作:◆5KqBC89beU
そこは霧に満たされていた。視界は白く閉ざされて、どこを見ても変わらない。
(これは、夢)
自分が眠っていることを、淑芳は知覚する。自覚したまま、夢を見続ける。
数時間の睡眠でようやく回復した体調。慣れぬ術で異世界の宝具を使った影響。
制限された状態で全力の一撃を放った反動。目の前で想い人を殺された動揺。
記憶が蘇っていく。これまでの出来事を、娘は思い出していく。
(あの後、わたしは気を失って……)
ここには他者の姿がない。銀の瞳を持つ彼女だけが、霧の中に立っている。
だが、それでも淑芳は言葉を紡ぐ。聞くものがいると、彼女は気づいている。
「あなたは何です? 勝手に夢の中へ入ってくるだなんて、無粋ですわよ」
答える声は、霧の彼方から届けられた。
「わたしは御遣いだ。これは、御遣いの言葉だ」
どこからか響く断言。年齢も性別も判然とせず、不自然なほどに特徴のない声。
淑芳は既に身構えている。不吉な予感が、油断するなと彼女に告げていた。
「御遣い……? 御遣いとは何ですの?」
「御遣いのことを問うても意味はない。わたしの奥にいる、わたしの言葉の奥にある
ものこそが本質だ」
「意味が判りませんわ。判るように話す気は、最初からないんでしょうけれど」
霧の向こうから、声が発せられる。まるで、霧そのものが喋っているかのように。
「わたしは君に、ひとつだけ質問を許す。その問いで、わたしを理解しろ」
袖の中を探る手が、一枚の呪符にも触れないことを確認し、淑芳は顔をしかめた。
「ひょっとして、わたしたちを殺し合わせようとしているのは、あなたですの?」
「その通りだ、李淑芳」
一瞬の躊躇もなく、即答が返ってきた。
真っ白な世界に少女が一人。見えざるものとの対峙は続く。
「……さて、主催者側の親玉が、わたしに何の用でしょう? わざわざ現れたのは、
挨拶がしたかったからじゃありませんわよね?」
余裕綽々を気取る口調だ。彼女は必死に虚勢を張っている。
「愛こそが心の存在する証だと、人は言う……わたしは、愛の力を試すことにした。
参加者の中から、容易く恋に落ちそうな娘を選び、密かに実験を始めた」
聞こえるのは、昨日の天気でも説明しているかのような、何の感慨もない声。
「…………」
淑芳の両手が、固く握りしめられて、小刻みに震えだした。
声は決して大きくなく、けれど、はっきりと耳に流れ込んでくる。
「様々な偶然を操って、君を守り、導いた。強く優しく勇気ある青年を、君の窮地に
立ち会わせ、助けさせるよう仕向けた。知人の死を哀しむ君は、彼の保護欲を充分に
刺激したはずだ。誘惑の好機は幾度もあっただろう。邪魔者たちは遠ざけておいた。
お互いの魅力をお互いに実感させるため、長所を活かせるような状況を作りもした」
「何故……どうして、そんなことを……?」
愕然とする娘に向かって、ただ淡々と宣告が続けられる。
「愛は奪えないものなのか……それを確かめるために、わたしは愛を用意した」
淑芳の苦悩を無視して、声は無慈悲に連なっていく。
「もしも愛が奪えないものなら、それはつまり、心の実在が証明されたということだ。
しかし君は、愛した相手を守ることができなかった。わたしに奪われてしまった」
侮辱の言葉が、とうとう彼女の逆鱗に触れた。銀の瞳が、虚空を睨みつける。
「いいえ! わたしが憶えている限り、カイルロッド様はわたしと共にあり続ける!
あなたは何も奪えてなどいない!」
涙をこぼして激昂する娘を、声は冷ややかに嘲った。
「それは都合の良い錯覚というものだ、李淑芳」
しばしの間、一切の音が消える。長いようで短い沈黙を、先に破ったのは淑芳だ。
「……平行線ですわね。あなたは、わたしの言葉を信じないのですから」
「錯覚にすがって生きていくというのなら、君の解答に価値はない」
「あなたを満足させるため、この想いを捨てろとでも? 冗談じゃありませんわよ」
「思考の停止は、答える意志の喪失だ。それでは、契約者となる資格がない」
声が遠ざかっていく。同時に霧が濃度を増す。夢が終わろうとしている。
「李淑芳。君に未来を約束しよう。約束された未来は、既に起こったことなのだ。
必ず起こる未来ならば、それは過去と同じだ……君は仲間を失っていく……
もうすぐ、また君は味方を失う……」
白く塗り潰された夢の中で、淑芳は何かを叫ぼうとして――。
――彼女が目を開くと、そこには白い毛皮の塊があった。
「目が覚めましたか」
よく見ると、毛皮の塊には、笑っているような顔が付属している。犬の顔面だ。
陸が、淑芳の顔を覗き込んでいたのだ。安堵しているのか、単にそういう顔なのか、
いまいちよく判らない。別に、どうだっていいことだが。
「わたしは……」
ようやく淑芳は、自分が床に寝ていると気づいた。ゆっくり上半身を起こそうと
するが、陸の前足に額を踏まれ、床に押さえつけられる。
「まだ横になっていた方がいいと思いますよ。いきなり倒れて頭を打ったんですから」
陸の前足を払いのけ、額についた足跡を拭いながら、彼女は言った。
「話したいことがありますの」
淑芳が語った夢の話を聞き終え、陸は溜息をついた。
「夢の中への干渉ですか。それが事実だとすれば、もう何でもありですね」
「単なる普通の夢だったかも、と言いたいところですけれど、そうは思えませんわ」
困惑している犬を見もせずに、淑芳は言う。玻璃壇を俯瞰しつつ話しているのだ。
どこが禁止エリアになるのか判らないため、彼女たちは迂闊に動けなくなっている。
とりあえず13:00寸前まで現在地で待機して、玻璃壇で人の流れを把握してから、
安全そうな場所まで移動する予定だ。ちなみに、カイルロッドを殺した青年は、ここに
戻ってくる様子がない。彼もまた禁止エリアの位置など聞いていなかったはずなので、
何も考えずに彼を追えば、禁止エリアに突入してしまう可能性があった。
「主催者が本当に偶然を操れるとすれば、どうやったって倒せない気がしますよ」
「支給品である犬畜生には、呪いの刻印がないんですから、禁止エリアに逃げ込んで
隠れていたらどうです? きっと、最後まで生き延びられますわよ」
「あなたらしくありませんね。……『君は仲間を失っていく』、でしたっけ? そんな
馬鹿げた予言を気にしているんですか」
視線を合わせないまま、一人と一匹の対話は続く。
「あなたのそういう無駄に小賢しいところ、大っ嫌いですわ」
「そもそも私はカイルロッドの同行者だったんです。あなたの仲間じゃありません。
こうして隣にいるのは、あなたが心配だから――なんて誤解はしないでください」
要するにそれは、傍らにいても失われない、と保証する発言だ。
まったく可愛くない犬ですわね、と淑芳は思った。
「……そんなこと、最初から判ってましたわよ」
「では、そろそろ移動先を検討しておきましょう」
「F-1から南へ向かっている参加者たちがいますわ。おそらく神社で休憩するつもり
なのでしょう。F-1・G-1・H-1は、しばらく禁止エリア化しないと考えられます。
どうにかして情報を集めないといけないんですけれど、神社に向かった人たちは、
殺人者の集団だったりするかもしれません。安易にこの人たちと接触するわけにも
いきませんわね。でも、利用できる出入口は、神社にしかありませんから……」
「とにかく神社まで行って様子を見るしかない、ってことですか。そうと決まれば
早く出発しましょう。……何をぐずぐずしているんですか」
「玻璃壇を停止させようとしてるんですけれど、操作を受け付けないみたいで……」
「やれやれ。どうやら、そのまま放置していくしかないみたいですね」
玻璃壇の前を離れ、淑芳は、カイルロッドの遺体へ黙祷を捧げた。
彼女の横で、陸は目を閉じ、カイルロッドの冥福を祈った。
カイルロッドの死に顔は、眠っているかのように穏やかだ。
短い別れを済ませ、一人と一匹は、格納庫の外へと歩きだす。
振り返りは、しなかった。
【G-1/地下通路/1日目・13:00頃】
【李淑芳】
[状態]:頭が痛い/服がカイルロッドの血に染まっている
[装備]:呪符×19
[道具]:支給品一式(パン9食分・水2000ml)/陸
[思考]:麗芳たちを探す/ゲームからの脱出/カイルロッド様……LOVE
/神社周辺にいる参加者たちの様子を探る/情報を手に入れたい
/夢の中で聞いた『君は仲間を失っていく』という言葉を気にしている
[備考]:第二回の放送を全て聞き逃しています。『神の叡智』を得ています。
夢の中で黒幕と会話しましたが、契約者になってはいません。
カイルロッドのデイパックから、パンと水を回収済みです。
※カイルロッドの死体と支給品一式(パンなし・水なし)が、格納庫に残されました。
※玻璃壇は稼働し続けています。