プレーイング・マネージャー、つまり選手兼任監督である(ちなみにプレーイング・マネージャーとは和製英語。本来はplayer-managerか)。 特に戦前は多かった。プロ野球が創設した当初は、当然だがプロ野球の監督経験者はまだいない。 従って中心選手が兼任するケースも少なくなかったのである。戦争が激しくなって選手が足りなくなると、 逆に監督が選手を兼任せざるを得なくなったこともある。これはマネージング・プレーヤーということになるだろうか。 戦後、特に2リーグ分立後はぐっと数が減って三原、水原のような専業監督の名将の時代が訪れる。それでもプレーイング・マネージャーは 球団の営業政策とも合間って、70年代まで続く。しかし野球が高度に複雑化するにつれ二足の草鞋は不可能になり消滅した。 森、野村に代表される監督中心の頭脳野球の時代である。ただ、今や監督からフロント主体の野球にまた変りつつある。 そうなると監督の役割も変ることで、やがてまた別の形でのプレーイング・マネージャー復活もあるかもしれないという気もする。 とりあえずここで、2リーグ分立後のプレーイング・マネージャーを振り返ってみたい。鶴岡一人 1946-52南 海
南海の名将・鶴岡も最初は選手兼任だった。1939年プロ入り1年目で主将を務め、戦後復帰してすぐ29才で兼任監督。 さすが親分である。そもそもこの時代の監督はスカウトからトレードから、全て携わった言わばGM的な存在であり、果ては選手の私生活の面倒まで みたのだから、まさに「親分」そのものだったのである。鶴岡は選手兼任で46、48年、2リーグ分立後の51年も優勝してそれぞれMVPも獲得という 離れ業を演じ、53年からは専任監督になった。藤村富美男 1946、55-56阪 神
鶴岡、そして後の野村と成功例の多い南海に比べ阪神のプレーイング・マネージャーは、のちの村山も含め悲劇的結末になるのは、 この球団らしいお粗末さか。藤村は戦後すぐの1946年にも1度プレーイング・マネージャーを務めたが、 本格的には55年から。この年阪神はアマチュア野球の監督出身でそれまでプロに関ったことのない岸一郎なる 人物を監督に据えた。これはよく「阪神が素人を監督にした」と笑い話のネタにされるが、ちょっと違う。 アマ球界の優れた指導者をプロに引っ張って来る例は初期にはしばしばあったことなのでそれ自体はいいのである。 ただ問題は、この岸一郎なる人物を球団がもともと全く知らず、岸が阪神再建策を綴って送ってきた投書がきっかけで採用した点である。 しかも岸、当時としては高齢の60才だった。これでは選手をまとめられもせず、岸は開幕たった1か月で休養、辞任。 ミスター・タイガース、藤村が現役のまま代理監督から監督に昇格した。 藤村兼任監督というと、自ら審判に「代打、わし!」と告げて打席に入り、そしてホームランをかっ飛ばしたという豪快な話で有名なのだが、 しかし実態はあまり豪快でもない。そもそも藤村という人、豪快なのは演技であって、素顔は割合繊細な人だったらしい。そしてむしろ、ここからがまた阪神得意の内紛、お家騒動なのである。 56年、2位を確保しながら、藤村に不満の金田正泰主将らが「藤村排斥事件」を起こしてチームは分裂状態。 57年は藤村が専任監督となり指揮を取るが、58年はカイザー田中が監督に就任し、藤村は再び現役復帰…とドタバタの挙句に引退・退団。 結果的には球団の場当たり的監督人事がミスター・タイガースを不本意な引退へとおいやってしまったのである。しかもこれが、のちに村山でまた繰り返されるのだ。浜崎真二 1948-50阪 急
往年の慶応のエース浜崎は1947年、46才でプロ入りし48-50年に兼任で阪急監督。50年に投手として1勝を挙げ、これが最年長勝利投手記録になっている。 しかし殆ど試合には出なかったので、これは監督が稀に登板したという意味でマネージング・プレーヤーの部類だろう。 次の湯浅禎夫も似たようなケース。湯浅禎夫 1950毎 日
この人も大正時代の6大学のエースで、毎日新聞社運動部長を務めていたが、毎日オリオンズ創立で総監督(事実上は監督)に就任した。 そして見事リーグ優勝し初代日本シリーズ・チャンピオンにもなるのだが、実は試合にも少し出ている。この年は阪神の元エース・監督の若林忠志が42才で 日本シリーズにも登板し活躍しているぐらいだから、先の浜崎といいこの湯浅といい、往年の学生野球の名選手がちょっとプロで試してみたというレベルだろうか。宮崎 要 1950西 鉄
西鉄の監督というと三原脩の印象が濃いので間違えやすいが、初代監督はこの人である。戦前、慶応大学の名二塁手として鳴らし、西鉄(クリッパース)創設とともに入団、兼任の監督にも就任した。 しかし5位に終り、三原招聘で兼任を解かれ、その後54年まで選手として在籍した。別当 薫 1952、54-57毎 日
毎日の主力打者だった別当は1952年7月、湯浅監督が「平和台事件」(対西鉄戦で、毎日の遅延行為に怒った平和台球場の観客が暴動を起こした)の引責辞任後、 選手兼任のまま監督に昇格した。翌53年は若林忠志が監督を務めたので別当は一選手に戻ったが、 54年から再び兼任監督となって、57年までプレーイング・マネジャーとして二足の草鞋を履いた。 この間、3、3、4、3位なので、まあまあと言うところか。58年からは現役を退き専任監督。 その後も近鉄や大洋で監督を務め、通算1000勝以上しているのだが、奇妙なことにとうとう優勝はできなかった。 ダンディで知られ、メガネのテレビCM(「遠近両用バリラックス2」!)に出演していたことは有名である。杉下 茂 1959-60中 日
エース杉下が現役のまま兼任監督を務めた。ただし試合には全く出ていない。やはり二枚鑑札は無理という判断だったのだろうか(ちなみにこの時、34才)。 杉下が兼任監督になった詳しい経緯はわからないが、衰えたりとはいえ前年まで14、10、11勝を挙げた投手を兼任監督にしたのはもったいなかった気がするし、 しかも監督として初年度は2位だが次の年は5位、そして解任されているので、いったい何の意味があったのが理解に苦しむ。61年に大毎に移籍し、再び現役投手として4勝を挙げて、引退した。中西 太 1962-69西 鉄
西鉄ライオンズ黄金時代を築いた三原脩が59年限りで大洋に去り、60、61年はヘッドコーチから昇格した川崎徳次が監督を務めたが、連続3位。 するとチーム内外からもろもろの不満が吹き出した結果、川崎をフロントに追いやる形で主砲・中西が兼任監督に就任した。 28才6ヵ月での監督就任は、少なくとも2リーグ分立後は現在まで最年少である。しかも助監督に27才の豊田泰光、 投手コーチにはこれまた24才の稲尾和久が、いずれも選手兼任のまま就任するという異例の若いスタッフだった。 これはそもそも待遇に不満の中西慰留がきっかけだったとも言うが、今で言えば、西武ライオンズで松井稼頭央のFAを慰留するため松井監督、そして松坂大輔を投手コーチにするようなものである。 しかもその若さに加え、中西とライバルでもある豊田との関係が波瀾含みだった。実際、豊田は監督・中西に批判の目を向ける。 まずキャンプ初日に、三原の娘婿である中西はミーティングで、三原から譲られたノートをそっくり読み上げ、豊田を唖然とさせた。 またシーズンが始まると中西は監督専念を望み現役選手としては怪我の影響もあって横着になり、 ここ一番の代打での出場にも難色を示して助監督・豊田を苛立たせた。結局この年は3年連続の3位に終り、 愛想を尽かした豊田はオフに国鉄に移籍、稲尾も兼任コーチを解かれて若手「内閣」はたった1年で崩壊した。 しかし豊田の移籍金で3外国人選手を補強した西鉄は63年、南海を大逆転で優勝。西鉄として、そして1シーズンではプレーイング・マネージャーとして最後の優勝例となった。 中西兼任監督はその後も続くがぱっとせず、69年に引退、監督も辞任した。小玉明利 1967近 鉄
近鉄初の生え抜き監督には選手兼任で31才の小玉が就任した。詳しい事情はわからぬが前年まで3年連続最下位の近鉄は、 この年も小玉兼任監督の下でまた最下位となり、小玉は解任され選手としても阪神に移籍、2年後に通算2000本まであと37本足りない1963本で引退した。ご多分に洩れず、この兼任監督もチームの役に立たない上に本人の選手寿命も縮める失敗事例となった。野村 克也 1970-77南 海
南海は鶴岡監督が後継者に指名した蔭山和夫の急死で、鶴岡が復帰し更に3年務めた後、68年までで勇退。 後継には往年の「百万ドルの内野」の一角・飯田徳治が就任したがたちまち球団史上初の最下位に転落して1年で退任し、お鉢は 主砲・野村に回ってきた。かつての中西と似たケース、そしてちょうどその中西が退任した年だったが、 野村はちょっと違った。まず、3年間南海でプレーして引退したブレイザーのヘッドコーチ就任を監督受諾の条件としてつけた。 ブレイザーの「シンキング・ベースボール」でチーム改革を図るとともに、自分が現役選手として試合出場中は采配の一部を ブレイザーに預ける方策である。これで「選手兼任監督」という重荷の分担・軽減ができるし、しかも外国人である ブレイザーは野村の地位を脅かすことのないNo.2であるという点で、安心して権限を移譲できる。 徐々に野球が緻密化してきた70年代に野村がプレーイング・マネージャーとして二足の草鞋をまっとうできたのは、 こうした周到な準備と計算があったからである。勿論、野村が他の兼任監督と異なり、試合を実際に動かすキャッチャーだったことも大きい。 野村は8年間プレーイング・マネージャーを務め、監督兼捕手兼4番打者として973試合出場、200本塁打、646打点、打率.271。まさに超人的活躍である。 73年はプレーオフを制しリーグ優勝、自らMVPも獲得した。事実上プレーイング・マネージャーの唯一の成功例と言っていいだろう。村山 実 1970-72阪 神
一方、こちらは大失敗例である。1969年オフ、南海が34才の野村、そして西鉄が32才の稲尾と「青年監督」を誕生させたのに刺激された阪神は、 この年、1年目で2位を確保した後藤次男監督の首を惜しげもなく切り、32才(就任当時)のミスター・タイガース、村山実をプレーイング・マネージャーに据えた。 順番から言えば本来は吉田義男が先だったのだが、契約更改等でいつも注文の多かった吉田は球団に嫌われたと言われる。この結果、吉田は引退して退団した。 村山は関大時代バッテリーを組んだ旧友・上田利治(当時広島コーチ)をコーチに招くが球団の拒否にあって、挫折。 上田はその1年後、阪急の西本監督に呼ばれてコーチになり、しかもその後継者に指名されて名監督の道が開けたのだから、人生はどこでどう転ぶかわからないものだ。 一方、村山阪神は、1年目の70年こそ村山が自ら投手としても最優秀防御率の活躍で巨人を追い詰める2位と健闘したが、2年目71年は5位に沈む。 そもそも、時にはブルペンで自ら調整したりせねばならず、常にベンチにいるわけではない投手が兼任監督を務めるのは最初から無理な話なのである。 すると3年目は、ヘッドコーチとして元監督の金田正泰を引っ張って来た。野村におけるブレイザーの役割だが、ただブレイザーの場合と違うのは、金田は村山の地位を脅かすNo.2だったことである。 しかもこの金田、かつての「藤村排斥事件」の選手側首謀者。つまり札付きの陰謀家だったと言っていい。事実、これが村山の命取りになった。 結論を先に書くと、シーズンが始まると村山は戦力不足を補うため投手に専念することとなり、指揮権を金田に移譲、 この間に金田は選手を味方につけ、村山は孤立、そしてシーズン終了後、村山は監督の辞表を出し選手としても引退して退団… ということで、球団の見識のない人事のためかつての藤村同様ミスター・タイガースが釈然しとしない引退となってしまった。しかもこの藤村、村山に加えて江夏、田淵、そして掛布、岡田に至るまで、 阪神は看板スターが綺麗に終りをまっとうできないというヘンな伝統ができあがってしまったのである。江藤慎一 1975太平洋
西鉄から身売りされた太平洋クラブ・ライオンズは74年オフ、稲尾監督の首を切りセパ両リーグで首位打者を獲得した江藤慎一を兼任監督に持ってきた。 江藤は「山賊野球」を標榜して75年、太平洋を3位に押上げたが、しかしその1年で退団した。 この人事がそもそも奇妙なのは、太平洋の中村オーナーとは、江藤がかつてロッテからトレードで出された時のロッテ雇われオーナー(注)だった点である。 ちなみに江藤の後の監督には往年のメジャーの名将、レオ・ドローチャーを連れて来ようとして失敗するという騒動もあった。
(注)ロッテでは球団を引き受けた1971年当初、表面に出たがらない重光社長に変わり中村長芳氏がオーナー権限を与えられ、言わば雇われオーナーを務めていた。その後中村オーナーは西鉄から球団経営権を買収して、太平洋クラブをスポンサーに、ライオンズのオーナー就任。こうして江藤が75年1年限りで終り、更に野村が77年に愛人問題(つまりサッチー問題)で解任されたことによって、 プレーイング・マネージャーの時代は終焉した。 01年オフに西武の伊東勤に監督要請があり、伊東が現役続行を主張したため一時はプレーイング・マネージャーかとも言われたが、 結局噂だけで終った。ヤクルトの古田にも期待半分でプレーイング・マネージャー話が時々起きるが実現はありそうもない。 ただかつての野村の例にある通り、キャッチャーというポジションだけはその特異性ゆえに、もしかしたら兼任監督も可能なのではないかという微かな期待と夢を 今でもいだかせてくれるもののようである。
*主なプレーイング・マネージャー*
氏名 期間・球団 伊藤 勝三 1936大東京 桝 嘉一 1937名古屋 山下 実 1938-39、40阪 急 苅田 久徳 1938-41セネタース、43-43大 和、47-48東 急 松木謙治郎 1940-41阪 神 井野川利春 1941阪 急 杉田屋 守 1941黒 鷲 竹内 愛一 1941朝 日 若林 忠志 1942-44、47-49阪 神 中島 治康 1943、46-47巨 人、51大 洋 藤本 英雄 1944、46巨 人 坪内 道則 1944名古屋 西村 正夫 1944阪 急 加藤 喜作 1944南 海 鶴岡 一人 1946-52南 海 藤村富美男 1946、55-56阪 神 皆川 定之 1948急 映 浜崎 真二 1948-50阪 急 湯浅 禎夫 1950毎 日 宮崎 要 1950西 鉄 別当 薫 1952、54-57毎 日 杉下 茂 1959-60中 日 中西 太 1962-69西 鉄 小玉 明利 1967近 鉄 野村 克也 1970-77南 海 村山 実 1970-72阪 神 江藤 慎一 1975太平洋