阪急・上田監督の孤独な闘い
〜1978年10月22日 日本シリーズ第7戦〜
1970年代中盤、球界で最強の名を欲しいままにしたのは阪急ブレーブスだった。
36年(昭和11年)のプロ野球創設と同時に結成された古い伝統を持ちながらぱっとせず、
「灰色」とまで言われたチームを強豪に育て上げたのは闘将・西本幸雄監督。
しかし日本シリーズではV9巨人の厚い壁に阻まれ続けた。
その阪急が漸く日本一の栄冠を手にしたのは75年、就任2年目の上田利治監督の時だった。
「西本遺産」と言われながらも上田阪急は翌76年には、悲願の打倒巨人も果し、更に77年も連続して巨人を一蹴、3年連続日本一を達成した。
今や無敵となった勇者・阪急。横綱・北の湖と並び「憎らしいほど強い」と称されたものだった。
だが北の湖がいくら憎まれても輪島、貴ノ花(初代)、高見山らの人気力士を擁する国技館は満員だったが、いくら勝っても不人気のパリーグに属する阪急の本拠地・西宮球場はガラガラ。
超満員の観客に囲まれて試合をするのは日本シリーズしかなかった。それだけになおさら負けるわけにはいかなかったのだ。
華麗なアンダースローのエース山田久志、同じくアンダースローのいぶし銀足立光宏、
速球王・山口高志らの豪華投手陣、そして韋駄天・福本豊、業師・加藤英司、攻守の要・マルカーノらの隙のない打撃陣…阪急の黄金時代は永遠に続くかとも思われた。しかし、落日の時は確実に訪れる。皮肉にもそれは阪急の
見せ場・日本シリーズの舞台から始まった。
1978年、V4を目指す王者・阪急はセリーグ初優勝の広岡監督率いるヤクルトを日本シリーズで迎え撃つ。
阪急有利と見られたシリーズは、意外にも最終戦までもつれ込んだ上、その最終戦もヤクルトが1-0でリード、
6回裏のヤクルトの攻撃を迎えた。
阪急・先発はベテラン足立。シーズン中は故障で満足な成績をあげられなかったが、
シリーズの秘密兵器としてきっちり調整、第3戦では完封し、この試合でも1点は失ったものの、それ以外は
「芸術的」と言われたピッチングでヤクルト打線を完全に抑えていた。そしてこの回も抑えて、終盤の阪急打線の爆発に繋げたい足立は、先頭打者・三番の若松勉を簡単に打ち取った後、四番の大杉勝男と相対した…。
足立得意のシンカーを叩いた大杉の打球はレフト・ポール上空を通過した。ホームランかファールか…球場全体が一瞬、止まった。
レフト線審の富沢宏哉は一呼吸明けた後、ゆっくり手を回した。ホームラン!
大杉は小躍りしてベース一周、しかし阪急の上田監督は脱兎の如く走り出した。
時刻、午後2時54分。
真っ直ぐレフトへ向った上田監督は富沢線審に「ファールだ!」と猛然と抗議、そして執拗に延々と続いた。
上田「見え見えのファールじゃないか。スタンドのお客さんだってみんなファールだと言っている。正直に言いなさいよ。あんた、
ボール見失ったんだろう」
富沢「何を言うか。俺はしっかり見とる。失敬なことを言うな」
上田の言葉は激し、富沢も応酬してやり返す。
20分が過ぎ、富沢はマイクを取って改めて場内にホームランを宣言するが上田は更に激昂、そして選手をベンチに引き上げさせた。
過去もセ側に有利な判定で苦汁を飲まされ続けて来た思いのある阪急の選手たちもエキサイトし、
「放棄試合も辞せず」の過激な声が上がる。それに背を押された上田は、ますますあとに引けなくなった。
事態を重く見た鈴木、工藤の両リーグ会長、さらには、この1ヶ月後に「江川問題」で渦中の人物となるコミッショナーの金子鋭も
グラウンドに現れ、阪急ベンチで上田の説得にかかった。
金子「この僕が頭を下げて頼んでいるんだ。それでもダメか」
上田「それがどうしたっていうんですか」
金子に上田は毅然とやり返す。
上田はまだ41才と若く、しかもブロで何の実績もなく徒手空拳でのし上がった一介の監督。
対する金子は富士銀行元会長である、七十を過ぎた財界の大物。その強大な圧力とも上田は闘いながら、
試合中断が続く。しかもこの中断中、上田の自宅には野球ファン、テレビ中継の視聴者からの抗議と苦情、そして脅迫の電話が鳴り止まず、
上田夫人、そして子供たちはその応対に疲労困憊を強いられていた。
上田が審判の判定、球界首脳の圧力、そして世間を向うに回して孤独な闘いを続けていた時、遠く離れた自宅で家族もまた必死に闘っていたのだ。
やがて阪急の球団代表、社長から、もしここのまま放棄試合となれば阪急側が莫大な賠償責任を背負わなければならなくなると泣きつかれ、上田は漸く試合再開に応じた。
時刻、午後4時13分。試合中断から実に1時間19分が経過していた。
この時、上田は監督辞任を決意していた。ピッチャー交代を告げてベンチに戻る上田の背中を晩秋の落日が赤く染めた。
その夕陽のように阪急ブレーブス、そして上田の手にも、日本一の栄冠はその後二度と再び戻ることはなかった。
試合はそのまま4対0でヤクルトが勝利し、初の日本一になった
あれから四半世紀余が過ぎた。
今、勇者・阪急は既に存在しない。
抗議事件から10年後の1988年、オリックスに身売りされ、更に2年後にはブレーブスの名前も消えた。
抗議の舞台となった後楽園球場、そして阪急の本拠地・西宮球場も今はない。
問題のホームランを打ったヤクルトの大杉勝男は92年、47才の若さで亡くなり、今年十三回忌を向えた。
若き熱血漢だった上田は66才になり、昨年には野球殿堂入りした。彼は今でも「あれはファールだった」と言い続けている
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