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参謀列伝


「名将の陰に参謀あり」・・・と言うわけで、ヘッドコーチ、もしくはヘッドと肩書きはつかなくても、 あるときは監督の頭脳、またあるときはその手足となって陰で支える参謀役のコーチたち。中でも、特定の監督との結びつきが 強く、常に形影相添うという存在のコーチたちがいる。それらの人々をピックアップしてみたい(07.01.27)

牧野 茂(監督:川上哲治)
「V9巨人の参謀」として名高い牧野。もともと牧野は中日OBであり、川上とは何の面識もなかった。 また現役時代もさして目立った選手だったわけでもない。 だが引退後スポーツ紙に執筆していたコラムを川上が読んで、その的確な指摘に感嘆し、コーチに誘ったのである。 牧野が翌年から二軍コーチでも、と思っていると、川上はシーズン途中であるにもかかわらずすぐ来て一軍をやれ というほどの惚れ込みようだったという。 当時川上は守備コーチ(兼任)である広岡達朗との確執を抱えており、理論家の広岡に対抗し得る存在として牧野を必要としていた。 また、ドジャース戦法を導入する上で牧野の頭脳を大いに活用したのである。 こうして1961年途中から巨人のユニホームを着た牧野は、以来74年の川上勇退まで、V9を含む巨人黄金時代を支えた。 80年オフ、長嶋が解任されるや同じ川上派の藤田とともに巨人復帰。長嶋解任の首謀者とされることを川上は否定するが、 少なくともこの人事には明らかにドン川上の意向が働いていたとみられる。 牧野はヘッドコーチ就任後に癌が発覚するがそれを押して現場に立ち続け三年間で二度のリーグ優勝を果たし 藤田とともに退任。それから間もなくして亡くなった。川上は「牧野なくしてV9はなかった」とまで讃えている

蔭山和夫(監督:鶴岡一人)
南海の親分・鶴岡一人監督の後継者として指名されながら、監督就任直後に急逝してしまった蔭山。 後にデータ野球を展開する野村克也は鶴岡時代、既にヘッドコーチの蔭山とその一部を実践し、 2人で南海の大雑把な野球を変えていこうと話し合っていたという。また、当時既に不仲だった鶴岡と野村の関係を 蔭山の存在が緩衝材となって何とか円満に収めていたとも言われる。その蔭山の死は野村の人生、 そして南海、更に球界の歴史にも大きな影響を与えた大事件だった。

西村正夫(監督:水原 茂)
「コーチに戻った監督たち」の同項目を参照。

関口清治(監督:西本幸雄)
西本幸雄監督は阪急時代、従来全く接点のなかった青田昇や上田利治をコーチとして起用、 更に次の近鉄でも鶴岡派の杉浦忠や三原派の仰木彬など全く派閥や人脈を意に介さず スタッフを使い続けた。ただその中で唯一、阪急から近鉄まで西本と行をともにしたのが、この関口。 西本とはノンプロ別府星野組以来の盟友だった。西本さんのグチの聞き役だったとも言われ、 手腕はよくわからないが、とかくストレスの多い監督にはそういう精神的支柱となる存在も必要なのだろう。 西本退任後にはその後継者として近鉄監督を務めるが西本遺産を生かすことはできなかった。

一枝修平(監督:吉田義男)
阪神に吉田義男監督が就任すると必ずこの人がコーチとして傍らに寄り添う。 なので阪神生え抜きの、現役時代から吉田の盟友かと錯覚してしまいそうになるが、 もともとは中日の選手であり、近鉄を経て現役最終年(1974年)に1年だけ阪神に所属したに 過ぎず、従って吉田とは選手時代に同じユニホームを着た経験はない。 引退後そのまま阪神のコーチに就任、同時に新監督となった吉田とは肝胆相照らす間柄となり、 以来3度の吉田監督時代を全てコーチとして支えた。 この間、87年に吉田が2度目の監督を解任された際には、後任の村山監督から強く残留を要請されるが 吉田に殉じて辞任、また89年オフには村山の後任として監督要請を受けるも固辞、 更に96年オフにも監督人事に名前が挙がり、結局3度目の監督に就任した吉田の下でコーチとなるなど、 吉田の退任期間中に古巣中日でコーチを務めたのを別として、阪神では決して吉田監督の下でしかユニホームに袖を通さなかった。

森 昌彦(監督:広岡達朗)
今では監督として名高い森だが、もともとは広岡達朗監督の参謀として出発した。 巨人で川上体制下の優等生だった森と川上に反逆して追放された広岡という、一見異色の組み合わせだが、 現役引退後の広岡が巨人キャンプを取材に訪れた際、川上の「広岡出入り禁止」の指令に反して唯一森だけが 親しく話しかけたため叱責されたというエピソードがある(ちなみに、森だけでなく王も声をかけたという説もある) その広岡も広島でコーチを務めたのち、川上とは和解、1976年途中からヤクルトの監督に就任すると78年に森をコーチとして招聘した。 森は1974年、長嶋茂雄と同時に引退。だが「V9の頭脳」とまで言われた森にはコーチの声がかからずそのまま退団して以来、日本テレビの解説者を務めていたところだった。 「管理野球」と言われた広岡・森コンビは長嶋率いる古巣・巨人を撃破しリーグ優勝、更に王者・阪急をも破り日本一と一挙に頂点に 上り詰める。だが翌年、開幕から下位に沈むと、その戦犯としてフロントから森、そして植村義信投手コーチの二軍降格を求められる。 これに広岡は反発、両コーチを庇って自らも退団する。 そして82年、満を持して広岡が西武の監督に就任するや、森、更に佐藤孝夫、近藤昭仁らヤクルト時代の側近が 集結し広岡ファミリーの結束の強さを見せ付けた。 西武での森は広岡の意を受けて選手を厳しく管理し「CIA長官」などと悪口を叩かれつつも82、83年と連覇し黄金時代の礎を築いた。 ところが・・・である。84年、優勝を逃すと森は西武を退団。かつてあれほど深い絆で結ばれていた広岡との確執が原因だった。 理由はどうもよくはっきりしない。一説には広岡とプライベートでの揉め事があったとも言われるが、さだかではない。 更に85年オフ、フロントとの対立で広岡が退団すると後任監督に森が就任したことで亀裂は決定的となり、 以来両者は「犬猿の仲」となって今日至る。もっとも、主に広岡の方が森を「口撃」し、 一方、それに対して森は徹底的に無視を決め込むという図式だが・・・ いずれにしろ、一時は史上最強のコンビとまで思われていた2人だけに、何とも人の縁とは複雑なものである。

黒江透修(監督:森 祇晶)
森が広岡の参謀なら、その森の参謀役と言えるのが黒江。 広岡・森・黒江の関係を言えば、現役時代、広岡が巨人を放逐された後釜のショートを守ったのが黒江であり、 また森と黒江は同時に引退しながら、黒江は長嶋巨人にコーチとして残り森は退団・・・という、 三者それぞれの明暗の分かれる関係だった。 さて黒江は長嶋巨人のコーチを務めたものの、78年、V逸の責任を問われるように退団、81年に近藤貞雄監督のもと 中日コーチに招聘され翌年リーグ優勝に貢献、83年、近藤解任とともに退団するとすぐ広岡西武に招かれ、 ここで森と再会する。 そして90年から森監督の下ヘッドコーチを務めて94年森とともに退任。 98年、巨人時代の同僚・王貞治監督に招かれダイエーの助監督就任 (余談だが、「助監督」という役職は王監督自身が巨人で務めて以来の復活である)。 99、00年のダイエー連覇に貢献。01年、森が横浜の監督に就任するとそのヘッドコーチに転じて支えた。 しかし最下位低迷により森は02年のシーズン終盤に解任され、その代理監督として残り試合の指揮を執った。 森西武をはじめとする数多くの球団でコーチを務めて優勝を経験している名参謀の一人だが、 本人に監督という話はなかったのだろうか。

中西 太(監督:仰木 彬)
「コーチに戻った監督たち」の同項目を参照。

住友 平(監督:上田利治)
阪急・日本ハムで上田利治監督を支えたのが住友。 現役時代は阪急で10年間二塁手としてプレーし、75年に引退後すぐコーチとなり上田監督を補佐。 その後近鉄二軍監督などを経て、95年、上田が日本ハムの監督になると、ヘッドコーチに就任。 96年には優勝を争っていたシーズン終盤、家族問題で突如休養した上田の代理監督を務め、 また、99年にも審判への暴行で出場停止処分となった上田に代って2試合指揮を執った。 同年、上田とともに退任。06年オフ、古巣阪急の流れを汲むオリックス二軍監督として現場復帰が決まった。

島野育夫(監督:星野仙一)
ベンチ中央にデンと構える星野仙一監督の背後で、いつもギョロリと獰猛そうな目を光らせていた姿がまだ記憶に新しい島野。 ともに中日OBだが、星野が入団する前の年に島野は南海にトレードされているので、現役当時に同じユニホームを着た経験はない。 南海での島野は野村兼任監督の下、リードオフマンとして73年のリーグ優勝に貢献する。 76年、江本らとともに、江夏らとの複数トレードで阪神に移籍し80年に引退。 と、ここまでの島野は地味な一選手に過ぎなかったのだが、思わぬ事件が一躍彼を有名にする。 81年から阪神コーチとなった島野は、82年、判定を巡って同僚の柴田猛コーチとともに審判を殴る蹴るの暴行事件を働き、 無期限出場停止処分となる(翌年開幕前に解除)。文字通り「武闘派」のイメージを強烈に植えつけた。 86年、古巣中日のコーチとして復帰、翌87年に星野が監督に就任し、ここから星野との盟友関係が始まる。 星野の妻が亡くなった際には、その霊前に、必ず星野を日本一の胴上げすることを約束したという島野は、 01年オフ、既に中日の二軍監督に決まっていたのを破棄してまで星野に従いともに阪神に移籍。翌03年、リーグ優勝して日本シリーズに進むが敗れ、霊前の約束は遂に果たせなかった。 阪神時代には体調不良の星野に代り事実上島野が采配をふるっていたとも言われるが事実はよくわからない。

松井優典(監督:野村克也)
野村克也監督の「ID野球」、その伝道師とも言えるのが、現在も楽天の二軍監督として野村に仕える松井。 この松井も南海出身の選手ということで、現役時代からの野村派かと思われがちだが、そうでもない。 69年、捕手として南海に入団するも、野村の壁は厚く内野手に転向、更に75年、トレードでヤクルトに移籍し79年引退。 選手としては全く実績がなく、その後も14年間、ヤクルトの球団マネージャーを務める地味な裏方人生だった。 ところが90年、かつて松井をトレードした野村が監督に就任し、身近に接するようになると、 ここで野村の信任を得た松井は94年、いきなり二軍監督に抜擢され、翌年からは一軍コーチに昇格。 99年に野村が阪神の監督に転じると行をともにし、ヘッドコーチに就任。 野村退任後はフロント入りしていたが、05年新球団楽天の二軍監督(シーズン途中から一軍ヘッド)に就任。 そこへ06年から野村が新監督としてやって来たことで、師弟コンビが三度目の復活。二軍監督として野村を縁の下からサポートしている。 松井の場合、牧野、森のような頭脳派でも、さりとて島野の如き武闘派でもなく、 イメージとしては単に野村に忠実なだけの側近と見なされがちだが、野村にとっては 「自分が一を言えば十を知る」というほど全幅の信頼を置いている、かけがえのない貴重な片腕である。