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オーナーたちのプロ野球


永田雅一のラッパ伝説

(1)−パ・リーグの父−
球界の名物オーナーと言えば、まず何と言っても大毎オリオンズの永田雅一だろう。商業学校を中退して撮影所に入所し、大映社長に上り詰めた叩き上げの映画人。 口髭、メガネ、禿頭というマンガチックで典型的な「ニッポンの社長」然としたその風貌。そして、押しが強くて景気のいい言動で「ラッパ」の異名を取った、小柄だがエネルギッシュな人物。日本シリーズで惜敗した西本幸雄監督を「バカヤロー」と一喝してクビにした話が有名なので、 単に横暴なオーナーと思われがちだが、野球を、そしてパリーグを愛していたことも事実である。
パがセに人気で遅れを取っている理由の一つは、東京に拠点球場がないせいだと考えた永田ラッパは、私財を投じて南千住に「東京スタジアム」を建設(それまでオリオンズの本拠地は巨人と後楽園球場を併用)。サンフランシスコのキャンドルスティックパーク球場を模して作られたこの球場は、 当時としてはかなり画期的でモダンなものだったという。
そして1962年、球場開きの日、ラッパは満員の観衆の前でセレモニーの挨拶に立ち、「皆さん、この球場を、パ・リーグを、愛してくださぁぁいっ!」と絶叫した。 「セに負けたくない」、そして「東京球場で巨人と日本シリーズをやって勝つ」がラッパの意地であり、夢だった。
しかし本業の映画の方は1960年代から斜陽化し、特に製作本位で大作主義の大映にそれが著しく、更にラッパの「野球道楽」もそれに拍車を掛けた。 その野球の方も、東京球場が満員になったのはほんの初めのうちだけで、あとは閑古鳥が鳴く始末。累積赤字は膨らむ一方だった
このため1969年からオリオンズはロッテにスポンサーを仰ぎ、オーナーはラッパのままだがロッテオリオンズと改称。そして翌1970年、 10年振りのリーグ優勝を遂げた。この時、フェンスを越えてグラウンドに雪崩れ込んで来たファンと選手の手によってラッパは真っ先に胴上げされ、歓喜の男泣き。 だが宿願の巨人との日本シリーズには1勝4敗でいいところなく敗れた。試合後グラウンドに降り立ったラッパはひとりスタンドに向い、応援してくれた観客に対して深々と一礼した。
翌71年1月23日 、親会社の大映が経営悪化して球団を手放さざるを得なくなった時、ラッパは選手・職員を集めた身売り報告の場で無念のあまり絶句して号泣。そして「いつか必ずオリオンズを買い戻す」と誓ったが、 …しかしその夢を果すことなく、15年後の85年暮に没した。享年79。その葬儀には、ルーキー時代にラッパから新人王獲得を後押ししてもらった有藤道世をはじめオリオンズの関係者・選手たち何人かも参列した。

(2)−野球と映画−
元祖「白い巨塔」の財前教授といえば、故田宮二郎の当り役である(1966年に映画で、そして78年の死の直前にはテレビで、2度にわたって熱演)。この田宮の芸名はオリオンズの主力打者・ 田宮謙次郎にあやかってラッパが決めた。大映のニューフェースにオリオンズの選手にちなんだ芸名をつけるのも ラッパの野球道楽のひとつで、他に山内一弘からとった、山内敬子などがいる。
大映の看板俳優といえば、戦前からの二枚目大スター、長谷川一夫である。 1963(昭和38)年、その長谷川一夫と全く同姓同名の投手がいると聞いたラッパは彼を入団させたが、 結局投手としては大成せず、外野手や一塁手としてオリオンズ〜ライオンズで18年間プロに在籍した。 ちなみに長谷川はライオンズ時代の78年にただ一度、マウンドに立ち、サヨナラ安打を打たれて試合数1、投球回数3分の0、投球数1 の珍記録を残している。
さて、ラッパが戦後、最初に関った球団は急映フライヤーズだったが(大映の加盟が認められず、東急と合同の形をとった)、 すぐに金星スターズを買収して大映スターズを結成、偶然だが「銀幕のスター」と一致して映画会社に相応しい名前になった。 この大映スターズのオーナー時代、ラッパは「最下位球団は罰金を支払うべきだ」と提唱して認められたが、 見事最下位になったのは、他ならぬラッパの大映だった。 また、1957年には「6球団制がベスト」との意見が合致し、最下位となった球団が解散するとの申し合わせで開幕したが、 またしても最下位は大映。大映は申し合わせ通り解散し毎日と合併、大毎オリオンズとなった。
ちなみにこの大毎。当初、毎日新聞の側に主導権があったため、合併球団の正式名称は「毎日大映オリオンズ」だった。従って本来なら略称は「毎映」となるべきものであろう。 しかしラッパはどうにかして大映の名前の方を先にしたかった。だが普通に申し出たのでは、毎日側に拒否されるに決まっている。 そこで一計を案じたは次のような論法で説得した。毎日新聞はもともと大阪が本拠地であり、古くは「大阪毎日」の略称「大毎」で 親しまれていたことがある。何故毎日にとって由緒あるこの名前をチーム名に利用しないのか・・・と。 すると毎日側は、それはいかにも名案とばかり、あっさりと了承。こうしてラッパの目論見通り「大毎」となったのである。

(3)−野球と政治−
ラッパは本業の映画、そして野球に加えて、フィクサー気取りで政界に何かと首を突っ込んだことでも知られる。 特に岸信介内閣当時は、のちにロッキード事件で逮捕された右翼の児玉誉士夫、北炭社長の萩原吉太郎らとともに、 黒幕として暗躍した。岸首相が党人実力者の大野伴睦の協力を取り付けるため後継者指名のカラ手形を出した「念書」事件の時も、 その場に立ちあっている。大映、そして球団経営の不振でオリオンズのスポンサーとしてロッテを連れて来たのは岸の仲介によるものであり、 また、この時から岸の秘書だった中村長芳(その後ロッテ、太平洋のオーナー)が球団経営を手伝っている。 ちなみにこのラッパとの縁もあって岸は野球好きであり、しばしば球場に観戦に訪れた。 そこから六十年安保の時のあの発言、 「反安保、反岸闘争が盛り上がっているというが、後楽園球場は今夜も満員じゃないか。 つまり『国民の声なき声』は私の政治姿勢を支持しているのだ」も出て来たのである。

(4)−野球とその他のスポーツ−
何とかパ・リーグに、そしてオリオンズに世間の注目を集めたいラッパは、1969年、何とメキシコオリンピックのスプリンター、つまり 100M走選手だった飯島秀雄を入団させた。しかし飯島は野球などロクにやったことがないのである。 代走専門ということだったが、ダイヤモンドを走るのは勝手が違ったらしく、飯島は3年間で117試合、 23盗塁(17盗塁死)、成功率.575という成績で球界を去っている。ラッパの思い付きは結局、イマイチだったようだ。
さてラッパは野球のほか競馬も好きで、彼が馬主になっていたトキノミノルは1951(昭和26)年の第18回日本ダービーで優勝したほどだった。 (なお、トキノミノルはダービーのわずか16日後に死亡、その死を惜しんだラッパは55年、若尾文子ら出演の「幻の馬」という映画を作った)。 1962年暮、「世紀の大トレード」で大エース小山正明がオリオンズに入団して来た時、ラッパは嬉しさのあまり小山に「君に馬をプレゼントしよう」と言った。 つまり、君も馬主になれ、ということである。 ところが競馬をやらない生真面目な小山にはその意味が通じず、「自宅に馬を飼う場所がありません」と断った。そこでラッパは代りに外車を小山に贈った。 晩年、失意の病床にあったラッパを小山が見舞いに訪れた時、「今は貧乏しとるが、幸せだよ。自分には君のような友達がいるからな」と言って涙を流していたという。

大川博と東映フライヤーズ

親会社が映画の球団といえば、東映フライヤーズもある。 こちらのオーナー、大川博は鉄道省(現在の国土交通省)の官僚から東急に天下りし、系列の東映社長に収まった、いわば叩き上げの永田ラッパとは一見、対照的な人物である (ただし大川は中央大学卒業であり帝大出身の典型的な官僚ではない)。 映画会社としてもラッパの大映が製作本位で大作主義なのに対して、大川の東映は興行中心で大衆娯楽路線と、全く異なっていた。 この違いが、のちに大映は倒産、東映は今も健在という差になって現れるわけだが… ただ2人とも、タイプは違えどワンマン社長でワンマン・オーナーだったことは同じだったし、 そもそも1960年代のオーナーはみな創業者社長や実力社長なので自由に権勢を揮っていたのである。
この2人、よく揃ってネット裏で自チーム同士の試合を観戦したが、オリオンズが勝つとラッパは上機嫌、むっとして席を立つ大川の背中に大笑いを浴びせ、 東映が勝つと逆に大川が哄笑で酬いるという関係だった。
1962年、東映が初優勝した時、大川は自ら「背番号100」のユニフォーム姿でグラウンドに降り立ち選手に胴上げさせた。 それはいいとしても、日本一になった東映の優勝パレードのコースが東映本社経由で世田谷の大川の自宅前までだったのはいささか度が過ぎている観がしないでもない。 「映画は東映、野球も東映」が当時の売りだった(ちなみに悪役として有名な八名信夫は、フライヤーズの投手から東映の大部屋俳優に転身した)。 大下弘監督に「サイン無し、門限無し、罰金無し」の「三無主義野球」を提唱させて最下位に転落させたのも大川だと言われる。
その東映も大川が71年8月に74才で死去すると急速に球団経営への熱意を失い、翌72年オフにはフライヤーズを売却した。 先年の大映のオリオンズ身売り・倒産に続く東映のフライヤーズ身売りにより、日本映画の黄金時代、そしてプロ野球における映画会社の時代もここに終ったのだった。

中村長芳の功罪

ホエールズのオーナーであった大洋漁業社長の中部謙吉は「球団経営など鯨1頭で賄える」と豪語したという。 その大洋漁業も中部の死後、捕鯨禁止で苦境に陥りマルハと改称、更に球団経営からも撤退した。 現状を中部が見たら何と思うだろうか。
永田にしろ大川、或いは中部にしろ、戦後日本経済が右肩上がりのよき時代のオーナーとしての逸話が多い。 しかし1970年代、不況に陥ってからはそうも言っていられなくなる。
中村長芳というと、ライオンズを西武に身売りし福岡から奪った元凶として評判が悪い。 もともと岸信介首相の秘書だった中村が球界と関わるきっかけは、前述のごとく岸の盟友・永田の大映が経営危機に陥り、 岸の命でオリオンズのスポンサーとしてロッテとの橋渡しに携わったことだった。 この結果、表面に出ることを嫌う重光ロッテ社長に代って、中村がロッテ側を代表してオリオンズのオーナー代行に就任した。 更に永田の退陣でオーナーに昇格、優勝監督の濃人を更迭するなど、 かつて永田が西本監督をクビにしたのにも似て一見やりたい放題だったが、現状はそんな暢気な時代ではなくなっていた。 72年オフ、東映がフライヤーズ、更に西鉄がライオンズを手放すという大激震が生じ、球界再編問題にまで発展。 詳しい経緯は省くがこの時、オーナー会議を代表して事態の収拾に当たったのは中村だった。 しかしライオンズの身売り先が見つからず宙に浮いていしまった。そこで中村はロッテを辞して自ら福岡野球株式会社を興して ライオンズを引き受け、オーナーとなった。 特定の親会社を持たないライオンズは、太平洋クラブ、更にクラウンライターをスポンサーに仰ぎ、 そのスポンサー料で運営されたが、球団経営はかなり苦しかったようだ。 中村の家を訪れると、飾られていた高価な美術品が、訪れるたびにひとつずつ消えていたという伝説もある。 「中村ライオンズ」は78年まで何とか持ちこたえたが遂に陥落、同年オフ、西武に売却されライオンズは福岡を去ることとなった。 当時の報道では「中村怨嗟」の声があふれていた記憶があるが、しかし福岡市ではもともとよそ者の中村には冷たかったと言い、 孤軍奮闘した中村1人を責めるのはいささか酷でもある。

(2004.02.23-25記。2007.02.07加筆修正し「話の屑籠」から独立)

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