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麦畑から


この文書は、keyの作品であるKanonのシナリオを基にした二次創作です。

シナリオ形式になっていますが、小説形式のご希望があればそのうち作成するかもしれません。


あらすじ/BGM:Little fragments

魔物との決戦の夜、祐一のクラスメートの斉藤により血塗れの二人が発見され、病院に運ばれる。その頃、7年前に木から転落したのを斉藤に通報されていた月宮あゆの意識が回復していた。その後、色々あって、あゆは親戚に引き取られ、祐一、舞、佐祐理の3人の生活が始まる。


第一幕:闇夜からの生還


処置室/BGM:木々の声と日々のざわめき


ふと気付くと俺は、見知らぬ部屋のベッドの上に居た。周りでは、白衣の人々が仕事をしていた。

「気がつきましたか」

いつのまにか、俺は病院に運ばれてきていたらしい。 俺の足には包帯が巻かれていた。

祐一
「あの、舞は?」
看護師
「はい?」

唐突な俺の質問に戸惑ったようだったが、質問の意図にすぐに気付いたようだ。

看護師
「あの女性は、舞さんですか」
祐一
「はい」
看護師
「フルネームと連絡先を教えていただけますか?」
祐一
「川澄舞です。俺と同じ学校の3年生です。連絡先は…知らないです。」
看護師
「はい、分かりました。では、連絡先は学校に確認します。それからあなたのお名前と連絡先を教えていただけますか?」
祐一
「相沢祐一です。連絡先は…」

待合室/BGM:木々の声と日々のざわめき

看護師によれば、舞は一命は取り留めたが、まだ処置を受けているということだった。 俺の足の怪我は、数針縫う程度で済んでいたという。 警察署から警官が来ていた。昨夜の事について聞かせて欲しいという。 俺達は身元不明のけが人、しかも、舞は腹に剣を刺していた。警察が興味を持つのも当然だった。 家には警察から連絡するということだった。

暗転

迎えの車に乗ると、クラスメートの斉藤が寝ていた。

斉藤
「…くー」
祐一
「…(こいつは名雪か?)」
警官
「彼が学校から通報してきたんだ。君達の第一発見者だな。彼が知らせなかったら、彼女は助からなかっただろう。」
祐一
「そうだったんですか。舞の命の恩人ですね。」
警官
「そうだな、そういえば彼は7年前の冬にも、昨晩の君達みたいな状況の男の子と女の子を森の中で発見して通報してきたんだ。そのときは感謝状も貰っている。今回も表彰されれば2回目だな。」
祐一
「へぇー、すごいですね。」
警官
「この街では有名な事件だし、彼は君と同級生だが、そういう話を聞いたことないか?」
祐一
「いいえ、この間引っ越してきたばかりですから。」
警官
「そうか」

暗転

斉藤は部活のために、旧校舎にある図書室で調べ物をしていてあの時間になったのだという。部の顧問が、あのおおらかというか淡白な石橋なので、かなり好き放題できるらしい。昨晩の学校には人の気配が全くしなかったが、斉藤によれば暖房の熱が逃げないようにするためにカーテンを閉め切っていた上に、校庭の照明の影響で、外からでは人がいるかどうか分からない状態だったのだろうという。

午前中に事情聴取が終わったので、家に戻って昼食をとる事になった。 迎えに来た秋子さんの誘いで斉藤も一緒に来た。 俺は、警官が言っていた7年前の事を斉藤に聞いてみたいと思っていた。


第二幕:真相


水瀬家リビング/BGM:2 steps toward

祐一
「7年前の冬に、この街で起きた有名な事件のことを聞かせてくれないか。」
斉藤
「有名な事件ですか?」
祐一
「お前が、森の中で男の子と女の子を発見して通報したという事件だ。」
斉藤
「誰にその事を?」
祐一
「朝、迎えに来た警察の人から聞いたんだ。」
斉藤
「そうですか…、楽しい話じゃないですよ…。まあ、どうしてもというなら別に構いませんけど。」
祐一
「是非頼む。」

俺が最後に居た7年前の冬に起きた『この街では有名な事件』、それが何なのか俺は知らない。 俺はどうしてもその事について聞きたかった。

斉藤
「…、長い話ですので時間が取れるときが良いですね。」
祐一
「今日はどうかな。」
斉藤
「構いませんよ。」

何でも、森の中で怪我をした女の子が、泣き叫んでいる男の子に抱きかかえられていたのを発見して通報したのだという。 途中、キツネの昔話や、事件の現場となった木が伐られたことに脱線しながら話が核心に迫っていった。

斉藤
「で、大木の方から、子供が泣き叫ぶ声が聞こえましたので、何事かと思ったら木の下に女の子を抱きかかえながら、そばで「鮎」と泣ながら繰り返し叫んでいる男の子がいるのを発見しました。で、周囲の様子から女の子は殴られたわけではなく、木から落ちたらしいと推定しました。」
祐一
「鮎?」
斉藤
「えぇ、そう言っていました。言っていたというか、叫んでいたわけです。まあ「鮎」が何の意味なのかはよく分かりませんでした。鮎を使ってどうにかしようと思っていたのかも知れないですけど。」
名雪
「えー、鮎で傷が治るなんて聞いた事ないよ〜。」
斉藤
「そうですね。で、あの辺はあの大木の落ち葉が積み重なった腐葉土なので、地面が柔らかいことに加えて、新雪も積もっていましたから、地面との衝突による頭部へのダメージは少ないものと推定しました。首を不自然な形に曲げられるとまずいと思いましたので、男の子には戻って来るまでそのままの体勢でいるようにだけ言いました。返事はなかったのですが、男の子が叫びつづけていたので、救急隊が到着するまでそのままにしておいても、けが人の意識レベルはそれほど下がらないだろうと判断しました。それから、最寄の公衆電話まで走りました。」
祐一
「走ったって、森の中をか?」
斉藤
「えぇ、急いでいましたから。」
名雪
「ふーんそうなんだ。そうだ、斉藤君、陸上部に入らない?」
斉藤
「もうすぐ3年ですし、かけもちはちょっと…」
名雪
「大丈夫だよ。うちの部はクロスカントリーの選手が居ないからすぐ大会に出られるよ。」
斉藤
「…100m走るのに20秒掛かりますし、わりと忙しいので…。」
秋子
「名雪、あんまり困らせたらだめよ。」
名雪
「残念。」
祐一
「じゃ続きをはじめてくれ。」
斉藤
「救急車が来たので、救急隊員と合流して、大木の下まで戻りましたが、先ほどの男の子はいなくなっていました。男の子のものらしい足跡があったので、男の子を探しに行こうと思ったのですが、救急隊員から私も負傷しているから病院まで来る様に言われました。どうも、森の中で頭を木にぶつけていたようでした。無線で男の子を捜すように手配してくれるとの事でしたので病院まで同行した訳です。女の子をストレッチャーに乗せて救急車に戻るときに、念のためにあたりを見回したら贈答用らしき袋が落ちていたので、それを拾って救急隊員達と一緒に救急車の所まで戻りました。」
名雪
「ひどい、女の子を置き去りにしていなくなっちゃたの?」
斉藤
「何らかの理由で一時的にその場を離れていたのだろうと思います。ですので、男の子を捜すようにお願いしたわけです。戻ってきて女の子が居なくなっていたらどんな行動に出るか分かりませんし、森の中で迷って凍死してもらっても困りますので。」
名雪
「ふぅーん」
斉藤
「で、病院で私の処置をしてもらいながら、別の医師に現場の状況を説明した後、病院から家に帰る途中で、袋を駅前の交番に届けておこうと思って駅前に行ったら、さっきの男の子がベンチに座っていて、女の子に話しかけられているのを見かけたので、直接渡した方が速いだろうと思いまして、ベンチの方へ行ったのです。ただ、到着したときには、その女の子しかいませんでした。何かを拾っているようだったのですが、その男の子と知り合いかどうか尋ねたところ、いとこだと言うことでしたので、その男の子に渡してくれるように頼んで、その包みを渡しました。それから、交番の警察官の方に行方不明の男の子が見つかったことを告げて家に帰りました。当日の状況は以上の通りです。」

名雪
「そういえば、駅に祐一を探しに行った時に、知らない男の子からリボンが付いた袋を渡された気がする。」
祐一
「告白か?」
名雪
「ちがうよ、祐一に渡してくれって。」
祐一
「男から貰ってもな…」
名雪
「それ、7年前の話だよ。あっ、そうだ。」

名雪は何かを思い出したように、リビングを出て行った。

秋子さんがキッチンからお茶とお菓子を持ってきていた。

斉藤
「スコーン頂いてよろしいですか?」
秋子
「どうぞ。何かつけますか?」
斉藤
「そうですね、そのオレンジ色のジャムをつけてみます。」
秋子
「どうぞ、このジャム自信作なんですよ。」
斉藤
「ご自分でジャムを作られるんですか、すごいですね。」
秋子
「味はどうですか。」
斉藤
「そうですね。なかなかユニークですけど、良いお味だと思います。もしよければレシピを頂けませんか、今度家でも作ってみようと思います。」
秋子
「ありがとうございます。でも、レシピは秘密です。」
斉藤
「それは残念です。…そうですね、味を覚えておけば再現できるかもしれませんので、もう少しいただけますか?」
秋子
「どうぞ。」

俺は目の前で起きている光景を他所に、曖昧な記憶を手繰っていた。思い出が止まった最後の日の出来事…。

名雪
「お待たせ。…7年も経っちゃったけど。」

俺はそのくしゃくしゃになった包みに、何となく見覚えがあった。

斉藤
「水瀬さん…」

あきれたように言う。

名雪
「うー…、ごめん。あの時はとても言い出せる雰囲気じゃなかったんだよ…」
斉藤
「でも、本当にこの包みだったかどうかちょっと自信が無いですね。」
名雪
「それだったら、誰のか分かるかもしれないから開けてみようよ。」
斉藤
「水瀬さん、持ち主がいないのに空けていいんですか?」
名雪
「あっ、そうか。でも、ちゃんと戻しておけば大丈夫だよ。」
斉藤
「開ける前に包装の外面に何か所有者を示す情報がないか確かめた方が良いのではないですか?」
名雪
「うー…。…でもそうだね。」

包みを調べる名雪と斉藤。

名雪
「何もないね。」
斉藤
「そうですね仕方ありません。開けてみましょう。」
名雪
「じゃ開けるよ。」

そう言って、名雪は包みを開けた。

名雪
「あっ、ほら、かわいいカチューシャ。」
秋子
「女の子へのプレゼントね。」

確かに見覚えがあった。名雪が手にしているものは、街で出会ったあゆが付けていたのと同じ赤いカチューシャだった。俺が買ったカチューシャ。そう、7年前にあゆにプレゼントして、再会するときには必ずつけてくると約束した…。

暗転

斉藤
「相沢さん!」
名雪
「祐一!」
秋子
「部屋に運んであげましょう。」

真っ暗な祐一の部屋/BGM:霧海

目が覚めると、真っ暗な俺の部屋のベッドに横たわっていた。

俺は7年前の冬にあった出来事を全て思い出していた。あのとき俺は、あゆを失った悲しみに耐えられず、あの木の下で俺からのプレゼントをうれしそうに受け取り、今度会うときは、このカチューシャをつけてくると約束した少女と別れた。そう思い出に刻み込んでこの街を去った。

あの時俺は、俺に抱かれて動かない少女ではなく、俺からのプレゼントをうれしそうに受け取った少女があゆであって欲しいと願い続けていた。俺は幻の世界へ逃げ込んでいたのだ、絶望しかない現実を逃れて。

そして俺は駅のベンチであゆを待った、来るはずが無いと分かっているはずなのに、分かっているはずのことを否定するために。しかし現れたのは、雪うさぎを持った名雪だった。木の葉、雪、そして赤い目、名雪の作った雪うさぎは俺に悲しい現実を思い出させようとする存在だった。そんなものは壊してしまいたかった。


水瀬家リビング/BGM:2 steps toward

夕食後、名雪に7年前の事を謝った。

名雪
「しょうがないよ。そんなに悲しいことがあったんだから。」
祐一
「…、ありがとう」
名雪
「でもその子は、斉藤君のお陰で助かったんでしょ。」
祐一
「そうだな、街で元気に走り回っていたからな。」
名雪
「だったら、もういいよね。祐一も昔のこと思い出したんだし。」
祐一
「そうだな、…」

前から気になっていたことを思い出したので、俺は秋子さんにあゆのことを聞いてみる事にした。

祐一
「秋子さん」
秋子
「はい?」
祐一
「商店街であゆ、月宮あゆに会ったときに、ひどく不思議なことのように思っていませんでしたか?」
秋子
「同じ名前の女の子が、7年前に木から落ちて亡くなったと思っていたんです。」
祐一
「回復してたんじゃないんですか?」
秋子
「その後、色々あって、何となく女の子は亡くなったんだろうと思っていたんです。」
祐一
「そうですか。………色々というのは?」
秋子
「あゆちゃんが落ちた木を伐ることになったんですけど、あの子、斉藤君はあの木を伐るのはおかしいといって、街の人と喧嘩したり、議員の先生を説得しようとして家まで訪ねて行ったそうなんですよ。」
名雪
「わっ、そうなの…」
祐一
「何で、お前が驚くんだ?」
名雪
「斉藤君、いつもおとなしいから、喧嘩するなんて思えなかったんだよ。」
秋子
「そういう騒ぎがあって、女の子のことは忘れられてしまっていたの。だから亡くなったものとばかり思っていたんです。」
祐一
「そうだったんですか。」

暗転

赤く染まった世界、街の人々との喧嘩。斉藤が言っていたように、確かに楽しい思い出ではないだろう。だが、俺と違って、あいつは楽しくない思い出を克明に心に刻み込んでしまっていた。


第三幕:回復


授業中の教室/BGM:凍土高原

現場検証の結果から、俺達は犯罪に巻き込まれた被害者と思われたらしく、何らお咎めなしだった。これまでの舞の奇行も、犯罪を予見した上で、未然に防ごうとしたのだろうと好意的に取られていた。

もっとも、久瀬だけは納得できないようだった。

あのコンクリートの壁の大穴を見れば、重機を使った窃盗か何かが行われようとしたのではないかと思うのが自然だ。結局その流れで捜査が行われることになった。俺は、あの晩に体験した事を言っても、まともに取り合ってくれるはずもないので、警察の取調べでも適当に言葉を濁していたが、あれだけの出来事に遭遇したのだから言ってることがおかしくても仕方が無いと思われたようだ。

お咎めなしと決まった以上、いつまでも休んではいられない。足の痛みも治まり、数日ぶりに登校したが、クラスメート達は気を使ってくれているのか、あの事件について触れようとはしなかった。


病院受付/BGM:凍土高原

俺は、抜糸のために学校の帰りに病院に行った。舞の見舞いに行こうと思ったが、舞は未だ面会謝絶だった。 そして、受付の掲示板に気になる名前を見つけた。

「月宮あゆ」

張り紙によれば、1月下旬に意識が戻るまで7年前に木から転落して以来ずっと意識不明だった。しかも、転落事故前後の記憶を失っているらしい。その頃の記憶を取り戻す手掛かりになるような事を知っている人物の情報を求めているらしい。

祐一
「すいません」
係員
「はい?」
祐一
「この月宮あゆという子も森の中で木から転落したんですか?」
係員
「ええ、7年前の冬に森の中で木から転落して、運ばれてきた子です。この街では有名な事件ですが、ご存じないですか?」
祐一
「この子と同じように、7年前の冬に森の中で木から落ちて病院に運ばれてきた、同じ名前の女の子に1月のはじめに街で出会ったので、偶然だなと思ったので。」
係員
「は? 木から落ちてここに運ばれたのはこの子しかいませんし、この子以外に森の中から病院に運ばれてきた子は、この子が木から落ちた事を知らせた子しかいませんよ?」
祐一
「え?」
係員
「何かの勘違いじゃないですか?」
祐一
「………、そうですね。お手数おかけしました、すいません。」
係員
「いえ。ところで、この事故の時にこの女の子と一緒にいたのに、怖くなって逃げた男の子のことを知りませんか?」
祐一
「………、ちょっと分かりません、すいません。」
係員
「そうですか。」

係員は残念そうに言った。手掛かりとなるような情報はほとんど入ってきていないのだろう。

暗転

街で出会ったあゆは紛れも無く俺が知っているあゆだった。 だが、あゆの意識が回復したのはあゆがこの街を去った頃だという。 俺には、何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。


休み時間の教室/凍土高原

祐一
「なあ、斉藤。」
斉藤
「はい?」
祐一
「お前が森で助けた女の子、月宮あゆって言う名前なんだけど、病院に運ばれた後どうなったか知ってるか?」
斉藤
「私が助けた女の子ですか?」
祐一
「お前が7年前に森の中で怪我をしていたのを見つけた女の子だ。」
斉藤
「ああ、命に別状はないものの、意識不明だったと報じられていましたが、それしか知りません。」
祐一
「そうか…。」
斉藤
「その後は、何も報じられませんでしたから。もしかして、その子の消息が分かったんですか?」
祐一
「この間病院に行ったら、つい最近意識が戻ったんだそうだ。」
斉藤
「回復したのならとりあえずは良かったですね。」
祐一
「そうだな。でも、あの事故のあった頃の記憶を失っているそうだ。」
斉藤
「うーん、それは大変ですね。」
祐一
「記憶を取り戻すような手掛かりが欲しいらしいんだが、協力してやってくれないか?」
斉藤
「そうですね、あまり役に立てないかもしれないですが、協力しましょう。」

斉藤まで混乱させても仕方が無いので、俺がこの街に帰ってきた次の日に再会したあゆのことは黙っていた。


授業中の教室/凍土高原

授業中、いつものように先生の言葉を聞き流していたが、気になる台詞を聞いた。

先生
「…六条の御息所は光源氏に恋焦がれていた訳だが、光源氏の方は六条の御息所をほったらかしにして、若い夕顔の所に会いに行っていた。そして御息所は嫉妬のあまり生霊となって光源氏の元へ現れた訳だ。それで夕顔を殺してしまう。…」 その言葉に何か引っかかるものを感じていた。

病院受付/凍土高原

俺達は放課後に病院を訪れた。

祐一
「ちょっといいですか?」
係員
「はい。あ、先日の方ですね。」
祐一
「実は、月宮あゆさんのことなんですが、彼が良く覚えていて、情報を提供してくれるそうです。」
係員「あ、そうなんですか」

期待するように言った。

斉藤
「斉藤と申します。森の中からその子のことを通報した者ですが、森の中で発見したときの状況と一緒に居た男の子のことでしたら情報を提供できます。」
係員
「せっかく申し出て頂いたのに申し訳ありませんが、その情報でしたら当時の記録が残っていますので間に合っています。」

残念そうに言った。

斉藤
「そうでしたか、お役に立てなくて残念です。でも、7年も前の私の証言がよく残っていましたね。」

感慨深げに言った。

係員
「一緒に居たという男の子が逃げてしまったので、斉藤さんの証言が唯一の手掛かりでしたから。」
斉藤
「逃げたとは断言できないと思いますが。」
係員
「…、そう…、ですね。」

虚を突かれたように答えた。

…重い空気が流れる。

祐一
「それでは失礼します。」

俺は、その場から逃げ出したい衝動に駆られていた。

斉藤
「では、失礼いたします。」
係員
「わざわざ、ありがとうございました。」

真っ暗な祐一の部屋/BGM:霧海

俺は、ベッドに入っても寝付くことはできず、先生の言葉を頭の中で繰り返していた。

『…嫉妬のあまり生霊となって光源氏の元へ現れた…』

生霊…。強い想いが生み出す存在…。

俺に森の中に置き去りにされたにもかかわらず、あゆは生霊となって7年間も、俺を待ち続けていたのだろうか? そして、俺が舞を好きになったことを知って、俺の前から去ったのか?

でも、どうして俺の心の内が分かったのだろう。


舞の病室/BGM:風を待った日

舞は、一命を取り留めただけでなく、奇跡としか言いようが無い速さで回復していた。面会できるようにはなったが、面会時間が昼間に限られているので、半日授業の日に早速見舞いに行った。

祐一
「よぉ、舞。時代劇役者になった気分はどうだ?」
「…」
祐一
「ごめん、変なこと言って悪かった。」
「…、切腹するのは、相当好きじゃない。」
祐一
「俺もだ。」

………

「祐一、悲しい事があったの?」
祐一
「ああ、お前が腹を刺したからな。」
「…、ごめん。」

舞はそう言って俺を抱き寄せた。

舞の鼓動が伝わる。

舞が生きている事を改めて実感した。

………

祐一
「なあ、舞。」
「…、ん。」
祐一
「風呂入ってるか。」
「…、まだ。」
祐一
「そうか…」
「臭うの?」
祐一
「ああ。」

舞は俺を抱き寄せていた手を離した。

………

「…、他にも悲しい事があったはず。」

以前は鈍感だとばかり思っていたが、妙に鋭い所がある。

祐一
「ああ。」

俺は7年前の事をかいつまんで話した。

………

「…あゆのこと?」
祐一
「何で知ってるんだ?」
「一緒にリハビリ受けてるから。」
祐一
「…そうか。」
「それに、助けたから。」
祐一
「助けた?」
「記者達から。」
祐一
「そうか…」

舞にとってマスコミはよい印象を与えるものでない事は知っていたが、7年ぶりに意識が戻った少女に群がる記者達を見てどんな反応をしたかは容易に想像がつく。

祐一
「まさか武器は使わなかっただろうな。」
「…」(黙って頷くと、右手を掲げて見せた)
祐一
「なら安心だ。病院まで追い出されたら大変だからな。」
「…」(黙って頷く)

………

「…祐一。」
祐一
「ん?」
「あゆのことで悩んでる?」
祐一
「ああ。」

この際だから、俺がこの街に来たときに出会ったあゆのことを話した。

「…、幻。」
祐一
「ああ、実は俺もあゆの生霊じゃないかと思い始めていたんだ。」
「生霊?」
祐一
「ああ、…」

俺は授業で聞いた生霊の話をした。

「…カチューシャをしていた。」
祐一
「…、そう言われてみればそうだな。」

確かに俺が街で出会ったあゆは、本当は渡せなかったはずのカチューシャをしていた。

「それに…、しっかりしている。」
祐一
「…、そうだったかもしれない。」

確かに体は小さかったが、小学生にしてはちょっと大人びたような雰囲気があった。

「たぶん…、祐一が作り出した幻。」
祐一
「えっ?」
「…、祐一も、私と同じ気持ちだったはず。」

舞は母親を亡くしたと感じた。そのことが舞に力を与えた。俺もあの時、あゆを失ったと思っていた…。

祐一
「俺にも力が?」
「…、たぶん。」

あの時俺はあゆを失った悲しみに耐えられず、現実ではなく俺の願いをこの街での最後の思い出としてこの街を去った。 7年後、俺はこの街に戻って、俺が生み出した幻のあゆ、そして舞と出会った。舞を訪ねて夜の校舎へ向かううちに、俺のあゆへの想いは薄れて行き、幻のあゆはこの街を去った。そして、7年間意識が戻らないまま生き続けていたあゆのが意識が回復した。

「…祐一。」
祐一
「なんだ?」
「…望んだから、…7年も…」
祐一
「ああ。」

7年間、俺の心の底では、俺が作り出した幻こそが本当のあゆである事を強く願っていた。ずっと現実のあゆの存在を否定し続けていたのだ。もし、そのことがあゆを眠らせ続けていた原因であるなら…、俺のあゆへの想いの力から解放されたことであゆが回復したのだとしたら…。

「…、責任…。それに祐一の傷も…」
祐一
「ああ。」

俺があゆにしてやれること、それは記憶を取り戻す手掛かりを与えることだ。

そして俺が7年間背負ってきた偽の想い出の呪縛から解き放たれることで、舞たちと共に進んでゆく事ができる。

祐一
「なぁ、舞。」
「…ん?」
祐一
「今度、たいやき食べに行かないか?」
「…、たいやき…、嫌いじゃない。」
祐一
「それから、一緒に食べたい人がいるんだ。」
「…、あゆ?」
祐一
「ああ。」
「…、私は構わない。でも、佐祐理も一緒がいい。」

記憶が突然戻って、あゆが強いショックを受ける可能性もある。佐祐理さんのような包容力のある人も一緒にいた方がいいだろう。的確な判断だ。

祐一
「ありがとう。佐祐理さんも一緒に誘って行こう。」

暗転

俺は病院関係者に、あの時あゆと一緒に居た事を告げ、あの冬のあゆと俺の間にあった出来事を全て話した。

談話室/BGM:2 steps toward

舞に会えるのは、週に2回ある半日授業の日だった。今日俺達は、談話室で雑談をしていた。

祐一
「なあ、舞。」
「…ん?」
祐一
「いつもテレビとか本を見てるだけじゃ退屈だろ、だから今日は面白い話を聞かせてやろうと思ってな、話題を仕入れてきたんだ。」

俺は名雪に聞いた妖狐の話を聞かせてやろうと思っていた。

「…」(黙って頷く)
祐一
「妖狐って知ってるか?」
「…」(黙って頷く)
祐一
「何だ、知ってたのか。他の街から引っ越してきたって言うから知らないかと思ってたよ。」
「…、祐一を追いかけてきた。」
祐一
「追いかけてきた?」
「…、夜の学校に。」
祐一
「真琴か。」
「…、まこと?」
祐一
「夜の学校に俺を追いかけてきた女の子だ。」
「…」(黙って頷く)
祐一
「真琴が妖狐だってのか?」
「…」(黙って頷く)
祐一
「そうか…。あいつはいきなり現れて、いきなり消えちまったからな…」
「…、多分もう…」
祐一
「わかった、言わないでくれ。」
「…」(黙って頷く)

妖狐の物語の結末、それはお互いに分かっていたから敢えて言う事はしなかった。

祐一
「この街って、不思議な事が多いよな。俺も街で…」
女の子
「舞さん、一緒に座っていい。」
「…」(黙って頷く)
女の子
「お兄さん、街で何か不思議な事があったの?」
祐一
「ああ、街で面白い女の子に出会ったんだ。」
女の子
「ふぅん。」
祐一
「出会いそのものが変わっていて、その女の子がぶつかってきたんだ。後で聞いたら実はたいやきを食い逃げしてる途中だったんだ。」
女の子
「食い逃げしてるんだったら捕まえなきゃだめだよ。」
祐一
「そうなんだよな。でもお金払うって言ったから見逃してやったんだ。」
女の子
「ふぅん、そうなんだ。その子はちゃんとお金払ったの。」
祐一
「ああ、あの後、朝、学校に行く前に寄った商店街で会ったときにも、たいやき持ってたから問い詰めてやったら、お金を持って謝りに行ったらたいやきをくれたってな。」
女の子
「そんな朝早くからたいやき屋さんやってるなんて知らなかったよ。でも、その子たいやきが好きなんだね。」
祐一
「そうだな、たいやきが大好きだったな。それから、その女の子は面白い口癖があるんだ。」
女の子
「どんな口癖?」
祐一
「うれしい時とか悲しいときとかびっくりした時に、いつも『うぐぅ』っていうんだ。」
女の子
「なんか、ボクみたいだね。」
祐一
「君もそういう口癖があるんだ。」
女の子
「うん。」
祐一
「それで、不思議なのは、7年前に木から落ちてこの病院に入院している『月宮あゆ』っていう女の子と同じ名前なんだ。」
女の子
「ボクと同じ名前だね。なんだかボクがもう一人居るみたいだよ。」
祐一
「えっ、君が…」

似てるといえば似てるような、似てないといえば似てないような、言われなければ気付かないほど、記憶の中の少女とも、街で出会った少女とも雰囲気が違っていた。それは、永い入院生活のせいだろうか。 俺は思わず『あゆ』と呼びそうになったが、あゆに無用なストレスを与えないようにするため、自分で思い出すまで俺の事は伏せておく事になっていたので思いとどまった。

あゆ
「ねぇ、お兄さん、なんでボクがこの病院に入院してる事知ってるの?」
祐一
「俺の足の怪我を手当てしに来たときに掲示板に出てたから知ってるんだ。」
あゆ
「ふぅん。お兄さんもしかして、舞さんと一緒に夜の校舎に居たの?」
祐一
「何で分かったの?」
あゆ
「だって舞さんと仲良く話してるし、足に怪我したって言うから、舞さんが言ってた人かなってね」
祐一
「え?、…舞、お前…」
「…」

なぜか舞は横を向いてしまった。

あゆ
「舞さんが言ってた、10年ぶりに来てくれた男の子ってお兄さんの事だったんだ。」
「…」

舞は黙って立ち上がると、病室の方へ歩いていってしまった。

祐一
「おいっ、舞。いきなり行く事ないだろ。」
あゆ
「舞さん、どうしたんだろうね。」
祐一
「さぁ。」
あゆ
「ふぅん、そうなんだ。じゃボクも行くね。」
祐一
「ああ。」

俺は舞を追って、その場を後にした。


舞の病室/BGM:2 steps toward

「…」

舞は顔を真っ赤にしてそっぽを向いていた。

祐一
「舞、いきなりどうしたんだ。」
「…、分からない。」
祐一
「俺の事を10年待ってたのは本当の事なんだから、別にいいじゃないか。」
「…、何で知ってるの。」
祐一
「あの晩、希望に聞いたんだ。」
「…、希望?」
祐一
「お前が追ってた魔物の名前だ。」
「…、そう。祐一も…」
祐一
「ああ。」
「…、私も忘れていた。」
祐一
「そうなのか?」
「…」(黙って頷く)

祐一
「本当に不思議だよな。」
「…?」
祐一
「俺達の事さ。それにこの街も不思議な事が一杯あるよな。」
「…」(黙って頷く)

面会時間が過ぎたので俺は帰る事にした。

祐一
「じゃ、またな。」
「…」(黙って頷く)

病院受付/BGM:2 steps toward

公衆電話の前を通りかかると、あゆが電話を掛けていた。だが様子がおかしい。

祐一
「あゆちゃん、どうしたの。」
あゆ
「あっ、お兄さん。」
あゆ
「ボク、お母さんに連絡しなきゃいけないと思って、いつも電話してるんだけど、何か変なんだ。」

確かあゆの母親は亡くなっているはずだ。そのことも覚えていないのか。

あゆ
「いつもおばさんの声で『この電話番号は現在使われておりません』って言われるんだ。」
祐一
「そうか…」
あゆ
「うん。」
祐一
「俺にはどうにもできないけど、そのうち連絡が取れると思うよ。」
あゆ
「うん、そうだね。ありがとう。」
祐一
「それじゃ。」
あゆ
「うん、ばいばい。」

俺はその場を後にしたが、情けない気持ちで一杯だった。


第四幕:衝撃


あゆの記憶は未だに完全には戻っていなかったが、体力は順調に回復し外出できるようになった。俺達は、あゆと舞のリハビリを兼ねて、街へたいやきを買いに出かけた。街で屋台のたいやきを買い「学校」へ。何か思い出す手掛かりが得られるかもしれないので特別に許可を得て出かける事になった。


駅前/BGM:木々の声と日々のざわめき

俺達は、駅前で佐祐理さんと合流した

佐祐理
「はじめまして、倉田佐祐理です。」
あゆ
「ボクは月宮あゆ、あゆでいいよ。」
佐祐理
「じゃあ、あゆちゃんと呼ばせてもらいますね。」
あゆ
「じゃあ、ボクは佐祐理さんって呼んでいいかな。」
佐祐理
「佐祐理はそれでいいですよ。」

商店街/BGM:木々の声と日々のざわめき

俺達は寄り道しながらも屋台にたどり着いた。昔よりも人気があるようで、人だかりがしていた。

斉藤
「何にします?」

斉藤は秋子さんに頼まれて、俺たちについて来てくれていた。森のことには一番詳しかったからだ。

祐一
「何にするって?」
斉藤
「最近は餡子以外にも色々入っていますから、何がよいかと。」
あゆ
「やっぱり餡子だよ。」
斉藤
「ではそうしますか。」
あゆ
「ボクはこしあんとつぶあんの両方がいいな。」
斉藤
「月宮さんは、こしあんとつぶあんですね。川澄さんは何かリクエストありますか?」
「こしあんとつぶあん。」
斉藤
「では、月宮さんと同じですね。相沢さんは?」
祐一
「同じでいい。」
斉藤
「では、倉田さんは?」
佐祐理
「佐祐理も同じでいいです。」
斉藤
「それでは注文しますよ。」

全員で行ってもしょうがないので、斉藤が皆の分を買いに行った。たいやき屋に何か言いたい事があるらしい。

あゆ
「ボク、たいやき食べるの7年ぶりなんだね。」
祐一
「そうだな。あの親父の焼いたたいやきは格別の味だからな。」
あゆ
「そうなんだ。今から楽しみだよ。」

俺は、あゆとたいやきを買いに行っていた頃を思い出していた。

斉藤はたいやき屋と何か話しているようだった。

たいやき屋は屋台から顔を出してこちらを見ていたが、またすぐにたいやきを焼きにかかった。

…たいやき屋は女性だった。

あゆを追いかけていたたいやき屋はあの頃と変わらない姿の人のよさそうなおやじだったはずだが、あの頃通っていたのとは違う屋台なのか?

斉藤
「お待たせしました。」
祐一
「なあ、あのたいやき屋、女だったよな?」
斉藤
「えぇ、なんでも先代が引退したので後を継いだそうです。」
祐一
「そうか…。」
斉藤
「先代は気力が衰えて店を続けられなくなったそうですから。」

俺が見たあのおやじも幻だったのだろうか?


切り株の前/BGM:夢の跡

斉藤
「ここです。」

俺達が辿り着いた所は、森の中の少し開けた場所で、真ん中に巨大な朽ちた切り株があった。見覚えはあるが、7年前とは違う場所にも見えた。それは7年前に通い慣れた道ではなかったからかもしれない。表通りから最も負担の少ないルートで来たからだ。

佐祐理
「ほぇー、大きな切り株ですね。」
「…」

二人は驚いたように切り株を眺めていた。

祐一
「舞も佐祐理さんも森に来たことはないの?」
佐祐理
「佐祐理は今日はじめて来ました。」
「…、私も」
あゆ
「来た事があるような気もするけど、違うような気もする。」
斉藤
「そうですね。今は切り株だけしか残っていませんが、7年前には大きな木がありましたから、だいぶ感じが違っていると思います。」

巨大な切り株を前に、俺は秋子さんの言葉を思い出していた。

祐一
「そういえば、斉藤、お前この木の事で街の人と喧嘩したり、議員の所へ行ったんだってな。」
斉藤
「誰がそんなことを?」
祐一
「秋子さんだ。」
斉藤
「…ずいぶんと知れ渡ったものですね。」
祐一
「見かけによらず行動派だったんだな。」
斉藤
「あまりにも非合理的な話だったので、そのことを指摘しただけです。」
祐一
「非合理的って?」
斉藤
「あの事故の後、この木を伐ろうという話が持ち上がったんです。また子供が登って、落ちて怪我をしたらいけないからという理由で。でも、それは変な理屈ですよね。登れる木は他にも沢山あるのだから、それらを全て伐らなければ完全に事故を防ぐことはできない。むしろ、無闇に木に登らないように指導するか、安全な木登りの仕方を指導した方が事故を防ぐには効果的ですよね。なのに、この木を伐ってしまった。この種類の木がこんな寒い地方で、ここまで成長する事は滅多に無いことです。本当に貴重だった。」
祐一
「そうか。その話って、誰が言い出したんだ?」
斉藤
「たいやき屋台のご主人です。実は伐る話をご主人が言い出したのだとは知らずに、この木を伐るのは愚行だと、たいやきを買いに行った時に口走ってしまい、ご主人と口論になってしまいました。あそこのたいやきはとても美味しくて、大好きだっただけに非常に悲しかったです。実は、そのとき以来、今日まであの屋台にたいやきを買いに行くことは無かったのです。」
祐一
「でも、伐るかどうかは、たいやき屋台の主人が決められる事じゃないだろ。」
斉藤
「実は、屋台のご主人に賛同して、この話を市当局に持ちかけている議員の先生がいるという噂があったので、お宅に伺って、この木がいかに貴重なものであるかを力説しました。ただ、残念ながら、息子さんを亡くされてから間もなくだったためか、翻意していただくには至りませんでした。」
あゆ
「ほんいって?」
斉藤
「考えを変えるというような意味です。」
あゆ
「そうなんだ。」
祐一
「何で、息子を亡くしたら、木を伐るのに賛成するんだ?」
斉藤
「長い話になります。何でも、発育不良と虚弱体質で息子さんを亡くされたそうなのですが、その原因は無知が招いたとしか言いようの無い事でした。小学生のお嬢さんに息子さんの世話を任せたらしいのですが、そもそもそれは無理な話で、明らかに虐待といってもおかしくない事をしていたらしいんです。発育に関する知識が無ければ、そういう愚行を犯しても止むを得ない事が何故分からなかったのか不思議に思いました。唯一つ感心できることは、そのお嬢さんは誰に教えられることも無く、自分の間違いに気付いて、方針転換をはかったことです。もっとも、それは手遅れでしたが。」
祐一
「方針転換って?」
斉藤
「なんでも、夜の病室に駄菓子やおもちゃを持ち込んで一緒に遊んだそうです。で、そのときに、その子の一生のうちで一度だけの笑顔を見せたそうです。」
祐一
「一生のうちで一度だけ?」
斉藤
「えぇ、その子はその翌日に亡くなったそうです。ですので、議員の先生は月宮さんが落ちた事故が報じられた後だけに、責任を感じたお嬢さんがこの木から飛び降り自殺でもするかもしれないと考えていたのだと思います。でも、お嬢さんは自分自身で自らの過ちを正すことができたくらい頭の良い方ですから、自殺なんかしないで、このときの間違いを教訓として、今後同じ間違いが起きないようにすることが、弟さんの生涯を無駄にしない唯一の道であることくらい分かっていると思います。」
あゆ
「うぐぅ、悲しいお話だね。でも、ボクはその子は最後には幸せになれたと思うな。」
佐祐理
「…何でですか?」

佐祐理さんは、これまで見たことのない神妙な面持ちだった。

あゆ
「つらいことがあっても、その後に楽しいことがあれば、つらかったときのことを忘れられると思うんだよ。ボクもそうだったから。ボクはお母さんがいなくなっちゃって、とてもつらかったけど、街で出会った男の子のおかげで楽しかったから。つらかったことを忘れられそうだったんだ。でも、ボクは馬鹿だったから、その子に酷いことをしちゃったんだ。お母さんがいなくなっちゃったときのボクみたいに泣いているその子に何もしてあげられなかった。そのことが夢の中で繰り返し出てきて…、うぐっ…」

あゆは今にも泣き出しそうだった。

佐祐理さんはいつの間にかあゆに寄り添っていた。

祐一
「俺の方こそ、あゆを置き去りにして逃げてしまった酷い奴なんだ。」

たまらず俺は言ってしまった。

あゆ
「えっ?お兄さんって、もしかして祐一君?」
祐一
「ああ。」
あゆ
「そっか…、ボクが居なくなっちゃうと思ったんだよね。」
祐一
「ああ。」
あゆ
「でも、もう大丈夫だから。ボクの事は心配しないで。」
祐一
「ああ。」

俺は、その場に立ち尽くしたまま、あゆの慰めの言葉に相槌を返すことしかできなかった。

「…情けない。」

いつの間にか立ち木の陰に隠れていた舞がつぶやいた。

祐一
「そうだな。俺もそう思うよ。」
「やっぱり、剣は続ける。」
祐一
「えっ?」
「祐一を鍛える。」
祐一
「鍛えるって…」
「情けない祐一は好きじゃないから。」
祐一
「俺のこと嫌いになったか。」
「祐一を嫌いになりたくないから。」

暫しの間、沈黙が流れる。


切り株の前/BGM:彼女たちの見解

斉藤
「たいやきが冷めてしまいますね。」

沈黙を破るように斉藤が言った。

佐祐理
「そうですね。そろそろいただきましょうか。お茶を持ってきてますから用意しますね。」
祐一
「そうだな。」
あゆ
「うん」
「…(黙って手を出す)」
祐一
「おまえ、こしあんとつぶあんだったよな。斉藤、一種類づつくれないか?」
斉藤
「こっちの袋がつぶあんで、こっちの袋がこしあんです。」

俺は袋から一つづつ取り出して舞とあゆに渡してやった。

佐祐理さんは皆の分のお茶をカップに入れて、切り株の上に用意していた。

佐祐理
「お行儀が悪いですけど、たまにはこういうのも楽しいですね。」
斉藤
「そうですね。立食パーティーみたいです。」
祐一
「そうだな。この前の舞踏会みたいだな。」
あゆ
「みんなすごいね、舞踏会になんか出た事があるんだ。」
斉藤
「私はポスターで見たことがあるだけですけどね。」
祐一
「俺達は出た事あるぞ。」
あゆ
「うわぁー、すごい。どんなだった?」
祐一
「学校の体育館でやったんだけどな。飾り付けがすごくて見違えるようだったぞ。そこで俺は舞とモンキーダンスを踊ったんだぞ。」
あゆ
「モンキーダンス?」
祐一
「こうやってだな、…」

俺はモンキーダンスをやって見せた。

あゆ
「なんか場違いじゃなかった?」

ちょっとあきれたように言った。

祐一
「ああ、でもその後ちゃんと踊ったけどな。」
あゆ
「舞さんと?」
祐一
「ああ。舞なんかいい男に誘われてもずっと俺にくっついてたからな。やっぱりもったいなかったと思うぞ。それからな、佐祐理さんとも踊ったんだぞ。」
あゆ
「ふぅん、舞さんって、本当に祐一君のこと好きなんだね。10年も待った甲斐があってよかったね。」
佐祐理
「あはは、あゆちゃんも分かってますね。でも舞が10年も祐一さんのこと待ってたなんて、佐祐理は知りませんでした。」
「…」(黙ってふたりにチョップする)
あゆ
「うぐっ、びっくりした。」
祐一
「舞、頭は叩くな。」
あゆ
「もう大丈夫だよ。」
佐祐理
「舞はちゃんと手加減してますから平気ですよ。」
あゆ
「祐一君もやっぱり舞さんのこと好き?」
祐一
「そんなこと聞くと、またチョップされるぞ。」
あゆ
「ほら、やっぱり。」

舞は膨れっ面を真っ赤にしていた。

あゆ
「もしかしたら、ボクの目が覚めたのは、それでなのかもしれないね。」
「…?」
祐一
「何でだ?」
あゆ
「祐一君が舞さんのことを好きになって、ボクの事で泣くのを止めたからだと思うんだよ。ボクが祐一君を元気にしてあげる必要がなくなったから、夢から覚めたんじゃないかな。不思議なお話だけどね。」
斉藤
「不思議というか…、すごく変な話です。」
佐祐理
「でも、…」

佐祐理さんが何か言おうとしたが、斉藤は構わず言葉を続けていた。俺はいやな予感がした。

斉藤
「そもそも、意識不明だった月宮さんが、相沢さんがこの街に来た事や、川澄さんのことを好きになった事をどうやって知る事ができたんです?」
あゆ
「だって、祐一君は街に戻ってきた次の日にもう一人のボクと会ったんでしょ。きっと、祐一君がもう泣かなくていいようにしようとしてくれていたんだよ。でも、祐一君は舞さんのことが好きになったから、ボクが祐一君を元気にしてあげなくても大丈夫だということをボクに伝えてくれたんだと思うんだ。」
祐一
「それは…」
斉藤
「もう一人のボクというのは?」

斉藤が矢継ぎ早に突っ込んでくる。まるであゆに喧嘩を売ってるんじゃないかと思えるくらいだった。

あゆ
「祐一君が出会った、月宮あゆっていう女の子。」
斉藤
「名前が同じなだけじゃないですか。」
あゆ
「でも、祐一君が言ってたその子の口癖とか、たいやきが好きなところはボクそっくりだよ。」
斉藤
「偶然の一致としか思えません。」
あゆ
「でも、ほら、祐一君がくれたこれも、ボクが寝てる間に届けてくれてたよ。」

あゆが取り出したのは、だいぶ傷んではいたが、確かに俺が渡した天使の人形だった。

祐一
「…、あいつが探していたのはこれだったのか。」

あゆの言葉が思い起こされる。

『地面をザクザク掘るんだよ』
祐一
「これ、あゆが拾った壜に入れて埋めたんだよな。」
あゆ
「そうだね。だからボクたちしか知らないはずなんだ。」
斉藤
「どこに埋めたんです?」
祐一
「さっき来るときに通った遊歩道の街路樹の根元。」
斉藤
「相沢さんが掘り出したんではないのですか。」
祐一
「いや、今これを見て思い出したんだ。」
あゆ
「これ、月宮あゆっていう女の子が届けてくれたって聞いたもん。」
斉藤
「…そんな」

斉藤は頭をかかえてうずくまってしまった。

斉藤
「確かに、あなた達以外に誰にも見つけられるはずないですね。あの区間は7年前に建設されてからずっと放置されていたんですから。それに、仮に誰かが見つけたとしても、あなた達が埋めたものだとは分からない…」
佐祐理
「ほら、だから不思議なお話しは、お話しとして素直に受け止めないと。」

佐祐理さんは、うずくまる斉藤の前にしゃがみ込んで声をかけた。

斉藤
「…超常現象なんて有り得ないという素直な気持ちに従っただけなんですが…」
佐祐理
「大丈夫ですよ。斉藤さんの身の上に起こった事じゃないですから。」
斉藤
「…え?」
佐祐理
「それに夢があって素敵なお話じゃないですか。」
斉藤
「…夢…ですか…」
佐祐理
「10年越しの舞の想いが祐一さんに届いたことで、あゆちゃんが目覚めたなんて。すごく夢があって素敵なお話ですよ。」
あゆ
「そうだね、ボクが言うのもなんだけど、すごくロマンチックだよね。」
「…」(黙ってふたりにチョップする)
祐一
「おまえ、ここは突っ込むところじゃないだろ。」
「…」(祐一にチョップする)
祐一
「…おまえなあ…」
佐祐理
「佐祐理は、さっきの斉藤さんのお話を聞いて…」

そこまで言うと佐祐理さんはなぜか押し黙ってしまった。

佐祐理
「あはは、やっぱり何でもないです。あゆちゃんの記憶が戻りましたし、佐祐理はみんなのそばに居られて幸せですから。」
斉藤
「そうですか。それならいいですけど。」
佐祐理
「そうですよ。斉藤さんもあまり変な事を考えないで下さいね。」
斉藤
「はぁ…。」

斉藤がポツリと呟く。

斉藤
「私達は、こんな寒い森の中で一体何をしているんでしょうね。」
「…、たいやきを食べに来た。」
斉藤
「………、そうですね…。たいやきも食べた事ですし、そろそろ帰りますか?」

日はまだ高かったが、戻る頃には夕方になっていそうな時間だった。

あゆ
「そういえば、ここの夕方の景色ってすごくきれいだったよね。」
祐一
「そうだな。」

俺はあの頃の見た幻想的な景色を思い出していた。

斉藤
「秋の夕暮れ時は、この木の葉や枝が夕日に照らされて非常に美しかったです。今では見られなくなってしまいましたが。」
佐祐理
「今もきれいだと思いますよ。」
「…、見てから行く。」
斉藤
「でも、門限もありますから、今日ではなく退院してからの方がいいでしょう。」
「…、斉藤は気が利かない。」
斉藤
「…、そうですか。でも、夕食までに戻らないといけませんので、そろそろ戻りましょう。なんでも、今日の夕食は牛丼だと聞きましたよ。」
「…、仕方ない、戻る。」
あゆ
「そうだね、また来ようね。」
祐一
「ああ。」
佐祐理
「今度来るときは、お弁当作ってきますね。」
祐一
「楽しみにしてるよ。…あれ舞は?」
あゆ
「もうあんなところまで行ってるよ。」

あゆが指し示した方向を見ると、舞は速足で歩いていた。

あゆ
「舞さんどうしたの?」
祐一
「あいつは牛丼が好物なんだ。」
あゆ
「へぇー、そうなんだ。」
佐祐理
「舞ー、おいていかないでー。」

そして、俺達は舞の後を追った。


第五幕:旅立ち


あゆは体力が回復し記憶も戻って、容態が安定してきたので退院する事になった。俺と舞は、親戚の家に引き取られる事になったあゆを見送りに行った。


商店街/日溜りの街

あゆ
「ボク当分この街に来れないから、最後にたいやき食べたいな。」
祐一
「じゃあ寄っていくか。」
あゆ
「うん。」
「…」(黙って頷く)

あゆ
「あれ、たいやき屋さんおじさんじゃないね。」
祐一
「ああ。」
たいやき屋
「森で女の子が木から落ちた事件があってね、そのことがショックで前にやってたおじさんは引退しちゃったのよ。だから私がやってるの。」
あゆ
「そっか…、ボクのせいなんだ…」
たいやき屋
「落ちた女の子ってあなただったの。でも元気になってよかったわね。」
祐一
「仕方なかったんだ、気にするな。」
「…」(黙って頷く)
たいやき屋
「そうね、仕方がなかったのよ。」
あゆ
「でも、おじさんに謝らなきゃ。」
祐一
「そうだな、でももうあまり時間もないし、謝るのはまた今度にしよう。」
あゆ
「…、でも。」
たいやき屋
「先代は、保養地で別のご商売をしているそうよ。」
祐一
「連絡先は分かりますか?」
たいやき屋
「今は手元にないけど、調べておくわ。」
祐一
「お願いします。」
「…、あゆが元気になった事、手紙で。」
祐一
「そうだな。あゆ、おじさんに手紙出せよ。」
あゆ
「そうだね、ボクが元気になった事教えてあげれば喜ぶかもね。」
たいやき屋
「それがいいわね。」
「…」(黙って頷く)
たいやき屋
「そういえば、いつも一緒に来てた男の子が一人で泣きながら歩いてたから、何かあったのかと思ったらしいのよ。その後、女の子が木から落ちたというニュースがあってね、それでいつも来てた女の子が落ちた事に気が付いたらしいんだけど、男の子は元気にしてる。」
祐一
「はい、それは俺です。」
たいやき屋
「それじゃ、あなたからも先代に手紙を書いてあげたら喜ぶと思うわ。」
祐一
「はい。」

たいやき屋
「はい、どうぞ。」

たいやきが焼き上がった。

たいやき屋
「毎度ありがとうございました。」

駅前/日溜りの街

俺達は、駅前のベンチに座ってたいやきを平らげた。

あゆ
「祐一君。」
祐一
「何だ?」
あゆ
「お願い一つだけ残ってるよね。」
祐一
「そうだったか?」
あゆ
「そうだよっ。だってボクまだ二つしかお願いしてないもん。」
祐一
「お前の意識が戻ったことで使い果たしたと思うぞ。」
あゆ
「うぐぅ、…祐一君、意地悪だよ。」
「…、祐一。」

確かに言い過ぎた。

祐一
「ごめん、俺がお願いされたのは、まだ二つだったな。」
あゆ
「あと一つお願いしてもいい?」
祐一
「ああ。」
あゆ
「祐一君、ボクの事、笑顔で見送ってください。それから、ボクがこの街に戻ってきたら、そのときはみんな笑顔で出迎えてください。」
祐一
「みんな?」
あゆ
「うん、みんな。祐一君と舞さんと、それから…」
祐一
「そんなに大人数じゃ、全員の都合が合わないぞ。」
あゆ
「だったら、祐一君と舞さんだけでもいいよ。」
祐一
「ああ。」
あゆ
「ボク、舞さんが笑ったところを見たことないんだ。何かつらい事があったかもしれないけど、祐一君だったら笑顔を取り戻してあげられるよね。」
祐一
「…、そうだな。」
あゆ
「舞さんは美人だから、ボクが戻ってきたら素敵な笑顔を見せてもらえるよね。」
「…、約束。」

そう言って小指を差し出した。

あゆ
「うんっ、約束だよ。」

そういって二人は指切りをした。

あゆ
「そうだ、今度この街に来るときはカメラ持ってくるよ。」
祐一
「何でだ?」
あゆ
「舞さんの写真を撮ってコンテストに出そうと思うんだ。モデルがいいからきっといい線行くと思うよ。」
祐一
「その前に、お前の写真の腕は大丈夫なのか?」
あゆ
「練習しておくから大丈夫だよ。」

祐一
「そうそう、あの時、あゆに渡そうと思っていたんだけど…」

俺はあのとき渡せなかったカチューシャを取り出した。

あゆ
「かわいいカチューシャだね。」
祐一
「要るか?」
あゆ
「うーん、せっかくだけどサイズが合わないからいいよ。」
祐一
「そうか。」
あゆ
「知り合いの小学生くらいの女の子か、祐一君達に女の子が生まれたら、その子にあげたらいいんじゃないかな?」
「…」(黙ってあゆにチョップする)
あゆ
「うぐっ、びっくりした。」
祐一
「舞、何を照れているんだ?」
「…」(黙って祐一にチョップする)
祐一
「俺達もう…」
「…」(黙って祐一にチョップする)
祐一
「わかった、もう止める。」

あゆ
「これ、斉藤さんが拾ってきたんだよね。」
祐一
「ああ。」
あゆ
「…斉藤さんに何かお礼しなきゃね、みんなここにいられるんだから。」
祐一
「そうだな。」
「…」(黙って頷く)

あゆ
「そうだ、斉藤さんに女の子が生まれたらさっきのカチューシャをプレゼントしたらいいんじゃないかな。」
祐一
「何でだ?」
あゆ
「そうすれば、ボクたちを助けた事を自慢できるよね。」
祐一
「あいつは、そんなこと自慢するような奴じゃないぞ。」
「…、確かに。」
あゆ
「そうなんだ、じゃまた何か考えようよ。」
祐一
「ああ」
「…」(黙って頷く)

あゆ
「それじゃ、もう時間だから行くね」
祐一
「ああ」
あゆ
「祐一君、さっきのお願い、忘れてないよね。」
祐一
「ああ、じゃあ元気でな」

俺は照れくさいのを我慢して精一杯の笑顔を見せた。

「…じゃ、また。」

舞は片手を挙げて見せた。

あゆ
「うんっ、ばいばい。」

そういうと、あゆは手をブンブン振りながら改札を抜けていった。


第六幕:卒業式


学校廊下/BGM:雪の少女

名雪
「祐一、一緒に帰ろうよ。」
祐一
「今日は約束があるからだめだ。」
名雪
「残念。新学期からは一緒に住めなくなるから、今日くらい一緒に帰ろうと思ったのに。」
祐一
「あきらめてくれ。」
名雪
「また、ふられちゃったよ。あっ斉藤君だ。」
祐一
「ああ、そうだな。」
名雪
「何か、あの時みたい。斉藤君、紙袋持ってるし。」

名雪の嫌そうな視線の先には、紙袋を持った斉藤がいる。が、こちらを一瞥すると、そのまま通り過ぎようとした。

祐一
「よぉ、斉藤。」
斉藤
「はい?」
祐一
「もしかして、女の子へのプレゼントか?」
斉藤
「は?」
祐一
「その紙袋。」
斉藤
「いえ、資料ですが何か?」
祐一
「ノリが悪いな。」
斉藤
「?」
名雪
「ごめんね、祐一ったらすっかり浮かれちゃってて。」
斉藤
「浮かれてるといいますと?」
名雪
「祐一は今度から…」

いとこの家住んでいるのならまだしも、さすがに舞と佐祐理さんと一緒に暮らすということが知られてはまずい。

祐一
「あー、何でもない。何でもないよな、名雪。」
斉藤
「ええっと何でしたっけ?…確か倉田さんから…」
祐一
「あー、何でもない。何でもないよな、斉藤。」

とっさにごまかそうとしてしまったが、斉藤まで俺達が一緒に暮らす事を知っているはずはなかった。

斉藤
「?」
名雪
「祐一、ごまかしてる?」
祐一
「ぜんぜんそんなことないぞ。」
斉藤
「多分、無駄な抵抗だと思います。相沢さん。倉田さんの話を聞いていたのは私だけではありませんから。」
祐一
「佐祐理さんが…」
名雪
「なんだ、斉藤君も知ってたんだ。」
斉藤
「えぇ。これから、川澄さんと倉田さんと3人で生活するそうですね。」
祐一
「ばれたら仕方ないな。こうなったら学校中に言いふらしてやる。」
名雪
「え〜、そこまでする必要ないよ〜。」
斉藤
「北川さんに言えば、学年中にはあっという間に広まりますよ。それと、水瀬さんに陸上部の後輩に頼んでその話を広めてもらえば、下級生達にも広まりますよね。」
名雪
「え〜、わたしそんなことしないよ〜。」

斉藤は意外とノリが良いことが分かった。そこで前から気になっていたことを思い切って聞いてみる事にした。

祐一
「そういえば、お前の話し方って変わってるよな。同級生をさん付けで呼ぶなんて。」
名雪
「あ、そういえばそうだね。わたしも気になってたけど。」

斉藤は、困惑したような表情になった。


学校廊下/BGM:残光

斉藤
「まあ…、…そうですか。あの事件の後、街の人たちや議員の先生と色々やりあっているうちに、こういう話し方をする癖がついたのかもしれません。」
祐一
「そうか。色々大変だったな。」
斉藤
「でも、あの事件は私にとって悪い事ばかりじゃなかったです。感謝状を貰いましたから。偶然相沢さん達を見つけて通報しただけですけど、それでも私の事を評価してくれる人も居るんだなと思えるようになりましたから。」
祐一
「偶然か。そういえば、お前あの森にはよく行ってたのか?」
斉藤
「この街にいるときは、空いてる時間はいつもあの森にいましたから。」
祐一
「珍しいな。普通は暇なときは自分の家にいるか、いろんな所で友達と遊んでないか?」
斉藤
「えぇ、珍しいでしょうね。私は小学校に入る前くらいの時期に他の街から引っ越してきたんですけど、あの事件の頃までは成績が悪くて、友達も居なくて、家でも学校でも周り中から冷たくあしらわれていましたので、私はみんなの近くに居てはいけない人間なのではないかと思っていました。だからあの森が私の居場所だったんです。でも、私の事をちゃんと認めてくれる人も居るんだなと思ったら、その頃から将来のことを前向きに考えられるようになりました。だから今ここに居られるんです。」
祐一
「…」

俺は踏み込んではいけない領域を侵してしまったような気がした。

名雪
「…知らなかったよ。」

ぽつりと漏らした。

斉藤
「水瀬さんが知らないのは当然です。こんなこと、誰にも言わなかったんですから。」
祐一
「変な事聞いて、悪かったな。」
斉藤
「いえ、私が勝手に言っただけですから。」

斉藤
「よく考えてみれば、月宮さんは私にとっての恩人なんですよね。」
祐一
「…?」
斉藤
「極論すれば、月宮さんが木から転落した事が発端となって、私が今ここにいられるんですから。あの事件がなかったら今頃どうなっていたか分かりません。」
祐一
「…そうか」

俺を絶望に追いやり、この街から遠ざけた出来事は、斉藤にとっては将来への望みを得ることになった大きな転機だったのだろう。

斉藤
「…非常に奇妙な事を思いついたんですが…」
祐一
「何だ?」
斉藤
「もしかしたら、私も、彼女達のように相沢さんがこの街に帰ってくるのを待っていたのかもしれません。」
祐一
「何でだ?」
斉藤
「今言った事を月宮さんに伝えてほしかったのと、今更言っても仕方が無いことですが、あのとき、あなたに伝えられなかった事があったからだと思います。」
祐一
「伝えられなかった事っていうのを聞かせてくれないか?」
斉藤
「もう、情報としての価値はありませんよ?」
祐一
「ああ。でも憶えている事だけでも教えてくれないか。」
斉藤
「じゃあちょっと思い出してみましょう。ええっと…」
「君が抱きかかえていた女の子は病院に搬送された。  それから現場に落ちていた袋を持ってきたので、君ものであれば受け取って欲しい。  もし女の子のものであれば渡して欲しい。  あと、警察、消防関係者と病院の関係者が君の事を探しているので名乗り出て欲しい。  それから、万一の事があったら、そのときは事実を受け入れて欲しい。  ただ、担当医がベストを尽くすと約束してくれているので、  まだ希望は捨てないでいて欲しい。」

学校廊下/BGM:雪の少女

斉藤
「…なんか要求ばかりでしたね。」
祐一
「そうだな。でも、あの時、聞いていれば…」
名雪
「雪うさぎを壊さなかった?」
祐一
「それはどうか…」
名雪
「ひどいよー」
祐一
「確かにひどいな。俺はひどい奴だから。っていきなり話に入ってくるな。」
名雪
「ずっといたよ〜。私も、斉藤君が今言った事を聞いていれば、祐一に告白なんかしなかったんだよ。」
祐一
「何でだ?」
名雪
「祐一に好きな子がいるんだったら、告白なんかしないよ。」
祐一
「あきらめちゃだめだな。そういう相手にこそ果敢にアタックして奪い取らないと。」
名雪
「うー…」
斉藤
「まるでメロドラマですね。」
祐一
「そうだ。名雪、略奪愛だ。メロドラマを実体験できるぞ。」
名雪
「そんなの無理だよ〜」
祐一
「あきらめるな、がんばれ名雪。」
名雪
「えー、さっきはあきらめろと言ったのに無茶苦茶だよ〜」
祐一
「そうだったか。」
名雪
「そうだよ。」
斉藤
「そういえば、雪うさぎを壊したというのは?」

俺達は斉藤の突然の突っ込みに凍り付いてしまった。

名雪
「…」
祐一
「…、実は…」

俺が、あの事件の後、名雪が作った雪うさぎを壊した事を話した。

斉藤
「…、ひどいですね。」
祐一
「ああ。」
名雪
「でも、しょうがないよ。」
斉藤
「…、そうですか…」

斉藤は何かに気付いたように言った。

斉藤
「今の話を聞いて、たいやき屋台のご主人が、なぜあの木を伐る話を言い出した理由が何となく分かった気がします。ご主人は、あの冬、毎日のようにあなた達二人がたいやきを買いに来るのを楽しみに待っていたのかもしれません。その二人を襲った悲劇を思い起こさせるような存在だったあの木を伐ることで、事故の記憶を消し去りたかったのでしょう。あなたが雪ウサギを壊したときのように。倉田先生が木を伐る事に賛成したのも、たいやき屋さんに同情してしまったためなのでしょう。今度、倉田先生と先代のたいやき屋さんに直接聞いてみたいと思います。」
祐一
「でも、喧嘩したんじゃ…」
斉藤
「月宮さんも回復した事ですし、この辺で手打ちできたらいいなと思っています。」
名雪
「そうだね、仲直りできるといいね。」
斉藤
「えぇ」

俺は、斉藤の言葉に違和感を覚えていた。

祐一
「倉田先生…?」
斉藤
「えぇ議員の倉田先生です。」
祐一
「佐祐理さんのお父さんも議員だと聞いてるけど、佐祐理さんのお父さんか?」
斉藤
「いえ、知らないです。…と思ったんですが、このあたりには倉田という議員の先生は一人しかいませんね。」
祐一
「おまえが森の中で言ってた、議員のお嬢さんって佐祐理さんじゃないか?」
斉藤
「あ、…」

今度は俺と斉藤が凍り付いてしまった。

俺にはいつも周りを和ませる雰囲気を持っている佐祐理さんに、弟を死に至らしめてしまったというつらい過去があったとは想像もできなかった。つらい出来事を乗り越えたからこそ周りを和ませる力を得たのだろうか?

名雪
「どうしたの、祐一も斉藤君も、祐一は約束があるんでしょ?」

俺達は名雪の突っ込みで我にかえる事が出来た。

祐一
「ああ、舞たちと動物園に行くんだ。」
斉藤
「卒業生の方はもう帰り始めているようですが、こんな所に居ていいんですか?」
祐一
「あっ、じゃあな。」
斉藤
「えぇ、それでは。」
名雪
「祐一」
祐一
「何だ?」
名雪
「おみやげ買ってきてね」
祐一
「ああ、…」

返事したのはいいが、動物園のみやげ…? 俺には何も思いつかなかった。

名雪
「どうしたの?、祐一。女の子を待たせちゃだめだよ。」
祐一
「なあ、名雪、動物園のみやげって何だ?」
名雪
「あ、そういえばなんだろうね。」
祐一
「…」
名雪
「…」
祐一
「…」
名雪
「…」
祐一
「…」
名雪
「…」
斉藤
「標本とかじゃないですか?」
名雪
「そんなのいやだよ」
斉藤
「じゃあそうですね、ぬいぐるみか何かでも買って来たらいいんじゃないですか?」
祐一
「そうだな。」
名雪
「かわいいの買って来てね。」
祐一
「ああ。じゃあな。」
名雪
「うんっ。」

そして俺は、二人の待つ場所へと急いだ。


名雪
「ねぇ、斉藤君、甘いもの好き?」
斉藤
「嫌いじゃないですよ。」
名雪
「じゃあさ、これから百花屋に行こうよ。」
斉藤
「なんでまた。」
名雪
「たまにはゆっくりお話してみたかったんだよ。」
斉藤
「そうですか、別に構いませんよ。」
名雪
「じゃ、決まりっ。」


筆者による解説/BGM:朝影

以下では、SSという言葉をある既存の物語の世界を基に作成した物語(二次創作)と定義して使用する。

総論

本SSは、先頃お買い得版が発売されたギャルゲーのKANONの世界を元にして、ゲーム本編では語られなかった事項を補間(interpolate)するような内容のシナリオ風二次創作である。ゲームそのものとしてはやや紙芝居っぽいのだが、ゲームのシナリオで示されている世界観が非常に面白く、またゲーム本編中で語られない謎もあってプレイヤーが想像力を働かせる余地が非常に多く面白い作品に仕上がっているといえる。

本SSではゲーム本編では語られない、舞の決戦の日から卒業式までの間の話と、あゆが街から去った後について筆者なりの解釈に基づいて補間することを試みた。

本SSは以下の2つのコンセプトに基づいて物語が作られている。

  1. 祐一が街で出会ったあゆの正体は祐一自身が作り出した幻で、祐一の強い願いが作り出した幻のあゆが消えない限り本物のあゆの意識が戻る事はなく、祐一が街で出会ったあゆが祐一のもとを去るまで本物のあゆは回復しない。
  2. 舞と過去に接し、奇跡を拒絶しなかった事で、祐一にも奇跡を起こす力が得られた。そのことによって、幻のあゆが作り出された。

また、SSの構成から分かるように、あゆの転落事故が第3者-斉藤によって通報され、さらに舞の事件もまた斉藤によって通報された、という話にすることで、過去の出来事が形を変えて繰り返されるというKANONの世界観に適合させている。 さらに、オリジナルキャラクタの斉藤にも暗い背景を持たせる事によって、全体的にKANONの世界に合った雰囲気を出すようにした。

問題点など

本SSの問題点と考えられるのは以下の事項である。

また、本SS中で中途半端な扱いになっている佐祐理及び元たいやき屋のエピソードは別途作成することを考えている。

最後に、名雪が斉藤を百花屋に誘う場面があるが、これは本SS中での名雪の扱いがあまりにも酷いと考えられるため、一応名雪救済のため配慮したものである。

重要人物の選定

本SSでの鍵となる役回りを受け持つのに適当な登場人物−あゆ達を森で発見し、さらに夜の学校で舞達を発見する可能性があり、さらに水瀬家で事件について証言する可能性がある−を検討したが、ゲーム本編に登場する以下のいずれの人物にも当てはまらないため、ゲームのはじめに名前だけ登場する斉藤という人物の、祐一のクラスメートであることのみという粗い設定を流用して、オリジナルキャラクタとしている。

北川潤
普通の少年であり、あゆ達を森で発見する可能性は低く、夜の学校で舞達を発見することはまず考えられない。
美坂香里
あゆ達を森で発見する可能性は低いが、夜の学校で舞達を発見する可能性はある。病気の妹のことで頭が一杯なので、あゆ達を発見したとしても、そのときの事を覚えていられるようには考えられない。
天野美汐
あゆ達を森で発見する可能性はあるが、夜の学校で舞達を発見することはまず考えられない。また、本編中で表現されている性格から、水瀬家で事件について証言することも考えられない。

登場人物及び設定

原作の登場人物

相沢 祐一
舞シナリオの主人公。
川澄 舞
剣術が得意な高校3年生。
月宮 あゆ
祐一の初恋の相手。7年間意識不明だった。
水瀬 名雪
祐一のいとこ。かつて祐一にふられた。
倉田 佐祐理
暗い過去を持つ川澄舞の親友。
水瀬 秋子
料理が得意な水瀬家の当主。

本SS用に設定した登場人物

斉藤
祐一のクラスメート。何かの部活動をしている。
看護師
祐一が収容された処置室担当の看護師。
受付係員
祐一が月宮あゆについて尋ねた係員。
たいやき屋(現役)
元たいやき屋から店を受け継いだ人物。
警官
警察署へ祐一と斉藤を案内する。この話の最重要人物。

特殊設定

本SSでは救われないゲーム本編の登場人物

本SSで救われないゲーム本編の登場人物は以下の通りである。以下の登場人物が救われる話もあるようなので、そのような話が好みの方は別途参照されたい。

沢渡真琴
祐一に看取られることなく、いつの間にか消失。
天野美汐
性格が暗いまま。
美坂栞
生死不明。
美坂香里
妹の問題は解決せず?