名球会とは「ON会」である ―名球会論―
名球会(正式名称は「日本プロ野球名球会」)は昭和53年7月24日(1978年)に発足した。発起人はカネやんこと金田正一で、 昭和生まれのプロ野球選手とOBで、投手200勝打者2000本安打以上を有資格者とし、発足時のメンバーは金田以下、長嶋茂雄、村山実、稲尾和久、米田哲也、小山正明、山内一弘、江藤慎一、梶本隆夫、皆川睦男、広瀬叔功、そして当時はまだ現役だった王貞治、張本勲、野村克也、高木守道、土井正博、鈴木啓示ら。 参加資格の「200勝・2000本」がどういう根拠で生まれたのか分からないが、一説ではカネやんが「投手はワシ(400勝)の半分でいいだろう」と決めたので、打者もそれに数字を合わせたという話もある。 また、「昭和生まれ」に限定されているのは、「セ・パ両リーグ(2リーグ制)で活躍した選手で発足したから」(名球会HPの「名球会なんでもQ&A」でのカネやんの回答)ということになっている。しかし裏を返せば、大正生まれで金田らのすぐ上の先輩にあたる川上哲治、別所毅彦、 杉下茂らを除外するということであり、つまり早い話が、金田が先輩を押し退けてトップに立ち、球界を牛耳るための示威団体のようものだったのだ。
その「錦の御旗」はON、つまり王と長嶋である。
カネやんは確かに実績十分だし、また一座の年嵩ではあるが、知名度、人気、そして人望の点で 抜群なのはやはりONである。はっきり言えば、不滅の400勝投手カネやんと言えどもONに先輩として立てて貰っているからこそ一座の真ん中で大きな顔をしていられるのだと言ってもよい。 それほどONの存在は巨大だったのだ。
今はもう王も長嶋も60を過ぎ、彼ら自身が球界の長老で大御所の立場だが、 当時長嶋は現役引退後4年目の42才、王に至っては38才でまだ現役である。今で言えば原とか清原あたりが新たなOB組織を作ったという感覚だろうが、 やはり全然インパクトが違う。従って2000本、200勝という直接の数字そのものよりも、その達成によって名球会で「あの王さん長嶋さんと同席に並ぶ」ことが当時の現役選手たちの 目標であり励みになったのである。
そういうわけで、「名球会」の発足は、2000本・200勝という記録に、ただのその数字以上に「=ONと同ステータスの名選手」という莫大な付加価値を与えたことで大きな意味を持つのである。 つまり「名球会」とは「ON会」に他ならないのである。
当時、まだ戦後生まれ―つまり少年時代ONに憧れた最初の世代である団塊世代はまだ殆ど名球会入りしていなかった。 投手では勝ち頭の鈴木啓示が200勝に達したぐらいで、打者ではまだ誰もいなかった。 従ってONに憧れ、そして共に戦いもした世代でもある彼らの現役にとってはまさに目の前にぶらさがった人参が「ON会」入りの名誉であり、そのための200勝・2000本安打だったのである。
これは推測だが、ギリギリ200勝・2000本安打の堀内、平松、柴田あたりはもし名球会=ON会がなかったら、おそらく達成前に辞めていた可能性が高いのではないだろうか。 言い換えれば、「名球会」という目標が設定されたことで自らにねじを巻き、生涯記録を伸ばした選手たちが多いということである。
しかし名球会の神通力も、もう効かなくなり始めている。ONの現役時代を知る世代はどんどん減っているからだ。 それはそうである。長嶋引退は1974年、もう30年近く前であり、松井秀喜が生れた年だ。その年では、80年引退の王も覚えているかどうか怪しい。 選手・ONに対する憧れが乏しい彼らが、今や球界の長老たちの会に過ぎない名球会に対する執着心を持てるかどうか。 王の868本塁打や金田の400勝は確かに途方もなく偉大な記録だが、その分、逆に、はっきり言って神武天皇とかの伝説や神話の世界の話に近い感覚でリアリティがないのである。平成の大エース・斎藤雅樹ですら180勝止まりで終ってしまった時代に、2000本・200勝という数字に対してしか名選手の称号が与えられない名球会の意義は疑わしくなっている。 そのため昨年末には初めて入会資格を変更し、250セーブ以上も可とされ、その第1号としてヤクルトの高津が名球会ブレザーを着た。しかし、これでは救援投手を「救済」することはできても、 先発投手は相変わらず不利なままなのでバランスを欠く。そして日米で2000本・200勝を達成しそうな野茂やイチローの動向も不明なままである。 そういう意味で今回の改訂はむしろ、名球会の存在意義が改めて問われた、ひとつの曲がり角を意味しているのではないだろうか。(2004.2.7記)
では次に、この200勝・2000本安打という基準に達せず、惜しくも「名球会」に入れなかった選手たちを紹介したい。
「名球会以前」の男たち
毒島章一 (1954-71)1977安打
小玉明利 (1954-69)1963安打
長谷川良平(1950-63) 197勝
秋山 登 (1956-67) 193勝
杉浦 忠 (1958-70) 187勝
名球会入りにまで手が届くところにまで迫りながら引退した人たちである。
しかし彼らの現役最終年の成績を見ると、殆ど限界と言う状態だったことは明らかである。 また、そもそも彼らはいずれも、名球会などまだ存在しない昔に現役を終えたのである。 従って、2000本、200勝というのは確かに切りのいい区切りの数字ではあるが、それ以上に何がなんでもという理由もなかったと思われる。惜しいという気持ちはある程度あったろうけど、だからと言って当時において、千載の悔いを残すというほどでもなかったろう。 むしろ後で名球会が発足してから初めて、「しまった」と思ったかもしれないし、杉浦はともかく弱小球団で苦労した小玉(近鉄)や長谷川(広島)の知名度が低いのはやや惜しまれる。
(なお、1978安打を記録している飯田徳治も数字的には惜しいが、大正13年生まれなのでどっちにしろ名球会対象外である)
「名球会」に入り損ねた男たち
以下は、名球会が誕生以後に、惜しい成績で辞めた選手たちである。(引退順)
石井 茂雄 (1958-79) 189勝
足立 光宏(1959-79) 187勝
同時代に阪急で活躍した2人。
石井は太平洋、そして最後の1年は巨人に身を置いたが、引退前の3年は5、 5、 2勝。戦力にはならなかった。
日本シリーズでいぶし銀の芸術的ピッチングを見せた阪急の足立も、最後の3年は7、 4、 0勝で力尽きた。
考えて見たら、阪急はこの石井、足立に加えてその上に更に350勝の米田哲也(1956-75阪急で338勝)、 そして254勝の梶本隆夫(1954-73)と200勝以上またはそれ近く勝った投手が同時期に4人もがいたのだから、すごいチームである。
木俣達彦(1964-82)1876安打
「マサカリ打法」と言われた独特の構えから強力一閃、快打を飛ばした中日の正捕手。 捕手として2142試合出場は野村、伊東に次ぎ、1876安打は野村に次ぐ堂々の2位。 捕手という過酷なポジション、そして捕手で2000本安打を達成したのが野村しか現にいない ことを考えれば、木俣あたりは準会員扱いにしてもいいようなものである。 このへんが名球会の「名球」の基準のいい加減で胡散臭いところで、例えば「守備の名手」なんかは どのようにも評価されないわけだし、中西太のように打撃タイトルを10回も獲得している大打者ですら 実働期間が短くて基準を満たさないから入会できていないのである。
松岡弘(1968-85) 191勝
堀内(203勝)、江夏(206勝)、そして平松(201勝)という同時代同リーグのエースが200勝を達成したの に刺激され200勝を目指すが、引退前の3年は順に、11、 1、 0勝でもう限界だった。
高橋慶彦 (1976-92)1826安打
高橋は広島で1989年までの14年間で1741安打を記録したが、舌禍事件などが祟って放出された。 この時、まだ32才だったので2000本は十分射程距離内だったのだが、ロッテ-阪神と渡り歩いた3年間は54、26、5本とたったの85安打に終り、35才でパットを置いた。
真弓明信 (1973-95)1888安打
石毛宏典 (1981-96)1833安打
松永浩美 (1981-97)1904安打
2000本目指して最後まで現役に執着したが、及ばなかった3人。
真弓は晩年、代打で 45、 3本。阪神を自由契約になっても現役続行に意欲を燃やしたが、他球団から声がかからず引退した。
石毛は西武の監督要請を断わり、ダイエーで2000本を期したが、在籍2年でそれぞれ26、5本では話にならなかった。
松永も最後の2年は24、 3本。メジャー入りを志したが実らなかった。
斎藤雅樹(1983-2001)180勝
星野伸之(1985-2002)176勝
分業制確立で、投手の名球会入り、つまり200勝達成は難しくなっている。今のところ北別府を最後に200勝投手は誕生していない。 その中では先発として着実に重ねて来た斎藤、星野両人に期待がかかったが、斎藤は、5、3、2勝、 オリックスから阪神に移籍した星野は5、1、2勝といずれも失速してしまい、及ばず終いだった。 2003年末現在191勝の工藤公康は到達できるのかどうか注目である。
「名球会」が遠過ぎた男たち
江川 卓(1979-87) 135勝
掛布雅之(1974-88) 1656安打
基準には遠く及ばないこの2人を敢えて上げたのは、1980年代のセリーグを代表し 知名度の高かったこの両選手が入っていないあたりに、名球会というものに野球ファンが馴染みの薄さ を感じてしまう理由があるのではないかと思うからだ。 江川は32才、掛布も33才という若さで引退してしまったのだから仕方がないが、 ポッカリ穴が空いている感は、否めない。
佐々木誠 (1985-2000) 1599安打
残りまだ401安打もあるので、惜しくも何ともない数字だが、それまでのプロセスを見ると途中までは達成ペースだったのだ。 1997年シーズン終了段階で、佐々木は32才で既に1519安打を打っていたのである。 この年、打率.304で規程打席に達して137安打放っていたのだから、 順当に行けば4年以内で2000安打到達の計算だったし、おそらく本人もそれを期していたはずである。 ところが2000安打どころか、結局辞めるまでにたった80安打しか上積みできなかったのである。 .304を打った翌98年が65安打で終った佐々木は西武を退団して、野村監督が就任した阪神に移籍した。 「野村再生工場」で復活して2000安打へ再挑戦したわけだが結果は大ハズレ。 99年15本、00年3本と全く打てず戦力外となり、佐々木は現役続行を望んだが声はかからず、 米独立リーグに入って復帰を期したが、結局引退した。 王、張本は通算の大記録を打ち立てる条件として、異口同音に「35才からのもうひと踏んばり」を挙げているが、 この佐々木といい、先の高橋慶彦といい、いずれも35才で引退を余儀なくされている。 まさに「35才の壁」に阻まれて急激に衰えを見せて記録に届かなかった、典型のような選手である。
「名球会」に入れるべき(?)男たち
2003年から名球会への入会条件が改訂され投手は250セーブ以上も有資格者となった。 投手分業制の時代の流れに名球会の頭の固い老人たちも抗しえなかったということだろう。 というわけで高津、そして佐々木の両リリーフエースが目出度く新会員となったわけだが、 ただ、こうなったらなったで、またまた入会条件に矛盾を感じざるをえない。
というのは、250セーブ以上も記録するには一貫して抑え投手として起用され続けることが前提となるが、 先発投手として起用されるか抑えに廻るかは本人の適性のみならずその時々のチーム事情にもよる。 従って投手生活をある年は先発、またある年は抑えという両刀で送った選手などは勝ち星とセーブ数それぞれで条件的に損をしてしまうことになるのである。 だったらいっそのこと、勝ち星とセーブ数の両方を勘案した条件も加えたらどうなのだろう。
例えば今、200勝または250セーブが入会資格であるならば、新たに「100勝かつ125セーブ」も認めることにする。 そうすれば次の80年代の投手たちが有資格者となる。
大野 豊(1977-98) 148勝138セーブ
斎藤明夫(1977-93) 128勝133セーブ
山本和行(1972-88) 116勝130セーブ
カネやんには是非検討をお願いしたいものである。
「名球会」に入らなかった男たち
2000安打、200勝をクリアし、名球会入会資格を持ちながら現在、参加していない人たち。
榎本喜八(1955-73) 2314安打
榎本は1973年に現役を引退後、全く球界とは縁を絶って生活しており、従って名球会発足時も当然 加わらなかった。しかし川上、山内に次ぐ史上3人目の2000安打達成者であり、その求道的な生き様とともに 伝説の大打者となっている。
落合博満(1979-98) 2371安打
「オレ流」落合が、名選手が集まって親睦を深めたりチャリティーを開いたり… などという席に参加する図はどうも想像できなかったら、案の定、名球会には入らなかった。 ただ20世紀最後の大打者・落合が入っていないのに、名前を出して失礼ながら駒田程度の選手が名を連ねていることで名球会の権威が揺らいだことは間違いないし、落合はともかく、 今後資格を達成しそうな野茂、イチローなど独立独歩の志向の強いスーパースターの去就も不明な点は、カネやん以下名球会首脳の頭の痛いところだろう。
江夏 豊(1967-85) 206勝
落合同様、一匹狼のこの人が入会していないのは当然のように思われるが・・・ただ、 もともとは江夏も会員だったはずである。現に、多摩の一本杉球場での江夏引退試合は名球会の後援で行われている。 いつ退会したのか記憶にないが、逮捕事件などがあって、自ら身を引いたのではなかったか。
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