この文書は、keyの作品であるKanonのシナリオを基にした二次創作です。 また、第二回KanonSSこんぺに提出した文書のフォーマットを加工し、内容を一部修正したものです。
死の淵から甦った栞は、学校にやってきた。
その本来の目的は、学食のアイスクリームを買い占めることでもなく、中庭で祐一と抱き合って泣く事でもなく、進級についての相談だった。
休学中に復学に向けて勉学に励んでいたこともあって、1月末に学校に来ているときも体育以外は皆の進度とあまり変わらずに授業を理解できるレベルに達していた。そこで、復学した3月末の進級試験(追試)を受けることができるかどうか相談した。家族と本人、医師と教師らによる話し合いの末、学科試験(追試)は受けられることになった。
そして、出席日数不足にもかかわらず、他の成績不振の生徒を押し退けるかの如く、トップクラスの成績を獲得して合格したので、2年への進級が認められた。
夏休みを控えた昼下がりの廊下を一人歩く栞、彼女はある課題を抱えていた。
彼女は復学後、美術部に入部したが2年生からの入部とあって、一年生と同じ扱いは受けられなかった。何のことは無い、秋の文化祭に作品を提出する事が課せられていたのだ。
体育系の部活とは異なり、3年生の引退は文化祭後であったが、それでも美大志願でない3年生は受験勉強があるので稼働率が下がる。活動の中核となるのは、やはり2年生であった。
彼女の画才を見た部長は、他の分野を勧めたが、栞は具象画、それも人物画を描きたいといって譲らなかった。
彼女が死線を越えて復学し、出席日数不足にもかかわらずトップクラスの成績で進級試験に合格したことは、校内でも良く知られており、意志と根性の強さだけは知れ渡っていた。そこで、部長は一計を案じ、栞に対して夏休みの中間にある登校日までに一定レベルの作品を仕上げる事を条件に、文化祭で人物画を出品することを認めることとした。
いわば、部長は栞の意志と根性の強さに賭けた訳である。
入部当初の段階では、一年生に混じって人物像のデッサンに励んでいたが、当然それで作品と認められるはずも無く、実際にモデルを探して描くことが要求された。しかし、都合よくモデルを頼めるような相手もいなかった。
恋人の祐一や姉の香里ら3年生は専ら受験対策に励んでおり、名雪はインターハイに向けて猛練習中、両親は実績が実績だけに嫌がり、秋子も仕事の都合が合わず、最後の頼みの綱のあゆは行方不明であった。
同級生達も、初めて見た栞の絵のインパクトの強さに怖気づいてしまい誰一人として、モデルになるという者は居なかった。
栞の悩みは深かったが、持前の意志と根性でモデルを探し続けていた。
ある教室の開け放たれた扉から、窓際の席で一人読書をしている女生徒の姿が見えた。憂いを含んだ表情と窓からの夏の日差し、そして風に揺れるカーテン。
非常に絵になる情景だった。
…
「お邪魔します」
と、栞は一言断ってから教室に入り、
「すいません、そのままで構いませんからモデルになっていただけませんか?」
と女生徒に声をかけた。
「お好きなようにしてください」
女生徒は本から目を離す事も無く、消え入りそうな声で答えた。
「それでは描かせてもらいます」
栞はそういって、誕生日プレゼントに貰ったスケッチブックとコンテを取り出し描き始めた。
延々と描く事数時間、いい加減日が傾いてきた頃、
「あの、私もう家に帰りたいのですが気が済みましたか」
と女生徒に声を掛けられ、ハッとする栞。
描く事に夢中になって時間が経つのも忘れていた。
「お引止めして済みませんでした」
ペコリとお辞儀をする栞。
「いえ、丁度、読み終わったところですから」
女生徒は気にする風でもなかった。
「あ、あの私、美術部の美坂栞といいます。もし良かったら、またモデルをお願いできますか?」
女生徒にとっては聞き覚えのある名前だった。そう、入学式の日に声を掛けられて以来一度も会っていない生徒。
「美坂さんさえ良ければ私は構いませんよ、放課後はいつも暇ですから、私は天野美汐と言います、入学式の時に声を掛けてくれましたよね、美坂さん」
彼女は栞が病に倒れる直前、初めて声を掛けた生徒だった。
「あ、そういえばそうですね。何だかすごい偶然ですね」
「そうですね、では私はこれで」
「あ、ちょっと待って下さい、デッサンの出来栄えを見てもらえませんか?」
「構いませんけど」
栞はこれが一番いいと思えるデッサン画を見せた。
「私って、こんなに美人でしたか?」
栞が選んだ絵は、率直に言って、夏らしさと、天野の長所である清楚さが表現されていた。
「わ、そんな風に言ってもらえるなんて初めてです」
栞は素直に喜びの声を上げた。
黙りこむ天野。『もしかして、美坂さんって絵が下手なんじゃ』そんな懸念が頭の中を駆け巡る。
「どうしたんですか?」
黙りこむ天野の顔を心配そうに覗き込む栞。
それに気付いた天野。
「普段は、もっと不細工に描いてるんですか?」
思ったことをストレートに言う所が、天野の長所でもあり短所でもあった。
「え?、そんなこと無いですよ。誰も私の才能を認めてくれないだけです」
不満そうにいう栞。
「そうですね、かの有名なムンクの絵も、モデル本人には似ていないといわれるけど、敵対する人からは良く似ていると言われるそうですから」
「うー、酷いです」
栞の屈託の無い反応を見ていると、天野自身が閉ざした心まで開かれて行くように感じた。
「美坂さん、あなたにはきっと才能があるんですよ。でも、これまでは死線を乗り越えることに精一杯で、絵に注げるエネルギーが十分ではなかったんじゃないでしょうか?」
栞の顔から一瞬表情が消えたが、すぐに穏やかな表情に戻ってこう言った。
「起こらないはずの奇跡が起きたんですよ、だから天野さんの言葉を信じて絵の練習に励みます」
続けてこう言った。
「文化祭までの間で良いんですけど、天野さんにも協力してもらって良いですか?」
「暇ですから構いませんけど」
屈託の無い表情で栞はこう言った。
「よかったです、実は絵を贈りたい人が居るんです。天野さんがモデルになってくれれば、きっと満足してもらえる絵が描けます」
「そんなことが有り得るんでしょうか?」
天野は聞いた。もっともな疑問だった。
栞の答えは、
「多分、そうだと思います、上手に描けたのは天野さんが初めてですから」
天野の懸念は本物だった。
後日、部長にデッサン画を見せた栞は、登校日までにデッサン画を複製して水彩と油彩の2種類で着色してくるように言われた。
栞は登校日に部長に着色した絵を見せた。しかし、絵の具のはみ出しは未だ完全には解消されていなかった。
部長は決断を下した。人物画を出してよい、但し油彩画またはコンテ画とすることが条件となった。
放課後、栞は再び天野の教室を訪れたが、既に帰った後だった。
…
終業式が終わり、校内の雰囲気は開放感に満ちていた。
終業式から数日後、夏休みに受験勉強の息抜きにと、祐一と二人で森へ行った時のこと、人気の無い開けた場所で二人は肌を合わせて強く抱きあった。
その時の、肌の輝き、そして森の木々が作り出す陰影の美しさに互いに感動していた。
帰り道、この感動を、形にして表したいという栞。祐一はこう言った。
「部長に絵が認められたんだったら、絵に描いてみればいいんじゃないか?」
「そうですね、上手に描けたら、文化祭に出して、それから祐一さんの合格祝いにプレゼントします」
「合格しなかったら?」
「うーん、そうですね、合格するまでお預けです」
そんな談笑をしながら二人は夕暮れの森を後にした。
始業式が終わると早速、栞は天野の教室を訪れ、モデルになってくれるように依頼した。
「天野さん、お願いがあるんですけど」
「何でしょうか?」
「また、モデルをお願いできますか?」
「ええ、構いませんよ」
「それから、長袖、長ズボンで来てもらえないでしょうか?」
「何でです?」
「森の中でスケッチしたいので、ロケ現場行く間にモデルさんの肌に傷がつかないようにですね、ちゃんと防御を固めておきたいんです。それからロケ現場は祐一さんに連れて行ってもらった森の中のとても雰囲気のいい場所があってですね、そうそう祐一さんは…」
栞が夢中になって話している間、天野はぞわっとするものを感じた『まさかヌードになれというんじゃ、美坂さんちょっと天然な所があるから…』
「あの、美坂さん。お話の途中で悪いんですけど、まさか私に脱いでもらおうとか考えてないですよね」
「あ、分かっちゃいました?」
黙って立ち去ろうとする天野に、栞は慌てて声をかけた。
「ヌードになってもらうわけじゃないんです。ちゃんと衣装は用意しますから」
変な事を教室で言うものだから、栞に注目が集まる。
一人の男子生徒が口走った言葉、
「天野のヌードなんて、ロリコン趣味もいい所だよな」
「そんなんじゃありません」
声を荒げて栞は反駁した。
「おお怖、さすが女帝の妹だぜ」
そんな捨て台詞を無視して、心無い男子生徒の言葉を聞いて飛び出して行った天野を追った。
「ごめんなさい、みんなの前で変なこと言って。ただ、印象派の絵みたいな感じにしたいんです」
しばらく無言だった天野は言った。
「夏休み前に言いましたよね、文化祭までは協力するって。私は嘘をつきませんし、どんな絵が出来上がるか興味があります。だから協力します」
「あ、ありがとうございます」
栞はペコリと頭を下げた。
「それから美坂さん、さっきのような話は人気が少ないところでするものです」
「そ、そうですね」
栞はまたもペコリと頭を下げた。
「そういえば、絵を贈りたい相手というのはさっきあなたが言ってた祐一さんという方ですか?」
栞はちょっと顔が赤くなるのを感じた。
「はい。祐一さんは今年受験で、来年にはもうこの街にいないかも知れないんです。だから、祐一さんに貰ったスケッチブックでいい作品を描いて贈りたいんです。私に希望を与えてくれた恩返しに」
自殺志願者だった栞が奇跡の生還を果たした事は、さっきの惚気話で天野も知っていた。
「生きる希望を与えてくれた命の恩人への恩返しですね」
「いえ、それだけじゃないです。彼氏へのプレゼントに自分の作品を贈るって素敵じゃないですか」
天野の中では『命の恩人で彼氏、なら何故自画像を贈らないのだろう』そんな思考が始まっていた。そして聞いた。
「何故自画像じゃないんですか?」
栞は、『あ、言われてみればそうかも』という表情になった、そんな栞を見て天野は表情かめまぐるしく変わる面白い女の子だなと感じていた。
「言われてみればそうですよね、でも鏡を見ながら描いたら左右が反転しちゃうじゃないですか。それに絵の中の私に浮気されるのも嫌です」
この発言に、天野は返すべき言葉を持っていなかった。と同時に恋する少女の不思議さを感じていた。
「私には理解できないですけど、そういうものなんですか?」
「そうですよ、恋愛小説とか漫画を読めば何となく気持ちが分かりませんか?」
「私はそういう本をあまり読まないのでよく分かりません」
「そういえば、夏休み前に読んでいた本は何だったんですか?」
「トム・クランシーの小説です」
「聞いた事が無い作家さんですね」
「そうですか、今度貸してあげましょうか?」
「はい」
そして、その日は何事も無かったように過ぎて行った。
「お待たせしました」
校門前に現れた天野は、開口一番栞にそう告げた。
約束の時間まで未だ余裕があるはずだったが、色々な道具を抱えた栞は汗まみれになって立っていた。
「来るのが遅いですよ。普通は約束の30分前には来ているものです」
天野は一瞬自分の耳を疑った。が、栞の天然ぶりに思わず吹き出してしまった。
「笑うなんて酷いです」
責める栞に対して、
「ごめんなさい。いかにも美坂さんらしいなと思ったものでつい」
天野はまだにやけた顔で答えた。
天野は真顔に戻ると、
「この道の途中から分かれる小道に入ればいいんですね」
と、栞に確認した。
そして、栞に聞いた。
「着替える場所なんてあるんですか?」
「きっと誰も来ませんから大丈夫ですよ」
天野は、約束した事を後悔した。つまり、森の中で着替えろという事だったのだ。
「それに、誰かが来たら私が身を挺してガードします」
そう行って、レジャーシートを広げた。
「森の中でレジャーシートを羽織ってたら、変な人じゃないですか?」
もっともな疑問だった。
「大丈夫です、ちゃんと事情を説明して後ろを向いててもらいますから」
栞は、握りこぶしを胸の前に当てて力強く力説し、森へ向かった。
天野は不安を抱えたまま栞について行った。
…
ロケ場所に着いた二人。
栞はこう言い放った。
「これに着替えて、下着を取って下さい」
天野は自分の耳を再び疑った。
シースルーのブラウスとスカートを2枚重ね着して下着を取れということである。
「見えないですよね」
不安げに聞く天野。
「大丈夫です、祐一さんとお姉ちゃんに確かめてもらいましたから」
まあ、恋人の言う事ははあてにならないが、品行方正といわれる姉の香里が確認したなら大丈夫だろうとは思いつつも、不安げに着替える天野。
「よく似合っています。まるで森の妖精のようです」
栞はそう言った。
「そういえば美坂さん、何で私に下着を取れと言ったんですか?」
当然の疑問を天野は聞いた。
「ええとですね、お姉ちゃんが言うには反射率が変わったりするから下着を着けている方が、エッチに見えるんだそうです」
なるほど、と天野は納得した。夏服の下に透けて見えるブラジャーは確かにエッチだ。
「じゃ、セッティングしますからしばらく待ってくださいね」
栞に言われるまま、しばらく待った。
巨大な切り株にレジャーシートが敷かれ、何処から持ってきたのか分からないが、栞用の椅子とイーゼル、そしてスケッチブックがセッティングされた。
栞の手際のよさに感心して見ていると、
「準備できました。これからポーズをとってもらいますので、よろしくお願いします」
と、栞はペコリと頭を下げた。つられて天野も
「よろしくお願いします」
と、頭を下げた。
「何だか初対面みたいですね」
栞が言う。
「そうですね」
と天野が答える。
いよいよスケッチが始まる、切り株に腰掛けて、様々なポーズを試した結果、斜め後ろ向きに座って、栞の方を振り向くというちょっと疲れる姿勢をとることになった。
栞は数枚のデッサンと彩色スケッチを仕上げ、ちょっと休憩をする事になった。
何処からとも無く、栞はアイスクリームと飲み物を持ち出した。
栞は、天野と小学校が違っていたせいか、何でこんな巨大な切り株があるのか分からなかった。
「実は、この木から小学校の時の上級生が落ちたんです。そのせいで伐られました。知っていましたか?」
天野の言葉に、ちょっと恐る恐る聞いてみた。
「いえ、全然。その子は助かったんですか?」
「一命は取り留めたみたいですが、その後の事は分かりません」
秋の日はつるべ落としといわれるように、日が傾いてきた。
「続きを始めないと日が暮れちゃいますよ」
栞は天野に促され、スケッチを再開した。
光の具合も良い感じになってきたが、夜になったら、落ちた子の幽霊が出るんじゃないかという恐怖心から、なかなか筆が進まなかった。
そこへ、何処からとも無く子狐が現れ、天野にじゃれ付いてきた。
「どうしましょう美坂さん」
天野は困惑していた。
まさしく狐色に輝く子狐の姿は、夕日に照らされて輝く天野の衣装に良く似合っているように栞には感じられた。
「天野さん、子狐を抱いてみてもらえませんか」
その言葉に、天野は両手を広げ
「おいで」
と言った。
そして子狐を片手で抱きかかえながら、頭を撫でていた。
「すごく、絵になっています。しばらくそうしていてください」
栞はそういうと、スケッチブックの新たなページにこの様子を描き込んでいった。
まるで神がかり的に、何枚ものスケッチを作っていった。
そうこうしている内に夜になってしまった。
「美坂さん、もう夜です」
「言われなくても分かってます」
幽霊が出るんじゃないかという恐怖心に駆られて、栞が広げた画材やレジャーシートを片付けている間も、天野は子狐を抱いていた。まるで、子狐を抱いていると安心しているように。
一通り片付けが終わり、天野を着替えさせようとしたとき、栞は森の中に光る物体を見つけた。
「きゃ、人魂」
栞が、素っ頓狂な声を上げた。
「違います、きっとこの子を迎えに来た親狐です」
天野は落ち着き払った声でそういうと、抱きかかえていた子狐を地面に下ろした。
子狐は、天野のスカートをくわえて、親狐の方へ引っ張ろうとした。まるで引き合わせようとしているかのように。
天野は抵抗する事も無く、親狐へと近づいて行った。
「あ、天野さん」
栞が呼び止めようとするが、
「大丈夫ですよ」
と逆に手招きされてしまった。
栞は恐る恐る近づいて行くと、子狐は親狐にじゃれ付いていた。
その様子をしゃがんで見ている、天野の表情はどこか優しげだった。
そのとき、栞は何故、何枚もスケッチを描いたのか理解した。子狐を抱いている間の天野の表情が、まるで慈母のようだったことに気付いた。
「おいで」
天野は両手を広げて、親狐を抱きかかえた。
親狐は、天野の匂いを嗅いでいるように見えた。
「美坂さん、妖狐に出会ったことはありますか」
天野は聞いた。
「話にしか聞いた事はありませんけど、人に禍をもたらすという狐ですか?」
原住民の栞もこの話は知っていた。
「昔話ではそうなっていますが、この子たちはそんなに悪い子達じゃありません」
天野はそう答えた。
「それに、この子たちは妖孤の命を受け継いでいるようです」
栞の頭の中では?マークが渦巻いていた。
そして、親狐は天野の手からするりと抜け出すと、まるでついてくるようにといわんばかりの態度を見せた。
「行きましょう、美坂さん」
天野は言った。
「えっ、行くってどこへですか?」
栞にしてみれば当然の疑問だった。
「この子たちについて行くんです」
天野は平然と答えた。そして、
「この子たちについて行けば、ものみの丘に出るはずです。そうすれば、暗い森の中の細道を辿って行くよりずっと簡単に町に戻れるでしょう」
と付け加えた。
「それもそうですね」
栞は答えた。天野には内緒だったが、実は栞は懐中電灯も地図もコンパスも持ってきていなかったのである。
栞が決心したのを見透かしたように親狐は歩き出した。
…
暗い森の中を、狐の姿を追って歩く少女二人、一人はシースルーの衣装を、もう一人は絵の具の汚れがついたままのエプロンをしたままの格好で、傍から見れば滑稽だが、彼女達は狐を見失わないように必死だった。
…
やがて、樹林の隙間から一面の草原に覆われたものみの丘が見え始めた。
「もうすぐ、ものみの丘ですね」
栞は安心したように言った。
「そうですね」
天野の声はさっきよりも沈んだように聞こえた。
森の中を抜け出しさらに、歩みを進めてゆく。
栞は心なしか、天野のペースが落ちているように感じた。
「大丈夫ですか、天野さん?」
栞の問いかけに、
「大丈夫です」
とさっきよりもさらに沈んだ声で答えた。
栞は天野のことを心配しているうちに、狐を見失った事に気付いた。
「どうしましょう、天野さん、狐がどこかへ行っちゃいました」
「きっとあの子達のねぐらに帰ったんですよ」
事も無げに答える天野。
「ここから先は私に任せてください」
天野はそう言って、栞の前を歩いていった。
…
草原の中をどのくらい歩いたか見当もつかないほど、森から離れた頃、草原の中の開けた一角に出た。
「ここから町まではそんなにありません」
天野は栞に言った。
「はあ、良かったです。でも天野さんってものみの丘に詳しいんですね」
「ええ、ここには楽しい思い出も、悲しい思い出も沢山積み重なっている場所ですから」
「すみません、変な事を聞いてしまって」
「いえ、いいんですよ。美坂さんが気にするようなことじゃありません。それより、しばらく町の夜景でも眺めませんか」
天野の提案に、歩き疲れていた栞はほっとしたように答えた。
「ええ、そうしましょう」
そして、何処から取り出したのか、折りたたみ椅子を広げて腰掛けた。
その時、栞はある重大なミスに気付いた。そう、天野のための椅子を用意していなかったのだ。
「ごめんなさい、天野さん。椅子が一つしか無いんですけど、掛けますか?」
「いえ、私はこうして風を感じていますから」
「すみません、ずっと立たせっ放しで」
「別に良いんですよ、私はいまあの子達と同じ風を感じていますから。それから、貸していただいた衣装をお返しします」
「あ、ありがとうございます」
何の疑問も無く受け取る栞。
…
草原を吹き渡る風が、天野の体毛を揺らしていた。
「風が気持ちいいです、あの子達もこんなふうに風を感じていたんでしょうね」
独り言のように呟く天野。
「あの子達…、ですか」
栞もまた独り言のように呟いた。
…
「ここから見える町の明かり一つひとつには人の温もりが込められているんだと思います。それをあの子達はどんな気持ちで眺めていたんでしょうね」
天野の問いに、栞はこう答えた。
「うーん、やっぱり人には人の、狐には狐の温もりがあるんだと思いますよ。だから野生の狐は特に何も感じないんじゃないでしょうか。もちろん人は町の明かりを見て感じる所はあると思いますけど」
栞は語った、病院の窓から見る町の明かりは、温もりから切り離されているように感じた事。退院して、商店街で寄り道して家に帰った時の明かりの温もり。町の明かりは人それぞれの置かれた立場によって変わって行くと感じている事。
そして今は、単純にきれいな夜景としてみている事。
天野は、栞の言葉に納得していたようだった。そして天野は問いかけた。
「あの子達をもし一度、人の温もりに触れさせて、野へ再び放り出す事は、あの子達にとってつらい事なのでしょうか」
「うーん、分かりませんね。狐の立場になってみないと。でもお姉ちゃんが言ってたんですけど、生き物にはそれぞれ適した生き方があるそうですから。一旦人に慣れてしまった動物を野生にかえすのは大変なことらしいですよ、野性をとり戻させるために何ヶ月もリハビリをするそうですから」
「そうなんですか」
「ええ、いきなり本来の生息環境に戻しても、そう簡単には生きて行けないらしいですから」
「そうだったんですか…、やっぱり、辛いんですね。あの子と同じ感覚を味わっていると、夜風の冷たさがよく分かります」
「えっ?」
ふと見ると、一糸纏わぬ姿で、全身が鳥肌状態のまま立ち尽くす天野が居た。
「あ、天野さん、服着て下さい」
栞は天野の下着と、上着を取り出した。
…
「すみません、お恥ずかしい所をお見せしてしまって」
「いえ。そういえば天野さん、野生動物を飼っていた事があるんですか?」
「ええ、昔、ものみの丘で怪我をした子狐を拾って、怪我が治るまで飼っていた事があるんです。でも、リハビリが必要だ何て事を知らなくて、そのままものみの丘へ帰したんです」
「もしかして、その狐が妖孤として現れたということですか?」
「はい、あの子に間違いありません」
「でも、いいじゃないですか、ちゃんと生き抜いたんですから。多分子作りをする機会もあったはずですし、天野さんにも会うことが出来た。その狐は幸運だったと思いますよ。生まれた狐の半数程度は半年で死んでしまうそうです」
「では、放って置いたら…」
「多分、他の生き物の栄養源になっていたでしょうね。それに天野さん、自分を責めてもそれは意味の無い事だと思います。天野さんは人間ですから狐にはなれません。人としての生を全うするしかないと思います」
栞は何故か饒舌だった。そして、
「だいぶ夜も更けて来ましたしそろそろ帰りましょう」
そう言って、天野を促した。昼用装備しか準備していない栞にとって、町の夜景も暗くなりつつある深夜のものみの丘は恐怖の対象になりつつあった。
そして、恐怖心からか饒舌な栞と対照的に黙って町への道を歩く天野の姿があった。
栞は、森のでスケッチを元に作品作りに取り掛かっていた。冗談半分に、本当はプロの画家に頼んだんじゃないかとからかう者もいたが、文化祭が近づいてくると皆真剣に作品作りに取り掛かっていた。
文化祭が近づくにつれて栞の悩みは深くなっていった。作品を祐一と天野に贈りたいと思い始めていたからである。
あるとき部長に相談してみた。
「部長、今の作品を二人の方に贈りたいんですけど、どうすればいいでしょうか?」
「美坂…、今はそんな場合じゃないだろ。お前の納得のいく作品に仕上げる事に集中しろよ。文化祭が始まったらその時相談に乗ってやるよ。だから今は、あの絵を仕上げる事に集中しろ」
「はい、では文化祭が始まったら相談に乗ってくれると約束してくれますね」
「ああ、約束する。だから今は原画に集中しろ」
「はい」
栞は元気よく答えた。
…
栞は、この絵は、奇跡の産物だと思っていた。いくつもの偶然が積み重なってこの絵を描くことが出来た。中でも祐一、そしてあゆとの出会いが自殺志願者だった自分を救ったことが最大の奇跡だと思っていた。
栞の作品は、夕日に輝く森を背景に、子狐を胸元に抱く慈母のような女性。これはこれで良い作品だと思う。しかし、何かを付け加えてみたかった。
それは、あゆのイメージだ。絵のタイトルは既に決まっている『森の女神』だ。
あゆのイメージ、それは笑い声、ダッフルコート、たいやき、そして羽根つきリュックサックだ。
この中で、明らかに絵柄に適合しそうなのは羽根だ。だが、新たな要素を付け加える事は絵そのもののバランスを崩しかねない。
栞の作品は概ね完成していた。そこでスパイのように他の部員の作品を見て回った。それは、何らかのヒントを得るためである。
そんな中、気になる作品を見つけた。どう見ても木の板によく分からない仕掛けと光ファイバーを急な角度のカーブをつけた形で曲げて取り付けただけの代物に『透明導波管を用いた蝶の表現』というタイトルのついた美大志望ではない3年生の作品だった。この作品は光ファイバーの端に赤、青、緑の3色の発光ダイオードを取り付け、各色のダイオードの明るさを変化させることにって生じる色の変化によって、躍動感を表すというインチキ臭い代物だった。
頭がクラクラしそうな説明書きを見ていると作者の3年生が現れ、要するに光ファイバを規格外の使い方で使うことで光線漏れを起こさせていると簡潔に説明してくれた。そして、
「どうなるか見てみる?」と言って、栞の前でデモをやって見せた。
デモの最中に光ファイバーの曲線部が白く輝いた時、栞の中で羽根のイメージが湧き上がった。
あゆの羽根のイメージと白く輝く光ファイバーのイメージが重なり合ったのである。
栞の作品には、不自然にならない程度の薄い白線を加えることで完成した。栞の作品を見た部長は、
「すごいよ美坂、入部したての頃の絵からは想像できないほどの出来栄えだ」 と驚嘆した。
「そうですか、ありがとうございます」
そう言って、栞はペコリと頭を下げた。
「それで、複製の件なんだが何種類か方法がある。まずは模写だ。だがこれにはいわずと知れた重大な欠点がある。美坂なら分かるな」
「はい、もの凄く時間がかかることですね」
「そうだ」
「だが、美坂が美大を受けるならやっておいて損はない」
栞は、そんな事を考えてもいなかったためか、間抜けな声で、
「はぁ〜」
と答えた。
そんな答えを聞いて、部長はずっこけそうになったが、
「もう一つは写真による複製だ。この方法は2種類あって、撮った写真そのもののプリントを複製とする方法と、写真原版からポスターのような印刷物にする方法がある。いずれも年数が経つと色が変化してしまうという問題はある、どの方法にするかは美坂が決めろ、以上だ」
と精一杯の優しさを発揮して、栞にヒントを与えた。
かつて栞の絵を見ていた者たちは皆一様に驚いていた。
そして、終了間際に現れた天野はこう言った。
「私って、こんな顔をしていましたか?」
栞は答えた。
「そうですよ。とってもいい表情でした。だから、この絵を作品として描く事に決めたんです」
栞は天野の反応を待っていた。
・・・
「アイスクリームでも食べに行きましょうか」
あまりにも、天野が無反応なので栞から声を掛けた。
「はい」
天野は素っ気無く答えた。
閉店間際の模擬店で買った、アイスクリームを食べながら栞は聞いた。
「もしかして、あの絵を見てショックを受けたんですか?」
天野は栞に向かってこう言った。
「いえ、わたしにもあんな表情になるときがあるんだなと驚いていたんです」
続けてこう言った。
「美坂さんのおかげでしょうか、それともあの子のおかげでしょうか?」
栞は言った。
「きっと、天野さん本来の表情だったんですよ。天野さんって普段無理してませんか?」
「えっ」
驚いたように天野は言った。
「だいぶ前にトム・クランシーの小説を貸してくれましたよね。あれって年頃の女の子が読むような本じゃないと思うんです。もっと自然体でいた方が天野さんの魅力が皆に伝わると思うんです。それに…もっと元気になれると思います。元気でいられるはずなのに、元気を出さないのはもったいないですよ」
栞はそう言った。
「そうですか…」
天野はそう言ったまま考え込んでしまった。
「役立たずかもしれないですけど、相談したいことがあったら、相手になりますよ」
栞はそう言った。
「では、考えがまとまったら相談させてください」
天野の答えに、栞は笑顔で答えた。
「いいですよ」
冬休みに入り、栞は祐一の部屋で、祐一と共に過ごしていた。
栞は祐一と肌を合わせて、半ばまどろんでいられるこんな時間が好きだった。
でももうすぐ、こうして過ごせることも無くなってしまうかも知れない。
そんな事を想いながら栞はいろいろな事を祐一と語り合った。
天野のこと、志望校のこと、そしてこれからの二人の事。
栞の高鳴っている鼓動を感じた祐一は、伸びてきた栞の髪の毛を撫で心配しなくて良いと言いった。
「俺の夢はお前と一緒の学校に入って、キャンパスで一緒にお昼ご飯を食べる事なんだ」
「うー、何だか茶化されてる気がします〜」
「全然、そんなことは無いぞ。これは俺の心からの願いなんだ」
「そう言ってくれると嬉しいです」
栞は祐一に覆いかぶさるように抱きついた。そして二人は軽く口付けを交わし、眠りについた。
…
祐一は出願先を決定するときに自身の学力では入れる学科と芸術系の学科が同じキャンパスにあることを条件として、香里や北川、名雪にも手伝ってもらっていた。
なかなか難しい問題だったが、解は得られた。
後は祐一が入れるように努力するのみという状況まで解決したのである。
…
新学期、昼休みの美術室には模写に励む栞の姿があった。祐一の全出願校には芸術学部があることを知り、天野に文化祭に出した作品の模写を贈ると決めたのであった。祐一と同じ学校に入れるように。
そんな栞を優しげな眼差しで見つめる天野の姿が廊下にあった。
「天野さん、早く行かないと遅れちゃうよ」
そんなクラスメートの声に促されて天野は美術室の前を離れた。