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Digital Reseach,Inc の歴史

泊何水@日本 DR DOS ユーザ会
http://drdos.run.to

 ここでは、DR DOS とデジタル・リサーチ(DRI)について述べてみたいと思います。
 あたりまえですが、DOS とはディスクオペレーティングシステムの略で、ディスクを媒体にして用いられる OS です。基本的に CP/M 系の OS のことを指します。


CP/M の誕生

 1975 年、ゲイリー・キリドールが PL/M 言語のインタープリタをインテルの 8080CPU 用に開発した際にマシンをコントロールするために OS を書きました。これが CP/M(Control Program/Monitor、のちに Control Program for Microcomputer)です。キリドールはこの OS を売るために自分の会社インターギャラクテック・デジタル・リサーチを設立、その後デジタル・リサーチに改称しました。 CP/M は当時としては先進的な OS でした。下に例をあげます。
  1. そのころ普及しはじめたフロッピーディスクで提供された。 (このことから FDOS とも呼ばれました)
  2. BIOS の概念を持ち、移植性に優れていた。
  3. デバッガ、アセンブラ、エディタが洗練されたものだった。
  4. 安かった(70 ドル)
この OS はまた、いろいろな機種に移植されたため、世界初の標準 OS になりました(数だけ見ると一番普及していたのは Apple // の Apple DOS でしたが、Apple // 専用なのでとても標準とはいえないでしょう)。


16bit 時代の幕開け

 IBM がマイクロコンピュータに参入する際、IBM 側の資料にはどういうわけか CP/M の製造元がマイクロソフトとなっていたそうです。当時のマイクロソフトのハードウェア部門は Apple // で CP/M-86 を使うための拡張ボードと CP/M を一緒に売っていて、CP/M の最大の売り手だったためか(どういうわけか MS-DOS 発売後もしばらく売っていた)、IBM が勘違いしたのでしょう。当然 IBM 側はマイクロソフトに電話をかけ、その電話にゲイツがキリドールの番号を教えて IBM とキリドールの会合を取り持ったのです。
 この会合に当時自家用飛行機に夢中だったゲイリー・キリドールは飛行機に乗るために約束をすっぽかし(本当か不明)、そのかわりに彼の妻のドロシー・キルドールが対応します。彼女は IBM に有利な守秘義務合意書へのサインせず、交渉はされませんでした。
 IBM はその次にマイクロソフトをたずねました。主な目的は BASIC でしょう。最初の会合でデジタル・リサーチと同じ条件の守秘義務合意書にサインしました。二度目の会合で IBM が 8 ビットコンピュータを開発していることを知り、16 ビットCPUを採用することを薦めたのですが、デジタル・リサーチとの交渉に失敗した IBM は OS を持っていません。そこでマイクロソフトは OS を引き受けることにしたのです。
 ところがマイクロソフトは当時持っていた OS は UNIX の OEM の Xenix のみ。もちろん IBM-PC(8086 の外部バス 8 ビット版の 8088CPU を採用)のハードウェアに UNIX など耐えられるわけがなく(多分動くだけでしょう)、軽い OS を手に入れる道を選びました。
 そしてシアトル・コンピュータ・プロダクツという会社のティム・パターソンが Quick & Dirty DOS(いわゆる Q-DOS。本人は 86-DOS といっています)という CP/M ライクな OS を 8086CPU に開発したことを知り、それをゲイツじきじきにシアトルへ出向き 5 万ドルで借り、IBM へ持ち込んで売り込みました。もちろんマイクロソフトには OS を開発する能力はありましたが、デジタル・リサーチがまもなく CP/M-86 を完成させることをマイクロソフトは知っていたとはずなので、時間が惜しいので時間を買ったといえるでしょう。
 その後当然ながら Q-DOS が CP/M のコードを盗んだという疑惑が浮上しました。実際にパターソンは低レベルの借用を認めています。またキリドールが「文字列表示のファンクションコードの文字列データがなぜ$(24h)で終わっているのかビルに聞いてみるといい。理由は私しか知らないのだから」と言っています。


高かった CP/M-86 for IBM-PC

 キルドールは IBMーPC が発表される数週間前に Q-DOS のコピーを手に入れ、それを逆アセンブルして、かなりの部分が CP/M のコードと同じである部分を突き止めました。
 それに頭が来たキルドールは IBM に怒鳴り込みました。その結果、すでに時間的に方向転換できない IBM はキルドールに和解金を出し、PC DOS と一緒に CP/M-86 を売ることになりました。
 しかし CP/M-86 は売れませんでした。なぜなら非常に高かったのです。IBM は CP/M を売ることを決めた際に価格の決定権を持ち、PC DOS を 60 ドルで売り、CP/M-86 for IBM-PC を 240 ドルで売ったからです。

かつて 8086 でマルチタスクを実現した OS が存在した

 その後デジタル・リサーチは 8086CPU でマルチユーザ・マルチタスクを実現した MP/M-86 を 1980 年に、そのカーネルを CP/M に移植してシングルユーザでありながらコンカレント(平行)処理を実現する Concurrent CP/M-86(PC-98 版も存在) を 1982 年に開発しました。これらは非常に優れた OS と評価されましたが、しかし時既に遅く、標準は MS-DOS になっていました。


そして互換 DOS へ走る

 マイクロソフトに負けたデジタル・リサーチは真似されたものは真似仕返せとばかり、互換 DOS へと走ることになります。1984 年に DR-DOS Plus(CP/M-86 4.x)、Concurrent CP/M-86 を拡張した Concurrent DOS を、そして組み込み用に 1985 年、FlexOS を開発しました。この FlexOS は今でも POS 用などに利用されています。
 ついで GEM(Graphical Environment Manager)を発売。あまりにも Macintosh に似ているということで問題となり、デスクトップからゴミ缶の廃止などをすることになります。(のちにユーザ(Free GEM Project)の手で復活)
 そして 1988 年、デジタル・リサーチは MS-DOS 3.31 をもとに一般向けの互換 DOS、DR DOS 3.31 をリリースします。
 MS-DOS 3.31 は IBM では採用しなかったものの、コンパックで採用され広くつかわれたバージョンで、その構造は、
  • DOS 3.3 完全互換の小さなカーネル。
  • ディスクシステム DOS 4 互換。 です。
     DR DOS 3.31 はこの DOS に対して次のようなアドバンテージを持っていました。(当然今も受け継がれています)
    1. スクリーンエディタの付属。
    2. ROM 化可能。
    3. LIM EMS 4.0 に対応。
    4. 再構築ユーティリティの付属。
    5. パスワードプロテクションの装備
    6. コマンドライン編集・ヒストリー機能の装備。
    7. ヘルプ機能の充実。
    8. CONFIG.SYS、バッチファイルなどでの拡張。
    9. コマンドの機能拡張。


    Novell との合併とその後

     デジタル・リサーチは DR DOS 3.31 の発売の後、1989 年に DR DOS 3.41、1990 年にはDR DOS 5.0 を発売します。DR DOS 5.0 では機能豊富なタスクスイッチャやメモリマネージャを追加し(AX用に日本語版を開発)、そのアドバンテージは誰の目にも明らかになります。
     この時期、ドイツなどでは DR DOS は MS-DOS より普及していました。その事によって MS-DOS にも影響を与えることになります。
     そして 1991 年には DR DOS 6.0 です。このバージョンで DOS/V による日本語化が達成されます。なお、FEP として ATOK7(DR DOS 版) を付属していました。
    (極東では韓国でも発売されました。香港でも売っていましたが英語版です)
     この DR DOS/V はハードウェアにバンドルされることを目的として発売されましたが、採用するメーカはあまりありませんでした。
     そのため店頭販売されて、その結果よく売れました。
     しかしその一方で互換性に不満を持った人が結構いたようです。

     1992 年 10 月、デジタル・リサーチと Novell は合併し、世界第 2 位のソフトウェアグループができます。(デジタル・リサーチ・ジャパンは 11 月に合併)
     そして 1994 年、 DR DOS は Novell DOS 7 に進化しました。特徴は、
    1. プリエンティブマルチタスクの達成。
    2. ネットワーク機能を充実。
    などです。
     現在の DR DOS の原形ができました。
     そのころ Novell は自社の NetWare を中心に Linux、DOS を関連づけてマイクロソフトに対抗しようとしました。
     (この間、キルドールはNHKの取材の翌日死去。「ハードがほしいからソフトを書くのさ」がマスコミに語った最期の言葉となる)
     しかし MS-Windows95 によってそれは失敗に終わります。そのようにして Novell はがたがたになり、Linux と DOS 開発グループを売りに出すことになります。
     それを買い取ったのは前の Novell 会長らが作った Caldera という会社です。Caldera は買い取った OS を Open DOS、Open Linux としてフリーで公開することを発表しました。
     その後 Caldera は分社化し、デジタル・リサーチ関係は Caldera Thin Clients(以下 CTC)へ権利が移行(Open Linux は Caldera Systems へ)し、そして Open DOS は DR DOS へ名前が戻り、CTC は Lineo に改称して現在にいたります。


    年表


    出来事 概要
    1975 CP/M-80 FDOS。シングルユーザ・シングルタスク OS
    1975 インターギャラクティック・デジタル・リサーチ設立
    1980 MP/M-80 マルチユーザ・リアルタイム OS
    1981 CP/M-86 シングルユーザ・シングルタスク OS
    1981 MP/M-86 マルチユーザ・マルチタスク OS
    1982 Concurrent CP/M-86 CDOS。シングルユーザ・マルチタスク OS。5 つまでのタスクを動かせる
    1984 DOS Plus CP/M-86 のひとつのバージョン(CP/M-86 4.x)。内部では DR-DOS と呼ばれていた。MS-DOS 2.x バイナリをサポート。
    1984 Concurrent DOS Concurrent DOS のひとつのバージョン。MS-DOS バイナリを実行できる
    1985 GEM 1.1 DOS に GUI を提供
    1985 FlexOS 組み込み用リアルタイム OS
    1988 DR DOS 3.31 かなり行儀の悪いプログラムを実行できるようになる
    1989 DR DOS 3.41
    1990 DR DOS 5.0 タスクスイッチャをサポート
    1991 DR DOS 6.0
    1991 Novell と合併
    1994 Novell DOS 7.0 マルチタスクを実現
    1996 Caldera に権利を売却
    1997 OpenDOS 7.01 ソースコードを公開
    1998 DR Open DOS 7.02
    1998 DR DOS 7.03

    参考書藉


    「DR DOS/V でシステムを 2 倍生かそう」デジタル・リサーチ・ジャパン 佐々木 哲,The BASIC 1992/11
    「私の DR DOS/V 失恋記」林 和之,The BASIC 1992/11
    「DR DOS 特集」INFOMATION 1990/01

    2002/01
    泊何水@日本 DR DOS ユーザ会
    http://drdos.tripod.co.jp/