゆるいカーブがかっているそれの先はどこへ続いているのか見えない。
 左へ続くなだらかな下り坂は、はるか遠くに見える古都の中心部へ続いているらしい。
 道の脇には観光客を呼び寄せるためか、店先に鮮やかな緋毛氈を引いた縁台を置いた時代物のテレビ番組に出てくるような茶屋がひとつあった。
 この暑い夏日に好んでふらふらと歩くもの好きは自分だけなのだろう、辺りを見回しても猫一匹見当たらず、先刻まで当たり前のように包まれていた喧騒はここではまったく聴こえない。
 景色自体は本当にありふれている。
 写真集などでよく目にする、歴史ある古都のイメージ通りの風景の一切れだった。
 もっと下りには自販機らしきものが見える。
 そのなんでもない平凡さに蔵馬はなぜか、違和感を覚えた。

 足は自然と右手の坂を選んで上り始めていた。
 一体どこに向かって歩いているのかは自分にもわからなかった。
 この魂が何かと呼応しているような、そんな抗えない引力を感じた。
 熱に浮かされるかのように、ただ何かに歩かされていた。

 時折視界がブレて、ありもしない物影が網膜にフィルターをかけたかのように視界に重なって見えるのだ。
 それを見失うことが一番恐かった。
 ただ一心不乱に歩き続けた。




 途中で引き返せないこともなかったのだ。
 しかし蔵馬は自分を引き寄せるものが何なのか知りたかった。
 何よりも、自分の根源となっている妖狐の過去が関わっているという直感があった。
 自分の記憶ながら、気の遠くなるような年月の中で忘れ去られた思いも沢山あろう。
 その思いが自分を求めているのだ。
 過去を昇華させるのは自分の義務なのだと思った。
 制服のズボンの左ポケットに突っ込んだままの時計を見ることもしないが、陽の傾き具合からおそらく昼が過ぎ、午後二時を経過した頃ではないだろうか。
 日の輝きは一層増した、気温はたぶん今が最高潮。体温は日にさらされて上昇するばかりだ。
 服は言うに及ばず、額に滲んだ汗は頬を伝ってあごまで垂れる。
 既にいちいち拭うのも面倒くさくなっているので頓着せずにそのまま放っておいた。
 とうに上がっている息を整えることもせず。
 まったく馬鹿げている、こんな日に、こんな自分の行動が。



 覚えているのは、ずっとまっすぐに歩いてきた道を途中で外れたことだけだった。
 足が右にゆけ、左に曲がれと無言で呼びかけるから、それに従ったまでだ。
 土塀は少しずつ姿を変えながら両脇を延々と続く。

 とにかく暑い。
 蔵馬は縛っていた髪をほどいて頭を左右に振ってみたが、ただ澱んでいる空気を揺らしたばかりで、暑さは一向に引いてはくれなかった。
 このままでは“何か”に辿り着く前に日射病で倒れてしまう。
 もはや熱のせいで考えもまとまらない。
 蔵馬は目の前にチラつくフィルタが消えないように祈りつつ、
 熱い息を吐きながら、わずかに影のできる片側の塀にもたれて空を見上げた。
 班の皆は、何もなければ今頃は昼食を終え、午後に予定している寺を巡っているころだ。
 しかし実際は…
 普段は主張しないが意外に責任感の強いあの班長のことだ。
 いくら待っても来ない自分のことを探しているに違いない。
 せっかくの自由行動の時間をつぶしてしまい、悪いことをした、という罪悪感で胸が少しだけ痛んだ。
 そのまま目を閉じて息を整えていると、風が吹いてきて前髪をさらっていく。
 塀の影に背中を預け、心地よい夏の風にしばらく身を任せていた蔵馬だが、
 ふと、気になる音を耳にした。

 「この辺りで祭なんかあったっけ…?」

 確かに、笛の音だったのだ。
 どこから聞こえたのか、と耳を澄ましても、かすかに飛んできた笛の音は聞こえない。
 一体どこから…と考え込んだ直後、蔵馬は今まで自分の視界を覆っていたもう一枚の絵が見えなくなっていることに気づいた。
 しまった。道をそれてしまったのだろうか。
 少し引き返して道の中央に立ってみたり、立ち位置を変えたりしてみたが、ここへ来たときのような、どこかへ引っぱられていくような強い力は全く感じない。
 蔵馬は、ここまできて犯した自分のミスに気が遠くなるほどの怒りを感じた。
 過去の手がかりを手に入れるために追ってきたいうのに、ここにきて見失ってしまうとは!
 脱力したまま壁に額をあて、力なく壁を殴って八つ当たりする蔵馬だった。



 また、笛の音が聴こえた。

 そしてかすかに太鼓の音も。たしかに祭囃子の音色である。
 蔵馬は急に目が覚めたかのように再び歩き出した。
 もう自分にはこの笛の音を辿ることしかできない。
 また消えるかもしれないと思うと居ても立ってもいられずに、歩調は次第に早まり、ついに蔵馬は音のする方へと走り出した。








 どこをどう走ったのか分からない。
 何とか音に近づこうとしてただ闇雲に駆け回った後、蔵馬は小さな赤い鳥居に続く、石段の前に立ち竦んでいた。
 どうやら先ほどの音色はこの奥から聴こえてきたようなのだが、近づいたにも関わらず、音は先ほどよりも遠ざかったような気がする。
 このままではまた見失ってしまうのではないか。
 蔵馬は背負っていた鞄をそっと外塀に立てかけた。
 何が起こったとしても、簡単にやられるつもりなど無い。
 それだけの見返りは貰ってゆく。
 もう一度髪をしっかりと縛りなおし、覚悟を決めた蔵馬は境内へと石段を登り始めた。




 鳥居をくぐったその瞬間つむじ風が砂埃を舞い上げたので、蔵馬は思わず目を瞑った。
 遠くの方でかすかに鳴っていた祭囃子の音が、急に耳元で聴こえた。

 

(続く…) 

 

 

 

難産の割に短いですね。もう少し続きます。