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たまには、こんな夜

 

    

 市立図書館を出た時は、日はとうに暮れていた。ただぽつぽつとある街灯だけが白い蛍光灯の光を道に投げかけている。
 二人の足元から影が後ろに長く伸びた。

「大分日も短くなってきましたね」

 蔵馬が夜空を見上げてそう言ったので、桑原もつられて上空を仰いだ。
 今夜はよく晴れていて、星も珍しいくらい多く見える夜だ。都会の割に、と蔵馬は心の中で付け足した。先月、仕事で地方に行く機会があったのだが、そこで見た星空は圧巻だった。

「そうだな。ちょっと前までは、こんな時間でもまだ余裕があったのにな」

 夜ともなれば、外の空気は日中からは考えられない程涼しいものへと変わっていた。静かに吹く夜風が心地よい。
 蔵馬は長い間縮こまっていた体を空に向けて思いっきり伸ばした。
 気持ち良さそうに体を伸ばしている蔵馬に、桑原は申し訳なさそうな顔をした。

「悪ィな、こんな時間までつきあわせちまって」

「いいんですよ。桑原くんは今が大事な時期なんですから頑張ってもらわないと」

 大学進学を希望する桑原のために、休日の一日をかけて勉強を教えていた蔵馬だった。
 桑原は決して物分りの良い方ではないが、持ち前の真面目さで熱心に質問をしてくる桑原に、蔵馬は微笑ましい気分になっていた。
 実際、模試の成績はわずかずつではあるがどれも上がっている。
 月に2、3度ではあるが勉強を教えている身分としては、桑原が頑張って出した成果が自分の事のように嬉しい。

「最近は随分頑張っているみたいじゃないですか。この分だと、桑原君の行きたい大学も、夢じゃないですよ。実際、それだけの実力はあると思いますから」

「よせやい。あんま褒めると、気ィ抜いて勉強なんかしなくなっちまうぞ」

 照れるでもなく、桑原は言った。
 根っからのお調子者だった桑原だが、目標となるべきものを見付けた途端、あれだけ嫌だ嫌だと言っていた勉強でさえ自分から進んでやるようになった。
 その頑張りが今までは他の方向に向けられていただけだ、と蔵馬は思った。桑原はやればやっただけ伸びる。

 薄暗い住宅街を抜け、川べりの土手に出た。
 向こう岸には色とりどりの街の灯りがまるで星のようにゆらめいている。空を見上げると、さっきまであれほど見えていた星は跡形も無く消えていた。
 特に何を話すでもなく、二人は土手の上の細い道をゆっくりと歩いた。

 さぁっと川を渡ってきた冷たい風に、蔵馬は気持ち良さそうに両手を広げ、風を一身に受けた。風は長い髪を揺らし、白いシャツのすそをはためかせる。
 蔵馬の後をついて歩いていた桑原は、対岸のピカピカ光るネオンが目に染みるかのように目を閉じた。

「ちょっと土手を降りてみませんか」

 と、蔵馬は嬉しそうに自ら土手に足を踏み入れた。
 土手の上に点在する弱々しい街灯の光も、土手の斜面にまでは届かない。蔵馬の姿が急に見えなくなったので、おいおい、と桑原も焦って後を追った。

「おい、危ねーぞ蔵馬!」

「大丈夫ですよ、ほら、暗いけど目が慣れればどうってことないし。涼しいから、こっち歩いて行きましょう」

 返事も聞かずに歩いてゆく蔵馬の後を、仕方ねーなァと言いながら桑原も続いた。
 思わぬところで、蔵馬の気まぐれが出たことに驚きながら。

 向こう岸の立ち木が風を受けて大きくざわめいた。すこし経って、こちら側に強い風が渡ってくる。土手の草がさあっと音を立てて煽られなびいている中、うっひょ〜〜〜と叫びながら、桑原は嬉しそうに風を切って川べりを走り出した。

「元気だなあ…」

 駆け出した桑原を見て、蔵馬は苦笑いした。
 そして少し思案した後、よしッ、と自分に一声かけると、蔵馬も後を追って走り出した。
 まさか追ってくるとは思わなかった桑原だが、追い付かれまい、と気を入れて全速力で駆け出す。ペースを上げた桑原に追い付こうと、蔵馬も短距離走のように奇麗なフォームで追い上げる。
 二人ともかなり早いが、蔵馬はだんだんとその距離を縮めて来た。

「本気で走ってんじゃねーよっ!」

「そっちこそっ!」

「よし、じゃあ、あの橋に先に着いた方が勝ちだ、行くぜ〜〜!一番はオレのもんだ〜〜!」

「ちょっと!勝手にゴールを作らないで下さいよっ!」

 二人の声は川の流れにかき消され、土手の上にある住宅街にはほとんど響いていないようだった。それを良いことに叫びながら走りつづける二人だが、蔵馬はとうとう追い付いて、桑原の腕を掴んだ。
 驚いて桑原が振り向いた瞬間…バランスを崩した桑原は派手につんのめり、蔵馬もろとも青草の上に倒れ込んだ。

「いっててて…」

 下敷きになってしまった桑原はどこかすりむいたらしく、痛ェ痛ェと大げさに騒ぎながら土を払った後、土手につっ伏した。蔵馬は桑原が下に居たおかげで傷はないようだが、それでも荒い息のまま桑原の隣に横になる。
 寝っ転がったままどちらともなく笑いが込み上げてきて、二人は大声で笑いあった。

「全く、ムキになるからこういう事になるんですよ」

「何言ってんだよ、おめーこそ負けず嫌いのくせして」

 息の上がった二人は、しばらく起き上がらずにその場で倒れ伏していた。
 やがて、蔵馬がむっくりと起き上がり、その時渡ってきた風に心地よさそうに目を細めた。気づくと虫の音が辺りから湧き上がるように聞こえてきている。
 桑原はまだ仰向きに寝たまま、空を見上げていた。

「土手はいいですね。夏らしさが漂っていて」

 言いながら、蔵馬は自分の腕に鼻を近づけて少し嗅いだ。青臭さがつぅんと染みる。先ほどのスライディング時に擦ったのだろう。
 なんだか子供みたいだ、と蔵馬は思った。

「今度ここで花火でもしようぜ。あいつら呼んでさ」

「どうでしょう、最近は花火禁止のところが多いですからね」

「なぁに、すこしくらいならバレねーって」

 桑原も起き上がって、蔵馬の先に立って歩き出した。

「そろそろ行こうぜ。あんま遅くなると混んじまう」

 いつもなら図書館を出て、土手の上の道を通って、橋のたもとで二人は別方向に分かれるのだが、今日は桑原も駅の方向に行くようだ。

「あれ?何か用事でもあるんですか?」

「なんかおごるぜ」

「ほー、珍しい」

「おうよ、たまにゃーな。いつも世話になってるし」

 まかせろ、と桑原は胸をたたいた。
 蔵馬は小さく笑った。素直に感謝をあらわにできるところが桑原らしい。学生の懐具合だとどこが良いかな…と考えていると、

「浦飯の屋台でいいな?」

 と先に立った桑原が言った。もちろん蔵馬も異存はなかった。

「久しぶりに行くな、幽助の屋台も」

「そうか?俺は結構行ってるぜ。一人で図書館に行った帰りとかに結構。あいつ、あんなかんじで相変わらずだよ」

「いや、会ってないわけじゃないんだけどね」

 駅の方向から流れてくる帰宅を急ぐ人々とすれ違う。こりゃ、混んでるかもな、と桑原がボヤいた。
 次第に活気を帯びてくる街の雰囲気に蔵馬の心は弾む。
 賑やかな駅前に近づき、二人の姿は人込みの中に消えていった。