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609 :素直になれなくて・1 :2006/02/17(金) 01:31:25 ID:0HlnsADw

 寮を出た瞬間から、肌を刺す冷たい風に身を震わせる。
 どこまでも広がる青い空は、太陽が出ている証拠だというのに、陽の光の温かさを感じられない。
 冬は嫌いじゃないけれど、寒いのは苦手だ。
 だから早く過ぎればいいのに。
 口許を隠すようにマフラーを少しずらしながら歩いていると、見慣れた後ろ姿を発見する。
 背の高いその人は、いつもは針金が通してあるんじゃないかと思うぐらい背筋を伸ばしているのに、何だか猫背になっていた。
 気配を消して、やや早歩きをして背後に回ると、何やらブツブツ呟いていた。
 手元を見ると、何かの料理のレシピのようだった。
「…に柔らかくしたバターを入れ……粉砂糖20gを加えて…角が立つくらいに…角?」
「熱心ですわね、奈々穂さん」
「うわあぁぁぁぁっ!?」
 声を掛けると、奈々穂さんは飛び跳ねる程驚いた。それに私も驚いて、危うく荷物を落としてしまうところだった。
「く、くくく、久遠っ!?」
「大きな身体の人がぶつぶつ何かを呟きながら歩いていると不気味でしてよ?」
「…気配を消して歩く奴に言われたくないがな」
 若干嫌味を含んだ言葉だったけれど、そんなものは私には通用しない。奈々穂さんもそれは分かっているだろう。
 気を取り直すといった感じで歩き出した奈々穂さんの半歩後ろをついて歩く。
 普段料理をしない奈々穂さんが真剣に作り方を読んでいるのは、きっと来週のバレンタインの為だろう。
 毎年、沢山の生徒から貰うだけだった奈々穂さんにここまでさせるとは、恋人ができて随分変わったものだ。
 少しだけ、羨ましい。
「…えっと、どこまで読んだっけ…」
「バレンタインの準備ですの?」
「お前には関係ないだろう…別のボウルに卵白を入れ…」
「琴葉にあげるんですの?」
「…分かってるなら少しは黙ってくれ。気が散る、さっさと行け…えっと…次に粉をふるいながら加え混ぜる…」
「普段から料理を少しでもやっていればこんな風に慌てる事もありませんのに」
「…お前だってしないじゃないか」
「あら、私は別に誰かに作る予定はありませんのでご安心を」
「誰も心配なんかしていないがな。じゃあ、昨日の買い物は何だったんだ?随分、大事そうに袋を抱えていたじゃないか」
「溶けたら困る物ですわ」
「何だ、お前も誰かにあげるのか?さっき予定はないって言ってたじゃないか」
「作る予定がないと言っただけで、あげないとは言ってませんわよ?」
「…本当に可愛くないな、お前は…」
「奈々穂さんに可愛いと言われて喜ぶのは琴葉しかいませんわよ。もっとも、奈々穂さんがそんな事を言っているとは思えませんが…」
「う、う、五月蠅い!大きなお世話だ!早く学校に行けぇ!!」
「…もう着きましたわよ?」
「へ?」
 どうやら校門に着いたのに気付かなかったのか、奈々穂さんは半ば呆然としていた。
 口を半開きにして立ち尽くすその姿を鼻で笑って、私は身を翻して昇降口に向かった。
 背中から奈々穂さんが私の名前を叫んでいるのが聞こえたけれど、気にせず自分のクラスの下駄箱に歩いて行った。


610 :素直になれなくて・2 :2006/02/17(金) 01:32:33 ID:0HlnsADw

 去年末、同室という事もあって同じ日に奈々穂さんと部屋の大掃除をした時だった。
 硝子拭きの洗剤を探している最中、扉を開きっぱなしにしていた奈々穂さんの部屋を覗くと、掃除を一時中断して、何かを眺めている奈々穂さんを見た。
 普段は掃除をしない場所から出てきた物を弄るのはよくある事。
 写真やアルバム等の類を見つけると、懐かしさに見入ってしまう。
 奈々穂さんも、古いアルバムから写真を抜き取り、それをどこか切なげな眼差しで見つめていた。
 その視線が気になったが、掃除を再開させないと何時までも終わらない。
 思い切って声を掛けて、硝子拭きを知らないかと尋ねると、少し慌てた様子で部屋の奥に行ってしまった。
 先程使って、そのまま窓際に置いたままらしく、それを待つ私は部屋に足を踏み入れた。
 背中を向けている奈々穂さんの隙をついて、床に散らばる写真を見ると、そこには幼い頃の奈々穂さんが写っていた。
 その隣には、奏会長や聖奈さんといったところを見ると、どうやら神宮司家で撮ったものらしい。
 皆の初めて見る幼い姿に、自分の頬も緩むのが分かった。
 その中で、先程奈々穂さんが見つめている写真に目を向けると、そこには幼い頃の琴葉の姿があった。
 すると、奈々穂さんが硝子拭きを持って現れ、それを手渡されて直ぐに部屋を出た。
 琴葉は神宮司のお庭番だと知っている。なら、二人は昔からの知り合いで、写真を持っていても不思議じゃない。
 そう。不自然なものなんて何一つない。ないはずなのに。
 奈々穂さんは琴葉が好きなのかと考えながら、私は窓硝子を拭いていた。

 その数日後だっただろうか。
 寮の中庭で、偶然琴葉の姿を発見した。
 声を掛けようと近付いた時、琴葉の視線の先に在る人物を見て、声を出す事が出来なかった。
 少し離れた場所で、一人で鍛錬をしている奈々穂さん。それを見つめる琴葉の瞳は、とても優しいものだった。
 普段は無表情、無感情の彼女のそんな眼差しを知らなかった。
 笑顔だって、数える程しか見た事ない。
 気付かれないように踵を返し、その場からそっと離れた。

 そして私は理解した。何時からか分からないけど、二人は惹かれ合っている。
 両想いなら、どちらかが気持ちを伝えれば解決するのだというのに。
 もどかしい気持ちの反面、不謹慎にも思ってしまった。

 これは使える、と。


611 :素直になれなくて・3 :2006/02/17(金) 01:34:10 ID:0HlnsADw

 きっかけを与えてさえすれば、二人を繋げる事など簡単な事だ。
 特別な用事もないのに何度も私の部屋に来る琴葉が、躊躇無く奈々穂さんの部屋に向かわせるには用事を与えればいい。
 きっかけを与えた後、二人はちゃんと想いを伝え合う事が出来たようだ。
 後は部屋に二人きりにさせてしまえば、私の計画はばっちりだったのに。
 どうやら琴葉は、私が就寝した頃に奈々穂さんの部屋を訪れているらしい。
 気を使うのは結構な事だが、それでは私の計画が狂ってしまう。
 多少強引に二人きりにさせてから、やっとで私は目的地に向かう事が出来た。

 自分の願望の為に二人を利用したみたいで、少しの罪悪感を感じるけれど、元々二人は両想い。これで良しとしよう。
 しかし、予め用意していた言い訳は使えたけれど、肝心の告白は出来なかった。
 想いを伝えるよりも先に、身体を求めてしまった。
 気まずい空気はなかったけれど、このままではもう適当な理由を作って彼女の部屋に行く事は出来ない。
 肝心な時に素直になれない、そんな自分が嫌になる。
 それでも時間は戻らないし、想いは大きくなるばかりで。
 だから、これは最後の賭けだった。
 バレンタインに便乗し、製菓会社の思惑に踊らさせてもらう事にしよう。
 もう何の小細工もしない。

 机の上に置かれたブラウンの包装紙で包まれ、緑色のリボンを巻かれた小箱を見つめながら、彼女の事を考える。
 これを渡したら、彼女はどんな顔をするだろうか。
 迷惑だろうか。それとも喜んでくれるだろうか。
 もしも、受け取ってもらえなかったその時は、私はどんな顔をするのだろう。
 身体を重ね、少なからず彼女を傷つけた事実は変わらない。
 そんな私が、今更彼女に好きだと言えようか。
 ふと小箱を手に取って、軽いはずのそれが、酷く重く感じる。
 それはまるで私の心のようで。
「…作る予定はないけれど、あげないとは言っていない…」
 数日前の朝、奈々穂さんに言った言葉を復唱する。
「……誰かにあげる、とも言っていませんものね…」
 苦笑して、机の一番上の引き出しを開ける。
 数冊のノートが入った長方形の僅かなスペースにその箱をそっと置いた。
「…いっそ、溶けて無くなった方がスッキリしますのに…」
 静かに引き出しを戻し終えたその時、ポケットに入れてある携帯電話が震えた。
 取り出して、片手で携帯電話を開くと、そのディスプレイに表示された名前を見て、身体が一瞬硬直する。
 僅かに震える指を抑えて、心を落ち着かせながら通話ボタンを押した。
「……久遠です…」
 耳に押し当てた機械越しの彼女の声を聴きながら、私は再び引き出しを開けた。


612 :素直になれなくて・4 :2006/02/17(金) 01:35:03 ID:0HlnsADw

「何なんですかぁ、この予算はー!?」
 急いで来て欲しいと言われて駆けつけた私に向けて、開口一番に叫ばれた。
「…用事って、予算の事でしたのね…」
 まゆらさんに聞こえないように小さく呟き、私は溜息を吐いた。
 今日みたいな時に呼び出して、あんまり期待させないで欲しい。
 もっとも、それは私が勝手に期待しただけだけど。
 一瞬でも、『もしも』を期待した私が愚かなのだろう。
 この人はいつだって自分の職務の事しか考えていないのだろうから。
「久遠さん、私の話、ちゃんと聞いてくれてますかぁ?」
 今にも泣き出しそうな顔と声で、上目遣いに見ないで欲しい。
 理性を保つのも楽じゃないのだから。
「…聞いていますわ」
「じゃあ、この予算の説明をして下さい!」
 少し前のめりになりながら私に詰め寄ると、一枚の書類を渡される。
「……これは聖奈さんの管轄ですわね」
「え?」
「購買部の方ですわ」
 憶えのない数字の羅列に向き合って、私はそう言い述べた。
「購買部の、ですか?」
「えぇ、恐らく、バレンタインフェアの為の予算だと思われますわ」
 先週辺りから、購買部は特別スペースを作り、バレンタインフェアを行っていた。
 その為に使われた費用が、その紙には書かれてあった。
「…一体、何処から取り寄せたのかしら…これじゃあ売り上げが良くても赤字じゃないのぉ!」
 私に文句を言われても何だか困る。隠密では部下だけれど、購買部の方は私はあまり口出ししない事にしているから。
「…はぁ…また予算組み直さなきゃ…」
 大きく溜息を吐いて、まゆらさんは椅子に座り、算盤を取り出した。
 その姿を見つめながら、私は思わずらしくない提案を口にする。
「…まゆらさん」
「はい?」
「…隠密の予算を、少し削ってもよろしいですわよ?」
 案の定、まゆらさんは口をポカンと開けて呆然としている。自分自身も、どうしてそんな事を言ったのか理解出来なかった。
「…く、久遠さん?…今、何て?」
「重要な仕事はもう済みましたので、今月来月と、何か起きない限り、予算を使う事はないと思いますから」
「…熱でもあるんですか?」
「…失礼ですわよ、まゆらさん」
 確かに、いつも好き放題予算を使う私のらしくない発言を疑うのも分かる気がする。
 いつも必要以上に予算を使ってしまうのは、私の存在を意識に刻み込みたかったから。
 好きな人を困らせて、そんな小学生じみた愛情表現しか出来なくて。
 こんな屈折した恋情を伝えたところで理解出来ないだろう。
 それでも、少しでも彼女の力になれるなら。私らしさなんていくらでも捨ててもいい。本気でそう思った。


613 :素直になれなくて・5 :2006/02/17(金) 01:36:15 ID:0HlnsADw

 まゆらさんはなおも訝しげな表情で私を見つめる。
「ま、まさか、変な条件を付ける気ですか?」
「……本当に失礼ですわよ、まゆらさん」
 まゆらさんの中で、私は一体どんな人間なんだろう。今更ながら、今までの自分の行動や言動を悔いても仕方のない事だけど。
 これじゃあ素直に告白しても疑われるだけだろう。
「ほ、本当にいいんですか?」
「早く決断しないと、気が変わるかもしれませんわよ?」
「わ、分かりました!ありがとうございます、久遠さん!」
 まゆらさんは若干慌てながらも、私に笑顔を向けてくれた。
 あなたのその笑顔で、私の心がどれだけ満たされるかなんて知らないでしょう。
 算盤を弾かせながら、まゆらさんは「あっ」と何か思い出したように呟いた。
 机の脇に置いてあった鞄を持って、何かを手探りで探していた。
「あ、あった」
 取り出したのはピンクの小さな袋。赤いリボンの付いた可愛らしい物で、中に何か入っているようだった。
 それを私の前に差し出すと、まゆらさんは少し顔を赤らめていた。
「せ、せめてものお礼というか、こんな物で申し訳ないんですけど…」
「…え?」
「この前、備品を買いに行った時に思わず衝動買いしてしまって…」
 安かったので、つい、と照れるように頬を掻きながらまゆらさんは続けた。
「誰かにあげようかと思ったんですけど、その、特にいなくて、自分で食べようと思ったんですけど、良かったら久遠さんに…」
 そっとそれを受け取って、中を開けるとナッツの入った小さなハート型のチョコレートが数個入っていた。
 衝動買いしたと言うそれには、特別な想いなんてないけれど、鼓動は静かに高鳴った。
 胸に温かいものが広がっていく。顔が赤くなってないか心配しながら。
「…あ、ありがとうございます」
 手に触れる確かな感触の喜びを隠しながら、ふとポケットに忍ばせていた小箱を思い出す。
 この勢いで渡してしまおうか。今なら軽い気持ちで渡せるかもしれない。
 上着のポケットに手を入れて、その小箱をそっと取り出す。
 結んであるリボンを上にして、少しぶっきらぼうになりながら、まゆらさんに手渡した。
「…ま、まゆらさん…あ、あの、これ…」
「久遠さんも買ってたんですか?」
「…え、えぇ…まぁ…」
 心臓が飛び出てしまうような緊張に苛まれながら、声を振り絞った。
「よ、良かったら、まゆらさん…受け取って頂けます?」
 僅かに目を反らして、本当の気持ちを隠しながらそう言うと、まゆらさんは頬を紅潮させていた。
「で、でも、誰かあげる人がいるんじゃあ…」
「……それは…」
 あなたにと、そのたった一言が咽喉の奥でつっかかっている。
 焦れる心に舌打ちし、勇気の出ない自分に苦笑する。


614 :素直になれなくて・6 :2006/02/17(金) 01:37:17 ID:0HlnsADw

 まゆらさんは不思議な顔をしながらも、差し出したそれを受け取ってくれた。
「…わたしが貰っても、いいんですか?」
 表情は真摯なものに変わり、真っ直ぐに私を見つめる。
「本当にいいんですか?」
 本音を射抜くような視線と言葉に心を掻き乱される。
 真実の想いを口にしたら、彼女は信じてくれるだろうか。
「……あ…」
 頭が真っ白になって、一文字も思い浮かばない。
 何も言えずに立ち尽くす私を置いて、まゆらさんは箱のリボンを解いて包装紙を剥がし始めた。
 剥き出しになった白い箱を開けて、ココアを塗した生チョコレートを一欠けら取り、再び私を見つめる。
「た、食べちゃいますよ…?」
 そう一言伝えてから、まゆらさんはそれを口に含んだ。
 指に付いたココアの粉を舌で舐め取る仕草が妙に艶かしくて、理性に亀裂が入る音が聞こえた。
 唇に寄せた手を取って、見つめ合いながらゆっくりと顔を近づける。
「…く、久遠さ…ん…」
 ココアの苦味の残る唇の感触を味わいながら、甘い香りが鼻腔を擽る。
 乾いた唇を潤わすように舌でなぞりながら、椅子に座るまゆらさんの膝の上に跨る。
 重ねた手の指を絡め、もう片方の手を首に絡める。すると、まゆらさんの手が私の背中に回されたのが分かった。
 そっと唇を離して、私は机の上に置いたチョコを一つ摘まみ、それを口に放り込んだ。
 熱い口内で柔らかなチョコレートを溶かし、それを含んだまま再び口付ける。
 舌で突いて唇を開かせ、とろりと溶けたチョコレートを流し込む。
 その甘い香りに誘われるように、まゆらさんの舌が伸ばされる。
 私のそれに触れると、舌の上で蕩けたチョコレートを唾液と共に絡め取っていく。
 粘着質を含んだ水音が二人の情欲を煽る。
 絡めた舌を互いに擦り付けながら、甘美とも言える唾液を吸い上げ、飲み下す。
「…ん……っんぐ…」
「…はぁっ……ぁ…」
 呼吸をするのを忘れるほど唇を貪り合っていた為に、軽い酸欠を自覚する。
 離して、呼吸をして、また近付いて。そうやって求め合い、何度目かの口付けが終えると、潤んだ瞳が私を見上げる。
「ちょっと…甘過ぎたみたいですわね…」
「…久遠さ、ん…?」
 欲望に侵され掛けた思考では、その場しのぎの言葉にしか聴こえないかもしれないけれど。
「……まゆらさん…」
 もう、恐怖は感じない。
 例え軽蔑されても構わない。
「私は…あ、あなたの事が…」
 例えあなたが遠く離れてしまっても、この想いが変わる事はないのだから。
「…ずっと…ずっと前から……す…好き、でした…」


615 :素直になれなくて・7 :2006/02/17(金) 01:38:19 ID:0HlnsADw

 静かな室内とは対照的に五月蠅くなる心臓の鼓動。
 背中にある手の平で、その速さが分かってしまうだろう。
 私は瞳を硬く閉じて、彼女の返答をただ待った。
「……久遠さん…」
 沈黙を破った私の名前を告げる声。導かれるように瞳を開ける。目に映るのは、真っ赤になった愛しい人の顔。
「…か、からかってるん…ですか?」
 私は首を横に振る。
「本当…なんですね…」
 私は首を縦に振る。
 振られる覚悟は出来ている。痛みに耐える覚悟も出来た。
 大切なものから遠ざかる事には慣れているから。
 どうなってもいい。そう思った刹那、背中に回されていた手に力が籠められた。
「………え…?」
 抱き締められたと分かるまで数秒の誤差があった。
 鎖骨の辺りに顔を押し付けられて、湿り気を帯びた熱い吐息を制服越しに感じる。
 ギシりと、椅子の軋む音が聴こえた。
「…ま、まゆらさん?」
 半ば混乱しながら問い掛けるも、顔を埋めているので表情が分からない。
「あの…」
「…しも…」
 くぐもった声に耳を澄まして。
「…私も…好きです…その…久遠さんの事…」
「……は?」
 予想だにしない答えを聞いて、思わず間抜けな声を出してしまった。
「ま、まゆらさん…?」
 もう訳が分からない。この人は何を口にした?
「…年下なのに、頭がいいし、美人だし、予算を何の了解無しで使うけど…」
「…あの、まゆらさん?」
「この前の事があって…それから変に意識しちゃって…」
「あの、ちょっと…」
「からかわれてるだけだって思って…でも…」
「………」
 たどたどしく話し続けるまゆらさんの言葉に、私は何も言えなくなっていた。
「もしかしたらって、勝手に期待してて…」
「…まゆらさん…」
「…私で…いいんですか…?」
 潤んだ瞳。胸をぎゅっと締め付ける。
「本当に…好きですか…?」
 目頭が熱くなり、視界がぼやけていく。
「嘘じゃないですか?」
「…っ!」
 震える腕で、私は力いっぱいまゆらさんを抱き締めた。


616 :素直になれなくて・8 :2006/02/17(金) 01:39:21 ID:0HlnsADw

 あまりにも愛しくて。あまりにも嬉しくて。
 これが夢なら永遠に覚めないで欲しい。
「…好きですわ、まゆらさん…」
「……っ!」
「まゆらさんじゃなきゃ駄目なんですのよ…?」
 嘘じゃないかと、訊きたいのはこっちの方だ。私でいいのかと疑問に思うのは私の方だ。
 瞬きをした瞬間に、自分の頬を小さな雫が濡らした。
 互いの身体を強く抱き締め合って。この幸福感をどうやって表現したらいいのか分からない。
 気付かれないようにそっと涙を拭って、深く息を吸い込んだ。
「…まゆらさんは、私でいいんですの?」
 同じ質問をするなんて、意地悪だと思われるかもしれないけれど。
 もう一度、聴かせて欲しいから。
「…久遠さん、分かってて訊いてますよね?」
 簡単に悟られて、二人、小さな笑いが零れる。
 身体を少し開いて、互いの瞳を見つめながら。
「…久遠さんじゃなきゃ、嫌です」
 微笑み合って、触れるだけの口付けを交わした。
 夢じゃない。夢じゃない。夢じゃない!
 確かな温もりに、やっとで確信する。
 もう、何の計画も策略も練らずにこの腕の中にいられる。素直になれなかった今までの自分に別れを告げて。
 唇が離れると、まゆらさんは思い出したように口を開いた。
「あ、それと、予算の件は、本当にいいんですよね?」
「………」
 いきなりそんな色気の無い話題を持ち掛けられると、急激に脳が冷めてくる。
(…どうしようかしら…)
 私の事よりも予算の事を重要視するのが面白くない。嫉妬する相手が算盤だなんて、何だか情けないかもしれないけれど。
 ふと視線を反らすと、時計が目に入った。針がいつもの私の就寝時間に差し掛かっていた。
「……あ!」
「え?ど、どうしたんですか、久遠さん?」
 今、部屋に戻れば恐らく琴葉がいる。隠密の任務で暫く会えなかった二人。その上今日はバレンタインだ。
 何もしていない方がおかしい。もう部屋には帰れない。
「……まゆらさん」
「何ですか?」
「予算の件…一つ、条件がありますわ」
「えぇー!?」
 嫌だという悲鳴を聞きながら、私は口角を上げて言葉を紡いだ。
「…今晩、泊めて頂けるのなら、予算の件はお任せしますわ」
 それを聞いて何を想像したのか、林檎のように赤くなるまゆらさんが可愛くて。
 まゆらさんの膝から降りて立ち上がると、そっとその手を取ってベッドに向かった。

 恋人になって初めての夜は、とても長くなりそうだった…。