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tomiyumi web - せむかたなきよしなしごと - 過去ログ

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2010年05月

5月1日(土) 

友人の結婚披露パーティー。

小中高の同級生と
めちゃくちゃ久しぶりにしゃべった。
20世紀少年の1巻みたいだった。

5月2日(日) 

実家でのんびり。

5月3日(月) 

両親と石川県へ旅行。
普段ペーパードライバーな僕ですが、
今回はほとんど運転しました。

東尋坊に寄ってから、粟津温泉の某旅館へ。
何もかもが昭和後期から
時を止めているような旅館でした。

夜に旅館付近をぶらぶらしましたが、
本気で何もありませんでした。寂しすぎる。

5月4日(火) 

母の念願の松井秀喜ミュージアムへ。
なんだかいろいろ考えてしまった空間でした。
「松井秀喜であること」はいかなるものなのか。
を考えると思いが果てしなく膨らんでいく感じがしました。

その後、永平寺へ寄って、帰ってきました。



「バクマン。」8巻と「のだめ」24巻購入。
バクマンは蒼樹紅の気合いの入り方がハンパない。
のだめはこうやって番外編が何十巻も続いていけば面白いな。って、ないか。

5月5日(水) 

滋賀県内を電車でぶらぶらすることに。

9時半くらいに虎姫駅へ。
しかし駅舎きれいになったなあ。
と、いつも思う。

JRで虎姫→米原。

近江鉄道で米原→貴生川。
休日は550円で乗り放題。安い。
料金が高くて有名な近江鉄道なのに。

信楽高原鉄道で貴生川→信楽。
JRのホームから出てるんですね。

信楽を一時間ほどぶらつく。
駅前で信楽焼の陶器市をやっていたが、
結局はその近くにあるお店でご飯食べただけ。
ちょっと大きめの民家みたいなお店で、
縁側で山菜天ぷら定食を食べた。
外は快晴で、縁側の涼しさがあって、
陶器市の賑わいがあって、食べ物は美味しくて、
とてもいい雰囲気でした。満足しました。

信楽高原鉄道で信楽→貴生川へと戻る。

JRで貴生川→草津。
さらに草津→山科。
そして湖西線で山科→大津京。
大津京駅は元西大津駅。
2008年に改名されたらしい。知らなかった。

歩いて近江神宮へ。
ものすごく、すいていた。
これこそ僕の求めていた電車ひとり旅。

近江神宮内にある時計博物館へ。
ここも、すいていた。
当たり前だが、時計だらけ。
天智天皇が導入した水時計をはじめ、
からくり時計やらなんやらを見る。
時計に囲まれて、時間を忘れた。嬉しい時間。

近江神宮から唐崎駅まで歩く。
一駅くらい、と思っていたら
めちゃくちゃ時間がかかった。
街の一駅の感覚でいた僕が愚かでした。

湖西線をずっと北上し、
近江長岡を経て虎姫へ。
琵琶湖一周しました。実は人生初。

ということで、
素晴らしい天気の下で満足度の高い一日を過ごしました。

5月6日(木) 

DQMJ2をクリアしました。
このゲームはここからが果てしないんですけど。

これに関して小さな事件が。
DSのLボタンが効かなくなりました。
たまに思い出したように反応するんですけど。
効かなくてもなんとかゲームできてしまうLボタンですが、
効かないと細かなストレスがたまります。
新しいのを買ったり修理に出すほど困りもしない。
のが、困ったところです。

5月7日(金) 

このゴールデンウィークを通して、
吉本隆明「最後の親鸞」と
五木寛之「歎異抄の謎」を読みました。

最近、親鸞や浄土真宗が気になります。
幼い頃から当たり前のように身近にあったものですが、
もっとちゃんと知っておきたいなあと思うのです。

上述の2冊を読むと、
わからないなりに、どんどん惹かれていく自分があります。
正確に理解したとは到底思わないですけど、
「他力本願」や「悪人正機」といった概念は、
僕がこの約30年のうちになんとなく固めていった考え方と、
いろんな部分でシンクロする気がするのです。

僕は幼少の頃からいろんなところで
否応なく浄土真宗に触れていたわけです。
(同じような人も多いと思います。)
でも、同時に近代的な自然科学や理性にも触れてきたわけで、
いわゆる宗教上の「信仰」は持てずにいます。
そんな状況下で、自分なりの考えというものを、
少しずつ醸成させてきたということになります。

僕は、「自分」がどれだけああだこうだと考えたり実行したりしても、
最終的・究極的には、「自分ではどうしようもできない何か」によって
ものごとが動いてしまう、と思っています。
それを受け入れることが必要だ、とも思っています。
去年も、「座右の銘」を聞かれて、
「世の中は偶然の積み重ね」と答えました。座右の銘って感じじゃないですが。
ある種の諦観ですが、単なる「あきらめ」とは
ちょっと違うニュアンスのつもりです。うまく表現できませんが。

「他力本願」って、そういうことと通ずるんじゃないか。
というか、そう考えると、しっくりくる。

いや、むしろ、僕がそういう考えに至った根底には、
幼少の頃からの浄土真宗の環境というものがあるのではないか。
そんな気もしてくるのです。
法事などでのごえんさんのお話とか、
僕らの世代よりも信仰の深い父母世代・祖父母世代からの
直接的・間接的な影響があったのかも、と思えてきます。

学校でいろんなことを習って知恵をつけてきた頃は、
神だとか仏だとか、宗教を胡散臭いものとしか受け取れません。

でも、自然科学を支持するということは、
何らかの「法則」や「定理」の存在を
「信じる」「受け入れる」ということになると思います。
科学は「理性」によって「法則」「定理」を
帰納したり演繹したりしているだけで、
「法則」や「定理」が存在していることそのものについては
無条件に受け入れないと始まりません。

「歎異抄」によると、
「真の仏のすがたとは長短も、形もなく、色も匂いもない」
と親鸞は言っているそうです。

超越的な「何か」。
科学も宗教も、根は一緒なのかもしれません。
人は何かを信じずにはいられないのかもしれません。


そんなことを思いながら、
少しずつ上記の本を読んだりしていました。
ひとり電車旅も、こうした読書に最適でした。

母親とも夕食のあとにそんな話をしました。
生前の祖父の話も聞かせてくれました。
ずっと仕事一筋で、仏事に積極的でなかった祖父が、
老後は毎日お寺に通っておつとめをしていたそうです。
臨終の際には、本当に仏のような感じになって、
すっと息を引き取ったそうです。

10年前の僕なら、この話を醒めた感じで聞いていたと思いますが、
いまは、しみじみします。


長くなったのでこれくらいにしますが、
ともかく、親鸞の教えは、
いろいろな考えを喚起してくれます。
ヒントがたくさん詰まっている気がします。

悩んだり迷ったりしてばかりの毎日ですが、
たまにはこうして、「そもそもは」というところの
大事な考えに思いを馳せたいなと思います。

5月8日(土) 

「オー!ファーザー」読了。

一ヶ月前に買って100ページほど読んで放置していたが、
さっき残りを一気に読んだ。

最初は入り込めずにいたくせに、
最終的にはかなり前のめりに読んでいた。
伊坂「第一期」か……

5月9日(日) 

全集ドラ7巻、
いちばん僕がドラえもんを読んでた頃の
20巻手前くらいの話が増えてきて、
いよいよ個人的にヤバい。

「ルームスイマー」!
あの水の質感はほとんど原体験。

あと、「ホームメイロ」も
めっちゃくちゃ好きな話。
ものすごくワクワクする道具ですよね。
ホラーだが。

「よい家悪い家」も好きだった。
あの白や黒のプレートの質感!(また質感か)
灰色のプレートはどんな家になるんだろう、
とか読む度に思ってたなあ。

他にも、
「ペットそっくりまんじゅう」とか
「チョージャワラシベ」とか
「ちく電スーツ」とか
「念録マイク」とか
「合体ノリ」とか
「立ちユメぼう」とか
「おかし牧場」とか
「コーモンじょう」とか
「主役はめこみ機」とか
「宇宙ターザン」とか
「テレパしい」とか
「カップルテストバッジ」とか
「のび太が九州まで走った!!」とか
「ゴルゴンの首」とか
「プッシュドア」とか
「多目的おまもりは責任感が強い」とか
「もはん手紙ペン」とか、
ほんとによく読んだなあ、という話ばかり。
って、挙げだすときりないな。挙げすぎ。

いま見ると、
「多目的おまもりは責任感が強い」は
「吉良吉影は静かに暮らしたい」を彷彿するな。

5月10日(月) 

ああ、情けない。
大人になりたい。
恩を返さないといけない。

5月11日(火) 

難しい。

複雑系、に見える。

陳腐な言い回しだが、
世の中、答えのない問題ばかり。

5月12日(水) 

困難が多いなあ。

5月13日(木) 

やることがたんまりとあって忙しいのに、
DQMJ2のレベル上げが楽しかったり。

5月30日(日) 

吉本隆明「今に生きる親鸞」読了。
前のめりになって読んだ。

5月31日(月) 

「正義」「善悪」「信念」
そんなことばかり最近は考えている。


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